ふゆみず

雨。

「あ、降ってきたね」
「傘持ってる?」
「もちろんです!」
 日帰りで出かけた田舎。先ほどまでは溶け出しそうな翡翠色の景色が広がっていた風景は、突如分厚い雲に太陽が覆われたことによってなんともいえない不気味な雰囲気に変わっていった。
 さらに不穏さを増すようにぽつぽつと落ちてきた大粒の雨。これは一気に降るぞと思ってふたりは遠出の必携、折り畳み傘を急いで鞄から取り出す。
 傘を差し掛けたのを見計らったように、雨は一気に降り注いだ。篠突く雨とはいったもので、傘を叩く音はばたばたと激しい。足元は跳ね返る雨粒で早速濡れ始めた。
 こりゃだめだとふたりはどうにか雨宿りをしようと適当な場所を探して辺りを見渡す。
 畑と水田が広がる田舎道。視界を遮る山も程近かったが、そのなかでぽつんと目立つのは寂しい気配。廃駅だった。
 蔦が這い、ペンキの剥げた外壁。暗く曇った窓。小さな駅舎はまるでお化け屋敷のようではあったが、この土砂振りの雨のなかではありがたい。幸いにも規制線などはなく、冬人と水樹は真っ直ぐに飛び込んだ。
「うわ、裾びちゃびちゃ……
「タオルある?」
「あります! 冬人さんは?」
「あるよ。大丈夫」
 夏場に出歩くのであればタオルは持ち歩いたほうがいい。身についた習慣に助かったと呟きながら、ふたりは雨と跳ね返った泥に濡れる足元をぽんぽんと拭ってやっとひと息ついた。
「ベンチとかはないね」
「あってもこの様子だと座るのは怖いと思うよ」
「そっか。うん……形はしっかり残ってるけどささくれとかあるね」
 すっかり艶をなくして枯れた駅舎の壁。冬人は天井を仰いだが雨漏りの心配はなさそうだった。
「あ、見て見て。どくだみ咲いてる」
 周囲を眺めていた水樹が駅舎の隅を指差す。そこには確かにどくだみの白い花が咲いていて、冬人はそういえば生命力の強い草だったなと思い出す。実家にいた頃、母親が抜いても抜いても生えてくるとくたびれた顔をしていたのだ。
「一応屋内……屋内なのかな。屋根のある場所に花が咲いてるって不思議だね」
「そうだね。こういうところでもないと見ないだろうな……
「ね。写真撮っておこ」
 どくだみの側にしゃがみ込み、水樹がカメラを構える。機械的なシャッター音。
「ありゃ、暗いみたい。撮り直そ」
 雨雲に空が覆われているのもあるが、自然のなかに溶け込みかけている廃駅は尚のこと暗い。光度を手動に設定していたらしい水樹はぽちぽちと設定を直すと、改めて写真を撮り直した。フラッシュが壁に反射する。
……なんだか怖い感じになっちゃった」
 水樹の差し出すカメラを見れば、確かに白い花が不自然に明るく浮かび上がっていて小さな花であっても健気な様子は感じられない。
「こういうところでもないと撮れなさそうな雰囲気だね……
「ね……何十年も前は此処もにぎやかな場所だったのかな」
 曇った窓の向こうにはうっすらと緑色が見えるばかりであるが、往年は行き交う人々が窓越しに挨拶をしていたこともあったのだろうか。
「かもしれないね……こういうところはあまり来たことないけど」
「そうなんだ? 僕もしっかり見たのは初めてかも」
 水樹と撮影に赴く場所は風光明媚な地や、季節によって盛りを迎える彩り豊かな場所が多かった。
「水樹くんはこういうところ好き?」
「好き! 静かで人の気配がなくて此処だけ時が止まってるみたいなのに、同時に朽ちていくまでの時間の経過も感じて不思議」
 口を薄っすら開けながら天井を見上げる水樹。しみじみと深い声音であったのに、無邪気さ故か幼くも見える表情が冬人には愛おしかった。
「今度はこういう場所ももっと見に行ってみようか」
 廃墟が被写体として高い人気があるのは知っていたが、進んで撮りに行ったことはない。やはり、以前の冬人にとっては目に入らないものであったのだ。
「いいかも! あ、でも気をつけないと危ない場所もあるよね。これはしっかり調べないといけませんね」
「俺も詳しくないからなあ」
「ふふ。じゃあ、ふたりで初めての感動を分かち合えるね」
 楽しみだなあ、と言いながら水樹はぐっと伸びをする。
「あ、雨少し弱まった?」
……ほんとうだ。いまのうちに帰ろうか」
「うん。暗くなったらそれこそ危ないしね」
 轟々と降っていた雨は向こうが見通せる程度には弱まり、ただ烟ったいほどの湿度ばかりを残している。
 冬人は濡れた折り畳み傘を広げようとしたが、その前に水樹が「ねえねえ」と袖を引いてきた。
「雨の日の傘の下ってさ、声が一番きれいに聞こえるんだって。試してみませんか?」
 冬人は水樹の顔を見て、駅舎の向こうを見て、ほろりと笑う。
「うん、やってみようか」
 広げた傘は大きなものではない。
 だからこそ、と理由をつける必要もいまはないのだが、水樹は冬人の手と自身の手をぎゅっと絡めてくれた。
 互いの肩はそれぞれ外側が僅かにしっとりと濡れたが、どちらも不満を口にすることはなかったし、きっと思ってもいなかった。
「冬人さん、冬人さん。どう? 普段と違う?」
「どうだろうなあ」
「ええっ?」
「分からないから、もっと呼んでくれる?」
 きょとんとした水樹がすぐに得意そうな顔になり、重々しく頷いてから踵を上げた。耳元へ近づく唇。
「冬人さん」
 傘の内で聴く水樹の声は特別に感じたけれど、それが普段のものとは違うのかは冬人に分からなかった。
 水樹が呼んでくれる自身の名前はいつだって特別なものであったから。
「ううん、どうだろうなあ。俺もやってみるから聞いてくれる?」
「うん! どうぞどうぞ」
 さっと首を傾げてみせる水樹に向かって僅かに屈み、冬人は彼がしたように耳元へ口を近づける。
……好きだよ」
「んぐ……ッ」
「聞こえた?」
「聞こえ、ました……
 ぱたぱたと暑そうに顔を扇いでいる水樹。その顔はほんのりと赤い。
「普段と違った?」
……ちょっとよく分からなかったので、僕ももう一度試していいですか」
 じっと見てくる榛色の目。むん、と握られた片手の拳はやる気に満ちていて、冬人は喉の奥で笑いながら頷いた。
「どうぞ、お願いします」
 目を瞑って耳をそばだてる。
 微かに感じる吐息。く、と喉を鳴らした音。
 さあ、と風が足元を吹き抜けて、僅かに煽られた傘の重たさ。
「冬人さん、あのね──大好きです」
 冬人はうん、と頷いた。
 それは一等特別な声。言葉。
 傘の内側に閉じた世界で自分だけが聞かせてもらえる美しい六文字。
「うん、聴こえた」
 冬人は傘を少し下げる。周囲には誰もいなかったけれど、いたとしてもふたりの顔は見られれなくなっただろう。
 近づけた冬人の顔に水樹が目を細め、そのまま瞼を閉じる。
 数秒立ち止まった足。
 雨がぱらりと名残のように降って、やがては止んだ。
 傘より顕になったふたりの顔は、きっと先ほどよりも赤いだろう。