今日は、若王子先生の課外授業の日。
浜辺にオレンジ色の光が差して、人がまばらになっても、じっと立ったままでいるわたしの隣に、一つの影が並んだ。
「お疲れ様。君も来ていたのか」
「あっ、氷上くん! 氷上くんも来てたんだね」
「ああ、若王子先生の課外授業は参考になるから、都合がつく時は顔を出しているんだよ」
「そうなんだ。わたしもたまに来てるよ。面白いよね、若王子先生の話」
「そうだな。
……しかし、まさか『海で自由に遊びましょう』なんて言われるとは思っていなかったよ。普段海には全く来ないし、何をすればいいのか少し困ってしまった」
「そうなんだ。じゃあ、今日はどうして?」
課外授業で友達に会えたのが嬉しくて、弾んだ声を出すわたしとは反対に、氷上くんの声にははっきり疲れが滲んでいた。というか、むしろまったく楽しそうじゃない。
「
……あまりに授業外の質問の機会に恵まれないものだから、つい、交換条件を出してしまったんだ。『僕が一番気の進まないことをやりましょう』とね」
「そ、それで海の課外授業に? 大変だったね」
「ああ
……。けれど、これでようやく若王子先生への質問権が得られると思えば、苦労した甲斐もあったというものだ」
そこで目が輝くあたり、氷上くんは本当に努力家だなと思う。
質問といっても、発展問題ばかりなのだろうし、なんなら教科書にすら載っていないんじゃ
……と、勝手な想像だけで気が遠くなってしまう。
若王子先生の知見は素晴らしい
……と、どこか朦朧とつぶやき始めた氷上くんに戻ってきてもらおうと、もうひとつ気になったことを聞くことにした。
「授業の間は、何して過ごしてたの?」
「日陰で本を読んだり、海の近くで遊ぶ生徒たちの見張りをしたり
……そんな感じだよ」
「本当に勉強熱心だね
……」
「そうかい? いつも通りだよ。むしろ、課外授業にしてはいささか自由すぎて戸惑ったくらいだ。君は、何をしていたんだ?」
「わたし? 海辺で貝殻探したり、ぼーっと海を眺めたり、かなぁ。」
「そうか。
……君は、ずいぶん楽しかったようだね」
「うん、海、好きなの。なんか見てると落ち着くっていうか
……。潮風も気持ちいいし。それにやっぱり
……今の時間は、すごく綺麗だなぁ」
言いながら、わたしは、目の前の景色に意識を向けた。
夕日に照らされた海。空もそれと似た色をしているように見えて、ほんのりと紫がかっている部分もあって、夜が近づいてきているのがわかる。日が沈むまでのほんの短い時間だけど、ふたつの時間が混ざりあっているような、特別な空間。
「
……氷上くん?」
わたしの隣で黙ったままの氷上くんを見やると、同じように前を向きながら、何か考えているみたいに見えた。
「
……ああ、失敬。そんな考え方もあるのかって、少し驚いていたんだ。僕はあまり海が好きではないから。正直、暑くて、人が多いだけの場所だと思っていた」
「
……確かに人混みはすごいけど、辛辣だね
……」
思わず突っ込んでしまうと、「他に評価のしようがないんだ。けれど
……確かにこれは圧倒されるな」と呟く声がした。
氷上くんの言葉に苦笑いを返したのを最後に、波の音だけが聞こえるようになった。
……いつもなら気まずい沈黙も、今は不思議とすんなり受け入れられる。
「
……そういえば、若王子先生が集合をかけていた時に何か叫んでいたのは君か?」
「あ
……『海のバカヤロー』?」
「ああ、それだ。すごい声量だったな。他の人が何ごとかと振り返っていたぞ。
こちらが恥ずかしかった。楽しむのはいいが、もう少し節度を持ってくれ」
「うう
……ごめんなさい。お騒がせしました」
頭が痛い、というように眉をひそめている彼に向かって、頭を下げる。
確かに声が大きすぎたかもしれない、今さらながら恥ずかしくなってきた。
「しかし
……なぜ『海のバカヤロー』なんだ?君もなかなか海に対して辛辣じゃないか?」
「
……えっ?」
思わぬ切り口に顔を上げると、氷上くんは難しい顔をして唸っていた。
「うーん
……やっぱり理解できない。ただそこにあるだけの海が、とんだとばっちりを受けているじゃないか」
「あははっ、確かに。ドラマとか、映画とかでよく聞くから、みんな真似して言ってるんだとは思うけど、けっこうひどいね。何でバカヤローなんだろう?」
真剣な氷上くんの考え方がなんだかおかしくて、つい笑ってしまうと、つられたように氷上くんも笑った。
「ハハ。よく笑う人だな、君は」
「え、ごめん、うるさかった
……!?」
たまに一緒に遊びに行くけど、わたしの話題選びが下手なせいか、思えばいつも微妙な空気になってしまっていた。氷上くんは静かな場所が好きなんだろうし、余計に疲れさせちゃったかな。
「いや、いいことだと思うぞ。君の周りに人が集まるのにも、納得がいく。
……僕も君くらい人当たりがよければな」
凪の海を思わせる優しい声をかき消すように、気づいたら叫んでいた。
「氷上くんはいい人だよ!」
「
……え?」
「
……ごめん。また大きい声出しちゃった。
……氷上くんは、生徒会の仕事に勉強に、いつも頑張ってるし、物知りだし。わたしが変なこと言っても出かけるの付き合ってくれるし
……。わたしは氷上くんと一緒にいると楽しいよ」
「そうか
……そんなふうに言ってもらったのははじめてだ。ありがとう」
声に力強さが戻った、とほっとしたのとほぼ同時に、氷上くんの表情が急に見えづらくなったように感じる。海も
……。と、そこまで考えて、あ、と声を上げた。
「さて。すっかり長居したな。これ以上遅くなる前に帰るとしよう」
「そうだね。なんだか引き止めちゃってごめんね」
「いや、気づいていなかったのはお互い様だ、気にすることはない。
それより、夜に女性の一人歩きは危険だ、家まで送ろう」
わたしが頷いても、しばらく氷上くんは心配そうにしていた。本当にすぐそこなの、通りは明るいし、と重ねたところで、ようやく引いてくれた、
「それでは、失敬」
「うん、ありがとう! また学校でね」
反対方向に足早に歩き出した氷上くんの足音を聞きながら、わたしも歩き出した。今度は氷上くんの好きな場所に一緒に行けるといいな、遊くんになら聞けるかな、なんて考えていて、自然と早足になる。
――その時の空には、静かに星が瞬いていたのだと知るのは、もう少し後になる。
このお話を書いたのは?
作品Bの作者はえみさんでした!
デイジーのふんわりしたやわらかな女の子らしい話し方や全体を流れる温かい空気の切り取り方とテンポ感にえみさんらしい優しくて穏やかな空気感が感じられる作品ですね。
まだ恋心がお互いにはっきりと生まれる前の間の空気感がまるで、夕暮れに密やかに浮かぶ星のようでロマンチックで優しい読後感が素敵。
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