ギャラガーが古めかしい扉のドアノブを回すと、数琥珀紀前に流行った内装のダイニングキッチンが彼を出迎えた。コンロの上で鍋がじっくりと火にかけられる音がしている。そして、鍋の前に立つ老人がギャラガーの目に入った。
その老人の、時間の試練を経ているにもかかわらず歯車が噛み合うように伸びた背筋。古木のような背中を覆う生地のしっかりしたシャツは、皺すらも彫刻のような陰影を落としている。精緻な装飾の施された片眼鏡はよく手入れされていて、きれいに色の抜け落ちた白髪は真鍮の髪留めによってすくわれ、身綺麗な印象を与えている。
ギャラガーはその老人をよく知っていた。彼が敬愛する老夫妻から受け継いだ名前も、彼が夢の地で築いた偉大なる嘘も、彼の寂然とした死の瞬間まで知っていた。
「……ミハイル」
一瞬の、しかし彼らの再会までよりも長く感じられた沈黙の後、ギャラガーは絞り出すように彼の名前を口にした。途端、冷静な思考は堰を切ったような激情に流されていく。数秒前のことすら定かではなく、今にも溢れようとする感懐に声が震えてはいなかったか不安に感じている。叱責を受けた犬にでもなったような気分で扉の前で立ち尽くしたギャラガーの目の前へと、ミハイルがゆったりと歩み寄った。そして重ねた歳月に相応しい鷹揚さを持った声で、ただ、こう答えた。
「おかえり、ギャラガー」
お疲れ様、よくやったね。と、大きな掌がやわらかく癖づいた髪を掻き分けるように置かれる。かつて彼が飼い犬にそうしたように頭頂部から耳の後ろにかけてを軽く撫でる手つきは温度までギャラガーの記憶とまるで同じで、沸騰しそうなほどの歓喜が脊椎をはしった。先程までの不安は春の綿毛のように飛び去っていく。我ながら単純なことだ、とギャラガーは自分自身に呆れたものの、ミハイルに灯された感情を吹き消す気にはならなかった。
「お腹が空いているだろう。今夕食を作っているところだから、もう少し待っていてくれ」
促されるままに部屋へ踏み入れると、鍋から立ち上がる湯気とともに暖かい匂いが漂っていた。ギャラガーが少し意識を集中させると、デミグラスソースとチキンブイヨン、牛肉、それからいくつかの野菜と香草の匂いを、彼の鼻は嗅ぎ分けた。
「ビーフシチュー……」
「昔から好きだっただろう、今でもまだ好きかい?」
「まあ、今も嫌いじゃないが」
ギャラガーが鍋を覗き込むと、肉と野菜が赤褐色のスープの中でことこと煮込まれている。ギャラガーが彼の子供だった頃を思い出す、優しいデジャブを引き起こす光景の中に、ギャラガーは見慣れたものが見えないことに気がついた。
「ああ、でも、玉葱は切らしていたのか?」
「入れたら君が食べないじゃないか」
「俺が」
「忘れたかい? 夢の中だというのに、君はチョコレートも食べなかった」
そう答えつつ、愛おしげに細められたミハイルの瞳の奥には、おそらく愛犬の面影が見えているのだろう。ミハイルは、ギャラガーから過去の破片をたやすく見つけ出し、今のギャラガーを構成する事象として結びつけた。それは本来ならば虚構の存在にとっては腹を捌いて臓腑を取り上げられるような行いだというのに、なぜかギャラガーにはひどく心地よかった。ミハイルの手つきがあまりに優しく、いたわりに満ちていたからかもしれない。ミハイルは細かな皺の刻まれた目尻に微笑を浮かべたまま、「違ったかい」と、問いかける。
「いいや。じいさんの言うとおりだ」
ギャラガーは椅子に腰掛けて、小さく「ふん」と鼻を鳴らした。
「ただ、アンタは俺のことは何でもお見通しなんだと思っただけさ」
「流石に、何でもは分からないよ。僕にとって大切なことだけさ」
ミハイルがダイニングチェアに腰を下ろしながら、こともなげにそう言うと、ギャラガーの視線は彼に引き寄せられてとどまった。ギャラガーはその言葉の意味を問い返すほど鈍くはなく、軽く受け流せるほど無感動でもない。
ただ、今の知覚を形作るものにミハイルが情を込めて触れたことがあるのだと思うと、なにか制御しがたい衝動が心臓の裏で沸き立った。
「あんたは」
「何だい」
「時々手に負えないな」
ミハイルの軽い笑い声が空中に溶けた後、沈黙がベールを脱ぐように現れた。話したいことは瞬き一つの間にすら溢れるほどあったはずだが、どの話題も今の時間を彩るには相応しくない気がして、静けさに身を任せた。それでミハイルは退屈しないだろうかと、ギャラガーがちらりと彼を見やると、彼はすぐに気が付いた。
「何から話したらいいのかわからないのかい?」
「ふん、半分くらいはそんなところだ」
「焦らなくていい、ギャラガー。僕も、君と話したいことが多すぎて考えているところだ」
ミハイルの言葉の終わりと共に、穏やかな沈黙が、再び二人の間に滲んだ。古い掛け時計の秒針の音が、静謐の上へと積み重なる。それはカフェで微睡んだ午後や、夢境の荒野で駆け回った後に草むらへと倒れ込んだ瞬間を思い出させた。ギャラガーがしばらく静かな感慨に耽っていると、コンロに付属したタイマーが短く鳴いた後、鍋の火がふっと消えた。
「できたみたいだな」
「そうだね」
現実へと引き戻されるようにミハイルは立ち上がり、小皿に一口分のスープをよそい、味見をした。それから少し考えるそぶりを見せた後、歳月の荒波を耐え切った鍾乳石のような指が、棚の上に並んだスパイスの瓶を吟味しだした。指先は十数秒ほどの逡巡の果てに一度虚空を指して、ゆらりと重力に従った位置へと戻る。そしてミハイルは、はたと何か思いついたようにまばたきをして、ギャラガーのほうを見やった。
「ギャラガー。冷蔵庫から『一時の自由』を取ってきてくれ」
「『一時の自由』を?……まあ、わかった」
ミハイルの言いつけに、ギャラガーは数歩離れた冷蔵庫の扉を開ける。冷蔵庫の中は、機械とノートでいっぱいな持ち主の部屋とよく似ていて、あらゆる食材が雑然と並べられている。その中から夢境でよく流通している形から更にバター状に加工された『一時の自由』を引っ張り出してミハイルに差し出すと、彼はバターナイフで小さな塊をひとつ切り分けて、そっと鍋に落とし入れた。安堵と期待の香りが柔らかに広がり、一匙の焦燥のスパイスがつんと鼻腔を突いた。
「随分と尖った隠し味だな」
「久々に君と食事をできるものだから浮かれて、滅多にしないことをしたくなってね」
滅多にしないこと、とはその通りだろう。夢境の感情はいずれも独特な風味を持ち、料理を引き立てるスパイスとして扱ったり、複数の感情を同時に扱うことは珍しい。相応の知識と経験を要求されるのだ。対してミハイルは、現実と同じような料理なら人並みにはできたが食材としての感情の扱いも人並みで、大して上手いわけではなかったと、ギャラガーは記憶している。
「ふん、好奇心旺盛なのはいいがあんたに使いこなせるのか?」
「問題ないとも。さっきより味は纏まった」
もう一度味見をしたミハイルが満足げな表情をしたが、ギャラガーはわが耳を疑った。『一時の自由』の強い風味で味の纏まるビーフシチューがあるだろうか。——レシピにないものをもっと入れていない限り、あり得ない。
「……待て、他に何か入れたな?」
ミハイルはいたずらっぽく笑った。
「何を入れたんだ? じいさん、笑ってごまかすのはやめてくれ」
長い時を共に過ごしたおかげで、たとえ言葉にされなくとも、わずかに逸れた視線や組み直された指から、ギャラガーはミハイルの感情の機微をわずかに感じ取れた。彼は確実に隠しごとをしている、と。
「頼むから言ってくれ……」
ギャラガーがそうこぼすと、ミハイルは微笑を絶やさないまま、子供がとっておきの冒険計画を告げるように語り出した。
「牛肉の下味に『安逸』を使って、香草の代わりに『永久の忍耐』と、味付けに『彩り豊かな酸味』を。それから、スープに溶けてしまったが、野菜と一緒に『砕けた夢』を炒めたな。ああ、あと」
「すまん、もういい、俺の手に負えないことがわかった」
ギャラガーが出会った中で最も開拓者らしい開拓者だったミハイルといえども、他に入れた感情は一つか二つ程度だろうという予想を、彼は容易く飛び越えた。たとえいかに腕の立つ夢境のバーテンダーであろうとも、それだけの感情を混ぜ合わせようとはしないだろう。ギャラガーは、晴らす先のない感情を込めて息をついた。
「なあ、じいさん。後先考えずに突っ走るのはあんたの悪い癖だって、俺は何度も言ったよな」
「……ミモザにも全く同じことを言われたな」
ばつが悪そうに笑うミハイルの言葉に、ギャラガーの想像の中で、呆れ果てて腹を立てる彼の子供の姿が鮮明に浮かんだ。彼女がそうやって怒りを顕にするとき、ほとんどがごく小さなすれ違いから起こる諍いだったが、大抵ミハイルのやり方に原因があった。ギャラガーには、「だろうな」の他に返せる言葉が見つからなかった。
「まあ、あんたの思いつきに振り回されるのは慣れているし、俺は怒っちゃいないが」
「本当かい?」
ミハイルのオーロラの輝きをたたえた瞳が、彷徨う視線を遮るように瞬きする。どんな表情をしているのか自覚していないのが彼の厄介なところで、それでも失望できないのがもっと厄介なところだった。
「……本当だから、もう晩飯にしよう」
ギャラガーはなだめるようにそう言いながら、机の上にカトラリーを並べていく。銀製のスプーンがアンティークの天板の上で眩しく輝いた。そこへ、深皿によそわれたビーフシチューが小さく音を立てて置かれた。第一印象のとおり、少なくとも見た目と香りの上での調和はとれているとギャラガーは思った。深みのあるれんが色のスープにはなめらかな艶があり、具材にはくったりと火が通っていて食べやすいように見える。とはいえ、目に見えない感情が何を引き起こすかは分からない。其の『開拓』の祝福が夢の料理の出来栄えにまで及んでいると信じるほかないが、『神秘』の運命を歩むギャラガーの性質からか、ミハイルに関するこれまでの経験則からか、いまいち信じきれなかった。
——それでも、たとえ最悪の底を見たとしてもいずれ笑い飛ばせる記憶にはなるし、そう変わるだけの時間はあるはずだ。
ギャラガーはそう考えながら、一口分を掬って口に運んだ。……意外にも口当たりがよく、親しみ深さと懐かしさを喚起させる味だ。
しかし、次の瞬間、抱擁のように力強く、花束のように多面的で、涙のように熱のある痛みが舌の上で溶けた。ギャラガーはそれが幾度となく体験した感覚であるように思われて、残る後味にその感情の正体を直感した。それはあらゆる感情を内包して発露するもの。宇宙で最も陳腐にして深遠なもの。ギャラガーの面持ちに僅かに浮き上がった驚きを、ミハイルはめざとく見つけてほほ笑んだ。
「行き当たりばったりでも上手くいくものだ」
「……才能があるな。いや、幸運か?」
「どちらでもないかな」
ギャラガーの冗談じみた所感を、ミハイルは花曇の湖畔のような穏やかさをもって否定した。
「ただ」
「ただ?」
「ずっと、君に、何を伝えたいか考えていたんだよ」
平易で、何の変哲もなく、そのぶん芯のある言葉だった。その明快さが回って、ギャラガーはミハイルの言葉の真意を一瞬では掴めずに、衛星の時計を追いかけるように意味を考えた。そして、少しの間を置いて全てを理解した後、波立つような情動がギャラガーの心に打ちつけた。
ギャラガーは胸の内に充足感が広がるのを感じ、不思議なことに、同時にほんの少しの虚脱も感じた。忠誠を誓ったひとりの心どころか、この身を作る宴の星のすべての嘘さえ報われたような気がして、全身を駆け巡るそれを今すぐに伝えたくなり、しかしその全てを正確に伝える語彙は宇宙のどの言語にもないように思えた。
だからギャラガーは千の言葉の代わりに、今は伝えられない感情を飲み干すように、ビーフシチューをじっくりと味わって平らげた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.