ふわり、ふわりと舞落ちてきた白に手を差し出せば、雪より重さもない真っ白の羽がグローブの上に乗る。居ると思えばそこに居る存在に向けて腕を伸ばせばするりと重みが乗りかかって、後ろ髪を撫でるように柔らかい翼が掠めていく。
「ライトさんの肩のトゲトゲって私避けだったりする?」
「肩も腕もあんたからすれば大して変わらんだろ」
どうせ、浮いた存在なんだから肩でも腕でも……最悪頭にでも舞い降りて、組んだ腕を乗せることが出来る天使様にそう言えば「見栄えがあるでしょ」と頬を膨らませていた。
郊外の口伝程度の神ぐらいしか興味もなければ教えもない俺の元に、白い天使なんて似合わないモノが降りてきたのは真夜中に遠くで輝く橋を眺めている時だった。何があったという訳でもなく、その日は偶然あっち側が近い気がして頭から指先くらいまで「飛んでやろうか」と暗い思考にひたひたと沈んでいた。
――お兄さん、翼もないのに飛んじゃうの?
首に巻いたマフラーを辿るようにすっと伸びてきた白い腕。耳の内に響く声は間違いなく女の高さなのに、俺の頭より高い位置に気配がある気がして。包むように体に沿う何かは、ばさりと音を響かせて広がった。
後ろから抱きつかれるような気配にゾッとして勢いよく振り返れば、そこには絵に描いたような天使が浮かんでいた。紺色の髪以外の全てが白い存在が、振りほどかれたことを驚くようにキョトンとした目をしてこっちを見ている。
「力が強いんだね、ちょっとびっくりしちゃった」
「あんた……何だ?」
「何って言われても……見たまんま、天使かな!」
にっこりと笑ったと思えば、次はハッとした彼女は「もしかして、聞きたいのって名前だった?」と地面へ足をつけて慌て始める。わたわたとしながら「リンです!」と名乗る姿に毒気が抜かれて、自然と握り締めていた右手から力を抜いた。その手をそのままポケットへ入れれば、翼のせいで大きく見えた存在がとことこと傍へ寄ってくる。近づかれたことで初めて、天使はうちの大将より随分小柄なことに気がついて浅くしていた息が普通に戻っていく。
「こんな所で端っこに立ってると悪〜いのが寄って来くるよ」
「真っ先に寄って来たあんたはどうなるんだ?」
「あ……でも、私悪いことしないから安心して!」
友達か何かのように話し続ける彼女に別の意味で眉間に皺が寄る。ただ、明るい声が続けた「悪いことするならさっき出来たって!」なんて正直過ぎる言葉にやっぱり気は抜けてしまって深く溜息を吐くしかやることがない。
偉そうな天使というより懐っこい少女のような様子に肩を竦めた拍子にズレたグラサンを押し上げるため手を添えた時だった。足音ひとつせずに距離を詰めた彼女の細い指が両頬に触れる。触れた場所からじんわりと広がる温もりが頭の隅を侵食していた暗い思考を晴らしていく。そして、その感覚に見開いた視界には済んだ瞳が映っていて……間近で除き込まれた瞬間に一気に頬が熱くなる。
「翼もないあなたは飛ぶには早いよ」
「……」
「私が愛してあげる。だから、生きて――ライトさん」
突然、舞い降りた天使は教えてもいない俺の名前を囁いて翼を羽ばたかせる柔らかい風と共に、祝福のキスを額へひとつ置いていった。
そんな出逢いから傍に居るようになったリンは「愛してあげる」と囁いた割に、あちこちへ顔を出しては人間とじゃれていることが多い。
今だって、俺の腕に降りてきた後からはシーザーに纏わりついて構われてばかりいる。
「……天使は英雄の方がお好みだそうで」
拠点のソファに背中を預けて独りごちた言葉にも彼女は何も反応しない。どんなに遠くにいてもパッとこっちを見ることもある天使が何のリアクションも返さないことに不満を覚える顔を隠すために誰かがその辺へ放り出した雑誌を顔に乗せた。
――そうやって薄暗い所を好むような奴に天使が微笑む訳ないだろう。
真っ当なことを囁いてくる暗闇から顔を背けて目を閉じた。リンが現れてから時々調べるようになった「天使」という種は基本的には公平に人を愛する者として書かれていた。だから、あの夜に彼女が言った「愛してあげる」にも種として大した意味はなかったのかもしれない。
結局のところ、天使なんて厄介なモノに魅入られたのは俺だけで……白い翼の持ち主に気がつけば惚れてしまったのも俺だけってことだ。
目を閉じたせいで余計に回った想いを溶かして吐き出した溜息が雑誌のノドへ消えていく。どうしようもなくモヤつく気持ちを抑えるために雑誌を押さえた手の上に、不意にひたりと柔らかい感触が触れた。
「なんで、寝てるフリしてるの?」
「……フリじゃない、寝てるんだ」
「寝てる人間は寝てるって言わないと思うけど」
「寝言ってのがあるんだよ」
「ふふっ、変な寝言だね」
雑誌をひょいと取上げられて、瞼を閉じていても刺さる明るさにゆっくりと目を開けた。背もたれに頭を乗せてひっくり返った視界には、グラサンを外しているせいで避けようのない白い翼の色が広がっている。
柔らかそうに見えて、靱やかで芯のある愛おしいソレ。
リンと俺が同じ存在じゃないと知らしめる憎いソレ。
見る度に喉を焼いてくる想いを俺へ覚えさせる白色に手を伸ばせば、彼女は嫌がる素振りもなく翼を寄せてくる。俺の力があれば簡単に引き千切れそうな羽を……グッと強く握った。
これが無ければ。これさえ無ければ。こんなものさえ無ければ――リンは俺を置いて遠くへ行かないかもしれない。
いつか俺じゃない別の誰かに祝福を与えに飛び立っていく時もコレさえ無くなれば…………
「ライトさん」
「……ッ!」
ふわりと額へ触れた唇の温もりに思考が引き戻されて、咄嗟に手を引いた。そして、その手に掴んだままだった白い羽が数枚ぶちりと音を立てて抜ける。固く黒いグローブの上に残った柔らかい白色に愕然としてサッと血の気が引く。
天使の翼は美しく大きい程、格があって彼らの中で誇りになる。リンの翼がどの程度のもの地位にあるのかは分からなくとも、彼女の綺麗な誇りを傷付けた事実に変わりはない。だからこそ、謝罪の言葉も消え失せて思考が完全に止まってしまう。
「ねぇ、ライトさん」
柔らかく名前を呼ぶ声に逆らえない。天使が呼ぶ甘い声に人間が逆らえる訳もなく、手に持った羽を握り締めて青ざめたまま振り返って顔を上げた。
――天使が微笑んでいる。
赤い口の端を軽く上げて、澄んだ目で弧を描くリンが俺だけを見て笑っていた。伸ばされる白い手が羽を握る手を両手で包み込んで。嬉しそうに胸元まで引き寄せる彼女を背もたれ一枚を挟んで呆然と見ていた。境界線さながらに二人の間に横たわる背もたれの向こうで彼女は白い頬を赤くしていた。
「こんなことされたのって初めて」
恍惚としているようにすら見える彼女が出逢った時と同じように頬へ手を添える。音を立てて広げられた翼が俺を囲って、薄暗くなる世界の中で白色だけがはっきりと輝いていた。
「翼を捥ごうとする人間からは危ないから離れなきゃいけないんだけど」
「わ、悪かった。二度としない……あんたを傷付けるような真似は二度と……!」
「いいよ、許してあげる。だって、あなたは特別だからね」
甘い声に聴き惚れて、唇へ触れる柔らかい感触にぶわりと全身が熱を帯びた。
「リン」
「ん?」
「俺はあんたが好きだ」
「ふふっ、私も愛してるよ」
いつかと同じ祝福の乗せられたキスを唇で受け取りながら、傍にある白い翼を指で撫でた。
指で触れる柔らかい感触を撫でながら、白い体を組み敷いてソレを引き千切る夢を見る俺とリンの想いが同じかどうかは、居るかどうかも定かじゃない神様しか知る由もない。それでも、愛しい天使がふらふらとどこかへ飛んでいかないように俺は地に足を付けたまま細い手を引き続けるだろう。
――いつか彼女が俺の隣を歩く日を夢に見ながら。
リンが身じろぐ度に動く肩甲骨の少し下。直接肌と繋がっている翼の付け根から目を逸らす。ただ、目を逸らした先にも広がる血管が透けるような白い肌に息を詰めた俺を首だけで振り返った彼女が笑う。笑われる声を誤魔化すために咳払いをしてから、もう一度柔らかい羽に指を伸ばした。
軽く引っ張ればするりと抵抗もなく抜ける羽をシーツへ落とす。次に引っ張ったものはピンと皮膚が張る気配がして手を離す。白色が自分の指に従って落ちる度に心臓がバクバクと煩くなって、十枚も抜く頃には限界が来る。翼と翼の間にある人と変わらない肌の上に額を押し付ければ、リンは耐えきれないとばかりにケラケラと機嫌良さそうに笑っていた。
「ライトさんは本当に私の翼が好きなんだね」
「……天使様には一生掛けても分からん悩みさ」
「うん、よく分かんない!」
あっけらかんとした声を出した彼女に俺の……人間の想いなんて分かるはずがない。宥めるようにふわふわと寄せられる翼を引っ掴んでしまいたい衝動に駆られる俺の心境をこの天使は理解出来ない。それに、羽を繕って欲しいと言った傍から身に付けていた上着を脱ぎ捨ててしまう彼女に何度溜息を吐いたのかは覚えていない。リンの気まぐれで始まる毛繕い、もとい羽繕いは俺にとっては酷い苦行だ。
本音では引き千切ってしまいたいモノに丁寧に触れて、恋しい相手が晒している上半身に触れることも許されない。これなら数時間、男たちを相手に連戦し続けた方がマシだとすら思う数分を強いられている。
「そんなに抜くのが嫌なら断ればいいじゃん」
「そういう話じゃないってのは何度も言ったはずだ」
「興奮するんでしょ? バクバクしてるの聞こえてるから分かるよ」
「……ならわざわざ聞くな」
くすくすと揶揄うように笑うリンの翼からワザと一枚だけ抜けにくい物を引き抜けばぷつりと小さな音がする。それと同時に聞こえる小さな吐息に甘い音が混ざっていて頭の芯がぼんやりと熱くなる。
細い肩へ手を伸ばして、押し倒してしまえばいい。体の下に彼女を閉じ込めて、翼へ手をかけてしまえばいい。跳ねる体を感じるために翼の間へ手を添えて、押さえたまま引き千切って、白い天使の肌へ触れて、奥まで俺と同じにして、引っ張って、堕として……
「っ……はぁ……はぁ」
「ふふっ」
ひたりと両頬に触れる細い手と膝の上へ乗ってくる柔らかい感触。小さく笑うリンは俺の頬を撫でながら嬉しそうに目元を緩めていた。
「ライトさんって本当に私のことが好きなんだね」
「……」
頭の奥を激しく乱されて荒くしていた息を飲み込んだ。俺の考えていることの全部を覗き見ても理解をしていないはずの「好き」で纏めた彼女のことが好きで好きで堪らない。だから……だからこそ、煽るように寄せられる体も、見せつけるように広がる白も――俺から汚すような真似はしない。
「リン」
首裏へ回されていた彼女の腕に手を伸ばした。掴んだ手首は細くてキスを落とした指の先まで白い相手を見つめれば、天使は綺麗な目を丸く見開いた。
「あんまり人間を舐めるなよ、天使様?」
「ッ!」
「俺はあんたを、俺と同じにしたい」
――あんたはこの俺に恋をするんだ。
多くの人間に向ける愛じゃなくて、俺だけを欲しがってくれ。もし、この願いが叶うなら翼へ触れる苦行も苦じゃない。首筋に汗が伝うほど焦がれる想いも、喉の乾きにも耐えられる。
そんな想いを全て込めてぎゅっと手を握ればぽかんとしていたリンの真っ白い翼が突然ばさりと音を立てて広がった。視界いっぱいに広がる白と、珍しい大きな音に今度は俺の方が目を見開いてしまった。だから、そんな白い世界の中で顔を逸らした天使の頬と耳が――真っ赤になっているのも良く見えた。
「そ、そういうのはよく分かんない。よく分かんない……けど、あなたのそーいう所はかっこいいと思うな」
「!?」
「うん、かっこいいと思うよ」
初めて見るへにゃりとした笑顔を前に動揺する俺へすっと伸びをするみたいに体を寄せた天使が贈ってきたキスからはいつもの温かい感じがしない。ぐるぐると回り続ける思考を晴らすこともなく、ただぴったりと触れたソレにどうしようもない喜びが胸を満たした。
「……ははっ!」
小柄な彼女を抱き締めたまま笑ってシーツへ仰向けへ倒れれば、体に乗っかる天使はよく見るキョトンとした顔をしていた。そんな彼女へ額を寄せて「ありがとう」と呟けばリンはもう一度へにゃへにゃと笑っていた。
いつかきっと、俺は天使の白い翼を引き千切る。でも、そうするのは彼女へ痛みを与えたいからでも……恨みからでもなく――リンと二人で恋をするためだ。
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