ひるね
2025-07-13 01:14:24
2988文字
Public
 

fragment、或いは、泡沫

里指(現パロ)
ここではない、どこかへ。もしくは夢のお話。

 ふたりの逃避行は、午前3時のコンビニ前から始まった。白く煙る吐息。手の中の缶コーヒーはとっくにぬるくなっていた。誰もいない歩道橋を上る。街の明かりは眠らずに瞬いていたが、世界に触れるような温度はふたりの掌の間にしかなかった。
「ねえ、リー。それ、全部甘いのじゃない?」
 歓楽街の端っこに打ち捨てられた廃ビル。屋上に上がる途中の階段で、あなたがおもむろに口を開いた。誰にも使われなくなった非常扉の脇で腰を下ろしたリーは、コンビニの袋をごそごそと探りながら小さく頷いた。
……はい。疲れていると思って、つい」
「どら焼き、プリン、チョコブラウニーと飴も入ってる。……子ども?」
「あなたが欲しがるかと」
 缶コーヒーとミルクティー。それに無駄に可愛いパッケージの飴玉。あなたは肩を揺らして笑いながら、コンクリートの上にひとつずつ丁寧に並べた。
「ねえ、これで本当に夜を越えられるって思った?」
「それは、まぁ。……でも甘い夜でも、構いませんよね」
 声がかすかに震えていたのは、きっと気温のせいだけではなかった。冷えた金属のフェンス越しに、ぼんやりと街の灯が揺れている。音もなく流れる車の光が、ふたりの影を何度も切り取っては、また繋げた。
……高い所、好きだな」
「え?」
「屋上って遠くが見えるでしょ。逃げるって言っても、どこに行けばいいか分からないから。“あっちの方”って決められるのは、楽」
 その言葉に、リーはしばらく黙っていた。あなたはブラウニーのフィルムを開けながら、遠くで誰かが怒鳴る声と、風に千切れて流れてくるBGMに耳を澄ませていた。
……行き先なんて、別になくてもいいんです。あなたがいるなら、どこだって正しいって、思えるから」
 リーの声はまっすぐで、少しだけ震えていた。小さくなった焼き菓子の残りを口に放り込み、あなたはそっと立ち上がった。甘さが、口の中から消えるまで。言葉の代わりに、リーの指へ自分のそれを重ねた。夜風が頬を撫でていく。繋がれた手のひらだけは不自然なほどに熱く、二人はただ沈黙に打ちひしがれた。


 街の喧騒は、昏い底を這い回る蟲のようだ。空はまだ暗く、けれど東の端がすこしだけ白んでいた。それを見上げるリーの頬には無言の疲労がにじんでいた。
……少し、寝た方がいい」
 あなたの声は低く、やや掠れていた。ふたりは非常扉の影で肩を寄せ合って座っていた。壊れて明滅する照明。冷えたコンクリートと、互いの呼吸。
……眠るのが、怖いんです。目を閉じたら、あなたともう二度と会えなくなるようで」
 弱々しい声音に笑うでもなく、慰めるでもなく、あなたはただ自分の足の方に視線を落とした。
「私も……夢を見たくない夜、あるよ」
 その一言に、リーの肩が少しだけ揺れた。
「眠らずに夜を越えるとね、現実が少しだけ柔らかくなる気がするんだ。夢と現実の境目が、ちょっと溶けて、まだここにいていいんだって錯覚できる」
――錯覚、でいいんですか?」
「うん。本物よりも、信じられるなら」
 その答えに、リーは少しだけ目を閉じた。あなたの手が、優しく髪を撫でる。それだけで、身体の中に残った冷たいものが、ゆっくり溶けていくようだった。

 夜が明ける。街が動き出す。
 ふたりが再び“何者か”に戻らなければならない時間が、確実に近づいてくる。それでも。
……リー」
 名を呼ばれた瞬間、時間が止まったようだった。屋上に吹く風の音も、遠くのクラクションも、ふたりから切り離された。ゆっくりと顔を上げたリーの青い瞳は、夜の深さを宿していた。あなたはそれ以上何も言わなかった。ただ、片方の手でそっとリーの頬に触れた。
……どうしてあなたまで、泣きそうな顔をしているんですか」
 そう言いながら、リーは苦笑をこぼした。しかし次の瞬間には、風に攫われたように掻き消えた。そっと重なり合う唇。痛みをなぞるでもなく、情熱に火を点すわけでもない。まるで、お互いの心音を確かめ合うように。触れ合う唇の間で、静かな熱がじんわりと生まれる。それは誓いのようであり、祈りでもあった。この世界にふたりだけが存在しているという確信。長い、長い口付けだった。どちらが先に息を吸ったか分からないほどに。唇が離れる頃には、空はもう、明るくなっていた。
……朝、ですね」
 リーの声は震えていた。その瞳には、どこか遠くを見据えるような光が宿っていた。あなたはただもう一度、顔を近づけてリーの額に、そっと自分の額を重ねた。逃げてきたはずの夜が、ふたりだけの朝に変わっていく。
……もう少し、このまま……
 あなたの声は、淡く、消え入りそうだった。その指先に触れたリーは音もなく立ち上がる。
……分かりました。なら、こちらへ」


 手を引く力は優しい。けれど、どこか焦るようだった。ふたりの靴音が、古びた鉄の階段に吸い込まれていく。歓楽街の端に残されたこの廃ビルには、もう何年も誰も足を踏み入れていない。リーが手慣れた様子で扉を開けると、そこには古いカーテンとソファ、そして壊れかけたテレビがあった。――秘密の場所。誰にも言わなかった、避難場所。
「ここでなら……夜が止まってくれる気がして」
 リーのその言葉に、あなたは微かに頷くことしかできなかった。沈黙のまま近づいた二人は、今度は躊躇わずに唇を重ねる。やわらかく、だけど貪るように。まだ終わらない夜の温度にすがるように。ソファの縁に腰を落としながら、リーはあなたの手首に指を添える。細い脈の震えが、指先から伝わってきた。
……触れて、いいですか」
 その問いに、あなたはそっと微笑んだ。
 言葉よりも先に、ふたりの体温が重なっていく。乾いた指先が、背中が、首筋が、ここにいること刻むように。何度も触れて、求めて、甘く擦れ合う。もう、我慢できない。する必要もなかった。リーは何も言わず、あなたの後頭部に手を添える。少し冷えた指先が髪をすくい、静かに引き寄せられた唇が重なった。
 強くも、激しくもない。ただ、切実な何か。
 焦燥は夜の底から這い上がって、ふたりの肺にまで満ちていた。
……さみしい?」
 ポツリと零したあなたの声に、リーは答えない。抱き寄せる腕の力が強くなって、それがすべてだった。共に同じ時間を過ごしても。どんなに肌を合わせたとしても。
 衣擦れの音。微かな息づかい。どこかで風が窓枠を叩いている。それでもふたりは、その音にさえ背を向けるようにして、肩を寄せて、脚を絡めて、熱を分け合った。肌と肌のあいだにある、どうしようもない虚を埋めるように。壊れてしまいそうなほど繊細な夜を、それでも守るように重ねた。

 あなたの声が、滲んだ。名前を呼ぶ代わりに、ただ息を呑んで、震える指をリーの背に這わせた。リーはそのすべてを、受け入れるように、黙ってあなたの胸に顔を伏せた。ふたりとも、心が張り裂けそうだった。
 それでも、『この瞬間だけは、正しい』と、そう思いたかった。リビドーの底で結ばれる、脆くて、愚かで、美しいひととき。朝が来れば、また傷つくだろう。でも今だけは、繋がることでしか分かち合えないものがどうしてもここにあった。
 その願いは、心に根ざした痛みときっと同じ重さをしている。