Hari0520001
2025-07-06 00:28:37
9181文字
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今日だけ僕は③

女装×パーティ潜入
やっとパーティ手前だ

03

可愛いペットの服を仕立てにテーラーに行ってから約一週間と三日。とんでもない速さでスーツが仕立て上がったと聞いて、いてもたってもいられず、昼間に仕事を切り上げてしまった。読み上げる原稿が面白みに欠ける内容だったこともあって、しめた!と思った。例のパーティで必要なものができたからと同僚に伝えると、それは大事だと快く送り出してくれたので、早速テーラーに車を走らせる。
途中、仮縫いの段階ではハスクだけを向かわせたから、僕が全体を見るのは初めてになるのだ。自分の横に立つ男のスーツだ、最高の仕上がりを期待するのは当然のこと。
出来上がったスーツを想像すると、鼻歌が止まらなかった。

***

自宅に着くと、そこにはまるで自分の家のように過ごすハスクがいた。
鍵も渡しているし、勝手に家の中で過ごしていたとしても何ら不思議ではないが、昼間から酒を飲んでソファでラジオを聞いているのを見ると、まるで猫がくつろいでいるのを眺めている気分だ。
まあ、猫は酒を飲まないが。
「うお、喋ってねえと思ったら……ずいぶん早いな」
「君のスーツができたって連絡があったの、もらってきちゃった」
「俺に言えばよかっただろ」
「おや、正論」
ハスクがだらけるソファの前のテーブルに箱を置くと、早速ふたを開けた。光沢のある濃紺の布地が、不織布の奥に見える。
不織布を避け、ジャケットを取り出すと高く掲げて眺めてみる。品質はもちろんだが、思っていた通りの仕上がりになっていて、つい口が開いたままになってしまう。
「いやあ、オーナーの腕はすごいなあ……せっかくミシン導入したって言うのに、結局自分でほとんど縫っちゃって……
「オーナーが?ほかの職人じゃないのか」
「あれ、聞いてなかったの?もう、自分で縫うんだ!ってすごい張り切っちゃって寝てなかったらしいよ」
「そこまでか」
事実、興奮して寝れない分を作業時間にあてたらしく、今日あったオーナーの目元は隈ができていた。年齢も年齢だ、無理はしないでほしいものだが、本人が好きでやっているのだから止める権利は僕にはない。無事渡せたから、今日は早く帰って寝るんだ、なんて言っていたので、早く取りに行って正解だった。
僕自身のスーツも、彼が手ずから作ってくれるものだから、彼にはいなくなってもらっては困る。
「ねえ、着てみてよ!オーナーからも変なところあったら早めに持ってきてほしいって言われてるんだ」
「ならやっぱり俺が取りに行けば良かったじゃねえか」
「早く見たかったの、僕がね」
箱の中身を出すように促す。テーブルの上に箱の中身を並べると、着ているものをソファに雑に脱ぎ捨てていく。ほぼ裸になったところで、真新しいシャツから順に、衣服を身に付けていった。
最後にジャケットを渡すと、それはそれは滑らかに羽織って見せた。完璧だ。仕立ての良いスーツだからこそ、引っかかることなどなくスムーズに着用できるというものだ。
「こっちを見て、まっすぐ立ってみて」
……おう」
そもそも大柄で筋肉質な体格のハスクが、サイズの合わないスーツなど着ようものなら不格好にしかならないだろうが、仕立ての良いスーツならばこの通りだ。
「うん、うん!いいね、ハスカー、すごくいい!ああ、ジャケットのボタンは開けていていいよ」
今回お願いしたのはスリーピーススーツ。パーティに来ていくにふさわしいピークドラペル、ダブルブレストの三つボタン。堅苦しいパーティではないから、ジャケットの前を締めなければならない場面はほぼない想定だが、ボタンを閉めると誠実さが際立つし、何より少し軍人ぽくも見える。何もないことを祈ってはいるが、万が一荒事になりそうな時、隣にこんな見た目の男が立っていたら、迂闊に手を出せないだろう、という考えである。
「思ったよりシンプルだな」
どんなものを想像していたのか分からないが、今後あったら困らない一着として持つなら、これくらいシンプルなものが良い。
「シンプルではあるけど、いろいろ考えてこうなってるんだよ———君はガタイがいいから、普通にしているだけで目立つし、何より威圧感を感じる人間もいるだろう。僕としては、メリット半分、デメリット半分なんだ」
メリットは言わずもがな、ないと思いたいが、変に言い寄ってくる虫を避けられること。デメリットはと言うと、情報収集の妨げになるかもしれないということだ。同伴者がまるで軍人か警備隊のようないかつい見た目の男であることを理由に、話しかけることを拒まれてしまう可能性がある。
いくら本人が違うと言っても、この顔つき、体格、雰囲気、どうしても堅気に見えない———これがデメリット。僕からしたら可愛い仔猫だが、普通の人間からするとそうは見えないらしい。初対面の人間ならなおさらだ。
「ダークネイビーのスーツってどんな場面でも着れるだろう?生地はシャドーストライプ。パーティ会場は光源が多いから、ストライプもはっきり見えると思う。普通のストライプだと縦のラインを強調しすぎるけど、これならさりげないのに引き締まって見える。」
ハスクの着たジャケットをなぞりながら、自分がイメージした理想像をつらつらと語ってやることにした。
ジャケットを開かせると、中はボルドーの光沢ある裏地が使われている。
「裏地にはジャガード織のペイズリー柄を使ってもらった。高級感あるし、上品で何より洗練されたイメージがあるだろう?ボルドーも格好いい」
説明が終わったところでハスクを無理やり回転させ、後ろを向かせた。
「おわ」
「ごめんごめん……でね、何かあった時動きやすいようにサイドベンツ。体格的にも、サイドベンツの方が余裕があって着やすいと思って。ポケットはノーフラップで」
ベンツからポケットまで、説明しながら両の手でなぞっていく。触り心地のいい生地に、ついつい触れるのが楽しくなって何も考えず撫でまわす。ジャケットのポケットからまっすぐ下方へ手を滑らせ、ちょうど太腿の付け根のあたりで動きを止めた。
「スラックスのタックもね、動きやすいようにツータックにしてもらって……ああ、あと君お尻大きいし、太腿もがっちりしてるからって言うのもあるんだけど」
スラックスのタックの根元に指を突っ込んで、上に持ち上げる。
「うん、まあ、その、あんまりぴっちりしてなくて、動きやすい、な」
「だろう?いやあ、思ってた以上に良い仕上がりだね!野暮ったくならないか、ちょっと心配だったんだけど……さすがプロ、いい仕事っぷりだ」
「なあ」
ふいに、ハスクから声がかかる。こちらを見るでもなく、若干うつむいたままで何か言いたそうにしている。
「どうしたの」
よく見ると耳が真っ赤だった。
———それ、わざとなのか」
「それ、というと?」
「無自覚か?ほんとお前質が悪いな……触り方がやらしいんだよ」
そんな風に触っていたつもりはなかったのだが———どうやら新しいスーツの生地を堪能していたのが良くなかったらしい。
「君が”そういうことをしたい時”の触り方の方がよっぽどやらしいと思うけどね」
「これっぽっちも変わらねえよ……そんなふうに腰回り撫でまわしてみろ、今頃どいつもこいつもテント張っちまうっつうの」
「意識しすぎでしょ……採寸される時までそんなことになってたんじゃ……
「んなわけあるか!」
耳がどんどん真っ赤になっていくのが面白くてつい、随分とからかってしまった。そりゃあ採寸でそんなことになっていたら笑いものになるだけである。
「ごめんごめん、冗談さ、冗談———うん、でも僕も別に変な触り方してるつもりはないからね」
密着してしまっているのは認めるが、別に、生地の滑らかな感触を楽しみながら自慢のスーツの話をしているだけであって、いやらしいことは全く考えていない。
「さて、仕上げにもう二つ」
変に緊張していたであろうハスクの身体を離してやって、もう二つ、サイズの違う箱をテーブルの上に重ねて置いた。
「なんだ、まだあんのか」
素直に驚いたハスクが目を点にしている。普段ポーカーフェイスというか、なんにでも興味がないような顔をしているくせにこういう時は表情豊かで大変可愛らしい。
「まず小さい方ね……カフスなんだけど、これ、瑪瑙がついてて綺麗だろ?君の瞳の色と似てる」
「そういうことは女にでも言ってやれよ……
「嬉しい癖に」
言葉とは裏腹に、少しばかりもじもじしたハスクはそれはそれは愛らしかった。女性からものを恵んでもらうことはいくらでもあっただろうに、まるで生娘のような反応をしている。いや生娘は言い過ぎだったかもしれない、おもちゃをあげた時の猫の方がしっくりくる気もする。
「でね、もう一個は靴!君の手入れもほとんどしてないようなボロ靴を履いて行かせるわけにいかないからさ」
「ボロは余計だ」
「どこがさ!クリーム塗っていないどころか、ブラシもかけていないだろう?」
長年履いているところを見ると、良いものをもらってそれをずっと履き続けているんだろうが、ケアが全くされていないから剥げていたり思いっきり傷ができている。もっとケアをしていたら綺麗な状態でもっと長持ちするっていうのに、そういうところは無頓着だったりする。全くもって勿体ない。
「これは僕からのプレゼントなんだから、ちゃんとケアして、長く履いてよね」
サイドモンクストラップの革靴を床に置いて、人差し指でそれを履くように促した。
「お前これ、履くのも結構手間なんだが」
「何かあった時のことを考えれば、足がしっかり固定される靴の方が良いだろう?」
靴を履き終えて立ち上がるハスクの手を取って、チェーン式のカフスをつけてやる。腕を様々な角度から眺めたあと、次は離れたところから全体を見て、ついつい口元が緩んでしまった。
「どういう顔なんだそれは」
「いやあ……”Fine feathers make fine birds.”とはこのことかな、ってね?いいじゃないかハスカー!君は元が良いんだから、もっともっと見た目にも気を遣うべきだ———さて、汚すといけないから脱げ」
数歩でハスクの目の前まで戻ると、ジャケットから何から脱がしにかかる。手早く脱がせながらも、汚したり破れたりしないよう気を付けねばならない。
「いい、いい、自分で脱ぐ!」
スーツを脱がす手を止めようとするハスクを上手いこと避けながら、脱がしたものを椅子の背にかけていく。スラックスを脱がしたところで、膨らんだ何かが窮屈だと主張しているのが見え、ついスラックスを床に落とした。
「君って本当に見境ないというか、何でもかんでも反応するというか……
「さっきの!どう考えてもさっきのお前の触り方が悪いだろうが!だから自分で脱ぐって言ったんだ」
慌てて、手で股間のあたりを隠して俯く。
「なぁに、急に童貞みたいな反応しちゃって……かわい子ぶっても股間のそれは全然可愛くないし」
「んなこた知ってる」
もともと履いていたスラックスを引っ掴んで、ちょっぴり膨らんだ股間を隠すように足元から引き上げると、手早くボタンを留める。
「まあいい、君が金に困ってスーツや靴をうっぱらってしまわないように、当日までは僕が預かっておく」
脱いだ新品のスーツをまとめて片腕に持つ。
「さすがにそんなことしねえよ」
「どうだかねえ?魔が差してってこと、よくあるだろう?」
寝室に向かいながら、後ろをちらりと覗き見て言う。ハスクはむっとしているものの、否定まではできないのかだんまりを決め込んでいた。
口をへの字に曲げて、細めた眼をひたすらこちらに向けている。
拗ねてしまった子供のようで可愛らしい。ただこれが、実際の子供だったとして、可愛いと思うかどうかは別である。
本当のクソガキがあんな顔を自身に向けていたら、一発ひっぱたいているかもしれないから、この”可愛い”という感情はハスクだから出てくるものだろう。
「まあ、売るのが悪いとは思わないけど、パーティまではご遠慮いただきたいからさ」
「売らねえって」
「はいはい」
寝室まで後ろをついてきてまで、必死にスーツを売らないのだと必死に主張しているのが面白い。より一層、泣きそうになりながら、親に縋る子供みたいに見えてくる。
この男は、この大きな図体で見た目もいかついというのに、どうしてこうも庇護欲をくすぐるのが上手いのだろう。
行きついた寝室で、鼻歌を歌ってスーツをハンガーにかけながら、ハスクが取る行動、見せる表情を反芻して楽しんだ。
「なあ」
「どうしたの」
「売らねえって言ってる」
「まだ言ってるの?ほら、こっちにおいで」
スーツをかけ終わり、空いた両腕を広げてハスクを呼ぶ。
呼ばれたハスクが素直に歩み寄ってきたところをしっかり抱いて、背に回した手を後頭部まで滑らせ、ぽんぽんと軽く叩いてやった。
「拗ねない拗ねない……だってほら、君は僕の生活費だってこっそり持ち出すしね?前科があるからついねえ」
「それはァ……
ハスクは以前、僕の金を勝手に持ち出し全額使い込んだことがある。一発ぶん殴ってから聞いた話だと、無一文だったのだが馴染み客からの誘いを断ることができず、ちょっと借りるつもりがなかなかの額が入っていたために欲に目がくらんで全額持ち出したのだ。それ以降、金が欲しい時は直接言うように念書を書かせたし、金は少額を手元に残して銀行に預けるようにしたのだった。
「あれからちゃんと約束は守っているし、僕だって君のこと信じたいと思っているけどね———今回はとりわけ大事なイベントだから、僕だって慎重にもなるさ」
「別に……
「ね、ほらほら、いじけないで」
ベッドに腰かけさせ、自身も隣に座る。頭を撫でながら顔を覗き込むと、まだぶすくれた顔はしているものの、自分がしたことも思い出して腑に落ちたようだった。
「今のうちに、当日の動きを説明しておくとしようか」

———パーティはPM十八時から開場する。僕らはそれに間に合うように、ここでドレスアップ、車で局まで一度出向き、全員そろってからタクシーで会場へ移動し、受付をして中に入る。PM十九時には主催である新聞社社長が挨拶をしてパーティが本格的に始まる。招待状を持っている一般招待客が会場にいられるのは二十一時までだ。僕らはそれまでに何か情報をキャッチして外に出なければならない———

「何かご質問は?」
……俺はお前について歩いているだけで構わないのか?」
「ああ、それでいい。ただ、ずっと引っ付いてなくても大丈夫だよ、僕もたまに単独行動を取った方が情報収集しやすいだろうし」
目的はどこよりも早く、新聞社社長の汚職や裏の顔を探ることだ。情報が得られるのであれば、それは僕でなくてもいい。局の人間が情報を持ち帰ることができれば、参加したチーム全員の手柄として認められるのだから、僕だけが功を馳せって動く必要はないのである。
ただ———
「問題は二十一時以降のことなんだけど」
「なんかあるのか?」
「二十一時以降はVIPだけが参加できるパーティらしくてね……どう考えたってそっちの方が情報が集まりやすいと思わないかい?」
VIPがどのように選ばれているのかは謎である。大方、すでに交流を持つ政治家や他企業の社長、幹部などなどが名を連ねているのだろうが、残念ながら、そこに自身の名ををねじ込めるようなコネクションは一切持ち合わせていない。半ば諦めてはいる。
「もし会場内で、当日にVIP待遇が受けられるチャンスが巡ってきたら、僕だけでも参加するかもしれない」
そこまで計画を口にしたところで、大人しく話を聞いていたハスクが急に身を乗り出して来る。肩をがっしりと掴んだ手は力強く、そして熱い。
「お前、ミムジーが逃げたパーティーだってこと、忘れてねえか」
「忘れてないさ」
彼女が逃げるなんて相当危ない何かがあると思っていい。裏社会にも少しばかり詳しい彼女は、たびたび問題を起こしては僕に面倒ごとを押し付ける。
僕は彼女のそんなところが嫌いではないし、むしろ面白いと思っているから、いつもその面倒ごとを引き受けもするのだが———そんな彼女が逃げるパーティとは、どんなものだろうか。
考えるだけで参加したくなくなるような、その反面胸が高鳴るような。話し手としては、面白い種を手に入れて、ばらまいて、芽吹き育つところを見てみたいのだ。
その時の人々の顔を思い浮かべるだけで、どんなに過酷な現場だろうが楽しめるというもの。
もちろん、僕の話を聞いて素敵な笑顔を浮かべた人間がいればそれは一等喜ばしい。
「まあほら、またもや立派なナイトくんがいてくれるわけだし?頼りにしているよ」
「お、おう」
頼りにしているという言葉を投げかけられた時のハスクの顔は何とも言えない顔をしていた。困ったような、それでいて自信があるような顔。
「ふふ、なあにその顔」
眉間のしわを広げるように親指でぐにぐにと揉んでやると、まるで撫でることを要求する猫みたいに額を押し付けてきた。撫でるのを親指から手の平に、場所を額から頭頂へ変える。顔は相変わらずむつけているが、喉からぐるぐると音がしていそうな甘えっぷりだった。
「おっきな猫だな、まったく……さて、今日は僕も年甲斐もなくはしゃいでしまったから、少しばかり早く休みたい。食事に風呂に、ベッドにはおっきな猫の抱き枕もほしい」
「飯も風呂も用意する。抱き枕は……いくらでも貸してやれる」
「よろしい!いい子にはキスしてあげよう」
撫でていた頭をがっちり掴むと、頬に思いっきり唇を押し付ける。
「口じゃねえのか」
唇を尖らせて拗ねて見せたが、褒美がまったく何もないわけではないことに気をよくしたのかすぐ立ち上がって寝室を後にした。
「ん~可愛らしい」
ベッドに寝転がって、先ほどまでハスクが座っていた辺りに手をやると、ほんのり温かかった。猫が去ってしまったあとの何とも言えない温もり。
とは言え、猫なんて飼ったことはない。犬よりは断然好きだ。傍若無人、気まぐれ、好き勝手行動して言うことを聞かない動物だとなんとなく知識として知っている。
それに当てはまってしまうのがハスク。何かするたびに猫のそれに当てはめて考えてしまう。
食事を与えてくれる人間にはそこそこ懐く。ひとたび懐けばどんどん甘えるようになり、見るだけで喉を鳴らして寄ってきたりする。
「あったかいな」
手の平から感じるささやかな温もりが消える前に、意識が暗闇に落ちていった。

***

アラスターからパーティへの参加を宣告されてからちょうど二週間。ついでに言うと軽い禁欲をしている期間でもある。
今日が無事に終えられれば、この辛さともおさらばだ。
「こらハスク、動くんじゃない」
髪のセットなんて自分でできると言ったが、目の前の男———否、今は女と言った方が正しいのか———アラスター改めアリーは、俺のコーディネイトを完璧にすることに夢中だった。
手早く着替えとメイクを済ませたと思えば、着替え終わった俺を椅子に座らせてワックスを手に取った。ブラシで毛流れを丁寧に整えた後、両手にワックスを広げて髪を撫でつける。さらにコームで馴染ませて、最後にもう一押し、手のひらで両サイドを撫でつける。
「はい、できた。どう?いつもの雑なセットと違って素敵でしょ」
手鏡で見せられたのは、普段よりも両サイドを固めに撫でつけた姿。帽子をかぶればまるでパレードを歩く生真面目な軍人のようだ。
「すげー固くねえか」
「いいの、これくらいかっちりしててもらった方が」
手を洗ってくると言って、アリーはいつも通りと言わんばかりに美しい所作で歩いて行った。多少タイトなドレスだ、歩くのもなかなか窮屈だろうに、そんなことは微塵も感じさせない美しさだった。
「お待たせ。立って全身を見せてくれる?足りないものがないか見たいから」
「強いて言えばお前が隣にいりゃあ問題ないと思うが」
「またそうやって、口説きの常套句みたいなことを」
それはそうだ。俺は今日、こいつの隣に立つために用意されたカードなのだから。正直、足りないものなんてない。スーツから始まり、カフスも靴も、チーフ、果ては香水まですべて、アラスターに用意されたもので構成されている。
この状態で何か足りないとすればそう、紛れもないアラスター本人だ。
「ううん、でもそうだねえ、良い仕上がりだ。あとはこう、しゃんとして立ってくれるかい」
猫背を指摘されるのはいまに始まったことではないが、今回ばかりは直す努力をするほかなかった。とりあえず背中をそこそこまっすぐにしてみる。
「前も言ったろう?糸で吊り上げられているイメージだって……深呼吸して、肩を広げるように」
「うっ」
背後に回ったアラスターが肩を外側に向かせるように、広げるようにめいっぱい力を入れる。肩甲骨が自身の背中でぐっと近づいて胸が張る。
「ほら、胸が自然に前に出るだろう?せっかくいいスーツを着ているんだから胸を張ってよく見せないと」
姿勢が直ったのを見て離れていったアラスターならぬアリーは、テーブルの上に用意していたオペラグローブを着け、クラッチバッグを手に取る。ここまで完璧な女装もなかなかない。
———身長と肩幅だけが、その完璧さを妨げているが。
「レディ、ストールを忘れている」
「あら、ありがとう」
どこから出したか分からない声が響く。高い。女性にしては低いかもしれないが、まあ、いなくもない。
「そんなに驚く?今の内に慣れておいてね……車、運転してくれる?あとエスコートがおざなりにならないように」
肘をトントン叩いて開かせ、するりと手を差し込んだ。
「ずっとそれで喋るのか」
「だってこの格好でこの声だったらみんな振り向いちゃうだろ」
急にいつもの声で発声した隣の人物にもう一度顔がこわばる。つい顔を二度見するぐらいには、音程の差がありすぎて耳を疑った。
「どっからどういうふうに出してんだ」
「ひ・み・つ」
もはや何も考えない方が良い。とにかく今日すべきことは、隣の”女”を守ることだけだと言い聞かせ、乗り込んだ車をラジオ局まで走らせた。
着いた先で方々から様々な言葉お浴びせられたのは言うまでもないが、ティムとペアを組んだケリーが放った言葉はアリーことアラスターに刺さったであろう。
「ほんと、その辺にいる女性より綺麗で……近寄りたくないですね」



To be continued