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溶けかけ。
2025-07-05 23:50:03
3912文字
Public
ほぼ日刊
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月没
遊郭パロ。
大金持ちのヌヴィレットと遊女のフリーナのお話。
「ちょっと、今の男見たかい!? とんでもない美丈夫じゃあないかい!」
遊女が年上の遊女の肩を揺する。彼女はぷかぷかと紫煙を吐きながら気のない返事をした。
「うん? あぁ
……
月の兎太夫の間夫かい。金払いもいいってんで妓楼主のお気に入りだよ。手出ししたら折檻が待ってるからあんたも覚えときな
……
って、もう遅いみたいだね」
遊女の視線の先には若い遊女が徒党を組んで男性の足を止めていた。銀の髪に薄い紫の瞳、すっと一つ通った鼻筋──この国の人間にはない造形に惹かれる遊女は多い。今まさに声をかけている彼女らのように。
最年少で太夫に登り詰めた月の兎。その間夫は月の兎一筋だと専らの噂だが真偽を見定めるのに丁度いい──遊女は僅かに唇の端を吊り上げると煙管を燻らせながら男性に値踏みをするかのような視線を向けた。
「あんた、少しだけ寄っていかないかい? 今日は茶引きばっかりでね」
「ちょっと! 抜け駆けはなしって話だっただろう!? 旦那、あたしはどうだい? こいつよりいい女だと思わないかい!?」
四、五人の遊女に囲まれる男性。囲んでる遊女はいずれも格子や散茶といった高位の者たちだ。妓楼の決まり事がしっかり頭に入っているような者たちですら狂わしてしまうほどの魅力を持ち、身分も財も申し分ない男性が少し他の花に目移りしたとして、誰が咎めることが出来ようか。もしここで男性が自らを囲む遊女の誰かの手を取ったとしても妓楼主は見て見ぬふりをすることだろう。
「すまないが
……
私は月の兎一筋なのでね。君たちが齎す一夜の夢は他の者にこそ相応しいだろう」
男性が微笑みかければ、遊女たちは仄かに頬を染めてその顔を見つめていた。惚けたまま微動だにしない遊女たちの間を男性がすり抜けていく。
(へぇ
……
やるじゃないか)
事の成り行きを見届けた遊女は男性の態度に感心する。どうやら噂は真実であったらしい。
「月の兎太夫ですね。少々お待ちください」
禿と呼ばれる少女は男性──ヌヴィレットの姿を認めるとお辞儀をして、奥の部屋へと入っていく。
「どうぞ、こちらへ」
ヌヴィレットが案内されたのは客を取るための部屋ではなく、月の兎の私室であった。ふわりと香るのは先ほど廊下でこちらの様子を窺っていた遊女と同じ銘柄のようだ。
ヌヴィレットは窓に向けて煙管を吹かす少女に近づくと、小さな手には不似合いなそれをもぎ取った。
「君はこれが好きではなかったと記憶しているが」
ヌヴィレットがそう言えば、少女が気怠げにこちらを振り向いた。青い色違いの瞳は水面を写し取ったかのようにゆらゆらと不安定に揺れている。
「やぁ、ヌヴィレット」
沈んだ声で月の兎と呼ばれた少女が私の名を口にする。今日の彼女は随分と塞ぎ込んでいるらしい。
「君には紫煙よりこちらの方が良いだろう」
ヌヴィレットは懐から可愛らしい包みを取り出すと少女の手のひらにのせて包みの紐を解いた。開いた包みの端からは金平糖がぽろんぽろんと溢れ落ち、月の兎──フリーナの足元に散らばった。
「
……
星屑みたいだ」
物憂げな表情の中に混ざる年相応の少女の顔にヌヴィレットは安堵する。煙管の味も煙も苦手だと公言していた彼女がわざわざ健康を害するものを取り込むのは自傷行為の一種らしい。本人もそのことには気づいていないようだが。
ヌヴィレットは視線の先で色とりどりの金平糖を並べては目を輝かせるフリーナの隣に座する。
「気に入ったか?」
「ああ、とても!」
憂いを帯びていた顔はすっかり喜色に塗り替えられ、手のひらで金平糖を遊ばせるフリーナ。ヌヴィレットはそんな彼女の手のひらから金平糖を一つ取り上げると小さな口の前に持ってきて制止した。
「僕、雛鳥じゃないんだけど」
眉を寄せて表情を曇らせたフリーナが抗議の声を上げる。
「嫌か?」
「嫌じゃないけど
……
恥ずかしい
……
」
頬を仄かに染めてヌヴィレットを上目遣いで見つめるフリーナ。身体を重ねたことも数あれど、時折見せる初々しい一面は愛らしい。
「
……
フリーナ」
源氏名ではなく本名を呼んでやれば、おずおずと金平糖をヌヴィレットの手から食すフリーナ。その様子に満足して頬を緩めれば、軽い身体がこちらへとしなだれかかってきた。
「ヌヴィレット
……
」
拙い、迷子の子どものような声。間夫と遊女たちに揶揄されるヌヴィレットではあるが、彼女が弱みを見せることが出来る唯一が自身であるのなら、そんなことはどうでも良かった。
「何かね? フリーナ殿」
自分でも驚くほど甘い声で囁く。細く靭やかな指先が着物の袖を摘んだ。
「ううん
……
なんでもない」
フリーナはそう言って首を左右に振ると少し眠たそうな表情で口を開けた。
「先程は雛鳥ではない、と否定していたのではなかったかね?」
意地悪くヌヴィレットが返せば、フリーナがむくれる。
「キミの前では雛鳥になってしまっても良いだろう?」
ヌヴィレットは苦笑しながら、開いた口に金平糖を放り込む。唇を閉じたフリーナが金平糖を舌で転がすたびに口内で高く涼やかな音を立てた。
それから数日経ったある日のこと。
ヌヴィレットは久方ぶりにフリーナの元を訪れていた。
「月の兎太夫ですね。少々お待ち
……
すみません。どうやら、何か問題が起こっているみたいです」
案内をしていた振袖新造の少女が困ったように眉を顰めた。視線の先にいたのはヌヴィレットにも見覚えのある武士家系の長男であった。記憶が確かならば、彼はフリーナの客であったはずなのだが
……
。
「この野郎! 俺に逆らう気か!?」
「違います
……
! 私はそんな気は
……
!」
廊下の真ん中。月の兎の旦那である男はよりにもよって月の兎の私室の直ぐそばで他の遊女に手を出そうとしたのだろう。遊女は当然断ったが、男は断られて逆上し、暴力に走った──と、まあこんなところだろう、とヌヴィレットは状況から推測をする。ヌヴィレットの推測を裏付けるように怒声を浴びせられている遊女の化粧の落ちた頬は殴られたのか赤く腫れ上がっていた。
「吉原では浮気は御法度だと聞き及んでいるが?」
ヌヴィレットは男の剣幕に怯えて立ち尽くす案内役の少女の横をすり抜けるともう一度、振り上げられた男の腕を掴んだ。
「なんだと? この私を愚弄しようと言うのか!?」
男はヌヴィレットの手を振り払うと腰に下げていた刀を鞘から抜いた。ぎらりと研がれた刀身が姿を現せば、周りにいた遊女たちが悲鳴を上げた。
「そうは言っていないだろう
……
」
ヌヴィレットはうんざりとした気持ちになりながら男の腕を掴む。
「なんだい? 人の部屋の前で騒々しい」
襖が開き、フリーナが現れた。フリーナはヌヴィレットと男、そして被害者の遊女、というふうに三人に順番に視線を送ると、男の方へと近寄ると唇に弧を描いた。
「他の女との浮気は許さないでありんす」
ふう、と男の耳に息を吹きかけるフリーナ。男は刀を鞘に収めるとフリーナの腰に腕を回して勝ち誇ったように笑った。
「ほんの冗談さ。本命はお前一人だよ、月の兎」
フリーナの顎に男の手が絡まり、唇どうしが触れ合った。紅の移った唇を無感情に見つめたフリーナは男の腕からするりと抜け出ると妖艶に微笑んだ。
「なら、証明しておくんなんし」
フリーナが先立って部屋へと入っていく。男も言い訳をしながらその後を追って部屋へと吸い込まれていった。襖が閉まり、後にはヌヴィレットと案内役の新造、そして遊女の三人が残される。ヌヴィレットは遊女に手を貸して立たせると新造に医者を呼びに行くように指示を出した。
男が帰ったあと、私室に通されたヌヴィレットは荒れた部屋の様子に込み上げた怒りの代わりに溜息をついた。
薄暗い部屋の隅。フリーナはその小さな背中を震わせながら、桶に胃の中身を吐き出していた。
「フリーナ」
「ヌヴィ
……
ゔぇっ
……
ご、め
……
」
「謝らなくていい
……
今は、全て吐き出した方が楽になれることだろう」
乱れた着物を直すでもなく、晒された素肌には先程の男との情事に付けられたであろう痕がいくつもあった。鼻を突くほどの濃い栗の花の香りを僅かにでも飛ばすために窓を開ければ夜風がそっと二人の髪を撫でた。
ヌヴィレットはフリーナのそばに戻ると華奢な背中を撫でる。華やかな世界とは裏腹に遊女たちの世界は仄暗い汚泥のようなものだ。それは太陽が辺りを照らせば照らすほど影が濃くなることとよく似ていた。彼女たちは逃げることも出来ず、一夜の夢を見せ、若くして儚くなる者も少なくない。
「ぬゔぃ、れっと
……
」
嘔吐で掠れた声が名を呼んだ。
伸ばされた指先は氷のように冷え切っていた。
「どうかしたのかね?」
冷たい指先を絡めながらヌヴィレットは問いかける。
「僕
……
僕
……
」
フリーナの言葉は続かなかった。そのまま、ぽろぽろと溢れ始めた雫はやがて滂沱となり、白い頬を濡らしていく。
「大丈夫だ、フリーナ。──どれだけあの男と身体を重ねたとて、君の美しさが損なわれることはない」
軽い身体を抱きしめたヌヴィレットの脳裏に足抜けという言葉が浮かび、即座にそれを否定する。足抜けが成功した例は今までに一度もない。それどころか二人とも無事では済まない可能性が高い。自分だけなら兎も角、彼女にまでリスクを負わせるような真似はしたくない。
ヌヴィレットは泣きじゃくるフリーナの背を撫でながら思考する。どうすれば彼女を幸せにしてやれるだろうか──と。
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