ずきんと大きく脈打つような痛みで目が覚めた。反射的にこめかみを押さえ、ゆっくりとまぶたを押し上げる。視界に入るのは見慣れた自室の天井だ。
寝返りを打ちながら、枕元のデジタル時計に目をやると、5:13と薄緑色の表示が浮かび上がる。
起きるには早すぎるし、かといってもうひと眠りするには微妙な時間、カーテンから差し込む光はまだ淡い。のに、既にじっとり高い温度をはらんでいる。
(い、っ……たぁ……)
エアコンの温度をもう少し下げようと、リモコンに手を伸ばした。途端刺すような痛みが走り反射的に顔を歪める。眉間を手のひらでぐっと押さえて、痛みの波が引くのを待った。深呼吸して体の力を抜く。
(う……なんで、今日に限って……)
抑制剤をやめて丸一日目。
何が起こるかとドキドキしていた昨日だが特にドキドキもムラムラすることもなく、拍子抜けするほど平穏無事に過ごしていた。俺がネットで調べた限りでは今日の夜あたりからいわゆるヒートの症状が出てくるはずなので――部屋を掃除しシーツも替えて、夕飯に八左ヱ門ご所望のハンバーグを作り何もかも完璧にしたうえで彼に連絡して、「ちょっと早いけど来ないか?」とか言えば飼い主に呼ばれた犬みたいにすっ飛んでくるだろう彼を笑って迎え入れるシミュレーションまでしてたのに。現実では頭痛に苦しんでいるとか笑えない。
(いたい……けど、変な時間に起きたからだ……絶対)
もうひと眠りしよう、それで起きたら治るはず。変わらず響くような痛みを見ないふりをして、横向きに転がる――と、鼻に何かが当たった。すうっと息を吸って、呼吸が楽になる。ああ八左ヱ門の匂いだとぼんやり思う。――押し付けられた、彼のパーカーだ。一昨日八左ヱ門が着ていたやつ。彼のお気に入りで、洗っても洗ってもまだ体温の残った服。手繰り寄せ、ぎゅっと抱き込んだ。顔を埋めて大きく息を吸うと肺の中が彼の匂いでいっぱいになって、なんだか少しほっとした。
安心した途端、眠気は容赦なく押し寄せてくる。意識がふっと遠のくその瞬間、まぶたの裏に彼の笑顔が揺れる――もう恋しいなんて、我ながらずいぶん手の早い話だ。
それでもやっぱり、次に会える時間を思うと、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
***
「い、だい……っ、う、」
見通しが甘かった。
二度寝後も変わらずむしろ重さは増していて、こめかみの奥がじくじくと脈を打つ。薬も飲んだのに効き目が悪い。もう昼前なのに、まだ痛い。重い、熱い、苦しい。
ハンバーグどころかシーツも替えられてない。ベッドに転がったまま、兵助は重たい溜息を吐いた。このままでは本当に何もできなくなる。
(なんかお腹に入れて……次の薬、飲んで、)
いやその前に着替えたい、寝汗で湿った布が肌に張り付く感触が不快だ。
早くしないと、八左ヱ門を完璧に迎えないと。思うのに体が動かない。スプリングに沈ませた鉛みたいな四肢を叱咤して、なんとかベッドから這い出そうとしたその時。ピロンピロンと軽い電子音が鳴った。
メッセージアプリならいいものを、この音は電話の着信音だ。しかも、八左ヱ門専用のもの。
(ぐ……こんな時に)
なんてタイミングの悪いことか。居留守を使おうものなら突撃されかねず、出ないなんて選択肢はありえなかった。もそもそとスマートフォンに手を伸ばし、唾を飲み込んだ。――ガラガラの声で出ても、同じく突撃されかねない。意を決し、通話ボタンをスライドした。
「――もしもし」
「兵助? あ、ごめん寝てた?」
「いや……うん、起きたところだけど、何?」
もう昼前だ。寝過ごしたとまではいかないが、寝起きなのは事実なのでそう答えた。
やっぱり声がおかしかっただろうか、彼は変に鋭いところがあるのでドキドキしながら、ベッドのヘッドボードに寄りかかる。
幸い八左ヱ門は気づかなかったようで特に追及するでもなく、珍しく言いづらそうに口ごもったのちもじもじと言葉を継いだ。
「えーっと、特に用はないんだけど、えへへ、兵助の声聞きたくて」
「――」
ぽわぽわと、胸の中に温かいものが広がっていく。照れたような、眉を下げたあの笑い顔が目に浮かぶようだ。ドキドキする、けど息がしやすい。
「……って、なんか言えよ! 恥ずかしいやつじゃん俺!」
「…………おー、嬉しいよ、俺も八左ヱ門の声聞きたかった」
こほんと咳払いをひとつして、ことさら素っ気ない声を出した。――ちょっと上ずったけど。
案の定小さく笑う声が端末の向こうからいつもよりダイレクトに聞こえて、照れ隠しだってこともお見通しなのだろう。
長い付き合いなんだからそれぐらい分かる。分かってしまう。それは嬉しいけどやっぱりちょっとだけ悔しくて、何か言ってやろうと口を開きかけた。が、彼の声の方が早かった。
「な、声聞いたら会いたくなった。今日行っていい?」
「あのな……俺がいいって言うまでだめって言ったろ。大体まだ何も片付いてない」
形にした言葉とは裏腹に、嬉しい嬉しいと全身の細胞が騒ぎ出す。そういえばさっきまでしつこくいた頭痛も、嘘のように鳴りを潜めていた。ああもうなんだこれ、現金にもほどがあるだろう俺。
「いいじゃん、兵助の片付けてないなんて誤差だろ、誤差! なぁ、どうしてもだめ?」
「そっちの片付くじゃなくて、昨日部屋の掃除はしたんだけど他がなんも――あ、」
視線を落とした先、目に飛び込んできたものにどくんと嫌や感触が走った。――くしゃくしゃに乱れたシーツだ。端には昨日俺がぎゅうぎゅうに抱いた彼のパーカーがくったり丸まっている。
ぞくぞくと、細胞のどこかで悪寒のような警鐘が鳴り響く。今すぐ彼に会いたい、けど。――こんなんじゃダメだ、足りな過ぎる。もっと、もっと欲しい。彼の匂い、体温、声、全部。
たくさん集めて、綺麗にしないと。きちんとしないと――そうだ、もう頭も痛くないし。
「……? 兵助、どーした? 電波悪い? おーい」
「――……切る! いいな、俺がいいって言うまで絶対くるなよ、絶対だからな!」
「は? え、ちょっと待っ――」
焦った声をぶつ切りにして、端末を放り出す。ベッドから飛び降りるなりクローゼットを開けた。一番手前にかかっている服を引っ張り出す、――置きっぱなしにしてある八左ヱ門の部屋着だ。あと下の衣装ケース開けたら冬のはんてんとかある、あれも出そう。あと、それから、ああそうだシーツも替えないと。だってこんなんじゃ足りない、全然足りない。彼の匂いが薄い。ていうか俺の家の匂いしか、ない。気づいてしまったらもう駄目だった。ぶわわっと全身が総毛立つ、――熱い。頭と言わず体中疼くようなぞわぞわする感覚に支配されて、脳みそのスイッチを勝手に切られるみたいに、俺の意識は途切れた。
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