千代里
2025-07-04 08:00:23
11222文字
Public リーブラ15話
 

リーブラの針は問う・15話・その12


 ノエたちが身構えていた割に、脱出そのものはあっさりと遂行された。
 日付が変わる頃合いを見計らい、ヤルマルによって扉はあっさりと開かれた。続けて、廊下で待機していたミラベルに導かれ、離れから屋敷の裏口を経由して、敷地の外にでる。
 屋敷の広大な敷地を駆け抜けるときだけ、見つからないものかとヒヤヒヤしたが、存外に誰にも呼び止められることはなかった。
「ミラベルさん、助かりました。あなたの協力があると分かっていなかったら、部屋の中でひと暴れしていたところでしょう」
「そうしなかったのは賢明ですね。もし、あなたがオーバン卿に明確に剣を向けていたら、彼は容赦なく武力を行使して、あなたたちを拘束していたでしょう」
 十分に屋敷から離れた頃、ミラベルが案内してくれた無人の建物の中で、ようやく一同は一時的な休息を得た。
 外套のフードをおろし、ノエは手早く礼を口にする。ミラベルは何度か首を横に振ってみせた上で、ノエたちの忍耐強さを褒めた後に、表情を曇らせた。
「それに、私があなた方を救出できたのは、結果的にオーバン卿があなた方の脱出を望んでいたからでもある……私は、そのように感じています」
「つまり、これも彼の策の一つであるということ?」
 言いつつ、サルヒは素早く窓の外に視線をやる。
 灯りのない部屋から見た外は、月の光で雪が照らし上げられ、煌々と輝いているようにも見える。そこに、人影はなかった。
「オーバンさんの手のひらの上で踊らされていようと、かまいません。僕は仲間を追いかけたい。それだけです」
「そうおっしゃると思っていました。もし、このままイシュガルドを出たいと望まれるなら、どう案内したものかと思っていたのですが」
 念の為と示されたもう一つの選択肢に、全員が首を横に振った。
 ミラベルは「それなら」と言葉を続ける。
「オーバン卿は、私にオデットたちの追跡を依頼していました」
「だから、あんたは旅支度の装いで俺たちの元に来たのか。さしずめ、出立のどさくさに紛れて、というところか?」
「そうです、オランロー殿。ルーシャン殿が目的地に到着した後、私にはオデットを奪い返す役が与えられていました。ただ、この様子ですと、あなた方を伴って姿を見せることで、彼の足止めをする役も任されていそうです」
「オーバンの思惑に乗るのは癪だが、ルーシャンの元に向かうのは、オレたちの目的からもずれてはいない。暫くは、奴の思う通りに動くしかないだろう」
 オーバンは、ノエたちをルーシャンに差し向けることで、ルーシャンが躊躇する可能性に再び賭けたらしい。目的地に着いた後ならば、オーバンにとって足止めは寧ろ望むところなのだろう。
「それなら、オレたちがあんたの側にいれば、オーバンの配下から妨害を受ける可能性は低くなるのか」
「そういうことになります。とはいえ、オーバン卿の配下の者も一枚板とは言えません。オーバン卿以外にも忠誠を誓っている者もいるでしょうから、注意はした方がいいでしょう」
「エヴラールの魔法が、他の貴族にも漏れているの」
「全容は分かっておらずとも、オーバン卿が動けば少なからず目につきます。情報を得るために、ルーシャン殿たちや関係者の私たちに手を出そうと企む者が紛れ込んでいても不思議ではありません」
 サルヒに返答したミラベルは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。オーバンの元に長くいた彼もまた、オデットを守りたいという意味では、必ずしもオーバンに忠誠を誓っているとは言えない立場だ。
「彼の元に仕えているのは、忠義者ばかりではないってことだね。貴族様は配下が多くて羨ましいと思っていたけれど、こうなってくると、配下がいる方がいいのか悪いのか」
「それも含めて人を動かすのが、貴族というものですから。では、そろそろ移動しましょう」
 町の入り口にチョコボを用意していること、食料などはそちらに運び出していることを説明すると、ミラベルは休憩場所を抜け出して、一同の先導を始めた。
 深夜の街は、街はずれにある繁華街などの一部地域を除けば、ひっそりとしている。静寂に紛れ込むようにして、極力足音を殺して、ノエたちは街はずれのチョコボ留めへと到着した。
 人ばらいは既に済ませているのか、待っているのは数羽のチョコボと、見慣れた小柄な青年だった。
「ティエリーさん!? 一体、あなたがどうしてここに……
「やっときたか。チョコボを借りて、ここまで連れてくる要員が必要だったからな。セルジュアンとミラベルに頼まれたんだよ」
 手綱を引いていたチョコボの体に鞍を装着させてから、ティエリーはノエへと駆け寄る。
「事情は、ミラベルから聞いたぜ。あのくそじじいが、また何か企んでいて、逃げた二人を追いかけようとしてるってな。オデットを連れていなくなったってことは、遺産の権利の話とかだろ」
 どう返したものかと、ノエはミラベルを見やる。彼は、ティエリーに気づかれないように小さく首を横に振っていた。
 どうやら、ミラベルはあくまで「オーバンがまた何か企てており、そこにオデットが巻き込まれた」ことだけを伝えたらしい。邪竜を討伐する魔法のことや、その封印を解く鍵の件は、伏せたままでいるようだ。
「ティエリーさんも、僕たちの脱出に協力してくれたのですか」
「直接は無理だったんだよ。だけど、セルジュアンにも相談したら、すごく乗り気になってくれてな。冒険の話を聞かせてくれた皆に恩返しがしたいって、厨房に忍び込む役はあいつが受け持ってくれたんだ」
「ということは、あのリンクパールやピンは彼が入れたのかい」
「そうだぞ、ヤルマル。グリダニアにいた時、俺に話してくれた宝の鍵開けの話を、セルジュアンにも教えてやってたんだよな。それを思い出して、ヤルマルならできるんじゃないかって言い出したのは、あいつなんだよ」
 ティエリー曰く、セルジュアンは普段から使用人の仕事にも興味を持ち、厨房にも頻繁に顔を出していたようだ。そのため、厨房を彷徨いてもそこまで目立たない彼が、必要な物資を届ける役割を見事に果たしたということだった。
「ミラベルにも言われたんだ。俺が行動したら、何かと目立っちまうってな。俺はお前らとも親しくしているし、そうなると、俺が屋敷の中でちょろちょろしてたら、脱出のために手を貸そうとしてるって言っているようなものだろ? だから、街に出てチョコボの準備やら食料の購入やらをしていたんだ」
 ティエリーが示した先、チョコボの鞍には大きな袋がいくつかぶら下がっていた。
「中には、ニヴェール領の地図も入っている。親父の書斎にあった、最新のやつを写しておいた。町や村の位置も書いてあるから、食料が足りなくなっても、ノエたちなら何とかできるだろ?」
「その口ぶりだと、君はついてこないのかい?」
 ヤルマルが意外そうに尋ねたのも、無理もない。真っ先についていくと言い張りそうなものだと、ノエも思っていたところだった。
 しかし、四人の予想に反して、ティエリーは渋い表情で首を横に振る。
「俺も、最初はお前らについていくつもりだったんだけどよ。地図を漁っているときに、親父に『ちょっと長く出るかも』って言ったら……血相変えて反対されたんだよ」
 ティエリーの説明を聞いて、ノエはすぐに父親――ベリトアが、ティエリーの出立に反対した理由を悟った。
 いくら、オーバンが独断で行動していたとしても、ベリトアは屋敷の主人だ。自分の父親の謀(はかりごと)を全て把握はしておらずとも、彼がベリトアの預かり知らぬところで何かをしていると察したのだろう。
 そして、その渦中にノエたちがいるということにも、気付いたに違いない。
(だから、離れの鍵を貸してほしいというセルジュアンさんの説得を、ベリトア卿は受け入れたのかもしれませんね。……僕がいたから、あの人は手伝ってくれたのかもしれない)
 ノエの伯父であるフィリベールを見捨てた負い目からか、あるいは罪滅ぼしをしたかったからか。ベリトアは父親に抗うことになっても、ノエたちの脱出を許した。
 しかし、ティエリーのことはまた別だ。彼は一度、祖父から命を狙われている。
 表立ってオーバンに再び逆らえば、今度こそティエリーの命が危ないとベリトアは考えたのだろう。
「土地勘のある君に手伝ってもらえるなら、ボクとしては嬉しいけれどね」
「いいえ、ヤルマルさん。道の案内なら、ミラベルさんに頼みます。ティエリーさん、どうか屋敷で僕たちの帰りを待っていてくれませんか」
 ヤルマルの誘いに真っ向から反対する形で、ノエは首を横に振る。
 口では残るつもりだと言いつつも、ティエリーの性格からして、待っているだけは不服なのだろう。不満げな感情を隠さずに、ティエリーはノエを見やる。
「今からでも、支度をして追いかけることはできるぞ?」
「ティエリーさんに、そこまで頼むわけにはいきません。今回の件は、オデットの家族に関わることです。ティエリーさんに、直接関係がある話ではありません」
 冷たい物言いになったことを申し訳なく思いながらも、ノエは続ける。
……それに、これを僕が言うのもどうかと思いますが。あなたのお父さんが反対をしたのは、それだけあなたの身を案じているからです。今回は、彼の心配を受け取ってはもらえませんか」
 ティエリーは、まだ父の心配に耳を傾け、その場に踏みとどまるという選択肢を選べた。それは、もうノエにはできないことだ。
 ノエと彼の父との間には、言葉は届いても、行動に直結できるほどの繋がりが断たれてしまっている。たとえ父親がどれほどノエの身を案じようと、ノエが今ここにこうしていることが答えだ。
 どちらが良いというものでもない。しかし、ノエにはベリトアの憂いを少し前に聞かされたこともあって、彼の憂いを聞き届けたいと感じていた。
 果たして、ティエリーはしばらくの沈黙を挟んでから、
「分かったよ。その代わり、ちゃんと全員揃って帰ってこいよ。あのクソジジイが面倒なこと言ってきたら、今度こそ俺がぶん殴りに行くから、何かあったら連絡してこいよ」
「はい。……ありがとうございます、ティエリーさん」
 ティエリーも、ノエと父親の確執をうっすら知っているからか。多くの言葉を飲み込み、代わりにノエの肩を一度、ばしりと強く叩いた。
 今回協力してくれたセルジュアンやベリトアへの感謝の言葉を預け、ノエは用意されたチョコボへと騎乗する。腰に吊るした武器は、ミラベルたちが取り返してくれた馴染みのものだ。
 全員の支度が整うのを待っては、時間の無駄になるからと、まずノエが先行して目印と教えられた廃村までチョコボを走らせる。十分ほどで約束の場所に辿り着くと、ノエは他の面々の到着を待った。程なくして、オランローを先頭に残りの面々が間を置いて到着する。
 殿にやってきたミラベルは、先頭のノエにチョコボを近寄らせ、
「オーバン卿からは、この道を通ってルーシャン殿は移動していると報告を受けています」
「やはり、彼はルーシャんさんの足取りを把握しているのですね」
「言ってしまえば、今のルーシャン殿は猟師が用意した餌を咥えて巣に戻る、狐のようなものですから」
 ミラベルの示した道は、ノエたちの知らない道でもあった。改めて、ルーシャンにとって、この場所は未知の土地ではなく馴染みのある地なのだと思い知らされる。
 エヴラール領からは少し離れているが、父を失った彼は、傭兵として活動しているときはエヴラール領の付近で活動していたのだろう。
「目的地の目処はついているのですか。このままでは、僕たちは後手に回るばかりです。あなたの言葉を借りるのなら、僕らは狐が猟師に撃たれる前に、狐を捕まえる必要があります」
「少なくとも、ルーシャンと私たちがゴールに辿り着くのはほぼ同時である必要はある」
 横から顔を出したサルヒが、ノエの言葉に重ねて言う。
 ルーシャンが旅立ってから、すでに一日が経過している。のんびり構えていたら、彼との距離は開くばかりだ。
「ルーシャン殿が目的地に到着して、いつまでもぐずぐずしているとは思えません。早急に、オデットを彼から取り返したい」
 ミラベルの物言いは、目的さえ済ませれば、ルーシャンがオデットに危害を加えようとしていると考えているかのようだった。
 もっとも、先だっての行動もある。ルーシャンは信頼できない人物だ、と思われても仕方がない。
「ミラベル、地図を貸してくれる? もう少し近くで見てみたい」
 背の低いサルヒでは、ミラベルとノエが見ていた地図は確認できなかったらしい。彼女に地図を渡され、サルヒは波打つ地図の表面に記された道筋の線を指で辿る。
 ルーシャンが皆の前から姿を消してからの足取りは、所々は曖昧ではあったが、かなり正確に記されている。途中、洞窟で宿泊をしたあとは、休息らしい休息をとることなく、ほぼ真っ直ぐに山嶺を抜けているのが見てとれた。
「彼のとっている針路をまっすぐ伸ばしても、特にエヴラール卿ゆかりの建物などはありません。そうなると、エヴラール卿は建物などではなく、山林や山中に魔紋を隠したのではないかと考えているのですが……
「多分、そうじゃない」
 サルヒは地図から顔をあげ、何かを確信した面持ちで告げる。
「私、ルーシャンが向かおうとしている場所が分かる気がする。ルーシャンに追いつくのは難しいかもしれないけれど、少なくとも、オーバン卿はだし抜けるかも」
「本当ですか、サルヒさん」
「でも、それは、そこのミラベル司祭がオーバン卿に告げ口しなければ、の話」
 全員の視線が、一斉にミラベルに集まる。今、ミラベルは唯一オーバンとの連絡手段を所持している。彼の耳に光るリンクパールがそれだ。
 ミラベルは、皆の視線を受け止めても、動じずに一同を見つめ返した。
……誓いましょう。私は、オーバン卿に皆さんの行動を伝えるような真似はしません。不自然な挙動を見せれば、私を切り捨てても構わない」
 彼は、自分を見つめるサルヒの瞳から目を逸らさずに、言葉を続ける。
「信じてもらえるかはわかりませんが、私は、オデットの無事を強く願っています。今でも、あの子が全てを忘れたまま、イシュガルドの外で過ごしていればよかったと、私はどこかでそう思っているのです」
……信じましょう、サルヒさん。ミラベルさんは、自分が過去にオデットと関わったことすら、僕たちに告げずにいようとしました。それは、この件に巻き込みたくなかったからもあるのでしょう」
 そこまでオデットの身を案じている人物が、彼女を利用しようとする男に率先して彼女の身柄を渡すわけがない。
 そのように信じるノエに重ねるようにして、ヤルマルがミラベルを一瞥する。
「どのみち、こうして連れ出してもらった以上、オーバン卿は少なからずボクらも見張りの対象とするだろうさ。下手にミラベルを拒絶するよりは、監視も兼ねてそばに置いておいた方がいいと思うよ」
 ノエの感情的な考えと、ヤルマルの合理的な判断。どちらも聞いた上で、サルヒも小さく頷き、ルーシャンたちの行程を示す線を伸ばすように指を動かした。
「この道の先にあるのは、湖。そのほとりに、大旦那様が時折手入れに行っていた古い別荘がある」
「別荘ですか。この辺りには、主だった村もないはずですから……やはり、地図にも書いてありませんね。オーバン卿も、見落としていたのかもしれません」
 エヴラール領といえども、領土は広大だ。全ての土地をつぶさに調べるにも、限度がある。
 オーバン卿は、領地内の中でも、エヴラール卿の本邸があった街と、彼の別邸を重点的に調査していたとミラベルは語った。しかし、それはあくまで村や町の中にあるものに絞られる。
「避暑地として利用する場合、普通は長く滞在できるように、付近に村落がある場所に屋敷を建てる。でも、ここには周辺に人が住む場所がなかった。私も、以前訪れた時、風変わりだと思った覚えがある」
「以前に訪れたということは、サルヒさんも僕たちを案内できるのですね」
 期待を声に滲ませるノエへ、サルヒは頷く。
 地図を畳み、ミラベルへと返してから、サルヒはチョコボの手綱を握る手に力を込めた。
「先頭は私が行く。ミラベルは、道を確認してくれる?」
「わかりました。なるべく早く、ルーシャン殿たちよりも先に湖に到着できる方法がないか、探してみます」
 小さく頷き返し、サルヒはチョコボを走らせる。その後を、ノエはすぐさま追いかけた。
 *
 自分の進む先に誰もいない。前方を走る影がない道をいくのは、サルヒにとっては随分久しぶりだ。
 いつもなら、前を走っていたのはルーシャンだった。この十五年間、いつだって彼はサルヒの隣にいたのだから。
……ううん。私が、ルーシャンの隣にいたいと縋っていたから)
 月明かりに照らされた銀色の道を、サルヒは地図の記憶を頼りに駆け抜けていく。チョコボが雪を蹴散らす音を背景に、彼女は過去に湖に訪れたときの様子を思い出していた。
 もっと早く、あの時の光景を思い出していれば。ルーシャンがニヴェール家から戻ってきた時の慟哭の意味を、正しく受け止められただろうか。
 ――どうして、俺じゃなかったんだ。
 あの声は、自分が敬愛を抱いていた師匠でもあり父でもある男に、後継者として選ばれていなかったことへの絶望から、つい漏れてしまったルーシャンの唯一の弱音だったというのに。
(私にとって、湖で聞いた旦那様との一幕は、過去の思い出になってしまっていた。大旦那様が死んだから、それで終わりになっているものだと思い込んでいた)
 ルーシャンにとっても、父と過ごした懐かしい思い出に過ぎないだろう。サルヒは、無意識のうちにそう決めつけていた。
……私には、いつだって私の気持ちしか見えていなかった)
 自分が拒絶されるのが怖くて、口下手なことを理由に、ルーシャンの気持ちに深く踏み入ることに躊躇した。彼は復讐に囚われているのだと、自分の分かる枠組みの中で彼を捉えようとしていた。
 ルーシャン自身が、サルヒにはそう見てもらいたいと望んでいたとしても、やはり後悔は少しずつ積もっていってしまう。
(だからといって、旦那様の全てを認めて受け入れるつもりはないけれど)
 サルヒの信頼を利用するだけ利用して、置き去りにしていった。オランローの言い方は、やや極端な部分があるが、一面では事実を捉えている。
 だから、サルヒはルーシャンの元に辿り着いたときは、目一杯の怒りをぶつけるつもりでいた。
(嫌われてもいい。拒まれてもいい。……いえ、嫌われるのは、やっぱり怖いけれど、でも)
 自分はこんなにも本気なのだと、もう一度ぶつけてみせる。夜に全てを話すという約束も破っていった、あの男に。
……嘘つき」
 一晩待たせてくれ、などと言っていたくせに。
 唇を歪め、サルヒは白に染まった進行方向を見つめる。そこに見慣れた背中はなくとも、彼女は迷わずに進む。その先にいるはずのルーシャンを思い描きながら。
 
 ***
 
……眠れないのか?」
 毛布ごしに聞こえた声に、肯定を返すか、それとも沈黙を守って寝たフリを決め込むか。悩んだ末に、オデットは「少し目が冴えてしまって」と呟いた。
「きちんと体は休めておいた方がいいぞ。明日も走ることになるんだからな」
「それを言うなら、ルーシャンさんも寝ておいた方がいいと思います。見張りなら、わたしがしておきますから」
「おいおい。誘拐してきた子供に見張りをさせる犯人が、一体どこにいるっていうんだ?」
……わたし、誘拐されたんですか?」
 思わず聞き返してしまい、一瞬気まずい沈黙が生まれる。
 実際、オデットは、自分が誘拐という不穏な単語の被害者だとは思っていなかった。今言われて、ようやく「そう見える場合もあるか」と思い至ったほどだ。
 オデットの能天気ぶりに毒気を抜かれたのか、ふっとルーシャンの口元に笑みが浮かぶ。
「まったく、オデットと話していると、こっちの気が抜けちまう。そういうところも、オディールに少し似てるか」
「じゃあ、こうしましょう。わたしがよく眠れるように、ルーシャンとお母さんとの昔話をしてくれますか」
 子守唄代わりに昔話を求めたふりをしていたが、オデットは単純に彼から母の話が聞きたいと思っていた。
 懐かしむように言いながらも、ルーシャンは敢えて彼女のことを話題にするのを避けているように見えた。道中も、オデットの母については一言も触れていない。
 共にいたのがオデットにとっても気心の知れたルーシャンとなれば、どのような間柄だったのかと、俄然気になる。実は、オデットは昨晩から内心でうずうずしていた。
「前に言わなかったか? 俺はあまり、オディールに良い思い出がないんだよ」
「それなら、ルーシャンさんがお母さんとの思い出を良いものじゃないって思う理由を教えてください」
 毛布にくるまっているオデットには、ルーシャンの顔は見えない。だが、小さな呻き声が聞こえたような気がした。
「お母さんが何か意地悪をしたんですか? それとも、とんでもなく破天荒な振る舞いをして、ルーシャンさんを困らせたとか? 石鹸をいっぱい泡立てて、泡まみれにしたとか」
「何だ、それは」
「救貧院にいた時、お母さんがそういう遊びをして、子供たちを喜ばせていたんです。司祭のおじいさんには、石鹸の無駄遣いをするなって怒られていましたけれど」
 オデットが説明すると、不意に空気を震わせる聞き覚えのない音が響いた。
 数秒遅れて気がつく。それは、ルーシャンの笑い声だった。
……ははっ、あいつ、そういうことをまだしてたんだな。元々、世間知らずのお嬢様みたいなところはあったが、どうしてか、あいつの突拍子もない行動にはいつも最後には笑ってしまうんだよ」
 ひとしきり笑い声をこぼした後、大きく息を吐く音が響く。それは、ため息ではなく、話を始めるための一息だった。
……俺がオディールに出会ったのは、まだ俺がガキだった頃だ。十といくつかって年頃だな。あの頃のオディールも、俺と同年代だった。きっと、年の差はそんなになかったんだろう」
 だったら、母がもし生きていたら、ルーシャンと同じくらいの年頃だったのかと、オデットは新鮮な驚きと一抹の寂しさを覚える。オデットが寝返りを打ってルーシャンの方を見ると、彼はわざわざ視線を合わせて言葉を繋げてくれた。
「オディールの境遇は、オーバンのじじいが話した通りだ。オディールの母親のことは知らなかったが、親父がオディールを別邸に軟禁同然であったことは俺も知っていた。偶然、オディールの住んでいた屋敷に迷い込んだことがきっかけでな」
 そして、ルーシャンは語り出す。自分が出会った深窓の令嬢が、世間知らずを通り越した、無垢すぎる娘であったことを。外を知らない彼女に、外の世界について聞かせているうちに、自分も外出したいと強請られた。
 彼女の勢いに負けて、外に連れ出した後に、二人は狼に襲われた。ルーシャンは、狼を迎撃した際に、当時修練中だった赤魔法を実用として使うための糸口を得たのだ。
 一通りの説明を聞いた後、オデットの胸中には居た堪れなさが真っ先に生まれていた。
……なんだか、すみません。わたしの母がご迷惑をおかけして」
 てっきり、母の遊びに付き合わされた程度の関係かと思いきや、あわや命すら危ない状況に追い込んでいたとは。想像の数倍をいく母の破天荒さに、オデットは巻き込まれたルーシャンへの申し訳なさを加速させていた。
「お嬢ちゃんが謝る必要はないだろ。親のガキの頃の失敗なんて、子供は笑って聞いておけばいいんだ」
「わたし、子供じゃありません……
 話を聞いているうちに、本当に眠くなってきたので、オデットの反論は覇気のないものになってしまった。ぼうっと見ていた薪からのぼる炎のゆらめきが、ゆっくりと瞼を重くしていく。
……それに、謝る必要があるとしたら、俺の方だ」
 低い声で続いた言葉は、オデットに聞かせるためではなく、自分に語りかけるかのようであった。あるいは、さながら、ここにはいない誰か――神様と呼べる存在に懺悔をしているかのような。
「オディールには、確かに魔法の才能があったんだ。俺と同じか……あるいは、それ以上の、天賦の才だ。ああいうのを、本当の天才っていうんだろうな」
 オデットの瞼が少しずつ重くなる。ルーシャンの低い声が、今は心地よい子守唄となっていく。
「魔法の扱い方なんざ教えてもらってなかっただろうに、俺の魔法を見ただけで、すぐにコツを掴んでみせていた。指導すれば、俺以上の魔道士になったかもしれない。だけど、親父はオディールの才能に気がついていなかったんだろう」
 からん、と薪が放り込まれる音が響く。オデットの瞼は今や完全に落ちていた。
「俺が、親父に、オディールはすごい魔道士になれるかもしれないと言っていれば……親父も馬鹿げた考えをやめたかもしれない」
 なぜ、オディールが幽閉されていたのか。その理由を知る者はもういない。オーバンの話が事実なら、エヴラール卿の中に残っていた過去の恋心が歪んだ結果、オディールを手元に置いておきたかったのだろうと推測はできる。
 確かなのは、オディールは外の世界の常識すら碌に教えられず、蝶よ花よと育てられてきたという事実だけだ。
「もし、オディールの才能を親父が知っていれば、彼女は屋敷の外で自由に過ごせたかもしれない。だけど、俺はそうしなかった。……俺以外の誰かが、親父の目に留まって、俺よりも大事にされるところを見たくなかったんだ」
 オデットが完全に眠りに落ちたと思ったのだろうか。実際、オデットは意識が落ちる寸前だった。
 だが、眠りの隙間を揺蕩いながら、彼女の耳はルーシャンの言葉を拾い続けていた。
「俺が、親父にオディールのことを話していれば……あいつは、娘を残して死ぬようなこともなかったのかもしれない」
……たとえ、そうだったとしても。お母さんは、きっと、ルーシャンさんを恨んだりはしていませんよ)
 同時に、オデットはルーシャンがオディールの話を避けていた理由を悟った。
 彼にとって、オディールという女性が持つ意味は、あまりに多様すぎる。だから、彼は話題にするのを避けたのだろう。
 自分よりも才能に恵まれ、封印の鍵として父親に選ばれていたのではないかという、嫉妬や羨望の対象。
 それでいて、自分が黙っていたことにより、籠の鳥としての人生を強いたかもしれない女性。
 一方で、子供時代の邂逅を語る彼の口ぶりは、わずかな期間であっても同年代の友人ができたという喜びに溢れていた。
 彼がオディールに向ける感情が憎悪や嫉妬のような悪い意味を持つものだけではないことは、オデットが一番知っている。先ほどの告解を聞いても、オデットの心に揺らぎはなかった。
(だって、ルーシャンさんはわたしに優しくしてくれましたから)
 オディールによく似ているという娘に、彼が今までどう接してきたか。その全てが、オデットには信頼という形でしっかりと根を張っている。
 今度こそ、眠気に完全に負けて、オデットは意識を落とす。最後に寝返りを打ったとき、瞼の向こうで母が頷いているのが見えた気がした。