草枕
2025-07-06 05:21:29
1221文字
Public syzygy
 

syzygy_overweight_009.道を征く

未知を行くこと


音に先行して、痛みが走った。
ばちん!

メロペイアの冷たい空気に響いたのは、皮膚を叩く音だ。
両の手のひらと頬がじんわりと痛んだが、自分で自分の両頬を叩く、という慣れない行為に、火傷を負った皮膚が引き攣れたのが一番の衝撃となってしまったのは、完全なる経験値不足だろう。
──それなら、身に染み付くまで繰り返せば良い。反射で身体が自動的に動くようになるまで。

これは、儀式だ。
足を止めずに進む為の。
何が無くとも、何かが消えてしまっても、ただ征く為の。

そういう風になるしか無いと思った。
ずっと求めていた希望が潰えてしまっても、『記憶』が確かなものではないと思い知らされても、シルーが征こうと思うのは、あの人たちが歩むべき道があったからだ。

シルーは、足を止めてはならない。
シルーだけは忘れてはならない。執着だと、ましてや恨みだなどと、貶めてはならない。背負うことを重いと思っては、止めては、ならない。

今生きている、シルーの大切な人は、それを希望ではない、と言った。そんな言葉でしか語れないなら、もう希望ではないと。
それでもやはり、呪いにはしたくなかった。

もし、この記憶が造られた偽りだったとしても、たぶん何も変わらない。変えられない。
陽炎燃える、在るか無きかも分からない道を征くことが、呪いであるか祝福であるか、決めるのはシルーだ。


ぱちん。
じん、と頬が痛む。目が覚める、丁度良い刺激だ。
だのに、ふと去来した記憶が、シルーの嗚咽を誘った。

「なあ、シルー。人生ってーのは、重き荷を負って、長い道を歩くような感じなんだよ」

シルーに管を巻いていた男は、酔っていた。だからだろうか、随分と、機嫌が良さそうに言ったのだった。

「だから、
 ────やりたい事やって、めいいっぱい楽しめよ、ピヨっこ!ワハハ!」

上手く踏み出せなかった足が、もつれて前に一歩を刻む。誰か、シルーを側から見る者が居れば、誰かに背中を殴打されてつんのめったように見えたかもしれなかった。

どうして忘れていたのだろうか、こんな幸せを。
辛い道に楽しみを見出すことができると、期待されたのだった。彼らのそういう強さを、シルーもいつか持つことができると、予め祝われていたのだと。

これは、あまりに自分に都合の良い考えだろうか。ドチャクソお花畑だろうか。それでも良い。フン、オレはほどほど勝手にやらせてもらう。──こんなに幸せに満ちた言葉なら、あの正論パンチ医官だって、呆れて物も言えないでしょう?

しゃくり上げて乱れた呼吸の中で、それでも笑みが浮かんでしまって、息が苦しい。先輩の一人が笑い過ぎて過呼吸になっている姿が頭に浮かんだ。絶対に足を止めて、呼吸を整えた方が楽だと言うのに。

もったいなくて、歩くのがやめられない。

砂塵が舞う。シルーの背中の遠く向こう、愛しき亡霊たちの遺品を載せたアルゴスの姿が烟っていた。