小さい頃はいつも一人だった。町に子どもなんて商店の娘くらいしかおらず一緒に遊ぶには小さすぎたし、今や一番の親友となった男はまだ遠くで暮らしていた。新しい父親となった男は最初こそ自分に谷の生き物なんかを見せようと声をかけてくれてはいたものの、ある日突然やってきて自分から母親を奪った男に懐くことはできず、それはそのまま埋められない溝となった。母はまだうまく喋れもしない妹にかかりきり、自分はずっとずっと一人だった。
しかしとある夏、そいつは自分の目の前に現れた。夜空を埋め尽くす星のひとつがこの谷に降ってきたかのように明るく眩い光を放ち、今も記憶の奥底、その真ん中で煌めきを失うことなく輝いている。
***
「──セビィ、ちょっと!」
燦々と照りつける太陽の下でじわりと汗の滲む午前十一時、自分を呼ぶ大きな声に伸ばした手が止まる。あと少しで触ることのできた毛玉の塊は突然の人間の声に驚いて茂みの奥へと逃げ出してしまい、自分はその原因を憎々しく振り返った。
「……なに、母さん」
「まぁセビィ、なんて顔してるの。こんな小さい頃から眉間に皺寄せちゃだめよ」
そう言いこの眉の間をつんと突くのは大きな声の張本人である母親だ。湖の辺りでしゃがみ込み一人で遊んでいた自分の元を訪れた母は妹を片腕に抱えたままこの隣へ膝を突き、笑ったり唇を尖らせたり表情をころころと変える。つい今し方まで風が草木や水面を撫ぜる音しかしなかったのにたちまち母親が雰囲気を変えてしまった。その上ボリュームなんて概念の存在しない妹の声が自分を更に苛立たせ、皺を伸ばそうとするような母親の指を手で払った。
「みけんとか知らない、母さんとマルのせいでうさぎが逃げた」
「それは悪かったわ……でももっと楽しいお知らせがあるのよ」
母は音の鳴るほど強く払われた手を気にする様子もなく弾むような声でそう言う。楽しいお知らせだなんて母さんはいつも嘘ばかりだ。自分が別にいいと顔を背けると小さな溜息が聞こえ、これでまた呆れただろうと思い足元の草を毟ろうとするとなぜだかその予想に反して母にこの手を掴まれた。
「まぁそう言わないで、今から牧場に行かない?」
「牧場?」
「そうよ。前から行きたそうだったでしょ?」
自宅の脇にある坂道を降れば大きな牧場があるのは知っていた。いや、知っていたなんてものではない。時折道の上から広大なその土地を眺めることだってある。遠くから牛なんかの動物が動いているのを見ては近くに行ってみたいと思ったこともあるが、親の用事で少し足を踏み入れたことがあるくらいだ。奥まで散策をしたことなんて一度もない。
そんな場所へ今から連れて行ってくれるのだと母親が言う。特にたった今野うさぎに逃げられてしまった自分には大分と魅力的な話で、それでも素直には頷けず口を噤んだ。
「今牧場にね、セブと同い年くらいのお友達が来てるのよ」
「……ともだち?」
「そう、一昨日だったかしら? おじいちゃんのところへ遊びに来たって言ってたわ」
だから行ってみないかと母親が握ったこの手を軽く揺さぶる。自分と同じくらいの子どもがいる、それを聞いて一人で好きに過ごしたかった自分は幾分か興味は失せてしまったが、それでもまた手を払うと今度こそ母親が悲しい顔をするのはいくらなんでもわかっていた。小さな声で行く、と呟くと母はよかったと安心したように笑って立ち上がり、この手を繋ぎ直した。
持ちものは氷水のたくさん入ったボトルに着替えとタオル、そして一緒に食べなさいと包んでくれたいつものおやつのときより少し多めのクッキー。それを買ってもらったばかりのリュックいっぱいに詰めて母親と裏の坂道を下った。繋いだ手は互いに汗ばんでいたが離したくはなかった。離せば母の手が今も抱き抱えられたままの妹に向かってしまうのを知っているからだ。たとえ牧場に来たという子どもが嫌な奴で、いつまで親と手を繋いでいるのかと揶揄ってきたとしても。そんなこちらの気も知らずに母は仲良くなれるといいわねと言って微笑んだ。
そうして下り道の最後にある石段をひとつずつ数えながら降り爪先から顔を上げると、路傍に聳える木々が作った木陰のアーチの向こう側に整然とした自然の世界が広がっている。漸く牧場の入り口だ。母に手を引かれるままその敷地へと足を踏み入れ辺りをきょろきょろと見渡していると、母は大きな木のそばへ自分を連れて行った。
「セブ、ちょっとここで待てる?」
「うん……」
呆けたような返事だったかもしれないがそれは不安や不満ではなく未知の世界への好奇心だ。母がこちらを覗き込んでもどこからか聞こえる動物の鳴き声がこの気を引く。待っててねと手を離して牧場の奥へと消えていった母の背中を目で追いかけたのもたった一瞬だった。
くっきりとした青い空の下、視界の端で黄金色をした草がさらさらと風に揺れていた。きっと野菜かなにかなのだろう、背の高いかかしが静かに佇み優しく見守っている。そこから少し離れた場所に背の低い石造りの囲いが見えた。あれは確か以前母が作った生簀だ。それを作るときに自分もついてきてそばで見ていたからよく覚えている。どんな魚を泳がせるのかはまた今度来たときのお楽しみだと頭を撫でてくれた牧場主の掌は自分の父となった男のものよりもずっと大きく、草と土の香りでいっぱいだった。
「──セビィ! おいで!」
母が別の区画の畑から手を振っている。その隣にはついたった今思い出していたこの牧場の主がいて、一瞬かかしと見間違えてしまったのは内緒だ。とにかくどうせ呼ぶなら最初から連れて行ってくれればよかったのにと思いつつ、緩慢と太陽の下を歩いて大人達の元へと向かった。
「ほらセビィ、ご挨拶は?」
「……こんにちは」
「あぁ、少し見ないうちにまた大きくなったかな」
「こないだのフラワーダンスで会ったばかりだよ」
「ごめんなさいね、ちょっと緊張してるのかも」
構わないと笑う老齢の男はくしゃくしゃとこの頭を撫でる。それはちょうど先ほど思い出していた感触そのままで、しかし記憶の中のものよりやや豪気に思えた。少し伸び始めた髪が乱れ視界を邪魔をしたが、ふとその端に牧場主の脚にしがみつく小さな指が見えた。妹は母に抱かれたままなので彼女のものではない。それをじっと不思議に見つめているとその視線に気づいた牧場主がそうだと半身を引くようにした。
「この子もね、少し緊張しているみたいだ」
ほらと無骨な手が自らの後ろに隠れた背を表へと押し出すようにする。そこからおずおずと現れたのは自分よりも少しだけ幼い女の子だった。
「セバスチャン、うちの孫娘なんだが仲良くしてやってくれるかい」
僅かな緊張、そして多分の期待の籠った丸く大きな目がこちらを見つめる。友達とは聞いていたがそれが女子だとは聞いていない。自分は弾かれたように母親を見上げたが、母はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべているだけだ。その様子に知っていて言わなかったのだと気づいたところでもう遅い。これまで同年代の友人もいなかったのに女子だなんてなにをして遊ぶものなのかもわからず、そう言葉もなく慌てる自分にねえ、と知らない声がかけられた。
「……せばすくん?」
「ちがう、セバスチャンだ」
「やだ、セバスちゃんだと思ったのかしら」
そう噴き出す母にそんなはずがないだろうと思ってその少女を見ると、おかしそうに笑う大人達を不思議そうに見上げている。まさか本当にそのとおりだったのか。自分よりも小さいようだから仕方がないのだろうけれど、照れ照れと体を捩る彼女を見てまた妹とは違う面倒さに溜息を吐いた。
「……セブでいいよ」
「セブ?」
「うん」
不本意を滲ませながら頷いているのに彼女はそんなことを気にも留めずぱっとその表情を輝かせる。たった名前を知ったそれだけなのに緊張は解けたようで、祖父の足元を抜け出しずいとこちらに一歩踏み出してきた。
「セブ、今ね、お昼ご飯に使うお野菜採ってるんだけど一緒にやろ!」
「野菜?」
「うん! とうもろこしでね、スープ作ってくれるんだって!」
冷たいやつなんだよと短い腕をぶんぶんと振り回しながら頬を真っ赤に染めてそう言う彼女はその興奮のままに両手でこの手を掴んだ。母のように優しいあたたかさでもなければ妹のようにお菓子みたいな甘い香りもしない。この牧場の主のような強さだって、野菜を弄ったときのものだろう土に塗れた手はただただ真夏の太陽のように熱かった。
「行こう、セブ!」
とうもろこし畑の奥へと手を引かれ、振り返った母親と牧場の主は背の高い植物の向こう側へすぐに見えなくなっていく。夜ご飯には迎えに来ると手を振る母はおそらく自分が再び畑から出てくる頃にはいなくなってしまっているのだろう。妹と一緒にあの男のいる家へ戻ってしまう。ここに置き去りにするために来たのかと一瞬僅かに心へかかった靄はこちらを振り返って笑う少女の笑顔ですぐに掻き消えた。少女の手を握り返した畝間、とうもろこしの葉が頬や腕を掠めるのも気にせずにただ二人で直走った。
知らなかった。とうもろこしが生で食べられること。畑の土がふかふかしていて少し転んだって痛くもないこと。いつも遠くから見ていた向日葵が自分よりもずっとずっと背の高かったこと。全部なにもなにも知らなかった。
昼食に使う食材にとうもろこしだけではなくてトマトやラディッシュも籠いっぱいに集めた。野に生えたベリーなどはたまに摘んで遊んでいたが、誰かの作った畑から食べものを採るのは初めてだった。そんなこともあり一番最初にもぎ取ったトマトを物珍しく眺めていると、牧場主は持って帰っても構わないと言ってくれた。結局その人はトマトを自分が初めて採ったものを含めて六つほど別に避けてくれた。それが家族の分と言えない自分のことを思ってくれたのだということに気がついたのは、彼にお礼も言えなくなってしまった頃だった。そんな優しい時間も昼を告げる鐘の音とともに終わりを迎え、三人は揃って小屋へ戻った。
卵ときのこが嫌いだと言うといつも母親からは食べなさいと叱られてあの男からは嫌味を言われた。なのにここの主はそうかそうかと笑ってこの髪をぐしゃぐしゃに撫でるだけで、孫娘は自分が食べると言ってこの皿の隅に避けていたきのこをつまんで食べた。そんな彼女が美味しいと言って笑うから自分もひとかけらをつまんでみたけれどやっぱり美味しくなどはないし食感も心地が悪い。それでも食べてみてもいいかと思い初めて自分からもう一口を含んだら、えらいと再び大きな掌がこの頭に伸ばされた。
***
「ねぇおじいちゃん、セブとにわとり見に行ってもいい?」
昼食後、牧場内の手入れをする主人について回ってともに遊んでいた少女が突然そんなことを言い出した。拾った枝で土に絵を描くのは飽きてしまったのか、いや、そわつき具合からするにおそらくずっと自分に見せたかったのだろう。小麦を刈っていた彼女の祖父は黄金色の畑から体を起こし二つ返事で了承した。
「あぁいいよ、行っておいで」
「にわとり?」
「うん、あっちの池の方にね、にわとりとかアヒルがいるよ」
そう彼女が指を差すのはずっと気になっていた動物小屋だ。山の上からはいつも豆粒ほどにしか見えなかった動物達の住まう場所。普段動物はこの谷中に住まう野生の生き物達を見かけるくらいで触らせてはもらえない。午後の日の光を浴び熱を持った黒髪を弄りながらうんと小さく頷くと、彼女は行こうと指差した方へ全力で駆け出した。だから自分も負けじと大きな足音と砂埃を立て追いかける。その隣に並んだとき彼女がセブ、と自分を呼んだ。それからすぐ自分は彼女を追い抜かしてしまって、鶏小屋の前に着いたときに走るの早いねと彼女は切れる息もそのままに笑った。自分は足が速いのだろうか。そんなことも今まで誰とも比べることができなかったから知らない。これが友達と遊ぶということなのか、そうかなと絞り出した喉の奥が熱くなったのはきっと夏のせいだと思った。
「セブはここ来たことある?」
「ないよ」
「私もね、一昨日来たとき初めて来たんだよ。うさぎ見たことある?」
彼女はそう言いながら鶏小屋を囲む柵のゲートを開け、自分は手招きをする。牧草を啄む鳥達が囲いの外へ出てしまわないためだろう、自分も呼ばれるままに急いで内側へと飛び込んだ。
柵と言ったってよく目にする木材で組み立てられたシンプルな造りのものだ。天井があるわけでもない。それなのにその中へ入っただけで世界が一変した気がした。先ほどまでは木々や草花を揺らす風の音やどこからか水の流れる音ばかりが聞こえていたのに、今この耳は鳥達の鳴き声でいっぱいになっている。そんなところに彼女がそう問うてきたものだから自分は午前にうさぎを捕まえようとして失敗したのだということを思い出した。
「うさぎは山にもいる、朝も本当はもう少しで触れるところだったのにさ」
「うさぎ、山にいるの?」
「あぁ、でも母さんのせいで逃げたんだ……」
ちょうど足元へうさぎがちょこちょこと跳んできて、自分はその場にしゃがみ込む。恐る恐ると手を伸ばしてもうさぎはなにも気にする様子はなく指がその毛に沈むままに大人しく撫でられていた。朝は撫でられなかったのに今はこんなにしっかりと触れられる。隣にしゃがんだ彼女もうさぎへ手を伸ばし、その小さな体の上で彼女の指と己のそれがぶつかった。
「……妹がいるんだ」
「さっきの子?」
「うん、でも父さんが違うんだよ。俺だけ家族じゃないんだ」
こんなことを言うと母親はきっと悲しむ。しかしそれは事実だと思う。妹にもその父親にも似ていない自分は家族にはなれない。それに気づいたとき、母親達の隣にあった自分の部屋を妹へ明け渡して地下室へと移った。彼等の居住スペースから離れたその場所は日の光も差さない真っ暗な、こんな自分にはお似合いの場所だ。だから自分一人が今更いなくなったってあの人達の日常はなにも変わらないだろう。
「……母さん、もう来ないのかな」
「え?」
「俺がみんなに嫌な態度取るから、牧場に捨てたのかもな」
うさぎを撫でるふたつの小さな手が止まる。もしさっき野うさぎが逃げたくらいであんな風に母さんへ嫌な言い方をしたり手を払ったりしなければ、母さんは今も一緒に牧場で遊んでくれたのではないか。自分一人をここに置いて帰ったりしないで。本当は鼻で笑ってしまいたいのにそれとは逆にじわりと目頭が熱くなり唇もへの字に曲がってしまっているのがわかってとうとう両腕で膝を抱えたときだった。
「ねぇセブ。今日ね、お願いごとする日なんだよ」
「お願いごと?」
そんな鬱屈とした気分を一変させるかのごとく彼女はぱちんと手を合わせる。今日が願いごとをする日だなんて初めて聞いたことで更に首を傾げると、別の国で行われる一夜限りのイベントなのだと言う。俯く自分を彼女は期待の込められた瞳でこちらを覗き込んだ。
「うん、今日の夜ね、おじいちゃんとやるの。セブもやろ?」
「でも夜ご飯には母さんが……」
「なんで? うちに捨てられたんじゃないの?」
しかし彼女が放ったあんまり無邪気なその発言に思わず言葉に詰まってしまう。確かに今そんな拗ねたことを言ったけれど心のどこかでは自分へ向けられる母の笑顔を信じているのだ。なにも言い返せない自分の隣で土を踏み締め彼女は勢いよく立ち上がった。
「おじいちゃんにお願いしてくる、おばちゃんにセブのこと夜遅くに迎えに来てってお願いしてって言ってくる!」
「いや、でも……」
「待ってて!」
そう言うと彼女はそれこそ脱兎の如く柵を飛び出しあっという間に畑の方へと駆け出していった。それからすぐおじいちゃん、と牛の鳴き声よりも大きな声が牧場に響き渡るのを聞き、足元で耳をぴくぴくと揺らすうさぎの背中をもう一度そっと撫でた。
「……変な奴だな、あいつ」
自分のことを可哀想だと言う大人はいない。ロビンは小さい子どもがいるしまだ若いのだから新しい夫ができてよかった、そんな言葉ばかりで溢れている。みんな母の幸せばかりで自分がどんな顔をしているのかも見ていないのだ。本当はあんなに変な奴で、自分にばかり嫌なことをたくさん言うのに。
けれどここの人間はどうも少し違うらしい。別に可哀想だと思われているわけではなさそうだが、牧場の人は自分が愛想のない態度を見せても怒らず頭を撫でてくれるし、あいつもあいつで初めて会ったばかりの奴のために汗をかくのも厭わずこの炎天下を走っていけるのだ。どうしてなのかを考えようとしても茹だる暑さが思いつく理由をすべて陽炎にしてしまう。
うさぎが一際大きく耳を立て、この手から逃れるように牧草の中へと飛び跳ねていった。それを名残惜しいと思わなかったのは再びゲートの開く音がしたからで、それを振り返ると満面の笑みでこちらにピースサインをする少女がいた。
「電話してもらったよ、おばちゃんいいよって!」
「……ふうん」
「ちゃんと迎えに行くよって言ってたよ」
「まさかお前、さっきの言ったのか?!」
「言ってない! 聞いただけ、セブは牧場の子になるの?って」
それは言ったも同じだろうと思ったが抗議の声は封じられてしまった。彼女がリュックを二つ運んで戻ってきたからだ。それは自分の分と彼女の分で、おじいちゃんがお水を飲みなさいと言っていたと言う。彼女はそのとおりにリュックを地面に下ろすと落ち着いた色をした大人用のボトルを取り出しごくごくと音を立てて水を飲み出したので、自分も礼を述べひとまずそれに倣うこととした。
「でもセブは大工屋さんの子だから牧場の子にはならないよって言ってた」
「……そう」
「でもね、私と結婚したら牧場の子になるかもねって!」
「は?!」
セバスチャンはうちの息子だと言い切ってくれた母の言葉を静かに噛み締めていたのに、彼女が突拍子もなく馬鹿みたいなことを言ってのけるから危うく自らの水を落としてしまうところだった。そんな自分とは対照的にはあと一息吐いて隣で満足そうにボトルの蓋を閉める彼女はそれがいいねと呑気に頷いている。ひやひやとする胸を落ち着かせたくて半歩分彼女から距離を取ったが、彼女はなにごともなさそうにボトルを再びリュックへしまった。
「お前意味わかってるのか?」
「わかってるよ、お父さんとお母さんになるんだよ」
「そうだけどなんか違う……」
結婚は自分にとっていいイメージなんてない。喧嘩をしてどちらかが出て行くかもしれないし、神様に愛を誓っておきながら何度だって別の人と結婚ができてしまうのだ。だから嫌だと言ってしまいたかったのに、彼女はそのやわらかそうなほっぺたが潰れるのも気にせずリュックをぎゅっと抱き締めながら微笑んだ。にっこりと、先ほどその大きさに息を呑んだ向日葵のように。
「だから結婚したら毎日一緒に遊べるね」
その彼女の笑顔に一瞬わけのわからない痛みがこの胸を襲い、堪らず水を口に含んだ。小さくなり始めた氷が中でからんと音を立て、きんと冷えた水はほんの少しだけレモンの味がする。毎日外から帰ってきたときに母さんが用意してくれる、自分だけのもの。でもこいつになら分けてもいいもしれないと思った自分はそうかもなとだけ呟いた。
それからふたりで鶏を追い回していたところに牧場主が現れて、動物への正しい接し方を教えてくれた。大きなものが追いかけてきたら怯えてしまうからそっと優しく見守り撫でてあげてほしいのだと、教わったとおりにそろそろと触れた真っ白な羽毛は思わず感嘆が漏れるほどにやわらかくこの手を包んだ。
そうして充分に鳥達と触れ合ったあと、アヒルが池を泳ぐのを見て彼女がプールに行きたいと言い出した。しかしそんなものはこの町にはなく、したがって川や湖、海に行くしかない。ただそれには大人がいないと駄目なのだと言おうとしたところ、ここにいる唯一の大人がこちらへおいでと再び畑の方へ自分たちを連れ出した。なにも植っていない畑の一角、その真ん中に置かれた機械のそばへ手招きをされる。なんだろうと少女とふたり顔を見合わせているとそのうちにそこから水が噴き出した。それはスプリンクラーといって野菜に自動で水を撒いてくれるものらしい。小さな粒となった大量の水が体中をびしょびしょにするから靴を脱いで一緒に畑中を逃げ回り、多分このままふたり足がもつれて転んでしまっても笑いっぱなしなのではないかとさえ思えた。
まだ十にも満たない自分の行動範囲なんてたかが知れている。やっと母親の目のないときにも湖の辺りで遊ぶことを許されたくらいで、海や森なんかにはとてもではないが一人で行ったことがない。母の仕事が落ち着いたときには町のいろいろなところへ連れて行ってもらえるが、この牧場はそのどことも違っていた。海や宇宙と違って端っこは絶対にあるのに、知らないものはそれらと同じくらい無限にある。今度はあっちに行ってみようと手を引く彼女と一緒にずっとずっと、途中でおやつに持ってきたクッキーを齧って、それでも回復しない体力に負けどちらからともなく欠伸をするまで牧場中を駆け回った。
***
結局動物達が小屋に戻るよりも早くに自分達は昼寝をしてしまって、次に目の覚めたときにはテーブルに夕食が並んだ頃だった。母さんが夕食どきには迎えに来ると言っていたのにと一瞬胸がざわついたが、そういえば隣で寝惚けている少女が迎えの時刻を変えてしまったのだと思い出して安堵した。
夕食は今日採ったトマトでソースを作ったという大きなピザだった。チーズもこの牧場のミルクで作ったものだそうで、どこまでも伸びてしまって切れないのではないかと思うほどにたくさん乗せられていた。こんなに大きなものは見たことがないと彼女が椅子の上で飛び跳ねて、それには流石の祖父もよくないことだと注意をする。なのに彼女は照れたように笑っていて、自分の家とはなにが違うのだろう。セブが変な顔をしているとやや不満そうな彼女の声にいけないとはっとしたものの、彼女の祖父はそれくらいなんでもないのだというように目を細め、食べ終わったら外へ行こうとだけ言った。
この場所は星露の谷という別称があるように星の美しい場所だ。なにかしら言い伝えだってあるほどなのに、彼女が楽しそうに話していたお願いごとの話は聞いたこともない。夕食後、自分達は細長く切られた色紙と様々な色のサインペンを持って星空の下へと飛び出した。
「……で、これでなにするんだ?」
牧場の一角に置かれた木製のガーデンテーブルの真ん中にランタンを置き、色紙とペンを無造作に撒き散らす。ベンチに並んで座った彼女にその使い方を訊ねると、彼女はおじいちゃんと大きな声で少し離れたところにいる祖父を呼んだ。
「おじいちゃん、これにお願いごと書くんでしょ!」
「そうだよ、好きなことを書いて笹……木の枝に飾ろう」
「好きなこと……」
「セブ違うよ、お願いごとだからね」
孫娘の駄目出しに祖父は声を上げて笑う。彼のその手にはきらきらとした星の形の紙やどうやって作ったのか長く連なる輪っかがあって、それらはいつの間にか玄関先に聳えている細い木に飾りつけられていた。彼はその木の方へ戻ると手に持っていたものを紐かなにかで括りつけている。目を凝らすとその木はいろんな家の隅によくある観葉植物のようで、ますます彼女の言うお願いごとの話がわからない。ペンを持ったまま固まっているとそれに気づいたのか彼女が肩を竦めた。
「ほんとはね、あの木じゃなくて緑色のやつなんだけどおじいちゃんにお願いするのが遅かったの」
「ふうん……」
「だからね、来年はちゃんと緑のやつでやろ?」
「……来年も来るのか?」
「うん、あ、じゃあお願いごとに書く!」
来年もおじいちゃんのお家に来る、そうぶつぶつと言いながら彼女は小さな紙にペンを走らせる。少ししてできたよと見せてくれたそこにはみみずのような文字が大きさも不揃いに並んでいた。
「……神様はそんな字でも読んでくれるのか?」
「読めるよ神様だから! セブは書けるの?!」
膨れっ面になった彼女がばんばんとテーブルを叩く。それがあんまり面白くてこいつの字が綺麗になりますようにとそこまで大差のない、それでも大きさくらいは揃えられた字でそう書いてみせたら彼女はますます頬を膨らませた。そしてぱっと次の紙を取ったかと思うと今度は別の色のペンを持ち、ふんと鼻を鳴らして次の願いごとに取り掛かった。
「セブが優しいことを言いますように」
「じゃあお前が怒りませんようにって書く」
「セブが意地悪するんじゃん! そしたらセブがゆっくり走ってくれますようにって書こ」
「だったらお前がもっと早く走れますように」
「なにそれ! じゃあセブがきのこ食べますように……」
「なんだよそのお願いごと、全然願いごとじゃないし」
そんな風に笑ったり言い合ったりしながらいっぱいの願いごとを紙に書いた。それを次々に彼女の祖父が木の枝に結んでくれて、そのうち無限にあるような気のしていた紙も残り少なくなっていき、とうとう残り三枚となったのでこれまで飾りに徹していた彼を含め各自一枚ずつを手に取った。おじいちゃんも書いてとせがむ孫娘に負けた彼は大人の手には小さなその紙にたった一言、とても綺麗な字で二人がいつまでも仲良くいてくれますようにと書いてみせた。仲良く、そう呟いた彼女は初めて願いごとを口に出さず自分から隠すようにしてなにかを書き込んだ。
「なに書いたんだ? それ最後だろ?」
「内緒! セブは最後なに書いたの?」
「俺は……」
自分の手にはなにも書かれていない髪が一切れ残っている。これまで彼女につられて書いていただけで、本当は自分の願いなんて思い浮かばなかった。もちろんなくはない。あの男がどこかへ行けばいいのにとか母さんと二人で暮らせたらいいのにとか、しかしこの優しい二人が毎朝家の前でそんな言葉を見るのかと思うとどうにも書くことはできなかった。
ただ強いて言うならひとつだけある。あるけれど、やっぱりそれもこいつに見られたくはない。内緒だと握った紙をズボンのポケットに突っ込んだら彼女は面白くなさそうに祖父の元へと駆けて行き、最後の一枚はうんと高いところへ結んでくれと強く強請った。これで飾りつけはすべて終わりだ。近くへ寄ってあらためて見てみるとよく見かける観葉植物にたくさんの紙が吊るされていて、この木もおそらく相当に不本意だろうと思うとなんだか面白く思えた。
「……でもさ、これで本当に願いごとなんか叶うのかな」
「叶うよ、本に書いてたもん」
「本って図書館の本か?」
「家にあったやつだけど書いてたもん」
「だったら今度図書館……」
図書館に行こう、そう言いかけて口を噤んだ。母の気まぐれでたまたま今日ここに連れて来てもらっただけで、次があるかはわからない。もしかしたら彼女は明日にでも帰ってしまうのかもしれない。朝目が覚めたらこんなものもすべてなくなってしまっているのかも、なぜだかそれが堪らなく嫌で仕方なく、牧場中を駆け回って泥だらけになった爪先を見つめているとそれを彼女がぐいと覗き込んできた。
「図書館あるの?」
「え?」
「ここ図書館ある?」
「あるよ……まだ子どもだけじゃ行けないけど」
「じゃあ今度おじいちゃんに連れてってもらおうよ!」
楽しみだと飛び跳ねる彼女に目を丸くしていると、いつの間に部屋へ戻っていたのかちょうど話題に上がっていた彼女の祖父が玄関から出てきた。その両手にはトレイを持って、かちゃんと微かに聞こえた食器の音に喜び跳ね回っていた彼女がああと更に大きな声を出した。
「それゼリー?!」
「ゼリー?」
「落ち着きなさい……そうだよ、ほら二人とも静かにベンチに座れるかな?」
「座れる!」
早くと彼女がこの手を取り、先ほどまで願いごとを認めていたベンチへと引っ張る。静かにと言われたはずなのにゼリーだとはしゃぎながら散らばったペンをがちゃがちゃと真ん中へ雑に寄せ、また怒られるのではないかと思ったのにちらと窺い見た大人はおかしそうに笑うばかりだった。
「さぁお願いごとのあとはゼリーを食べるんだ、ちゃんと叶いますようにとね」
そんな穏やかな声とともに目の前に置かれたのは少し特別なデザートだ。汗をかいた透明なガラスの器がランタンの仄かな灯りに煌めいて、そこに浮かんだ不思議な色合いのそれについ彼女と一緒になってわあと声を漏らした。
「青いゼリーだ……」
「中にね、フルーツとか入ってるんだよ!」
よくみると青色の中に小さなオレンジ色や白、ピンクのなにかがぷかぷかと浮かんでいる。大きさも形も様々で、まさにこんなに星の綺麗な夜に相応しい。いただきます、と彼女がスプーンを握るので自分も慌てて同じようにした。
「ねぇ、これちょっと凍ってる」
「そうだよ、朝ね、おじいちゃんと作って凍らせといたの!」
スプーンを刺すといつもと違った感触があり、しゃりしゃりとシャーベットを削ったときのような音に胸が高鳴る。中になにか果物が入っているだけでも面白いのに口に入れるとこれまでに食べてきたゼリーよりもずっと冷たい。なのに含んだ瞬間周りの氷が溶けあっという間にいつものゼリーの姿に戻って、一口、もう一口と夢中になって頬張った。見たことのない青色のゼリー、これはどうやって作ったのだろう。傍にあったセットの椅子に腰掛けるスーパーマンはゼリーに夢中となっている自分達を見て微笑むばかりで、今度は自分も彼女とこの人と一緒に作れるのだろうか。自分だって彼女にこの谷のなにかを教えてあげたりはできないのだろうか、もし次があるなら──残り少なくなったゼリーを突く手を止めて、ねえと隣の彼女を呼んだ。
「あのさ」
「なに?」
「夏の終わりにさ、こんな色のクラゲが海にたくさん来るんだよ」
「クラゲ?」
「うん、しかも光るんだ。だから夜すごく綺麗でね」
「いいな……見たい!」
「だからさ──だから、一緒に見よう」
それは精一杯の願いだった。諦めることに慣れた自分の、神様ではなく隣の彼女に乞うた願い。ごくりと不安に喉を鳴らした自分を笑い飛ばすかのように彼女が大きく頷いた。約束だよとベンチから投げ出した足を目一杯ぶらつかせ、いつも誰かを傷つけてばかりのこんな自分の言葉ひとつに満面の笑みで喜んでくれた。
それから暫くしてゼリーも食べ終わり、あとはただ母親の迎えを待つばかりとなった。食器を片づけてくるからと牧場の主人は家の中へ引っ込んでしまったが、自分と彼女はまだベンチでずっと空を眺めていた。真っ暗なそれに隙間なく散りばめられた赤や白、青色をした星々。あれ流れ星かな、と彼女が指を差したがもうそこにはなにもなく、ただ一緒に、今日一番静かになって星空を見上げていた。
「……セブ、さっきのお願いごとね」
「ん?」
「私ね、セブとお友達になれますようにって書いたの」
そんな中、ぽつりと彼女がそう言った。ランタンの暖色に照らされたその横顔は唇のつんと尖った様子が窺える。先ほどまでのはしゃぎようとはうってかわって彼女は叶うかなとそう元気なく呟くのだ。それはこの一日の終わりをはっきりと感じさせ、あと少ししたら彼女が泣き出してしまうのではないかと思った。そのときちょうど座り直した自分のポケットの中でくしゃりと紙の鳴る音がして、先ほど無造作に突っ込んだものの存在を思い出した自分はそれを急いで取り出した。
「……じゃあ書き直したほうがいいよ」
「え?」
「だって、その……友達だと思う、もう」
この手にはくしゃくしゃになった願いごとの紙が一枚、書きたいことはなんにも書けずに忍ばせたもの。彼女は驚いたようにそれを握ったこの手に触れた。
「セブはなんて書いたの?」
「まだ書いてないよ、ほら」
一生懸命指を解こうとする彼女に自ら開いてみせる。皺だらけではあるもののペンのひと先も走っていないまっさらなそれを見てすかさず彼女がテーブルの隅にまとめられたペンを一本掴んだ。
「じゃあね、じゃあセブ書いて」
「俺が?」
「私がお願い言うから書いて。セブの方が字が綺麗だから、きっと神様もちゃんと読んで叶えてくれるから」
彼女がその大きな目を真剣に輝かせじっと自分を見つめる。それを受けた自分はテーブルに皺くちゃになった紙を一生懸命伸ばしてペンの蓋を取った。彼女が両手を組み口にした願いごとはずっと一緒にいられますように、自分が終ぞ書けなかったうちの一番優しい願いごとと同じだ。だからとびきり綺麗に書いてやるのだとゆっくり一文字ずつペンを走らせる。近くでそれをじっと覗く彼女から自分と同じ甘いゼリーの香りがした。できれば明日も明後日も、それが土の香りでも汗の匂いでもなんだっていい。たった一日も一緒にいなかったのに、ずっとずっと一緒ならいいと思った。
***
そうやって二人で一緒に仕上げた最後のお願いごとを、彼女は祖父にさっきよりも高いところに結んでくれとそうせがんだ。神様がよく読めるように空に向かって、お願いだからといつしか可愛いおねだりが駄々に変わって泣きそうな声に変わった頃、タイミングの悪く裏道から母親が現れた。今度こそ本当に今日が終わる。こんばんはと手を振った母を見てとうとう彼女は祖父の足元に縋って泣き出してしまった。
「あらあら、どうしちゃったの?」
「すまないねロビン、どうやら相当楽しかったらしい」
わあわあと声を上げて泣く彼女に自分も困り果てる。どうしてこんなに素直に泣けるのだろう、嫌だと言って叶わなかったときが余計に辛いだけなのに。彼女とは違って唇を噛み締めるしかできない自分を母がセビィ、と優しく呼んだ。
「あなたも楽しかった?」
「……うん」
「じゃあ大丈夫よ、明日もあるから」
「え?」
母は祖父の足に引っついて離れない少女に目線を合わせるように膝を突き、おいでと両腕を広げた。明日もある、その言葉にぴたりと泣き声を止ませた彼女はおずおずと母を振り返る。母はセビィもおいでと手招きをする。呼ばれるままにその腕の中へおさまると、彼女もそれに続くようにして母の首にしがみついた。
「ほら泣かないで、明日も明後日もまだまだあるわよ」
「ほんと? まだ遊べる?」
「誰も今日だけなんて言ってないよ、おじいちゃんにも聞いてみて」
おじいちゃん、と彼女が涙声で祖父を見上げると彼は動物もびっくりして起きるのではないかと思うほど大袈裟に笑い、そうして明日は海に連れて行ってあげようと言ってくれた。その思いもよらない言葉に自分達は同時に信じられないと顔を見合わせる。母は彼女の頬に残った涙の跡をそっと指で拭い、それから二人の頭を優しく撫でた。
「明日は母さんがお弁当作ろうかな、あなたはなにが食べたい?」
「サンドイッチ……」
「だめ、卵は嫌だ」
「なんでよ、セブ好き嫌いばっか!」
「あはは、言われちゃったわねセビィ」
からからと笑う母に今度は自分がむっとする番だ。けれど彼女もまたやっと笑顔を取り戻して、だったらもういいかと思う自分がいた。自分はハムのサンドイッチがいいと不貞腐れる真似をしてそう言うと、母はまかせなさいと自分と彼女の髪へ交互に軽くキスをしてもう一度二人をぎゅっと抱き締めた。
「さぁ、もう今日は帰って早く寝るわよ。また明日も明後日も遊ばないとね」
その言葉のとおりに次の日もまた次の日も彼女と一緒に遊んだ。海や森にも行った。自分の家の近くの湖にだって、彼女の祖父が釣りを教えてくれたり釣った魚を焼いて食べたりもした。母が仕事の合間に連れて行ってくれた図書館では一緒に絵本を読んだり文字の勉強をした。絵日記を描いてみたらどうかと言ってくれた母が商店でノートを買ってくれて、それは瞬く間にふたり分の思い出で溢れ返った。それを抱えて公民館に行ったら町の大人達がもっとたくさん描くことが増えるようにといろんな遊びを教えてくれた。クッキーを焼いてくれた町のおばあさんは二人の踊るフラワーダンスが見たいわねと笑って、それには流石に難色を示した自分へ向かっていつか一緒に踊ろうと彼女が笑った。
そうやってまた明日と何度も約束を重ね、朝が来るたび裏道を駆け抜けた。そうするとおはようと二人が迎えてくれる。暫くしたら母の手を握らなくたって一人で行けるようになった。家族に混ざれない寂しさもいつしか彼女に上書きされてしまって、だからずっと一緒にいられますようにと初めて会った日にともに書いたあの願いは叶ったのだと思っていた。自分は知っていたのに、神様はいつだって自分だけ幸せにはしてくれないのだと。
夏の終わりに一緒にクラゲを見ようと交わした約束が果たされることはなかった。彼女はその日を待たずに本当の家族の待つ家へと帰ってしまったのだ。そしてその次の年も、その次も次もどんなに待っても彼女がこの谷を訪れることはなく、自分は叶わぬ夢とひとりきりの日常にどんどんと心を疲弊させていった。
結局次に彼女を見かけたのは残酷にも彼女の祖父の葬式でのこと。ただ一度目の合ったきり自分達はなにも話さなかった。
***
とある夏、そいつは自分の目の前に現れた。夜空を埋め尽くす星のひとつがこの谷に降ってきたかのように明るく眩い光を放ち今も記憶の奥底、その真ん中で煌めきを失うことなく輝いている──なのにどこか遠くの知らない街へ帰ってしまったお前はこの谷のことなどもう一欠片も覚えていないのか。
自分がこの世に生を受けて二十数回目のとある春の初日、主を失い寂れて久しかったあの牧場に新しい主人ができた。ずっと待ち侘びたそいつは真夏に咲き誇る向日葵のような、あの日と寸分も違わぬ笑顔でこちらへ歩み寄り、初めましてとそう言った。
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