「それじゃあおやすみ!」
二度目のバニオにモーディスを連れて行き、一日の疲れをたっぷり癒してバルネアの前で別れようとすると、腕を組んでいたモーディスが「おい」と無表情に僕を呼び止める。
話し足りなかった? と揶揄うと、「それはお前の方だろう」と真顔で続け、「来い」と疑問を挟む暇もなくモーディスが僕に背を向ける。別段話し足りないとも思ってないけどな、と思いつつ、まあもう少しだけモーディスに付き合ってやるか、と彼の後ろをついて行く。あと数時間は眠らなくても問題はないし、モーディスは無駄な夜更かしをするタイプでもないから、きっとなにか僕に言いたいことでもあるのだろう。
そう思いながらモーディスの部屋までついて行く。顔馴染みの彼の侍者は僕を見るなりそっと会釈し、銀色の盆を片手に自分の部屋へと戻って行った。
分厚いカーテンの下されたモーディスの部屋は柔らかな橙色の灯りで染まっていて、微かにいい匂いがした。それほど長時間滞在するつもりもないしどこに座ろうかな、と考えていると、「着替えろ」といつだったか僕が置き忘れていった寝巻きをモーディスに渡される。
「ええと、どういう
……?」
「どうもこうもない。しばらくまともに眠れていないだろう、話なら聞いてやるから寝ろ」
感情の読めない声でそう言ったモーディスは、僕の前でさっさとゆるい寝巻きに着替えていた。侍者が香を焚き込めたのか彼の寝巻からは微かに草のいい匂いがして、ゆっくりと寝台に向かうモーディスを思わず目で追ってしまう。
「別に眠れていないなんてことはないけど」
「嘘をついても無駄だ。お前の顔色を見ればすぐにわかる」
「え、君ってそんなに僕のことをよく見ているのかい? 光栄だと言うべきか、明日は槍が降りそうだなというべきか」
確かに嘘だった。
このところずっとエリュシオンの夢を見ていて、夢はいつも故郷が燃え落ちたところで終わっていた。目覚めた時の虚脱感、焦燥、どうしようもない胸の痛みに息が切れて、震える手を朝まで握りしめて過ごすことも少なくない。
それでも日々を送るのに不具合はなかった、はずだ。新兵時代や遠征時と違ってオクヘイマでの暮らしに不便はなく、寝床は清潔で気分のいい場所だ。数時間でも目を閉じて横になっていれば、十分な休息になる。
今日一日をざっと振り返ってみるが、特に大きな失敗をした記憶はない。と言うか、近頃は珍しく平和な日々が続いていて、黄金裔として避難者救援に赴くよりも、市内のいざこざを仲裁する頻度の方が高かった。戦闘続きであれば流石に一度昏光の庭を訪ねて昼寝をさせてもらったかもしれないが、と考えていると、寝台に乗り上げたモーディスがじっと僕の顔を見つめていることに気がついた。
とりあえず笑顔を返しておくと、「早く来い」と手招きまでされる。
どうしてモーディスにバレてるんだ? と内心やや焦りつつなんでもないフリをして寝巻きに着替えると、寝台に向かう。モーディスの寝台は大の男が二人並んでもまだ余裕な広さがあり、彼の普段の振る舞いだって別に一般人とは言えないけれど、君って本当に王子様なんだな、とあらためて感じる。
「
……あの、モーディス?」
さて言われた通りにこっちまで来たはいいけど気まずいな、と考えて顔を逸らしていると、小さなため息と共に、モーディスは僕の頭を抱え込むように抱き寄せてくれる。急に恥ずかしくなって「子どもじゃないんだから」と腕から逃れようとしてみるが、モーディスの腕はびくともしない。
「先週の合同葬儀に来なかったな」
ちょっと、とモーディスの腕を掴もうと持ち上げた手が虚空で止まり、小さく息を吸う。
先日のニカドリーの眷属との戦いは兵士にも市民にも被害が出て、それなりの人数が亡くなった。避難民も多い今のオクヘイマでは個々人で葬儀を上げるのは難しく、アグライアと元老院が話あって合同葬儀を上げることが決まったのだが、僕はどうしてもそれに参加することができなかった。エリュシオンでの記憶がフラッシュバックして落ち着かず、亡くなった人々の残された家族や友人たちの悲しみの姿を直視することができなかったからだ。
アグライアにも「その顔を隠せないのなら出ないでください」と参加を断られていて、正直なところほっとしたのと同時に、彼らの最後に祈りも捧げられない自分の未熟さに落ち込みもした。
モーディスは亡くなった一族とその家族のために出席すると聞いていたので、僕がいないのは彼にはバレていたわけだ。
「いつものお前であればそろそろ俺にくだらない勝負を仕掛けてくる頃だろうと思ったが、その様子もない。ヒアンシーのところへ行く暇がないとも思えんが」
「
…………………」
背中に置かれたモーディスの手の温かさや彼の声からは、別段僕を非難する感情は見えなかった。それが逆に気まずい。
モーディスは普段は僕にも誰にも厳しい顔をするくせに、時々、こんな風に僕に慈悲深さを零してくれる。
「いや
……、」
掠れた声が出て、しまった、と思う。たまたまアグライアに言いつけられた仕事が忙しかったんだよ、と言い訳を続けようとしていた声はそこで途切れ、モーディスが小さくため息をつく。
「どうせ『泣けなくて冷たいと思われたくない』だのなんだの考えていたのだろう。
——ハ、普段のお前のお人好しを嘲笑う者はいても、お前を冷徹だと思う者はいまい」
「っ、」
モーディスの低い声が耳に心地良かった。彼の暖かな手が僕の髪や背中を優しく撫でてくる様は、まるで僕を安らかな眠りに誘うようだった。体の内側で苦しみに凍っていた場所が溶けて行くような感覚がし、思わず、モーディスの体に腕を回して抱き締め返した。
モーディスの寝巻から微かに香る、草のいい香りを吸い込みながら目を閉じる。
人肌恋しいなんて感覚は知らない方がいい、とモーディスとこんな風に触れ合うたびに感じてしまう。
君を抱き締めさせてもらってもいいかな。もしかすると素直にそう尋ねればいいのかもしれなかったが、呆れられやしないだろうかと思うといつも自分からは言えなかった。
モーディスはそれ以上は言葉を尽くす気を無くしたのか、僕を抱き締めたまま沈黙を貫いている。この沈黙に気まずさを覚えないのは、彼の手が僕を慈しむように撫でてくれているからだろう。
まるで守ってやると言われているようだ、と気づいた瞬間逃げ出したくなったが、逃げようとするとやっぱりモーディスの腕はびくともしない。
とうとう抱き締められたまま二人で寝台に横になり、諦めてモーディスの体にしがみつくように腕を回す。吐息が髪に当たっているのが少しくすぐったい気分だ。
「夢は夢だ、ファイノン」
淡々と呟いた言葉を最後に、モーディスは僕を置いて眠ってしまったらしい。小さく寝息が聞こえて来るのに少し呆れながら、君は強引だな、と文句を口にしてみる。
眠っているモーディスは、僕の文句には答えない。
僕のことを信用し切って目を覚さない姿に、君の信頼っていつもわかりづらいのに変に直球だ、と思った。
眠れないかもしれない、眠ればまたあの日を夢に見るだろう。そう思っていたのに、なんだか妙に能天気そうな寝息を立てているモーディスの熱で段々と瞼が下りてくる。眠りたくない。夢を見るのが怖い。そう思っているのに、意識がほどけて行く。
*
ハッ、と炎の中で目覚めて、声をあげそうになった。胸を押さえて起き上がった僕の体に暖かな手が触れて、びくっ、と体が跳ねる。
「モーディス、」
思わず、手の主の名前を呼ぶが、彼は無意識に僕に手を伸ばしたのか、特に目が覚めている様子はない。過去の記憶の恐怖で凍りついた体にモーディスの手からじわじわと熱が染みてきて、今さっき見た「ファイノン兄ちゃん、どうしてフィリアを助けてくれなかったの?」と僕の首を絞めながら縋り付いてきた怪物は夢の中の話だとはっきり自覚する。
それでも、眠っているモーディスの手を握り返す自分の手はまだ震えていた。手を使う戦闘スタイルの割には綺麗なままの無骨な手の甲を撫でて、部屋の微かな灯りをも反射する綺麗な髪に唇を寄せた。
「うわっ」
そのまま跳ねた心音が段々と落ち着いてくるのを感じていると、ガッ、と肩を掴まれて、「寝ろ」と低い声が落ちる。
体がベッドに沈まされ、痛いよ、と少しも痛くはないのに文句を口にしたけれど、モーディスはそもそも寝ぼけていて覚醒したわけではなかったのか、もう寝息を立てている。今は何時だろう。石板を取りに行きたかったが、モーディスが起き出して怒りそうな予感が何故かした。
悪夢で飛び起きた後はうまく眠れないんだよな、と思いつつ、眠っているモーディスの腕をそっと持ち上げて、彼の胸に耳を当ててみる。布越しだといまいち心音が聞こえなかったが、眠っているモーディスの高い体温が心地いい。
*
「いつまで寝こけているつもりだ?」
モーディスの声と共に強い日差しに瞼を焼かれ、強制的に意識が覚醒する。
「
……えっ、今何時だ?」
「もう明晰の刻だ。朝食にするぞ。走りたいなら後にしろ」
とっくに着替え終えたモーディスは昨日、僕が昨晩着ていた白い服を僕に渡し、「調理場へ行っているから後から来い」とさっさと部屋を後にしてしまう。
呆然とその背を見送ってから、普段よりむしろ体が怠いことに気づいてしまった。きっと、久々にきちんと眠ったから体が疲労に気付いてしまったのだろう。
昼寝をどこかで挟めたらいいんだけど、と思いつつ服を着替えて、モーディスの待つ調理場へ向かう。別段言うことを聞く必要は無い筈だけれど、モーディスの作る食事の誘惑には抗えない。なんとなく、今朝は食べづらいものは出てこないような気がした。
「遅い」
「これでも走ってきたんだけどな」
黄金裔のため、と言うより今は専らモーディスが利用している調理場兼食事処へ顔を出すと、とっくに朝食を作り終えていたらしいモーディスが僕の顔を見るなり叱る。
食卓には蜂蜜の甘い香りのするクレープとザクロジュースの入った杯、それからご丁寧に種を抜かれたオリーブが豆皿に乗っていた。え、と思わず声が出て、「どうした?」とモーディスが眉を顰める。
「いや
……ちょっと故郷の味を思い出したんだ。君に話したっけ」
タイミングが悪い。正直なことを言えばそう思った。
ぼんやりと何かの話のついでに故郷の味、と言うか母さんの味を話したような気はしたが、本当にその程度だった。君に作って欲しいと言ったつもりもなかったし、君が気まぐれを起こしてくれるとも考えたことはなかった。
「鹿の燻製は手に入らなかったが、朝食にするには少し重いだろう。もし手に入れば相伴の栄誉をやる。
……情けない顔をしていないでさっさと食べろ。今日もお前に救済を求める民の手が伸びないとは限らない」
いいな、救世主。
きっと皮肉だろうに、そう呟いたモーディスの柔らかい表情が眩しい。
そうやって君はいつも「僕」を甘やかすからヘリオスで貫くたびに苦しくなるんだ。
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