shirajira
2025-07-10 20:24:12
3655文字
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酒のつまみは足りている

ビマヨダとインドラの短いお話。

 酒のつまみがほしくなった。
 ヴァジュラを遣いに出してもよかったが、気が向いたので自ら食堂に赴くことにする。うまいつまみを献上する料理人に、褒美の言葉をその場でかけてやるのもたまにはよいだろう。
……誰もいない」
 照明が落とされ閑散とした食堂の前で、インドラは立ち尽くした。そうか、今は深夜というやつか。……人の子は、この時間帯にはあまり活動をしないのだったな。道理でここに来るまで誰ともすれ違わなかったわけだ。
 用を済ますことができないなら、こんなところにいつまでもいる必要はない。仕方なく踵を返すが、手に入らないとなるとますます酒のつまみがほしくなる。あるいはそれを上回るような代用品。例えば――女とか。
 やはり一人、いや二人、三人くらいは相手をしてくれる女が欲しいものだ。神々の王の相手に選ばれたとなれば、女だって嬉しいだろう。何も慈悲を向ける相手が一人である必要はない。
 パールヴァティーのやつさえいなければな。あの女神、気がつくと笑顔でオレの後ろに立っている。
 別にあんな女神、怖くもなんともないが、あの顔を見ると興が削がれる。人間だって女を口説こうという時に母親の顔がちらついていたら集中できないだろう。別にあいつはオレの母親ではないが。
 つまらない気持ちで廊下をあてどもなく歩く。部屋にまっすぐ戻る気にはならないが、かといって欲しいものが手に入る当てもない。
「ん?」
 ふと、慣れ親しんだ気配が鼻をついた。突き当たりの向こう側からする、清涼な気配は――ヴァーユの匂いだ。
 ここにはヴァーユはいない。だが、その息子はいる。インドラの息子であるアルジュナの兄にして、風神の子ビーマ。
 ビーマはヴァーユの子だけあって、なかなか見所のある男である。アルジュナも大層懐いて慕っているし、インドラのお気に入りの一人と言ってもよかった。
 おまけにビーマの作るつまみはうまい。
 ビーマであれば、インドラが声をかければすぐにでもつまみを用意してくれるであろう。インドラは長い足を空を切るように動かして、突き当たりを曲がった。
「うおっ!?」
「おい。…………ん?」
 突き当たりを曲がった先、ヴァーユの気配の先にいたのは、ビーマではなかった。
「イ、インドラ神……
「何だお前、カリの化身じゃないか」
 思わず鼻に皺を寄せてしまう。壁に手をつき、どこか具合でも悪いのか背を丸めた男は、落ち着かなさそうに目を泳がせている。今日は昔インドラが使っていた鎧は身に付けていないようだった。
 このドゥリーヨダナという男は、生前はアルジュナたちと同じ時代に生を受け、カリの化身にふさわしい大戦争を起こして死んだ。言ってしまえばアルジュナの敵対者ではあるが、負けた側だ。目くじらを立てるような相手ではない。
 どうもこの男はインドラのことを避けているようだった。初めて声を掛けた時、それはオレが昔使っていた鎧じゃないのかと尋ねれば、ビクビクしながらドローナにもらったのだと答えてはいたが、鎧を取り上げられやしないかと心配しているようだった。だから取り上げやしないと言ってやったのに、礼を言うどころかそのまま一目散に逃げられた。
 まあ偉大な神々の王の前では、たかが人間、それもカリの化身、そういう態度になっても仕方ないのかもしれないが、面白くはない。つまらない男だと思った。
 とはいえ、向こうはこちらを避けてくるし、こちらも向こうに興味がない。それで終わりだ。
「何故、お前からヴァーユの気配がする」
 つまらない、見所のない、カリの化身であるはずの男から、ヴァーユの気配がする。カリの匂いを打ち消すほどに強いそれは、まるでそこにヴァーユ、あるいはそれに連なる者がいると錯覚するほどだった。
オレが昔使っていた鎧のように、何かあいつのものを持って――はいないようだな。ということはお前、まさかとは思うが」
 ドゥリーヨダナは黙っている。蛇に睨まれた蛙のように、壁に手をついて背を丸めた格好で、こちらを見上げている。
「ヴァーユの息子を――ビーマのやつを食」
 一陣の、風が吹いた。
「インドラ様、こんな夜更けにどうされました」
 インドラほどではないが大柄な体が、カリの化身を背の後ろに隠すかのように現れた。まるで大事なものを守るように。
……つまみが欲しくてな」
「そうでしたか。簡単なものでよければ、俺が作りますよ。少しお時間はいただきますが、部屋で待っていてください」
 にかり、とビーマが快活な笑みを浮かべる。インドラとしても酒のつまみが手に入るのであれば、それでよかった。
「そうか。なら待っていてやろう。神々の王が食すにふさわしいものを持ってくるがいい」
 踵を返す。話し声が小さく聞こえた。
 ほら、部屋戻るぞ。夜明けまでまだあるんだ、慌てて帰らなくてもいいだろうが。体、まだきついんだろ。
 うるさい、お前のせいだろうが。馬鹿みたいに注ぎやがって。そのせいであの雷神に………………
 どうした? ……インドラ神に、何かされたか?
 あの神は、お前らの味方だから、だからあんな根も葉もない誹謗中傷を大声で喚くんだ。わし様がカリの化身だなんて、そんな……
 ――ああ、わかってる。
 振り返る。互いに距離が離れてしまったから、もう会話は聞こえない。肩をぶつけ合うようにして歩いている背中に、誹謗中傷も何もただの事実だと言ってやろうかと思ったが、面倒なのでやめにした。自室へと戻る。
 ビーマは三十分ほどでやってきた。小皿をいくつも乗せたお盆を、そのまま差し出してくる。
「一人酒じゃ、量より種類があった方がいいでしょう」
 小皿にはクリームチーズにくるみを和えてはちみつをかけたものや、キャベツと塩昆布を揉んだものなど、簡単なものがざっと小鉢で十五ほど並んでいた。
 しかし決して手抜きではないだろう。そういうことをする男ではないし、何よりつまみが盛られたガラスの小鉢は色とりどりで美しい。時間をかけずとも神に捧げるにふさわしいものを用意しようという心意気だろう。
「ふむ。オレを待たせなかったことは褒めてやろう。……お前にその気があれば、褒美として共に杯を傾けさせてやってもよいが」
 杯を揺らして見せる。返ってきたのは苦笑いだった。
「そいつはありがたいお言葉。あのインドラ神と飲んだとなっちゃ、語り草にもなりましょう。……だが、今回はお断りさせていただきます。待たせてるやつがいるんで」
 言って、ビーマが立ち上がる。早々に退出しようとしている男に、インドラは声を掛けた。
「誹謗中傷ではないぞ」
 無言でこちらを見るビーマに、インドラは笑みも浮かべず言い放った。
「あれは真実、カリの化身だ。そのように生まれた。お前とて、匂いでわかるだろう」
 神とは程遠い、甘く重く纏わりつくような、魔の匂い。
 ドゥリーヨダナはカリの化身だ。本人がどれだけ否定しようとも。悪魔に願われシヴァに作られ、そうして大地を軽くするため、大きな戦争を起こすために地上に降り立った、不和を呼ぶカリの化身。
 神の子が愛するようなモノではない。
 ぱちり、とビーマが瞬きをした。そして次の瞬間、微笑んだ。
――わかってる。わかってます。あいつは魔に連なる者なんでしょう。それがなくとも、何より性格最悪でどこに出しても恥ずかしくないほどのろくでなしだ。厚顔無恥、傲岸不遜、プライドだけは一丁前の小心者。自分の欲しか見てねえ、どうしようもねえやつだ」
 誰もそこまでは言ってないが。思ったが、インドラは黙っていた。ビーマが続けた。
「だけど、そんなのは関係ねえんです」
 こちらに向けられた目は、インドラを見ていながら他のものを見ていた。もっと大きなものを。
「インドラ様が気にかけてくれたのはありがてえが、あいつがカリの化身だとか、俺が風神の子であるとか、俺たちとあいつらの間にあったこととか、そんなのは関係ねえんです。――俺たちは、この現界の間は互いを愛してもいいと、そう決めた、それだけなんです」
 それはもはや誓いだった。世界に対する言葉であった。
 であれば、これ以上インドラが口を挟むのは無粋なだけであった。
……そうか。わかった、下がっていいぞ」
 一礼をして、ビーマが部屋を出ていく。酒で口を湿らせながら、インドラは随分昔に観戦した大戦のことを振り返った。
 あの時、神々は花をカリの化身に降らせたのだ。風神の子にではなく。自分もそうしたかまでは定かではないが、少なくともその行いに王として異論はなかった。
 確かに、関係ないのだろう。カリの化身だろうが、何だろうが。
「カーマ神なら、それも愛と呼ぶ、か?」
 聞く気にはならなかったし、どうせすぐに忘れてしまうことなので。
 ガラスの小鉢をピンと弾く。透き通った音がして、あとはもう、つまみの味に興味は移った。