『午後十時のブルーラグーン』

エンデビ自陣SS(ネタバレ無し)

「やあ、李里くん。私が来たぞ!」
 
 氷の音がグラスに沈む午後十時、店内で雪柳 李里(ゆきやなぎ りり)はようやくひと息ついた。背伸びをして棚のリキュールを戻していると入り口の鈴が静かに鳴る。カランと音を立てて扉が開き、風のように男が現れた。にこやかに溌剌と声をかけてくる彼の名前は天川 流(あまかわ ながれ)。長身で、見目麗しい男だ。腰下まで流れる白銀の髪が店内の控えめな明かりに照らされて輝いている。
 
……はあ、いらっしゃいませ」
 
 雪柳は紫紺色の前髪の隙間からそれを一瞥して肩をすくめた。相変わらず見た目も声も騒がしい男だと思う。アルコール耐性がないのに、彼は決まった日時に必ずここに来てはモクテルを注文してくるのだ。
 
「今日も暑いな。君も前髪をあげてはどうだ?」
「お前こそ、その長ったらしい髪を切っては?」
「ははは、この白銀の麗しい髪が短くなったら世界の損失じゃないか!」
……はあ。注文は?」
 
 これ以上会話をしていてもいつものごとく自らの美貌の話しかしなさそうだと、雪柳は早々に話を切り替える。
 
「ああ、夏だからな。爽やかで私に合う、美しいモクテルを一つお願いしようか」
 
 芝居がかったしぐさでカウンターに腰掛けながら目を細めて笑いかけてくる天川に雪柳も目を細めるが、その顔は微笑みとは程遠い。しかしここでなにか言えば、彼はまた仰々しい口調でつらつらと喋り始めるのは容易に想像できる。だから彼女は無言でシェイカーを手に取った。

…………
「(この男は視線すら騒がしい……)」

 普段の騒がしさから一転、彼に急に静かに見つめてこられるとどうも落ち着かない気がした。雪柳は無意識にふいっと目を逸らすが、彼は気にした素振りも見せず彼女の手元を楽しそうに見つめている。
 だが、それもいつものことだ。相手ののらりくらりとした問答につきあわされる前にモクテルを作ることにする。雪柳は慣れた手つきでグラスにブルーキュラソーシロップ、レモンシロップ、炭酸水を注いでいく。静かなビーチの水面の色を思わせる鮮やかな青。しゅわしゅわと音を立てて踊る泡が見るものに涼しさを与えてくれる。
 
……ブルーラグーン・レモネードです」
「おお、美しいな……。私ほどではないが。では頂こう!」
 
 天川が長い指でグラスを恭しく手に取り口付ける。吸いこむように飲めば、レモネードの酸味と、シロップの甘み、炭酸の刺激が三重奏を奏で舌を楽しませてくれた。
 
「うむ、悪くない。やはり李里くんのモクテルは美味いな!」
「他と、たいして変わりませんが」
「それは周りの舌が私より遅れているのだろう。……ところで、李里くん」
 
 グラスを置いた天川がふいに声を低くする。ふざけた笑顔の奥にかすかな真剣さが混じっていた。
 
「次の休み、海に行こうじゃないか」
 
 その言葉に、雪柳は思わず眉を寄せた。
 
……は?」
「いやあ、海! 夏といえば海、海といえばバカンス、バカンスといえば真夏の太陽に照らされる麗しい私、そして君!!」
「誰が行くと?」
「君が、私とだが?」
 
 涼しい顔で言い切る天川に、雪柳は少し間をおいてからため息をついた。
 
……陽射しにやられて五分で倒れるくせに。もしくは肌が焼けたとお前は文句を言いそうですが?」
「もちろん対策はするとも。真夏の太陽に照らされる私とは言ったが、夜の静謐なビーチを楽しむのも悪くないしな。月明かりに照らされた私もまた、美しい」
「なら、その仰々しいしぐさは控えめにするんですね。夜は視界が悪いので」
「おっと、もしかして心配してくれているのかな? なあに、もし倒れたり溺れた際は李里くんが人工呼吸を――
「しません。塩漬けになって砂浜に埋もれていればいい」
「なるほど? それもまた風流というものだ。なにせ私は砂浜に埋もれても美しいからな!!」
 
 天川が笑いながらグラスに残った氷をカランと鳴らして席を立つ。夏を閉じ込めたようなモクテルはすでに空っぽになっていた。彼はそのまま肩にひょいと白いジャケットをかける。
 
「では、日曜の十時。君の家に迎えに行こう! そういえば水着はあるのかね? 現地で購入しても構わないが!!」
「行くとは言ってない!」
「わかっているとも!! だが迎えにいくさ!!」
 
 扉が開き、夜風と共に彼の高笑い混じりの声が遠のいていく。
 
……ああもう、勝手に決めて……ほんっとうに……
 
 雪柳は、取り残された静かな店内で、ぽつりと悪態をついた。
 苦虫を噛み潰したような顔で扉を睨む彼女の頬がどんな色をしていたのかは、瞳を覆い隠す長い髪でよくみえなかった。