syake3
2025-07-09 22:27:53
26763文字
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羽化は暗い夜の内

記憶喪失の少女が森の中で一人の魔導師に出会う話

 気が付けば森の中にいた。

「あれ……?」

 溺れてしまいそうなほどに暗い夜闇の中を、月明かりに照らされた小道が一本。
 ふと気が付けば、私はそんな場所に一人立っていた。
 《……え。何これ。ここ、どこ……?》
 見覚えなどまるでない場所だ。小道の脇にはただただ背の高い樹々が打ち寄せる波のごとくひしめき合っていて、ここが何処かの森の中であることだけは知れる。夜の帳に覆われたその全容は朧げだが、時折吹き付ける風が森の枝葉を揺らせば、大きな怪物がもろ手を上げて迫ってくるようで酷く恐ろしかった。
 無意識に一歩後退すれば、擦れた砂利の音が妙に大きく響く。動物の声すらしない。
 辺りは風のざわめき以外は重い静寂に満ちていて、見知っているものは天上で煌々と輝く月のみだ。

 ええっと……困ったな、私、何してたんだっけ……

 頬を掠める風に肩を震わせて、小さな破裂音を一つ。終わりの頃とはいえまだ熱孕む夏の支配下にあるというのに、この風の鋭さといったら冬のそれに近い。……森ではあるが、ひょっとしたら山側の森なのかもしれない。もしくは標高の高い場所なのか。
 震える両腕を抱えて、怪しく騒めく森の影を避けるように小道の中央に移動する。あまりに寒い。身に付けているものといえば、何度も補修した跡が残る洗い晒しのワンピースただ一枚だ。いつも出掛けるなら裕福な村長一家から誕生日に贈られた一張羅のローブを身につけるというのに、何故こんな恥ずかしい格好で外に出ているのだろうか。おまけに靴も昔父が作ってくれた木彫りのボロ靴だ。重くて硬い木靴など砂利の道を歩くには到底向かないし、小道は若干傾斜がかかっているように見える。……こんな靴でどこまで続くとも分からぬ砂利の坂道を歩けというのか。

……あっ!」

 気落ちして俯いていれば、月明かりで照らされた砂利の隙間に、規則正しい直線の跡を見つけた。
 それは轍の跡だった。それも、比較的新しい。
 馬車が通る道ということは、運が良ければ荷台に乗せてもらえるかもしれない。そしてここが一体どこなのか、教えてもらえるかもしれない――思わず喜びの声を漏らした、その時だった。

「何かイイ物でも見つけました?」

 耳触りの良い低音が静寂の世界に響いた。

 驚いて声がした方を見上げれば、いつの間にか隣に男が立っていた。
 森の影と同じ程に黒いフードを目深に被った男は、こちらを覗き込むように見下ろしていた。驚きのまま返事も出来ずに固まっていれば、男は歌うように美しい声で続けた。

――ああ、これはすみません。随分と驚かせてしまったようで。妹にもよく怒られるんですよ、お兄様はいつも神出鬼没で困ります!って。ノックはいつもしているんですけど。でもまあここは野外ですから。ふふっ、ご容赦くださいねぇ」

 自身の身長が小柄なこともあるが、随分と上背のある男だ――常ならば人の気配がない森の小道で、それも知らない場所で大男と二人など恐怖でしかない。しかし。釘付けられたように男を見上げたまま、硬く閉ざされていた筈の口の力が抜けて、間抜けにも開きっぱなしになってしまうのはどうしてだろうか?
 《うわぁ……
 目深に被ったフードの下、目元はよく見えないがハッとする程に涼やかな鼻筋と、弧を描く愛嬌に満ちた薄い唇。月明かりで照らされているのはたったそれだけだというのに。それだけしか見えないというのに。
 逃げ出せる筈がない――目が離せない。
 降り注ぐ月光を背にした男は、驚くほどに美しい容貌をしていた。

「ぁ……あ、の……
「ああ、それにしても今宵は実に良い夜だ。ご覧なさい、この山の森も風も随分と気持ち良さそうに歌っている」
……
「自然が歌うということは、人間には厳しい環境であるということですよ。……見るからに可憐なお嬢さんが一人、こんな場所で一体何をしているんですか?」

 どこか芝居がかった口ぶりは、この状況を心底楽しんでいるようにも感じられる。こちらの狼狽ぶりなどまるでお構いなく、随分と遠慮のない男だ。
 少しおかしな人なのかもしれない――いや、果たして人なのだろうか?
 あまりにも美しく感じる存在は人以外の怪異、それこそ恐ろしい鬼族や人間に害をもたらす妖精が化けている場合があるとも聞く。決して油断してはならない。
 それに今回は私も村長から――
 《……あれ?》
 冷たい風に晒されて、かじかむ指を擦り合わせていた手が止まる。
 今……何か、……

「おや。考え込む程の内容でした?さっきの質問」

 ぼんやりと考えごとをしていれば、不意にこちらをにこやかに覗き込む視線に気が付いて、ヒッと小さな悲鳴を上げて肩を震わせる。
 思わず一歩下がれば、鼠を追い詰める猫の如く同じだけ詰められた。砂利を踏み締める音が、古びた木靴の下で苦しげに響く。

「ぁ、あの、……わ、私!おかしなことを言うようで恥ずかしいのですが、……何で自分がここに居るのか、その、さっぱり分からなくて……!」
「分からない?こんな深い森の奥で?」
「は、はひ……っ」
「どうやってここに来たのかも?一応行商達が使う正規ルートでもあるようなのでこんな小道が存在しますが、貴女のようなか弱い女性の足では、たどり着くのも難しい山の中腹ですよ、ここ。野盗も当然多いですし」
「はいぃ……というかやっぱりここ、山の中の森なんですね……

 男の冷たい陶器のような頬を掠めてさらりと零れ落ちる長い銀の筋が、月光の輝線ではなく髪だと理解するのに少しばかりの時間が必要だった。……これほどに綺麗な、輝く星色の髪が世の中には存在するのか。枯れ草の根のように硬く荒れた自身の赤毛があまりにも恥ずかしい。発作的に逃げてしまいたくなったが、それもたった一瞬のこと。見たことのない美しさを前に、足は砂地の小道へとうに縫い付けられていた。
 男は私の言葉を聞いて華やかな笑みをわずかに引っ込めると、星色の長い髪を風に遊ばせながら『ふぅん?』と唸って口元に手を置いた。
 蒼白い月明かりの下でも上等な品と分かる白いグローブ……全身をすっぽりと覆う黒いローブも、その下からほの見えるまるで王都の騎士様のような立派な衣服、それに嫌味なほどに長い足を際立たせるロングブーツも、全て村では誰一人として身に付けることなど出来ないような一等品だ。
 ああ、これは。お忍び旅行中のお金持ちか、同じく王都のお貴族様か。何故こんな辺鄙な場所に一人で居るのかは知らないが、それは私も人のことは言えないだろう。
 得体の知れない美しいナニカだった男の輪郭が少しずつ読み取れて、警戒で凝り固まっていた胸中に安堵の心地が広がる。

「そうでしたか、お可哀想に。そんな軽装で森の中をねぇ……きっとどこかの悪い魔導師に唆されて、こんな場所に一人飛ばされてしまったのかもしれませんね。魔力の無い人間が魔術や魔法を浴びると、前後の記憶が混濁することも稀にありますから」
「魔導師……?まさか、まっ、魔法使い様のことですか!?」
「ああ?、随分と古臭……古風な呼び名を使われますね。ここ、アンバース領ですし、ひょっとして西の奇岩地帯の方ですか?山に四方を囲まれたあの」
「えっと、西の……あ、サイベル岩石地のことでしょうか?でしたら、そうです」
「でしょうねぇ。最近では皮肉でしか使われませんよ、その『魔法使い』という名称は。魔導師は気難しい者が多いですから、あまり使うことはお勧めしません」
「そ、そうなんですか?……えっと、仰る通り山に囲まれた田舎の村の者なので、魔ほ、魔導師様にお会いする機会なんて、残念ながらなくて……あの。貴方は、その、……ここで何をなさっているんですか?」
「おや、では俺は貴女が出逢った最初の魔導師という訳なんですねぇ。ふふ、俺はカロワイトといいます。フリーの魔導師ですよ」
「魔導師様!?」
「はいそうです。アンバースに拠点を置いているので、転移魔法で帰還しようとしたら時空軸の嵐に遭いまして。何処かで力ある高次生命体……神が暴れでもしているんですかねぇ、巻き込まれてこんな何も無い辺鄙な場所に飛ばされてしまいました。で。貴女を見つけまして、声を掛けた次第です」
「そうだったのですか……。あっ、申し遅れました。カロワイトさん、私は西領ゼルマ村のメ」

 名乗ろうとすればそっと唇に長い人差し指が立てられる。
 森の清涼な風に混じって、薄らと香水のような匂いが鼻を掠めた。

「身を守る手段を持たぬ者が魔導師に易々と名を名乗ってはいけません。……俺みたいな身元の知れない野良魔導師には特にね」

 そう男が囁くのと同時に、人差し指はゆっくりと離れていく。冷たい風が吹いて一瞬だけ捲れ上がったローブの奥には、好奇心に満ちた宝石のような赤い瞳が私を見下ろしていた。
 ……今が夜で本当に良かった。いや、状況的には良くないのだけれど。
 熱を帯びて茹で上がる頬を赤毛で隠す。果たして魔導師とは皆これほどに美しいものなのだろうか?村の男達はおろか、村一番美しい村長の娘でも彼の足元にすら到底及ばないだろう。
 《やだ。どきどきしてきちゃった……
 男は俯いてしまった私に何を言うわけでもなく、『送って差し上げたいところなのですが、残念ながら嵐はまだ続いているようです。一先ずは歩きましょう?あまり一所に止まるのは野盗も獣も引き付ける』と、どこか楽しそうに言って、森の影に溶け込んでしまいそうな黒いローブをひるがえして当然のように隣を歩き始めた。……こちらとしても頼りになりそうな魔導師が隣に居るのは心強い。得体が知れないのは変わらないが、それでもこんな夜の森の中で話が出来る相手が隣に在ることは有難かった。
 《……あれ?ちょっと待って……?さっきの口ぶりからするとこの人、……何とかいう嵐?が治ったら、私を送ってくれる気があるんだ!?》
 ――た、助かる……!! 
 わぁっ、とみっともなく歓声を上げてしまいたくなる気持ちを必死に抑えて、自身も砂利道へ一歩踏み出す。何故こんな場所にいるのかさっぱり分からない、そんな異常な事態――その上野盗や獣がはびこる山の中で一人など、不安で押し潰されそうだったのだ。突然現れた見知らぬ男のことなど、普段ならば信じることはなかっただろうが、しかし今の自分にとってその存在は希望の光が灯されるようだった。

 轍の跡を頼りに、夜の小道を歩き出す。

 男――カロワイトは気遣ってくれているのか、それとも元来の話し好きなのか、今置かれている状況には似つかわしくない、暢気な四方山話をあれそれと話してくれた。曰く、彼には沢山の兄弟がおり、自分はその次男で、私と同じ年頃の妹が居るらしい。
 陽気に笑ってはいるが、よく見ればその笑みが作り物めいているのが分かる。頬を掠める冷たい風と同じ印象を残す男だったが、兄弟のことを話す時だけは柔らかな微笑みを見せていた。

「残念ながら博愛主義とは程遠い性格なもので、いつもならば放置するんですけどねぇ。あなたが妹と同じ年頃なので、つい声をかけてしまいました」
「ふふ。じゃあ私、ある意味運が良かったのですね。……はぁ、それにしても何も覚えていないだなんて、本当にどうしてかしら……?怪我はないし、事故で頭を打ったって訳でもないでしょうし……
……いいえ?覚えていたでしょう。サイベル岩石地、西領ゼルマ村。あなたの故郷。あなたが住まう場所。大丈夫、夜は長いのですから、お喋りでもしている内にきっと思い出しますよ」

 鼻歌でも歌いだしそうな暢気さで男は笑う。他人事だと思って、と怒る気にもならなかった。月明かりだけが頼りの暗い森の中で、風に星色の髪を流しながら歩くだけで小憎らしいほど様になっている。目の保養だな、と風に踊る森の影を横目に轍の跡を追う。
 カロワイトは小柄な私の歩幅に合わせて歩いてくれていた。
 そんな些細なことが、妙にくすぐったい。

――で、そういう事情もあって魔導師は意外と物の精製にも長けているんですね。おそらくその鉈も魔具で間違いないですよ」
「しっ、知らなかったです!村長さんが持っていた鉈は魔具?というものだったんですね。少し押すだけで硬い木も岩もペルポッポみたいにプニュッと切ってしまうから、ずっと不思議に思ってました……!」
「もし魔具が手に入るようなことがあれば、必要なければ売ってしまうことをオススメしますよ!どのような三流が精製した粗悪品でも、何故か欲しがる者が多いので高値で売れるんです。楽して一儲け、良いと思いませんか…………ところでペルポッポとは何です?プニュ?」
「あ、そういう柔らかいお菓子があって、……えっと、なんて言えばいいのかな……
「スペルは?語感からしてアンバースでは珍しくライル語圏の菓子ですよね。うーん、あの圏内で俺の知らない菓子があったとは……リーちゃんに食べさせてあげたいな」
「あ……

 静かな夜道をざくざくと砂利を踏み締めながら進む。
 どこまでも真っ直ぐな森の小道も、幾つもの轍の跡も、道を囲む騒めく森の影も、まるで途切れることなく続いている。
 男との会話もだ。
 私はいつの間にか、カロワイトとの会話に夢中になっていた。
 魔導師というのは皆こんなにもお喋りなのだろうか?しかし不愉快というわけでは決してない。カロワイトの話はとても面白かった。田舎の閉ざされた世界に住む私には、彼の紡ぐ言葉はきらきらと輝く宝石のように鮮やかで魅力的だった。

「成程……あなたの村では学舎に通えるのは村の有力者たる家柄の子息子女達と、他は家長となる子息達だけ、と。地方ではまだよくあることと聞きますが……この森、なんだかカビ臭くないです?サイベル岩石地帯周辺はスノ語圏だった筈ですが、母国の文字も教わらないのですか?」
「はい。だからごめんなさい、ペルポッポがどういう字なのか分からないです……そういえばカロワイトさんはこの辺の方ではないのに、スノビオ語がすごくお上手ですよね?私より丁寧な言葉使いなんだもの、びっくりしちゃった」
「職業柄世界中を飛び回ることが多いので、まあそれなりに。……しかしそうですか、残念です。うーん……家長の父親も教えてくれないんですか?」
「はい。うちも兄弟が沢山いるんですが、父は一番上の兄以外は文字を覚える必要がないって。一度兄が読んでいた本を触ろうとして、こっ酷く叱られちゃいました。……でも数字くらいなら私でも分かりますし、村では文字なんかなくっても買い物だって自由に出来るんですよ!だから不便は全然してないです」
「へぇ?そうなんですか。……俺の勘ですけど、ひょっとして買い物って物々交換のコトです?」
……?違うんですか?国からの配給品は貴重なので、やっぱり中々交換してもらえませんけどね。……よく分からないですけど、文字って外ではそんなに大切なんですか?」

 おかしなことを言う男だ。
 思わず隣を振り返って見れば、男は相変わらず目深に被ったローブの下で、人好きのする華やかな笑みを深めた。

「ええ、それはもう。……しかし数字を理解しているなら良かったです。ふふ、一儲けチャンスはありますね!人間は好きでしょう?そういうの」
「ひともうけ?……その、よく分からないですけど、男の人達が立ち話でそういう話をしてるのは聞いたことあります。村長さんとか!」
「おやおや、絵に描いたような村長さんですねえ。……ああ。あとはまあ、そうですね。文字の必要性ですが、読書は良いですよ。いいえ、本だけではない。学ぶということは武器です。先にお話しした魔具などよりずっと鋭い武器になる。いつか村を出る機会がありましたら、是非文字を学んで本でも読んでみてくださいねぇ」
……え?」
「うん?」

 ピュウ、と音を立ててすり抜けていった夜風が、悪戯にワンピースの裾をはためかせる。
 地面に映る背の高い大きな影と小柄な影。延々と続く小道の先は、月明かりすら届かぬ夜闇で覆われていた。
 《……村を出る?》
 高揚した気分の中に一瞬にして立ち込めた妙な薄ら寒さが、重い木靴を履いた足を止めさせる。……そんなこと、考えたこともなかった。
 考えたこともなかったし、有り得ないだろう。故郷を捨てて出て行くなど。そんなことは大切に慈しんでくれた村の人々への裏切りだ。
 険しい山々に囲まれた私の村は、人の出入りが殆どないに等しい。
 誰かが訪れたとしても、数年に一度村へ視察にやって来る王都の役人と護衛の騎士、そして月に一度国からの配給物資を持って来る行商くらいなものだ。旅人も稀に訪れることはあるが、余程のお金持ちでないと村長達は外の人間を村に立ち入れることはなかった。……そういえば村長の鉈も私が貰ったあの大切な一張羅のローブも、数代前の村長が旅人から宿泊の対価として貰ったものだと聞いたことがある。
 村はあまり豊かではないが、その分繋がりが強く誰もが助け合っていた。
 《なんでそんなこと言うの……?》
 村の中で生まれ、村の中で育ち、村の誰かと結ばれ子を産み育てる。
 皆そうやって生きている。それが一番自然で幸せなのに、この美しい男は何をおかしなことを言っているのだろうか。
 やっぱり村長さんや助役の方々がいつも私達に話してくださっていた通り、外の人というのは野蛮で私達の生活を軽んじる人達なのかもしれない――歩きながら楽しくお喋りしていた筈なのに。足元の石をじっと見つめながら、なんとか隣の男の機嫌を取る言葉を探す。
 僅かに浮き足立っていた心に、理由のない落胆がじわりと墨のように滲んだ。

…………そんな機会、あるんでしょうか」
「ありますね?世の中に道が存在する限りありますよ。ほら、こんな辺鄙な山中の森でさえ道がある。何処へでも行けるんですよ。あなたがその気になればの話ですが」
……
「因みに今俺達が歩いている方角は東――セムの月とディオラの陽が昇る方向が東です。この道をこのまま下って行くと……まあ、運良く通りすがりの行商の荷台にでも乗せてもらえたとして、丸一日ほどで麓にある街にたどり着くでしょう。それなりに大きな街ですよ。……ということは?あなたは西領とのことですので、反対側から来たのでしょうねえ」
「え!?」

『引き返します?』

 突然足を止めた私に、男は何の感情も籠らぬ声で尋ねた。先程までは歌うように優美な調子で話していたというのに。
 ――そんなの、帰りたいに決まってる……!!
 慌てて後ろを振り向くものの、月光の淡い照明で夜の帳がそう簡単に剥がれる筈もなく。前も後ろも夜の闇と森の影に閉ざされた一本の道が続くばかりだ。

 その光景にどっと汗が噴き出す。

――汝が    か』

 蒼白い月明かりと、周囲を囲む黒い森。
 気が遠くなるほどに暗く長い一本道。

 闇の中で誰かが言った。
 そう、確かに言ったのだ。
 沢山の何かが、影の中から私を――
 《……なん、だっけ……?何…………
 ざあざあと夜風に揺れる樹々の騒めきの中で、私は縫い付けられたように動けないでいた。
 《私、何でセナーヴァの森に来たんだっけ……?》
 帰りたいのに、帰れない。
 後方に広がる冷たい闇を見つめたまま何故だかそんなことを思って、震えが止まらなかった。

……寒いですか?」
………………いえ、……なんか、急に気分が……あの、すみません。少し、休みたくて、……
「駄目ですよ。うちの妹もそうなんですが、一旦立ち止まるともう動けない!なんて我儘言い出すんですよねぇ。可愛い妹をお姫様抱っこして連れ帰るのは別に構わないのですが、余所のお嬢さんにそれはちょっと俺的に無理……あ、紳士の振る舞いではないなと。ははは。まあそんな些事は置いておいて。獣が寄ってきますから駄目ですよ。弱った獲物の臭いに惹かれてそれはもう、沢山の飢えた獣が寄ってくる。歩きましょう」
……セナーヴァの森は、自警団の皆が、定期的に害獣を駆除、してるから、安全って……
「ん……?地元民にはセナーヴァの森なんて呼ばれているんですか?へぇ?セナーヴァ、セナヴァズ神ですかぁ。成程。大体まあ、うん。……そんなことだろうと思いましたが」
「カロワイトさん……セナヴァズ神様の、こと、知ってるの……?」
「この森の名前、セナーヴァリーア、即ちセナヴァズの踊りから取ったんですかね。お嬢さん知ってます?宵闇に舞う神セナヴァズは世界的にも使われるセナヴ(もう一度)の語源なんですよ。セナヴ!って、喝采と共に叫ぶ声を聞いたことがありませんか?酒の席や祭りの演奏でよく使われる言葉なんですがね。確かに山岳地帯や辺境で崇拝されていることが多いとは聞きますが……ふぅん、俺はエンビア山脈の樹海としか認識がなかったな。面白いね。……ああ、そういえば、そう村の人達が言ってたんです?安全だと」
……はい、……だから、私一人でここに来たんです」
「そうですか。じゃ、はりきって行きましょうか!」

 男は楽しそうにそう笑って言うと、おもむろに私の手を掴んで強引に歩き出した。
 なんて酷い人――そう思いつつも、繋がれた手の大きさに微かな安堵と妙な高鳴りを覚えてしまう。温もりすら感じられぬ白いグローブ越しの手は、優美な見た目によらず硬くて無骨だ。
 蒼白い光に照らされた、無彩色の小道を再び歩き出す。

「気が付いていますか?」
……何がです?」
「いいえ。気が付いていないのでしたら結構。まだ先は長そうですねぇ、楽しくお喋りをしていた方が、やはりあなたには良さそうだ!ああ、でも先程から何やら俺ばかり話しておりますね……?」
「その、私、あなたにお話しできるような楽しい話題は、あんまりなくて……今、少し気分も悪くて……
「楽しい話題でなくても、あなた方の暮らしは興味深いので聞きたいのですけどね。しかし気分が悪いのはよろしくない。うーん、そうですね……
……
「折角セナーヴァの森とやらにいるんです。セナヴァズの歌でも歌いましょうか。流石に彼を讃える聖歌は御免ですので、その辺の子供でも知っている童謡ですが……――

『 蒼き猛き宵闇の風
 踊れや踊れ 今宵とぎれぬ舞の宴
 宵闇のおかた 喜びぬ ああ我ら風に舞う
 翠の風 舞えや (セナヴ!)
 蒼の風 歌えや (セナヴ!)
 夜の風 笑えや (セナヴ!)
 繋げや繋げ 舞の輪繋げ
 鳴らせや鳴らせ 楽の音高く!
 やがて明ける天の輝き その時まで 』

 ザアァアア!!

 美しい歌声が静かな森中に響いて、それに合わせるように枝葉も大手を振って騒めき始める。
 風だ。風が彼の声に呼応している――驚いて息を飲んでいれば、男は繋いでいた手を離すと軽やかに円を描いて舞い始めた。都の者の衣服はかくも見事なものなのか、風に遊ぶローブは二重構造の物だったらしく、漆黒のローブの下から鮮やかな赤いマントが月光の下でひるがえる。大鴉のようにも、咲き誇る大輪の花のようにも見えるその光景は、暗い森の奥に在りながらあまりに神秘的だ。
 《まるで魔法みたい……!ううん、この人は魔導師様だもの。もしかして魔法を使ったの?》
 強い風に煽られてぼさぼさになった赤毛を押さえていると、軽くステップを踏む男から再度強引に手を引かれて、自身も風の中に身を躍らせる。……否、踊らされていた。
 時折ほの見える赤い瞳を細めて笑う男を前にして、まるで夢のようなひと時――いつしか両手を引かれ逆巻く風の中でステップを踏んでいれば、浮いていた脂汗も重苦しい気分も風の中に消えていく。

「あはは、随分と風が喜んでいるようですねえ?夜闇の方は知りませんが。ね、お嬢さん。楽しいでしょう?上手く踊れておりましたよ」
「ひゃっ……あの、この歌……!知ってます!うちの村でもお祭りで子供達と歌って踊ります……っ」
「おやそうなんですか、道理でよく風に乗る。で?あなた方の村ではお祭りで何をするんです?俺達の所では祭りにセナヴァズ神の歌は使われないんですよ。気になりますね」

 繋がれていた両手が外され、夢の終わりが告げられる。
 もう少し繋いでいたかったな、という名残惜しさを何とか隠して、幾分か軽くなった心地のままに砂利道を歩き始める。
 道の先にはまだ何も現れなかった。
 それはそうだろう。
 私が村の荷車から降りた場所は、広大な森の中でもまだ村側に近い場所だった。私の足で約束の場所にたどり着くのは、もっと時間がかかるに違いない。

「その、偶然なんですが、お祭りだったんです。私の村。数日前から村の女の人達みんなで沢山のお祭りのご馳走を作って、男の人達はこの森の木を切って村の広場に簡単な骨組みだけの家を建てて。大騒ぎでした」
「ああ……ひょっとしてグラファイスの極東にある島国の『ヤグラ』みたいなものです?珍妙で好きなんですよね?ボンダンス」
「それで、その骨組みの家に火を放つんですよね」
「違った……
「大きな火を作って、セナヴァズ神様の座とするのです。火は村の役員さん達の持ち回りで三日間のお祭りの間……つまり三日三晩絶やしません。炎の座に座って神様は私達を見ているんです。貴重なお酒や沢山のご馳走も必ず先に炎の前に置かれて、新しい物と入れ替えで下げられてから村のみんなで食べます。……といっても、そんなに豊かな村じゃないので、その、あまり大した物じゃないんですが……
「あなた方がご馳走だと思うのならご馳走なんですよ。ちなみに俺は兄弟達の手作りなら、水みたいなスープでもご馳走ですねぇ」
「そうなんですか。妹さんのことといい、カロワイトさんって兄弟をとても大切にしているんですね。良いなぁ、私もそんなお兄さんが欲しかったな……

 兄さん達、見送ってもくれなかったな……
 ぽつりと足元に向かってつぶやいたものの、隣の男はしっかりと拾ったらしい。
 ほの白く輝くような長い銀糸の髪が、月の光よりも眩しかった。

「そういえばあなたも兄弟が多いと仰っていましたね。仲は良くないんですか?」
……小さい頃は、仲が良かったように思います。私が五年前の誕生日に『神子』に選ばれてから、何だかよそよそしくなってしまって」
「ははぁ、お可哀想に。で?神子とは?」
「村では五年に一度、十歳前後の子供達の中から神子を選ぶんです。選ばれるのは大体は女の子なんですけど、たまに男の子も選ばれます。セナヴァズ神様は若く清らかな神子を好まれるとかで」
「おやおや随分なご趣味で」
「ふふっ懐かしいなぁ。村長から十歳の誕生日に、真っ白で不思議なローブをいただいたんです。何代も前の村長さんが、旅人の方から譲っていただいた物なんだそうで、昔の物なんて思えないくらい綺麗で素敵なローブなんですよ!私の成長に合わせて勝手に裾が長くなりますし、村は篝火を消すと真っ暗になってしまうんですが、このローブは真っ暗闇の中でも白く輝いていて……あれ……?そういえば私、なんで着てないんだろう?村を出る時は確かに着てたんだけどな……どうしよう、なんで、何処に置いて――
「うんうん、夜ばかり活動する根暗な魔導師の中でも派手好きがよく着るやつですよ、ソレ!しかしローブなんてどこにも見かけなかったけどな……ぼろ雑巾みたいな布は落ちていたんですが。……それで?そのローブ、誕生日の贈り物というのは分かったんですが、何だってわざわざ村長さんが他人のあなたに贈ってくれたんです?ひょっとして選ばれし神子さんの象徴だったりします?」
「あ……その、そうです。神子に選ばれると、村長から白いローブをいただくのが習わしなんです。……私が神子に選ばれた日から、家族は『お前は神子様なんだから、私達とは話しちゃならないんだよ』って、みんな私を遠ざけるようになりました」

 歩みが遅くなれば、カロワイトがまた手を引いてくれた。
 その手を離したくなくてぎゅっと力を込めて握り締めれば、応えるように同じだけ握り返される。ハッとして隣に視線を走らせれば、黒いローブからはみ出た形の良い横顔が少しだけ私の方を向いて、口元に華やかな弧を描いてくれた。
 ――彼は私に優しい。
 嬉しくなって、少しだけ歩みが早くなる。
 《ああ……こんな素敵な人と一緒に村へ帰ったら、みんなびっくりするだろうなぁ。それも魔導師様だなんて。ううん、とびきり綺麗な人だもの、神様のお使い様だって大騒ぎになっちゃうかな?》
 森の中腹でお役目を終えたら、彼も一緒に村へ来てくれないだろうか?何かしらの嵐が治まったら村へ送ってくれるような素振りを見せてくれていたが、実は夜が明けたら村の人達が迎えに来てくれる手筈だ。

 その時にカロワイトも一緒に来てくれたら……

「でも、平気です……!その、両親は元々、出来の悪い私のこと、あんまりよく思ってなくて……兄弟達の中で私が一番不器用で、村の料理番も裁縫番も上手くできなくて追い出されるし。……働き手としてはまるで駄目だったから、働くことを特別に免除される神子になれたのは、運が良かったのかもしれません。友達には羨ましがられましたし、上の兄や姉達は見向きもしてくれませんでしたが、下の幼い妹や弟達は淋しいって泣いてくれましたし」
「そうですか。それが五年前から、と。長い間お疲れ様ですね。いえ?労働しなくて良かったのですから幸運?その辺は俺には分かりかねますが……それで、あまり要領が掴めないのですが、神子って結局何をする存在なんですか?」
「あ、話が逸れちゃいましたね。神子は村の年一回だけある祭事、お祭りの時に神様へ捧げるご馳走の毒味役です。一口分だけ先に取り分けてもらって、それを食べてから炎の前に造られた祭壇に置くことと、炎の近くに座ってみんなの踊りを眺めます」
「あー、そんな大義名分を与えてしまったのですか。益々お可哀想に」
「?たいぎ、……?」
「いいえ、何でもありませんよ。それで?まだ何かありません?やはり地方の風習は興味深い」
「お祭り以外で神子の仕事はないんですが、今年は丁度代替わりの五年目。最後のお祭りでは特別なお仕事があるんです。今日は三日目……お祭り最終日の夜ですから、村の火を全て消した後、神子はセナーヴァの森へと深夜に発ちます。険しい山道を歩いて行くのは大変なので、途中までは村を取り締まる村長や助役などの役員の男の人達が荷車を引いて連れて行ってくれます」
……
「お祭りで使う木をいただく時や、害獣退治以外は立ち入り禁止の森なんですけどね。流石に荷車が通れないので、たまに村へ来る行商さん達が使うこの道を使って途中で下ろしてもらいました。本来は神子が森の中央まで一人で歩かなければいけないので……それで、中央に向かっている途中でカロワイトさんに声をかけられたんです。びっくりしました。害獣の駆除はしてるから安全とはいえ、行商さん以外誰も通らない道で、それも深夜に」
「ふふ、そうでしたね。俺もあなたを見つけたときは少しびっくりしましたよ。野盗にでも遭ったのかな?ってね……まあ少し趣が違うようですけど。それで?」
「道を歩き続けて大体森の中央辺りにたどり着いたら、セナヴァズ神様のお使い様が現れるから、指示に従って小道から森の中へ入るように村長から言われました。それがお役目だって。お使い様、どんな方なんでしょうね。ドキドキします」
……

 セナヴァズ神は陽気で人間にも気安いとされる神様だ。そのお使い様もきっとお優しいに違いない――少しばかり興奮気味に話していれば、隣からため息が漏れ聞こえた。
 ……疲れたのだろうか?
 足取りは変わらず軽やかな隣の男に視線を向けるものの、その表情は闇色のフードと銀糸の紗に隠されていて、読み取ることは出来なかった。

……うちのリーちゃんが自立心旺盛なのは、素晴らしいことだったんですねぇ……兄としては寂しいですが……
「カロワイトさん?」
「うーん、お嬢さん。あなたは神子の役割について考えたことがあります?具体的な目的ってなんだと思いますか?」

 今まで穏やかだったカロワイトの声に、微かな鋭さが滲む。
 まるで村の一部の大人達――特に両親のようで、少しだけ身がすくむ。木靴の下の砂利が、歪な音を立てて割れた。
 《私、何か気に障るようなことを言ってしまったのかな……?》
 暗い道の奥から吹き付ける、冷たい夜風が頬を嬲る。……もうだいぶ歩いたような気がするが、そろそろ森の中腹に差し掛かる頃ではないだろうか?
 俯いていれば、男の手が暗闇の中で離れていく。
 温もり始めていた手に、再び冷気がじんわりと滲み始めた。

「神子は神様のお世話係じゃないんですか……?」
「お世話係ねえ……森に入って何のお世話です?」
「森の中に入って、神子として天へお帰りになる神を見送りなさい、と言われました。夜が明けたら村の人達が迎えに来るからって……でも歴代の神子達は、村には戻らずセナヴァズ神様に望まれて共に天へ向かったそうです。美しい衣と特別な加護を与えられて、神様の側仕えとして大切にしてもらえるって……うっとりしちゃいますよね。神子は村の子供達の憧れなんです」
……
「でも、私にはそんなの、神様になんてきっと望まれないだろうから…………あの、カロワイトさん。……夜明けになったら、村から迎えが来るんです。その……良かったら、一緒に村へ――きゃっ!?」

「止まって」

 長い長い銀糸が、天幕のように私を包み込んでいる――力強い腕に後ろから抱き竦められて、息を呑んだ。
 どうして、何故。いつの間に後ろに、と思うのと同時に、心臓が早鐘のように脈打って恥ずかしい。若い男の人に、それもこんなにも美しい人に抱き締められるのは初めてだった。年嵩の役員の男性達は『家族と話せなくて淋しいだろう』と、傍に置いて抱き締めてくれたり慰めてくれたが、役員以外は神子には接触出来ないとして、村の人達には常に避けられていたのだから。

「カ、カロワイトさ…………!」
「まあ最初から大体察しておりましたが。深夜に山中の森を一人で歩く女なんて、どんな事情であれ帰れないものですよ」

 無感動な声が独り言のように囁いた。……一体どうしたというのだろうか?
 この鼓動も背中伝いに知られていると思えば、頬は一気に赤く茹で上がってしまう。
 小道に落ちる影は重なっていて、背の高い男の影の中に私はすっかり溶けて消えてしまっている。グローブから感じたあの香水の良い匂いが鼻をくすぐれば、くらりと目眩がした。
 抱き竦めていた腕がゆっくりと離れて、今度は為すがままになっている私の手首を取る。

「哀れなお嬢さん。あなたの敗因は、思考の放棄です。流されるだけ、ぼんやりと見ているだけだなんて。恐らく仕事が上手くいかなかったのも、そういった性質のせいでは?」
……え?」

『メルニー、動くな』

 頭上で男の声が低く響いたと思うのと同時に、全身が縛り付けられたように動けなくなる。
 《えっ、やだ……なに、これ!?それに何で私の名前……!!》
 驚いてもがこうとするものの、びくともしない――そんな私を嘲笑うように、男は背後から愉しげに『大丈夫。俺はあなたみたいな田舎の小娘に悪さしようなどとは思いませんよ。……俺はね』と耳元で囁く。
 柔らかな銀糸がさらさらと近くで流れて、まるで清らかな滝のようだった。

「すみませんねぇ。俺クラスの魔導師になると、名乗られなくても眼を見れば真名が分かってしまうんです。そんなモノに出逢ってしまって、あなたときたら本当に運が無い。お可哀想に!ははっ」
……
「五年も間があったのに、何かおかしいとは思わなかったのですか?豊かではない村で、兄弟が多く如何にも粗末な服を着た、働き手の頭数にも入らない出来損ないの子供。そんな身の上なのに、突然『神子』という特別な役柄を誕生日に得る。選考基準が謎に満ちていますねぇ?」

 酷く優しい、柔らかな声が耳元で囁かれる。
 俯いたまま固まった視界の先で、父が昔作ってくれた傷まみれの木靴が月光に照らされていた。

「別に神の声を聴くだの、特別な巫者の力を持ち合わせていた訳ではないのでしょう?そんなものがあれば、たまに訪れるとかいう王都の役人とやらが見逃しませんよねぇ。アンバース領は魔導の素質を持つ者に対して排他的ですから」
…………
「他の村人と違って労働は免除、神子の仕事は年に一度の祭りの時だけ、それも毒味役と踊りを見る係でしたっけ?――少し物を考えられる娘でしたら、直ぐに違和感に気が付くでしょう。厳しい村の環境下にあって、あまりに楽過ぎる、自分の立場が曖昧過ぎる、と。加えて神子が神に望まれて共に天へ?高次生命体が人間を望む時など、大体はただの贄ですよ。神子は死に役、だから貧しいのに労働を免除される。清々しいほど自己満足的な贖罪ですねえ!……なぁんて、俺のただの憶測ですよ?……ですがそう考えることは、出来ませんか?」
……っ、……

「でもねぇ……申し訳ないのですが、もっと悪いお知らせがあるんです。メルニー嬢」

 ボロボロとひっきりなしに零れ落ちる涙を、背後の美しい化け物が優しく指先で拭い取る。
 幼子をあやすような穏やかな手付きで、それはこの化け物が言葉の通り、自身の可愛い妹とやらを慈しんできたことを伺えた。
 ……私も、そうしてきたから。
 私と話せないことが淋しいと言って泣いてくれた、愛しい弟妹達の温かな涙を拭ってきたから。

――ああ、ほら。顔を上げて前を向きなさい。『セナヴァズ神様のお使い様』とやらがいらっしゃいましたよ」

 俯いて涙を落としていれば、自分の意思とは関係なく顔を上げて前方を向いてしまう。……まるで男の操り人形だった。
 涙で歪む視界の先。暗い、先の見えない道の奥から、複数の人影がこちらへやって来るのが見える。
 まだ遥かに遠い。蒼白い月明かりを浴びて、沢山の影が不気味に蠢いていた。

……セナヴァズ神って、享楽的で残酷な別側面があるってご存知です?悪神エンバっていうんですけど、召喚陣が二柱とも全く同じなので同一神だと少し前に割れたんです。召喚士界隈では有名な話ですが、一般的にはあまり知られていません。政を担う者達は別ですが」
…………
「セナヴァズ神の悪口を言うなって?ええ、勿論言いませんよ、そんな不敬なこと。事実を述べているだけです。何故なら本神も認めていたそうですからねぇ、ちょっと遊びが過ぎたって。……ああ、すみません、兄が少し特殊なものでして。セナヴァズ神とは昔馴染みの仲良しさんなんですって。ま、高次生命体から見れば人間の生き死にに関わることなど、所詮『お遊び』の内なんです。でも人間側としては堪ったものではないでしょう?だから別側面を持つセナヴァズ神を讃える歌などは、都市部の大きな祭りなどからは密かに外されているんです。何かの加減でエンバ神の顔を見せられたら困りますからね。夜祭りにぴったりな陽気なお方なんですが……地方ではまだまだ人気のようですけど」

 影の群れは刻一刻と近づいて来る。
 私はそれを、震えることも許されずじっと眺めていた。

 ……私は。
 アレらを、知っている。

「セナヴァズ神はねぇ……歌や舞を好む陽気な性質ですが、その実潔癖なお方だそうです。人間が自分をダシに悪さをすると、つい残酷なエンバ神にすり替わって遊んでしまうと、そうも仰っていたそうですよ。つまりエンバ神を成り立たせてしまうような、悪い行いをする信仰者が世の中にいるということです。ああ恐ろしい!実に怖いですよねぇ、一体どこの誰なんでしょうねぇ、そんな神をも恐れぬ行為をする不届者どもは。おっと?そういえば信仰は地方に多いらしいですね!そう、娯楽の少ない、こんな辺鄙な土地なんて特に。……娯楽が無いというのは、存外危険なんですよ?暇は人間を狂わせるには十分な理由ですから」

 背後の男が私の両手を腹の前で組ませ、その上から自身の両手で包み込む。
 手のひらの中に、硬い感触があった。涙でぐちゃぐちゃになったみっともない顔は、相変わらず前方を向いたままで、手元を見ることすら出来やしない。しかし先ほどの動きからして、恐らくはカロワイトが何かを自分に持たせたのであろうことは知れる。
 《なんで……なんで……!!》
 前方からくる一団は、獣の皮を身に付けているのが遠目に見えた。
 手には――大きな、鉈。
 鋭い鎌。斧を持っている者もいる。

……実は俺、時空軸の嵐に遭ってこの山道に飛ばされた時、嵐が治まるまで暇潰しにその辺を散策していたんですよ。酷い目に遭いましたが、何か珍しい薬草でも生えていたら、不運の埋め合わせには十分じゃないですか?あまり用の無い地域ですし、幾らか浮き足立って山道から森の中に入ったんですけどねぇ……おかげで変なモノを見つけてしまったんです。全く、今日はついていない」

 ザリッザリッと、砂利を重く踏みしめる複数の音がわずかに届き始める。
 背後の美しい化け物は私の重ねた両手を握りしめたまま、世間話でもするような呑気さで話を続けた。

「最初は肉塊だなーとしか思いませんでしたよ。奥深い山の中ですから、そんな小妖が生まれることもあるでしょう。まあよく見たら見覚えのある手足が生えていて、肉塊がただの素っ裸の人間だと判ったんですが。……それは酷い有様でしたよ。聞きたいですか?その肉塊もとい人間の話」

 獣の皮に、奇妙な面を付けている。
 それは恐ろしい、化け物の集団が目の前に迫っている。
 『メルニー?俺の話、聞きたい?首を振るか頷くかしてくださいね。無視をされると悲しいな』
 酷く甘ったるい、優しい声が耳元で響いて、私を恐怖の渦から正気へと呼び戻した。
 聞きたくない――微かに動くことを許された首を必死に振って、明確な返事をした筈なのに、男は吐息が触れる距離でにこりと微笑みを返した。

「うんうん、そうですかぁ。あなたは素直で良い娘ですね?では教えて差し上げましょう。……顔は散々殴られて、人相も何も判ったモノじゃない有様でしたよ。全身痣と傷と、何だかよく分からない汚らしい体液でまみれていて、特に下半身は――ふふ、酷い嬲られ方をされたんでしょうね。血の海でした。臀部からはらわたまで飛び出していましたよ?全く人間のやることといったら。獣と変わりない、いいえ、肉を食らって循環させる獣の方がまだマシかもしれませんね。だから俺も最初に見た時は、もう生きてはいないだろうと思ったんですよ。凄まじい瘴気と穢れに満ちていて、相当怨んで果てたのだろうなと。気分が悪いですし、近寄りたくはなかったのですが、……この森がずっと泣いていたので」

 一際大きく、森がざわめく。
 逆巻く風が、背後の男を包み込むように流れていった。
 きらきらと輝く星色の髪が風に舞って、私の頬を掠める。

「だから非常に面倒臭くて不本意で不愉快でしたが、仕方なくその肉塊を弔おうと思ったんです。こういうの、例の極東の島国では、イチニチイチゼンとか言うらしいですよ。カウント制の善意なんて、明らかな偽善ですよねえ~。ですが近付いてみたらなんとその肉塊、まだ生きていたんですよ!まあ虫の息でしたけど。いや、素晴らしいですね。生き汚いというのはとても良い!俺もか弱い方の弟と妹には常々躾ているんですよ、汚泥を啜ってでも生き残れと。生き残ったら後のことは全てこの兄に任せておけば良い……何とでもなりますよ、生きてさえいれば。……それで、別に俺はその肉塊に対して何の縁もゆかりもない身の上な訳ですが、まあ見た感じ妹と年頃が同じ娘のようですし、酷い有様でもまだ生きていたその根性に敬意を表して、少しばかり兄心を分けてやることにしました。人間の所業などどうでも良いのですが、優しい森が泣くのは可哀想ですしね。――さあ、メルニー嬢」

『自由です』

 男の声がそう重く響くと、体を縛めていたナニカがふわりと外れて、唐突に体の自由が舞い戻る。
 途端にガタガタと盛大に震えだす手の中には、拳二つ分ほどの長さの刃渡りに、鈍い色で輝く鉱石製の持ち手がついたナイフが握られていた。
 全体に不気味な曲線とギザギザとした刃が付いたそれは、見るからに攻撃的だ。
 私がナイフに慄いてカロワイトの方を振り返ろうとすれば、背後から伸びて来た手が容赦なく後頭部をわし掴んで、捻るように前を向かされてしまう。
 姿は見えないが、何の感情もない冷えた声が背後から応える。

「馬鹿者。敵を前にしてよそ見とは何事ですか。……ほら、もう来ますよ。構えなさい」


――汝が不忠なる神子か」

 異形の一団は、十歩ほど離れた場所で立ち止まった。
 不忠。不忠とはなんだろうか?
 私が一体何をしたというのだろうか――何を模したのか判らない奇妙な形をした面は、明らかに怒りを表した化粧が施されている。目の部分にのみ丸い穴がぽっかりと開いていて、月の光すら吸い込むような闇がそこに在った。

「その白く輝く衣。まさしく不忠なる神子の物!」
『ああ可愛いメルニ!木こりのジョイルの娘よ、お誕生日おめでとう。此度の神子はお前で決まりだ。役員会でも珍しく満場一致だったよ。さあこれをあげよう。これは大事な神子のローブ。どこへ行くにもこれを身に着けているんだよ?神様の目印になって、お前をきっと守ってくれる』

「我らが主の祭事に捧げられる筈の神饌へ手を付け、供物を穢した冒涜!」
『ほら、これお前の好物だっただろう。毒味分だが多めに取り分けてやるから先に食っちまえよ。なぁに、こんなに沢山あるんだ。お前がいくら可愛い神子でも、そんなに痩せっぽちじゃあ神様だってつまらなく思うだろう?男神だから特になァ……あ、アレも美味いな。こっちも多めにしてやる。嬉しいか?他の奴らには内緒だぞ』

「只人が我らが神の炎の隣に座する不敬!」
『神子が座る場所は炎の隣、即ち神様のお隣だ。特等席だなぁメルニ!村の女共が皆お前を羨んであれこれ言っているみたいだが、気にすることはない。お前は我々が選んだ特別な子なのだからね』

「我らが神の供物たる踊りまでも己が特権の如く盗み見た無礼」
『あの娘の踊りをしっかり見ておきなさい。あの娘の踊りは村一番さね。ご覧あのしなやかで艶めかしい動きを……今は幼いお前も、代替わりの年にはあのような娘になっているのかもしれないね?さあ良く見て、あのようになれるよう頑張りなさい』

「これを不忠と言わず、何と言う!!」
『ああ、お前は本当に良い子だ。俺達の言いつけをきちんと守る。前の神子は途中で御役目から逃げ出そうとした悪い娘だった。……きっとお前は良い神子になるだろうね、可愛いメルニーや』

どこかで聞き覚えのある声が、次々に叫ぶ。

 《嘘、うそ、そんな……っ私、そんなつもりじゃ……!!》
 喉がカラカラに乾いて反論の声すら出せない。森の影と同じほどに重い気配を宿した異形達は、混乱する私の前で未だに何事かを叫んで責め立てる。責め立てるが、混乱する脳が彼らの言葉をこれ以上理解することを拒んでいた。
 異形の一人が斧を持った腕を振り上げて、濁った何かを叫ぶ。
 ……どういうこと?
 何で?
 何で。何で何で何で!!私は。私はいつだってみんなの言う通りにしてきただけなのに、神様の為にきちんと神子のお勤めを果たしただけなのに……!!
 《どうしてこんなことに……!!》
 獣のような怒鳴り声が、耳の中で大きくこだまする。ぶるぶると震える手の中にあるナイフの柄が、異様に熱を持ち始めていた。

「あ~何度聞いても神饌に毒味役なんてナンセンスですよねぇ……はぁ、ギャンギャンと喧しい遠吠えだよ。どいつもこいつも欲を垂れ流した醜い獣の顔で、寄ってたかって無知な女を責め立てて。みっともないといったらない……ねえお嬢さん。そう思いませんか?」

 恐怖のあまり肩で荒い呼吸を何度も繰り返す私を宥めるように、背後の化け物が囁く。

「おや、見てください、あの左端の品性の欠片も無い奇面が持っている物。アレがあなたのローブです?ふうん、本当に勘違い根暗がよく身に着ける発光ローブだ。ギラギラしてますねえ、どこの魔導師が何の用でこんな辺鄙な場所にやって来たんだか」
「なんっ……で、あた、あたしのっ、ろぶ……っ!」
「はーい落ち着いて~深呼吸深呼吸~そのようでは勝てるものも勝てませんよ。あなたの『記憶』が濁っていてあまり聞き取れなかったんですが、まず最初にあのローブを奪い取られたみたいですね。多分ですけどアレ、無傷で回収して代々使い回しているんじゃないですか?……だとしたら一定以上の大人は役員以外もグルかな。気が付かない筈がない」
「わた、わたしの……っ、……っっ!!」
「おやおや聞いていませんねえ、困った娘だ。アレも売ったら中々の値になりますよと助言しておきますね。破ったり汚さないようにお気をつけて!……おっ、イイ感じに下卑た笑いが漏れ始めておりますね~、五年もの間育つのを待ちに待った玩具を前にして理性が保たないのかな?盛りのついた駄犬と変わりませんねぇ、あははは。……お嬢さん、大丈夫ですよ。『今の』あなたには俺がついています」

「何を呆けている、不忠なる神子よ!!汝が自ら我らの元へ投降出来ぬというのならば、我らは武力を以てそなたを征する……覚悟!!」

 微かな嘲りを含んだ怒声を合図に、毛皮を纏った数人の影が武器を構えてこちらへにじり寄り始めた。
 ひっ、と息を飲むのと同時に、手の中のナイフが眩い閃光を放って体の周りに光の陣を映し出す。驚いて反射的にナイフを投げ捨てようとしたものの、いつの間にかナイフの柄と両手が同化したように張り付いて離れない。
 目の前の異形達はまるでこの光が見えないかのように、変わらぬ足取りで臆せず進んでくる。
 指の先から体に向かって、蜘蛛の巣のような無数の赤い光の線が全身を駆け巡る――その瞬間だった。

 ザシュッ!!

「うわ゛ああああ!!!」
「ひぃい!!」

 手に吸い付いて離れなくなったナイフを持った私は――……否。『ナイフに支配された』私は、風のように一瞬にして間合いを詰めると、一番近くに来ていた長細い面を被ったお使い様の首を斬り落としていた。
 呆然として目を見開く私の顔中に、温かく生臭い花の色が散らされる。

「おめでとうございます!まずはお一人様を冥府へご招待出来ましたね。まだあと十数人おりますよ~頑張って!」
――……ひ、ひあああああ!!やっ、いやっ!……やだ!!あたっ、あたし、お使いさま、ころして……!!」
「はぁ?お使い様?あー……俺、馬鹿って本当嫌いなんですけどね……まあ、うん。しかし俺が作った『恐怖を殺意に変換!精神干渉型自動攻撃ナイフ』の性能はそんなに悪くないようですね?少々初速と感知速度が遅い気がしますが……そこを改良してから、リーちゃん達に持たせましょうか。うーん、思わぬ良いテスターに出会えましたね、僥倖僥倖。それだけでお馬鹿さんでも許せちゃいそうです、お嬢さん。はい!次来ますよ~」

 ギン!!――ザシュッ!!

 力強く横振りされる金属の棒を難なく打ち返して、黒地に青の化粧が施された丸面の首を刎ねる。青白い月明りの中を泥のような飛沫が散って、暗い影の中に消える。
 手が、足が、体が、鈍く輝くナイフに引っ張られるように動いて、羽虫を払うのと変わらない軽い力で相手の武器を簡単に薙ぎ払う。そこには全く私の意思も、私の力も何もなく、ただただ恐怖心が生まれれば生まれるほど、恐ろしいナイフの力が増すことだけは知れた。
 これだけの惨事が展開されていても、一人、また一人と襲い掛かって来る異形の集団に、困惑や戸惑いの様子は見受けられなかった。どれだけ声を張り上げて許しを乞うても、ただただこちらへ殺意を向ける人形のように襲い掛かってきた。
 真っ黒な水溜りの中で、悲鳴を上げながら軽いステップを踏むように攻撃を避ける……避けさせられる。正面からの鉈の一撃と、横からの槍の一撃を寸でのところで避け切って、掠った赤毛の一房が吹き付ける風の中に散った。

 ザアアア……!!

 冷えた風が一層強く吹き荒れて森を揺るがす。私ではない『私』が泣き叫びながら構えたナイフで鋭い一閃を放つと、槍を持った異形の首が重い音をたてて砂利の上に転がった。しかしその次の瞬間には、背後から再度鉈からの凄まじい猛攻に迫られ、鉄臭い水溜りの中を転がるように素早く避ける。
 振り下ろされる恐ろしい鉈に当たっても地獄。当たらなくとも待つのは地獄。
 私は異形の集団の後方でくるくると楽しそうに風と踊っている、美しい化け物へ叫んだ。

「おね、おねがい……!!助けてえぇ……もうやめて、やめてよぉ……!!いやああああ!!」
「おや、髪が少し切れてしまいましたね。やはり反応速度に問題があるようです……まあ彼らみたいな戦闘のド素人集団相手くらいには全く問題は無い性能だと思いますので、安心して戦ってくださいね~はいっ、次来ますよ!」
「ひあああああっっ!?ひぃっ!!ああああ!!」
「あなたの記憶から何の攻撃データも引っ張れなかったので、今の彼らの動きは俺が適当に作ってる仮想の動きですよ。お可哀想に、あなたは何も抵抗出来なかったんですねぇ。ほら、叫んでいないで見てくださいよ。誰も俺に干渉出来ないでしょう?」

 ひらひらと黒いローブをはためかせながら楽しそうに踊る男の体を、雄叫びを上げた異形達の腕や足が通り抜けていく。
 まるでそこには何もないかのように。森の影の中を通り過ぎるように。

「ここはあなたの記憶と心の世界。深さによってアストラルサイドとか、インナーベースって呼ばれるんですけどね。今、俺はあなたの痛みを全て引き受けています。あなたの今にも止まりそうな儚い心臓の動きも、消え入りそうな体温も、全て俺の身体に同調させて補助しています。……ねえ、ここまでして差し上げているんです。楽しく踊りませんか?」

 ゴウッ!!と一際大きい風が吹き抜けて、巻き込んだ樹々の葉と共に美しい男の周囲を逆巻いた。
 跳ね上がる黒と赤のローブの中を、誰もが羨むような雄の肢体が風の中を優雅に舞う。
 あの日見た娘の踊りなどよりも、ずっとしなやかで艶めかしいその動き。月光を弾く長い指。森を揺るがす風に乗る軽やかな足先。
 《ああ――……!!》
 月明りに映る生臭くぬるついた黒い己が両手が、涙でぼやけた正面から襲い来る異形へと向けられる。
 
「ははっ!先程からずっと違和感を感じていたんですよ、このつむじ風!やはり御覧になっておられますねえ、どちらの御方かは存じませんが。只人のインナーベースにまで異界から干渉するとは、神の目というのは全く恐ろしい!!」
「ひぐっ、うぅ……!!いやああああああ……!も゛うやめでぇ……っ!!」
「さあさあ、踊って踊ってお嬢さん!!あっはははは!!宵闇に舞う神よ、暴虐望む狂乱の神よ!哀れな神子の反逆劇をご照覧あれ!!」

 『 ―― 蒼き猛き宵闇の風
 踊れや踊れ 今宵とぎれぬ舞の宴
 宵闇のおかた 喜びぬ ああ我ら風に舞う 』

 血煙と狂騒の中に場違いな歌声が響く。
 高く低く、美しい歌声が。

「あっ、あっ、いやあああ……っ来ないで、来ないでえええ!!」

 バツン!!と嫌な音をたてて、奇面ごと吹き飛ぶナニカ。
 あれだけあった数の影は、今は片手ほどにしかない。 

 『翠の風 舞えや (セナヴ!)』

「おねが、もぅ、許し……っなんで、なんでええええ……っ!」

 見覚えのある鉈を持った腕が、風を切る鋭い音と共に森の中へ飛ぶ。
 年嵩の男の絶叫を聞きながらも、美しい歌声が耳を支配する。
 ……ああ。
 ああ、私は。
 私は。何で――

 『蒼の風 歌えや (セナヴ!)』

 黒い雫を全身から満遍なく滴らせて、緩慢な動作で重たい木靴を脱ぎ捨てた。俯いてゆらりと振り返った先に、金棒を持って駆けて来る異形が『一匹』。

 『夜の風 笑えや (セナヴ!)』

「ふっ、……は、あ、あああ、あ゛あ゛ああああああ!!」

 ――ザシュッッ!!

 その瞬間。恐怖と同じほどの怒りが私を支配していた。
 激しい閃光を纏うナイフに湧き上がる我が身の怒りを乗せて、私は確かに『敵』を討ったのだ。
 自らの意思で。
 砂利の上に転がる木靴は、血だまりに染まっていた。

「うああああああああ!!」
「お見事!これです、これを求めていたんですよ!!はははっ、お嬢さんは全くお花畑過ぎて困っておりましたが、これで『本番』も一安心ですね!さあさあ、あと一人!セナヴ(もう一度)!!」

 ――ザアアアッ!!

 舞い狂う男の笑い声に合わせて、大きな風が波状に森を揺さぶる。
 その風を受けながら、私は最後の異形の首を斬り落とした。
 ……最早どのような異形であったかは覚えがない。肩で呼吸を何度も繰り返しながら、ぼんやりと砂利の上に広がった黒い海を眺める。頬から地面へ滑り落ちる涙と返り血の雫は、いつまで経っても途切れることがなかった。
 力なく血だまりの中に膝を着き、無言のまま荒い呼吸を整える。手の中にあるナイフは、あれだけ斬ってなおも鋭い輝きを残していた。
 鉄錆の臭いの中を、落ち着いた足音と共に香水の良い匂いが近付いてくる。
 わずかに顔を上げれば、星色に輝く長い髪が風に乗って、私の小汚い頬を掠めた。

「お疲れ様でーす。素晴しいひと時でしたね、まさに死の舞踏!」
「ひっ、……うぅ…………
「あなたの五年という神子役からの解放のお祝いに、そのナイフは差し上げます。使い終わったら売るなり何なり好きにしてください」
……、ひぐっ……ぅ、……あな、あなた、は、……――
「うん?」
「っ……この、化け物…………!」

 美しい男は一瞬笑いをこらえるように気配を揺らすと、忍び泣く私を放置して少し離れた場所から何かを引き摺って直ぐに戻って来た。
 セナヴァズ神の童謡を鼻歌で歌いながら、彼は項垂れる私の髪を容赦なく掴むと、そのまま頭を上げさせた。

「メルニはお馬鹿さんですけど、勘は悪くないんですね。確かに俺はあなた達人間にとって化け物で間違いはないのですが――……ねえ、よく見て。あなたの『化け物』はコレでしょう?」
 男が私の目の前に突き付けて来たものは、あの異形の……私が斬り捨てた『異形だった者』の上半身だった。
 私に襲い掛かってきた異形が。異形だった者が。苦痛に歪むただの男の顔が。青白い月明りに照らされる。
 ……白髪交じりの髪に、浅黒い地肌。ふくよかな頬。
 私はその顔をよく知っていた。知り過ぎるほどに。

『ああ可愛いメルニ、木こりのジョイルの娘よ、お誕生日おめでとう……

 《――村長さ、ん……!》
 それを認めた瞬間、猛烈な目眩が私の身を襲って、血だまりの中に倒れ込んだ。
 ……本当は、知っていた。
 あの声達が誰なのかを。
 私に時折食べ物を他よりも多く分けてくれた助役のおじさん、何くれとなく世話を焼いてくれた会計役で幼馴染の父親、いつも慰めてくれた役員の人達――一人一人の顔を思い出して眠りに抗っていれば、優しい化け物が穏やかに私の頭を撫でた。

「変なところで運が良い娘ですね。嵐がまだ止んでいないので、あなたを『少し前』へお送りいたします。本当は神々のルールに抵触してしまう行為なんでしょうけど、この嵐ならば言い訳など幾らでも出来ますし、何よりそこで御覧になっておいでの神が大層喜んでいらっしゃるので。……まあ上手くいくでしょう。……はぁ、究極の無駄働き。俺にも何か褒美があって然るべき……
…………
「抗わなくて良いですよ、直ぐに目が覚めますので。……ああ、そうだ。これは意地悪ではなく俺の老婆心なのですが……万が一にも満開のお花畑を頭に展開するあなたが、何も理解していなかったら哀れなので。――メルニ嬢」

 暖かい光が私の周りを包み込む。
 急激に白んでいく世界の中。完全に意識が閉ざされるその寸前。
 私は確かに聞いたのだ。

 ごうごうと唸る風の音と、男の最後の言葉を。

「口減らしって知ってます?」



※※※

 気が付けば森の中にいた。

「あれ……?」

 溺れてしまいそうなほどに暗い夜闇の中を、月明かりに照らされた小道が一本。
 ふと気が付けば、私はそんな場所に一人立っていた。
 《……え。何これ。ここ、どこ……?》
 ……ううん。知らない訳がない。ここはセナヴァの森だ。私ったら、何を呆けていたんだろう?……少し疲れているのかもしれない。
 役員の方々が乗せてくれた荷車から降りて、随分と歩いた気がする。もう直ぐお使い様が現れるという地点に辿り着くだろうか?夜の帳に覆われたセナヴァの森の全容は朧げだが、時折吹き付ける風が森の枝葉を揺らせば、大きな怪物がもろ手を上げて迫ってくるようで酷く恐ろしかった。……しかし大丈夫、私にはこの白く輝く不思議なローブがあるのだ。少なくとも暗闇に負けるようなことはない。
 無意識に一歩後退すれば、擦れた砂利の音が木靴の下で妙に大きく響く。
 《足が痛いなぁ……
 森へ出立する寸前、五年ぶりに母と話した。
 母は私の顔などまるで見ず、他人に話しかけるような素っ気ない口ぶりで『森の中へ行くのなら、この靴の方が頑丈だわ』と木靴を押し付けて去って行った。
 正直に言えば、この森の中の砂利道にこの靴はまるで合っていなかった。しなやかさがない靴底は、大きな砂利を踏みつければすぐによろめいてしまうし、重くて硬い木の素材は歩く度に足首へと負担がかかる。纏っていた白く輝くローブの明かりで、踵が赤く擦り剥けているのが見えた。
 ……だが、母が五年ぶりに話しかけてくれたのだから――

『哀れなお嬢さん。あなたの敗因は、思考の放棄です』

……!!」
 
 ビュオオオォ……

 砂利が弾ける音と共に、大きな風が私の身を取り巻いた。
 つむじ風だろうか?こんな奥深い森の中で珍しいとは思うものの、突然頭に響いた甘く優しい低音の声に冷や汗が浮かぶ。
 今の声は、一体なんだろう……?何処かで聞いただろうか。
 心臓は早鐘のように脈打ち、ナイフを持っていた両手はぶるぶると大きく震えて――……え?

 ナイフ?

 目の玉が零れ落ちそうなほどに両眼を見開いて、錆びついたネジを回すようにゆっくりと己が腹の前を見る。しっかりと重ねられた両手の中に、剥き出しのナイフが握られていた。
 それは月明りの中で鈍く輝いていて、私の脳裏を強く焼く。呼吸は激しく上がり、足はガクガクと大仰に震えて、無意識のうちに足の内側から生温かい液体が滝のように流れ出す。
 道の奥の暗闇から、蠢く複数の影が見え始めていた。
 《嘘……嫌だ、嘘だ。アレは夢。夢だよ。何で。なんで》
 前方からくる一団は、獣の皮を身に付けているのが遠目に見えた。
 手には――大きな、鉈。
 鋭い鎌。斧を持っている者もいる。

『白く輝くそのローブは、暗い森の中でさぞ素晴しい目印になったでしょうねえ。森でなくとも逃亡を許さぬ檻の衣ですよ、そんな派手な物』

 頭の中で誰かが囁く。
 私を助けてひどい目に遭わせた、恐ろしくて優しい、そして何よりも美しい化け物。脳裏に散る星色の輝きが傍らにないことが、今は酷く悲しく……心細かった。
 音を立てて一歩後退すれば、足が靴に擦れて酷く痛む。

『ねえお嬢さん。その靴、なんで渡されたか解ります?』
……おか、お母さん、が、私を、想って……
『俺、馬鹿は嫌いなんですよね。その頭は飾りなんですか?』
…………私、私を……
『うん?』
…………お母さんが、……私を、…………この森から、絶対に帰らせないように……っ」

『はい。お利口さんですねぇ、お嬢さん』

 優しい声が頭の中で響く。
 《……助けて》
獣の皮に、奇妙な面を付けている。
 それは恐ろしい、化け物の集団が目の前に迫っている。
 助けて。カロワイト。助けて。
 助けて。助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてお願い助けてよカロワイトたすけて神様お願いなんで私がこんな目に遭うの助けて誰かお願い……!!
 《セナヴァズ神様……!!》
 無様なほどに震える手の中で、ナイフの輝きが増す。
 強く逆巻く風が失禁した足を氷のように冷やしていく。森は大手を振って騒めきを強め、枝葉が擦れて鳴るその音はまるで喝采のようだった。
 ――笑い声が聞こえる。
 陽気で。酷薄で。この場を心底楽しむ享楽的な、絶対的な声が。
 この逆巻く夜の風の中に。


――汝が不忠なる神子か」

 ナイフが輝き、私の身体に赤い閃光が走る。
 大きな風が唸り声を上げ、恐怖で歪む私の背を見えざる残酷な手が強く押した。


『セナヴ(もう一度)!!』

                                       


   

                    【終】