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シノハラ
2025-07-09 00:38:47
4130文字
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アルカヴェ
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先輩のお誕生日おめでとうのアルカヴェ
一年目のまだ家に馴染みきっていなかった頃の先輩とそろそろ遠慮してもらいたくない後輩
なんでもない朝だった。と、言ってしまうと些か過小評価かもしれない。
衣食住が保証され、何より仕事が落ち着いている。そのおかげで、この時間に目覚めるのもそれほどつらくないくらいの睡眠時間をカーヴェは確保できていた。こんな日が続くのであれば、諸手を挙げて歓迎するべきなのだろう。
「おはよう、アルハイゼン」
くわりとあくびをしながら居間に向かうと、アルハイゼンが朝のジョギングから帰ってきたところだったらしい。社会人としては規格外の時間に就寝する彼の朝は早いのだが、これでも朝食の準備の時間分起きるのが遅くなったと言うのが本人の談である。
「おはよう。それと誕生日おめでとう、カーヴェ」
「
……
ああ、もうそんな時期か。ありがとう」
カレンダーを見るまでもなく、今日の日付は分かっているはずだった。けれど、ここ数年は自分の誕生日なんてろくに意識して来なかったのだ。世間一般的にも誕生日が嬉しい年頃でもなくなってしまったし、こうやって口頭で祝われるような機会もなかった。
誕生日。であればきっと日が落ちるまでに母から手紙と贈り物が届いている事だろう。それでカーヴェはようやっと自分が生まれた日の事を少しだけ考えて、いつも通り眠りにつくはずだった。
それが他ならぬアルハイゼンその人からの一言で固定化されつつあったルーチンが崩れたことに、カーヴェはほんの少しだけ驚いた。この手の予想外な出来事の積み重ねこそが自分以外の誰かと暮らす事であると、カーヴェもいい加減気がつきつつはあるのだけれど。
とはいえ、いつもより少し早くやってきた自覚をもってしても、誕生日そのものに対してはこれといった感慨も湧いてこない。これはカーヴェ独特の問題などではなく、往々にして大人にありがちな現象なのだろう。
「とはいえ、もうこんな歳になったら誕生日って言われてもって感じだけど」
だから、自分と二つしか歳の違わないアルハイゼンの誕生日にもこれと言った事はしなかった。彼と同じように言葉で祝って、少し良い物を夕飯に用意しただけ。彼も特に不満はなさそうだったし、夕飯が豪華な以外にいつもと違う出来事が彼にあった様子もなかった。
「君だってそうじゃ
……
」
誕生日にかこつけて間食に食べる果物のグレードを上げようかと考えながら食器棚を開けると、棚に見知らぬ食器が納めてあった。一つ瞬きをしてまじまじとそれを見つめてから、カーヴェは浮かんでいた感想を訂正する。この棚にあるのがおかしな話であるだけで、カーヴェにはこのコーヒーカップに見覚えがあった。
この家にやってきて日の浅いうちに自分のための家具や食器を買いに行った時、カーヴェはこのコップに気を取られたのだ。けれど結局、カーヴェは家主も好みそうな装飾の少ない安物の食器ばかりを選ぶことにした。
一つ目の理由は簡潔でカーヴェがこの家を急遽出て行く運びになっても、家主が残ったそれらを持て余さないようにとの配慮である。二つ目はどちらかと言うとカーヴェの感性によるところで、どうにもこの仮の住居にこのコップの佇まいは馴染まないように感じたためだった。あえて三つ目を用意するなら値段の問題もあったのだけれど、長く使う物であるのであまり気にすることでもないかもしれない。
「アルハイゼン、これ」
けれどこのコーヒーカップを始めとした一揃えの食器のシリーズに心残りがあったのも事実で、自分用の食器を開封しながらその未練を雑談に変えて彼に伝えたのだったか。だからアルハイゼンがこのカップの事を覚えていても、不思議な話ではないのだけれど。
「コップくらいならどこにでも持っていけるだろう」
「それはそうだけど
……
」
汗を流す前に水が飲みたかったらしいアルハイゼンがカーヴェが開けた戸棚の隙間から手を入れて、自分用のコップを取り出しながら事もなげに告げる。たしかに彼が指摘する通り、夜逃げでもする羽目にならない限りは実際のところお気に入りのカップを持っていても問題などないのだろう。
けれど、こういう私物は一つ買ってしまえば際限がなくなってしまうものなのだ。私室をもらっている身で今更なのかもしれないが、居候があれこれ物を増やすのは気が引けた。
とはいえこれはカーヴェ個人の感想であり、物をくれた相手に不満を表明するつもりにもなれない。はっきりしない言葉の続きを形にできないでいるうちに、アルハイゼンはコップにたっぷりと水を汲んで空にしたと思うとさっさと汗を流しに行ってしまった。
一人取り残された台所で、カーヴェはコーヒーカップの存在を持て余しつつもコーヒーを淹れることにした。二人分のコーヒー豆と水、それからたっぷりの砂糖をイブリックに入れて火にかけてから、昨夜仕込んでおいた焼きリンゴをピタに挟む。家で仕事をするカーヴェにはそれで十分ではあるのだが、このままではアルハイゼンから無言のクレームを入れられるのでこれまた昨日避けておいた夕食のおかずを具材にしてピタを膨らませる必要がある。
その合間合間にイブリックをスプーンで掻き混ぜてやるうちに沸騰してきたので、コーヒーが溢れ出す前に火から下ろして掻き混ぜた。こういう手順をその時の気分で二、三回することになるので朝に飲むには少々手間なのはカーヴェにも分かっている。
母から楽だからとフォンテーヌ式の器具ももらってはいるのだが、なんだかんだでいつものスタイルでコーヒーを入れ続けてしまっている。これはなんとなくの習慣の問題だけではなく、この家にある豆がそもそもスメール式の淹れ方に適しているという明瞭な理由もあるのだけれど。
そうやっていつも通り淹れたコーヒーをアルハイゼンのいつものカップに注いでから、下ろしたてのカップも満たしてやる。そうするうちに簡単に汗だけ流してきたアルハイゼンが台所に帰ってきて、出来上がっていたピタを盛った皿を居間に持って行った。
泡の浮かぶコーヒーカップを二つ手に持って居間に向かうと、アルハイゼンが先にピタを口にしている。しょっぱい具材を選んでいる理由が汗を流した後の体が欲しているからなのか、単に好きな物の方を先に食べたいだけなのかははっきりしない。
「ありがとう」
「うん」
アルハイゼンにコーヒーを寄越してから自分もカップをテーブルに置いて、ピタに手が届く位置を選んでカウチに腰かける。それからこっくりとした琥珀色を湛えるそれにカーヴェは視線を落とした。
「
……
僕はこのコップを気に入ったけど、この家には似合わないと思ったんだ」
「コップと家では比較対象としてはバランスが悪く聞こえるな。テーブルや照明との相性の話を言い換えているのならまだ理解できるが」
カーヴェの述べた事が理解できていないらしく、アルハイゼンが微かに首を傾げて見せる。首を横に振って否定してそういう話はないと告げたものの、それ以上の説明が上手にできるかと言うと怪しいところではあった。
「アルハイゼン、君はどう思う?」
「君が俺にセンスの判断を求めてくるとは思わなかった」
「別に君の趣味がいつも悪いとは僕も思ってないさ」
もちろん、件の木彫りの置物のような何をどうしたらそんなものを買ってきて飾るつもりになるのかという代物もあるにはある。ただ、アルハイゼンの趣味に良し悪しがなければカーヴェは家の全てを総とっかえするどころか、出勤時に着ている服すら引き剥がさなければならなくなっていたに違いない。
「君のように些細な所までいちいち検討して評価することはできないが」
「おい」
「それでいいなら似合っている。それ以前に詐欺目的の壺の類でない限り、君が気に入って使うのであれば俺は何であっても文句を言うつもりはないよ」
フォンテーヌ式よりも濃くなるため甘く仕上げられるコーヒーに口をつけてからアルハイゼンがカーヴェの手元に視線を寄せて、躊躇いなくコップへの評価を下す。ついでに失礼な事を言われたようにも思えたが、どこに金が流れるのか怪しい花に対してはかなり文句を言われた記憶があるので一貫した主張ではあるのだろう。
「
……
そっか」
アルハイゼンが視線を落としたのに合わせて、カーヴェも手元にあるコーヒーカップに視線を落とす。これが店に並んでいた時に描いたイメージから寸分違わぬ情景が目の前にはあったはずだったが、その時に抱いたような違和は不思議と起こらなかった。
それから遅れて、自分の感想に誤りがあるのに気がついた。自分が思い浮かべた光景と今実際に見えているものとは明らかに異なる部分があったからだ。
カップのために伏せていた顔を上げると、いつの間にかカーヴェを見ていたアルハイゼンと視線がかち合う。それこそが、この家に来てすぐの自分には思い描けなかった要素だった。
「
――
うん、そうだな」
他でもないこの家の主が、このコーヒーカップになんら問題はないと言っているのだ。であれば、何の問題があるだろう。
そう過去の己に問いかけながら再度見下ろしたコーヒーカップはしっかりとこの空間に馴染んで見えた。自分の美的センスやデザインの知識にやや不安を覚える結果でないと言えば嘘になるが、当時の自分の精神状況がそれらを歪めていた可能性は重々あり得る。
なら今は。そう口の中で転がしながらカーヴェはカップを持ち上げて、きっとアルハイゼンが不要と判断したソーサーがあればもっと素敵だろうとカーヴェは結論付ける。
目の前でカーヴェの反応を窺っているこの男はやっぱりちょっとセンスが悪い。けれど、この食器の欠けた姿はアルハイゼンが選んで買って来なければ見られなかった物なのだろう。であれば、ソーサーを買い求めるのはもう少し後でも良いかもしれない。
「プレゼントありがとう、アルハイゼン。大切に使わせてもらうよ」
慈しむつもりでカップの取っ手に指を滑らせると、その振動で琥珀色の水面にさざ波が微かに生まれる。その波が収まる前にカーヴェはカップを引き寄せて、不快感のない苦味とほんの少しの酸味を掻き消しながら微睡みを払ってくれる甘さを舌に乗せたのだった。
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