mishiadd
2025-07-03 23:47:05
6470文字
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かの夜は起こらなかった

【FGO軸】時空の歪みと霊基異常でカルデアのセイバー宮本伊織さんが可惜夜以外ED出身の宮本伊織さんと中身が入れ替わってしまい盈月の儀の記憶はあるし穏やかな性格だしでむしろいつもよりこっちの方がいいんじゃないか? みたいな雰囲気になりかけてるけど本当にそれでよかったんだっけ?【剣陣営】

それはまるで、秋空の暁の柔らかな光の中で、やがて目覚める直前に見る、優しくて心地の良い、泡沫の夢のような時間でしたから。
一度目覚めてしまえば、しっかりと地に足を付けて、うつつを生きなければなりませんでしたから。

『私』は、きっと誰のことも哀しませてはなりませんでしたから。



諦めて、背を向けて、すべてを『いい想い出』だったと過去に置き去って。



――そうやって私は、私の一生を終えました。



一生を終えました。







その『違和感』に気付いたのは、当然の如くヤマトタケルその人だった。

いつもの通りふたりで連れ立って食堂で朝食をとっていた。カルデアに来てからというもの洋食にも慣れたもので、器用にフォークなどを使ってタケルがふわふわのオムレツを口に運んでいる横で、伊織も同じメニューを食していた。

タケルがたっぷりバターを塗った厚切りのトーストをまるかじりにしながら、「この『パン』というのも存外悪くないな」と言うと、隣で同じトーストを適度な大きさに割いて口に運んでいた伊織が「おまえも慣れたか」と言った。

「うむ! まあ、それでもやはり私にとっての一番はコメだがな。炊き立てのコメはいい。優しい味がするし――匂いもいい」
「匂いか。なるほど、おまえはいつも炊けるまで並んでべったり竈門に張り付いては落ち着きなく釜の中を覗き込んでいたものな。ソワソワした背中をして」
「それはそうだがあまりにも言い方が悪い! ――ん?」



タケルが伊織の横顔を見る。――違和感



トーストをちぎっては黙々と口に運び続けている伊織の端正な横顔に、「な、なあ」とタケルが上擦った声で問いかける。



「私は――きみの前で竈門に立ったことがあったっけ?」



口許に持っていったトーストの欠片を、色素の薄い唇が食む。もぐ、と何度か咀嚼してから、伊織がちらりとタケルに視線を寄越した。

「なかったか?」
「え? あ、ああ――いや、どうだろう。あったかな?」

長屋を思う。――カルデアの、長屋。――長屋を模した、伊織の自室。
少なくともここでは、伊織が自室で米を炊くことなどない。わざわざそんなことをしなくとも、食堂に顔を出せばすぐに炊き立ての米などいくらでも手に入るからだ。
であるならば、あの慶安四年の特異点で自分は竈門の前に立ったろうかとタケルは思う。あそこで自分がまだサーヴァントに成り果てている自覚のなかった伊織が、生前の生活を模して繰り返す中で――あの炊事場の竈門の前に、自分は立ったかもしれない。――並んで

「ん、」とタケルは思う。――「おまえはいつも炊けるまで並んでべったり竈門に張り付いては落ち着きなく釜の中を覗き込んでいたものな。ソワソワした背中をして」。

「ソワソワした背中をして」。――こう言うからには、伊織はきっとタケルの背中を見たのだ。竈門の前に落ち付きなく立っている、タケルの背中を。
であるならば、――タケルの隣に並んでいたのは誰だ。――もうひとり、いる。



この伊織の視界に映る長屋には、伊織本人を含めて三人いた。――伊織は、タケルと誰が竈門の前に並んでいるのを見た?



「な、なあ、イオリ」

フォークの先に差したオムレツが崩れそうになっている。上擦った声のまま、どくん、どくんと逸る鼓動を自覚しながら、タケルが尋ねた。

「きみ、一体いつどこで――
「もう刻限だ、セイバー。そろそろ集合場所に移動しなければ。……なんだ、まだ食い終わっていないのか? 珍しいな」

いつの間にか食事を終えていた伊織が、トレーを持って席を立とうとしている。それで慌ててタケルも壁に掛けられた時計を見遣り、「あ、ああ」と頷く。オムレツを掻き込みながら、タケルは思う。

伊織が、タケルと――セイバーと並んでいる誰かを見たのだとしたら。もしそれが、カヤだったのだとしたら。

セイバーとカヤが竈門の前で並んでいるところを伊織が見たのだとしたら――それは、盈月の儀の記憶でしか、あり得ない。

頬張ったオムレツで頬をぱんぱんに膨らませながら、タケルがトレーを手に佇んだままの伊織の横顔を見る。――であるならば、なぜ隠す?

なぜ、盈月の儀の記憶が戻ったことを伊織は隠しているのだ。この落ち着き払った様子であれば、今の伊織はあの特異点の記憶も、カルデアに来て以降の記憶もきっと保持したままだ。
タケルに――申し訳が立たないとでも思っているのだろうか。――あのような結末を迎えた後に再会した自分たちが、一体どんな顔をしてこれからの日々顔を合わせれば良いのかと。

伊織がそんなタマだろうかともタケルは思う。気まずいから、何も覚えていないふりを続けるなどと。――そんな狡賢さを備えていたなら、きっと生前の伊織はもっと生きやすかっただろう。

――であるならば――

ようやく平らげたトレーを手に、タケルも立ち上がる。「行くか」と軽く頷いた伊織の顔は穏やかだった。――かつての、江戸の日々を思い出す。ふたりで連れ立って町中を歩き回った、あの日々。

穏やかな――日向のように温かくて穏やかな、まるであんな夜など起こらなかったかのような――あの日々からの、続き。

――イオリ」

返却口へと向かう伊織の背中に、タケルが呼ばわる。はた、と足を止めて振り返った伊織の涼しげな顔に、タケルは言った。

「医務室へ行こう。……きみの状態を、診てもらおう。――きみ、覚えているんだろ?」

伊織が、片眉を跳ね上げる。「はは、」とうっすらと笑みを浮かべて言った。

「意外だな。――気付くものなのだなおまえが

その言葉に、タケルが眉間の皺を深める。







――えっと、つまり――

カルデアでは、別段珍しくもない現象だった。今ここにいるタケルとは異なる運命を辿ったのが、この伊織。もとより正史もIFもあったものではない剪定事象出身の男である。

「一時的なものなのか恒常的なものなのかもわからないけど、とりあえずはここにいる伊織の中身が『入れ替わってる』――って、ことでいいのかな」
「そのようだね」

一通りの説明を受けた藤丸の要約に、モニターを見ながらダ・ヴィンチが言った。

「本来ここにいた彼とは別の結末を辿った彼の精神が、今の彼の霊基には宿っている。――サーヴァントとしてあの特異点に現界して以降の記憶は『本人の記憶』として保持している。入れ替わったのは生前の彼自身の記憶だけだ」
「ええと、伊織自身は、記憶の整合性って取れてるのかな。……変な感じ、する?」

藤丸に問われ、伊織が少し考えるそぶりを見せる。その仕草も、少なくとも藤丸の目には、普段となにも変わらないように見えた。

――妙な感じは、特に。俺自身の意識としては、俺が往生してから地続きであの特異点に召喚され、なぜか盈月の儀が始まって以降の記憶がごっそりないままカルデアやセイバーと共に戦い、ここまで至っていて――ついさっきすべて思い出した、という流れだ。
強いて言うならば、なぜ今の今まで忘れていたのだろう、という不思議が先立つな」

「ン、」と話を聞いていた面々が顔を見合わせる。全員を代表するかのように、藤丸が尋ねた。

「『往生』。……伊織は、長生きできたんだね?」
「そう問うからには本来ここにいた俺はそうではなかったのだな。――我が事ながら、『大往生』と言ってよかったと思うよ。……盈月の儀が終結した後、俺は仕官した。家老としてはそこそこ勤め上げたよ。この家名も繋いだ。……堅実に『善く』生きられたと、自負したい」

ひゅっ、と喉のなる音がした。皆が視線を向ける。ゆっくりと、伊織も月夜の色をした瞳を向ける。――タケルが、息を呑んで呆然としていた。カラカラに乾いた喉で、それでもなぜか泣きそうな震える声で、タケルが言った。

「きみ、長く生きられたのか。――そう、か」
「ああ、うん。そうだとも。……俺は、あれから随分生きたよ、タケル。久しいな」

今度こそ、タケルの呼吸が止まる。――タケルは、怒らなかった。「きみがその名を呼ぶな」と、怒らなかった。
涙の絡んだ喉でタケルが何かを言える前に、伊織が皆に言った。

「儀の最中に約束してな。たった一度だけならば、タケルの真名を俺が呼んでもいいと。だから、ここぞという時にその名を呼ぶと言った。――そして、最後の別れ際に『タケル』と呼んだ。これを逃せばもう、二度と呼べる機会はないものと思ったからな。
――それが、こうして再会できたのだから、また俺がおまえの名を呼んではいけないということはないだろう? タケル」
「い、伊織、タケル死にそうかも……

藤丸が伊織を肘で突ついて諭す。「ん、」と穏やかな目で伊織がタケルに改めて目を遣ると、顔を真っ赤にしたタケルが、泣きそうなような、怒り出しそうなような、なんとも言い難い複雑な表情をして押し黙っている。やがて、涙の絡む声で言った。

「イ、イオリは……イオリは、私の名を呼ばなかったのだ」
……ん。そうなのか……?」
「きみは、私の名を呼んだのだな。きみは、私の名を呼んでくれて――そして、生きた。きみは――

ぼろぼろと、夕陽色をした大きな瞳から大粒の涙が流れ落ちる。ぐすぐすと子供の泣き喚くように、タケルが言った。

「きみは私の名を呼んで、きみは生きた。――きみは、生きた――!」

うわああああん、と子供のように声を上げて泣くタケルの頭を、伊織が撫でる。その手つきは兄のようであり、――あるいは、父親のようであり、祖父のようでもあった。
あるいはそれこそが、彼が『長く生きた』その証左であるのかもしれなかった。







もともと兄らしい穏やかさのあったサーヴァントとしての伊織であったが、中身が『入れ替わって』からというもの、彼の言動は益々老成し、細やかな気遣いにより一層磨きがかかっているように思えた。
基本的には優しい人当たりではあるものの、朴念仁、とも思えるような頓珍漢な受け答えをすることも多かった以前の伊織であった。そういった傍目から見て胃の痛くなるような言動も、この頃はすっかり鳴りを潜めている。

「別にこのままでいいのではないか」というのがカルデア全体のふんわりとしたコンセンサスであった。

以前の伊織だってそもそも記憶が大幅に欠落していて、安定した霊基であるとはとても言い難かった。それが、もともとの精神が保持している筈だった生前の記憶そのものではないにせよ――欠けていたものが補填されたのである。であるならば、むしろ以前よりも今の方が安定しているとすら言えるのではないか。

「いいんじゃないかな」と藤丸は言った。

「実際、自分はどんな伊織だって構わない。変わらずカルデアの仲間だよ。――ただ、タケルがね。今、随分幸せそうだ」

たまたま食堂で近くに座っていたアサシンクラスのサーヴァントに先を促される。へへ、と藤丸の方が幾分か照れたように笑った。

「さっきね、見ちゃったんだ。――タケルが作った朝ご飯、伊織が食堂で食べてた。『美味しい』って言ってた。『その気遣いは尊く善きものだと思う、嬉しい』って。
……以前、同じようなことを伊織にしてあげたとき、思っていたようなリアクションが貰えなかったみたいだから。……その、今の伊織だと……随分言動が老成してて、そうだな、ちょっとお爺ちゃんが孫を褒めてるみたいなところもあるけど……

ぽり、と藤丸が頬を人差し指で掻く。うん、と大きく頷いた。

「年の功、っていうことなのかもしれない。今の伊織、人の心がすごくよく理解るみたいだ。こう、するりと相手の心の裡に入っていって――ぴったりと寄り添ってくれるみたいな。常に、相手の心を理解しようと努めてくれてるみたいな」

「だから――いいんじゃないかな。このままで」と藤丸はほとんど独り言のような声で言った。その言葉に反論する者は、特に出なかった。







「美味しい」と言われたとき、タケルの手が震えた。

――歓びがなかったと言えば嘘になる。ずっと欲しかったその言葉に、胸が躍らなかったと言えば嘘になった。

でも、その『違和感』に気付けるのが最早この地上でタケルしかいない以上、タケルは――それをそうと告げる責務を負っていた。あの夜、彼が望もうと望むまいと、彼の最愛の友に引導を渡すのが、タケルでなければならなかったのと同じように。

ふたりで食堂から長屋に戻ってきて、タケルが後ろ手に戸を閉めた。それと同時に、畳の縁に腰かけている伊織にタケルは言った。

「イオリ。――なぜ、私の手料理に『美味しい』と言った?」
「なぜ? ……何故……。妙なことを訊くものだ、俺はただ、おまえが心を込めて作ってくれたおまえの手料理を」
「きみはそう言うのが正しいことだからそう言ったんだ。……きみは、私が『手間暇をかけてきみのために料理を作った』その事実を料理の評価に加味した。そして、味そのものの評価を口にすることよりも私が欲する言葉を私に与えることを選んだ。――そうして、きみの言葉に対する私の反応を観察するために」

口許に柔らかな微笑みを浮かべたまま、伊織が涼しげな目許の端正な顔をタケルに向ける。まるで美しい菩薩像のようだった。

「きみの思考の癖だよ、イオリ。――私は知っている。……ここにいたイオリは、そういう考え方をしないんだよ、イオリ」
――そうか」

伊織が畳の縁に腰かけたままどこか遠くを見るような目をする。それからぐるりと視線を巡らせて、やがて再びタケルを見た。

「俺は剣の理を鞍替えしたか」
「そうではない――きっと、そうではないのだ、イオリ」

――ああ、とタケルは思う。理解ってしまった。――理解ってしまった。

「イオリ。――きみの中にはまだ、あの月が在るのだな
「気が付けば俺はこの姿でここにいたのだ、セイバー」

伊織が己の手のひらを見下ろしながら静かに言った。

「皺ひとつない手だ。――剣の代わりに筆を握って久しく、いつの間にか歳を取って節々に痛みを覚えていた。晩年は――ああ、職務は多忙を極め、子や孫は育ち、俺は実際忘れていたのかもしれなかったよ、あの日々を。――遠く、儚い幻想の日々として、たったひと時まどろみのうちに見た夢だったと」

伊織が立ち上がる。すらりとした均整のとれた立ち姿で、若く、瑞々しく、力強く。――生命に満ちている

「願いがあるからこそ、人理の影法師は召喚に応じると言ったな? セイバー。……であるならば俺にはきっと、願いがある。生前の俺が目を背け続け、最後までなかったこととして葬り去った夢だ。おまえの前ですら最後まで物分かりのいいふりをしてしまった俺は、ああ、こうして召喚に応じてしまった
「イオリ」
「『もう一度』が許されるのならば。今度こそ目を背けず、なかったことにせず。あの憧憬を追いかけることが。この衝動を――
「イオリ、ダメだ」
「セイバー。なにを焦る? ――俺の願いはたったひとつだけ。あの月へと至ること。……そこには悪も善もなく、おまえがそんな顔をする必要はない、『善為す皇子』」

タケルは伊織を見る。――あの夜に見たのと同じ、まるで巨大な純白の望月を背にした逆光の中で、善も悪も超越した先の、まるで人の顔をしていない、菩薩のような顔だった。

「案ずるな、セイバー。俺の願いは必ずしも破滅へと向かうわけではないよ。――向かうならその時に、おまえが俺の願いを俺ごと斬り捨てればいい」
――イオリ」
「もう一度、ここで。――もう一度……

――月が。



眩く輝く巨大な純白の望月が、カルデアに顕現していた。






かの夜は起こらなかった・了