2025-07-05 22:07:19
2967文字
Public
 

青梅

小さいお兄ちゃんと産まれたばっかりのユキちゃんの話。何もかも捏造。

 
 梅の実る頃だった。
 弟が産まれた、らしい。
 らしいというのは、少年はその父母を同じくする弟にまだ会った事がないからである。
 無事に男子が産まれたという報せがあったのはひと月程前のこと。その時は皆喜んでいたのを憶えている。しかし母は以来あまり体調が優れず、今も大事を取って離れで赤子と一緒に過ごしている。
 彼はもう十の歳になったので、離れに近付いてはいけない、という周囲の言いつけの意味はよく解っているつもりだ。今になって、弟が出来た理由も。
 彼はよく熱を出しては床について世話係を心配させたし、跡取りにしては大人しく父親に似ていない、とは父の信奉者たちの評価である。父は周囲に二人目を、つまりは代わりを作るに越した事はないと長い事言われ続け、そしてようやくそれが出来たというわけだ。
 めでたい話には違いなかった。代わりは確かに必要ではある。弟で良かった。自分に何もある筈がないとは彼自身にも言い切れないし、無事に大人になったとしても、家を継ぐには相応しくないと言われるかもしれない。それ自体は理解しているし、何も間違ってはいない。けれどももし弟が家を継いだとして、自分は身の置きどころをどうしよう、と彼は少し考えた。家を出て、新しく何処ぞへ仕事を求めようか。丈夫でない男を欲しがる所は少なかろうから、もっと鍛えてせめて腕前だけは磨いておいた方がいい。
 弟が気前よく育てば、役に立つならと家に留め置いてくれるかもしれない。まだ分からない。顔も見た事がないのだから。
 彼は、ひと目だけでも会わせて貰えなかろうか、と思った。血が繋がった小さい子供を見るのは初めてだし、どんな顔をしているのか見てみたい。弟は、自分と違って父に似ているだろうか。
 彼はひとり、大人にも告げず離れへ行った。近付いてはいけないと言われはしたが、まだ母に祝いすら述べていないのだから、少しくらいは許されるだろうと思ったのである。果たしてそこには誰もいなかったので、中庭に回って庭からそっと縁側へ近付いた。
……
 畳の上に布団が敷かれている。母の姿も無かった。しかしそこに、赤子がすやすやと眠っていた。
 彼は足音を立てないように、縁側へ上った。
 小さな小さな掌がある。可愛いな、と彼は畳に寝転び肘をついてその顔を眺めた。じっくりと眺めてはみたが、顔が誰に似ているかなど、まだ小さすぎてよく判らなかった。
 元気に大きくなるといい。なるべく自分のように寝付いたりせず。それがお家の為になる。十も歳が離れているが、大きくなったら一緒に何か出来るだろうか。
 ふと赤子がきゅっと顔を歪めた。ふんふんと鼻を鳴らしたかと思うと、急に泣き出したので、彼はぎょっとしてその場に座り直した。
「あ……
 周りに人はいない。でも泣かせておくのは可哀想だ。彼はなるべく優しく、壊れ物を触るように赤子を抱き上げ、首を支えて揺らした。自分も幼い頃よくそうして貰ったそうだ。世話係から聞いた事がある。
 それでも泣き止まないので、風にでも当たれば、と彼は縁側から庭へと出た。外は良い天気だった。
 少し庭を歩いていると、赤子は幸いすぐ泣き止んだので、彼はほっと胸を撫でおろした。真っ黒い瞳が彼の顔を、じっと見ているように思えた。実際の所、赤子というのは小さいうちは殆ど目が見えていない。彼はそれを後で知った。
 小さな手を空に伸ばしている。
 目の前に梅の木があって、青梅が実っているのが見えた。
「これが気になるのか?」
 口に入れたりする訳でなし、見せてやるくらい構わないだろう。彼は枝を引き寄せようと、腕を伸ばした。少し高いが、届きそうだ。しかし、その時だった。
――俊朗坊ちゃん!」
 振り向くと、大人が数人そこに立っていた。中に若い女性がいて、彼が腕に抱いていた赤子の姿を見ると、涙目になってその場にへたり込んでしまった。
「ああ、良かった……
「坊ちゃん、勝手に連れ出したりなさって、どういうおつもりです」
「ねえやが血眼で探していたのですよ」
 赤子は彼の手からまるで奪い取るようにその女性の手に戻され、彼はその時初めて、いけない事をしたのだと悟った。
……すまなかった」
 でも、と言おうとして、彼はぐっと後の言葉を飲み込んだ。ここで言い訳をして、誰が許してくれるだろう。誰が何と言おうと、勝手に元いた所から赤子を動かしたのは自分だ。
 彼はその日以来離れには二度と近寄らなかった。口さがない者の中には彼が己のお株を奪われまいと、嫉妬と焦りから弟を害そうとしたのだと酷い噂をするのもいた。無論そんなつもりは毛頭なかったが、自分は何と言われようとどうでもいい。それだけならまだしも、誰より母に叱られたのは彼の世話係で、どうして目を離したのか、次にこんな事があればお前の責任にして罰をとまで言われていた。何もかも自分のせいだ。この身が痛めつけられる方が、まだましだ。
 小さな弟にも悪い事をした。やはり自分は、父の子としてもあの子の兄としても、不出来なのかもしれない。

***

…………ういう……俺自身にはどうにも出来ないやつ、やめてくれません?」
 少なからず渋い顔で弟がそう言うので、彼は溜息を吐いた。
「まぁそれは最初のきっかけで、それ以外にも色々あったんだが」
「知らねぇ~……なんで知らないんですか他ならぬ俺が……
 作業の手を止めないまま、不機嫌そうに唇を尖らせている横顔には、だいぶ成長したとはいえまだ幼さが残っている。
「お前はまだ小さかったから……
「じゃあ後でいつでも言って下さいよ、諦めないで……
「うん……まぁそうだな。良くなかった。今ならそう思う」
 幼かった彼には、関わりを深く持たない事が最良の道に思えたのだ。けれど遠く旅先で出会った、互いを大切に思い合う兄と妹とを見れば、考えも変わる。兄は諦めなかった。妹の命を、誰かの犠牲を。何もかも。そして今やその頭上にあるのは、黄金の王冠である。彼は、そんなあの男をいっときは信じてやれなかった事を、己への罰として竜の肉を喰らってのち、今でも忘れ去った訳ではない。
 手に入らないものを、いけないと止められているものを、仕方がないと諦めるのは時に正しい事とも限らない。
 籠いっぱいの青梅の、なり口を取っていく。よく水気を拭いて、黴がつかないように。
「これはお酒にするのですか」
 手拭いでひとつひとつ、兄達が処理したそれらを丁寧に拭いていた末の弟が、梅の山を見て言う。多分そうなるのだろう。
「私は朝餉のお菜にする梅干しの方が好きです」
「それはもう少し熟れて、黄色くなったのを使う」
 ならそれも作りたい、と言うので、また近いうちに似たような作業を並んでやる事になりそうだった。
 末の弟は嬉しそうに笑っていた。
「二の兄上、きっと今からでも遅くないですよ」
「何が」
「えっ? 何がって……もう一度抱っこして貰いたかったのでは?」
 途端に手元が狂って竹串で指を刺しそうになった次男が、さも不思議そうに目を丸くしている末っ子の顔を見る。
「これが終わったらな」
「乗らなくていいですから……
 生温い夏の風が吹いて、梅の枝を揺らしている。