丹羽燐
2025-07-02 00:29:12
1972文字
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2025/3ワンドロワンライ


 桜が咲いていないせいか、春の気配はするのにまだ春だと思えない。桜あんぱんなんて季節限定のパンも出ていたのに、コートを着ているせいかまだまだ冬の名残が強い。
 信号待ちで立ち止まっていると、柔らかな香りがした。きょろきょろと見渡すと、横断歩道を渡った先の花屋の店頭が黄色く染まっていた。二歩、三歩と足が自然に進む。
「危ない」
 右上から声がして、同時に安室さんの腕が腹に食い込んだ。見上げた顔は眉間に皺が寄っている。
「まだ赤ですよ」
 すごすごと点字ブロックの内側に下がった。音を立ててトラックが通り過ぎて、危機一髪だったと気がつく。安室さんがいなければ轢かれていた。
「すみません」
「なにかありました?」
「ミモザの香りがして、つい」
 軽いビニール袋を手首にかけて、指をさす。暖かい風が耳元を吹き抜け、反対側でミモザが揺れた。
「ああ、本当だ。春ですねえ」
「ね、もう春。もうミモザの季節かぁ」
「好きなんですか?」
「はい! ふわふわな感じが可愛くないですか?」
 春らしいパステルカラーのミモザ。あんなに見た目が華やかなのに、優しい香りがするのは安室さんに似ている。……炎上するし、安室さんはもっと派手かもしれないけど。力持ちでふわふわしてないし。
「たしかに桜とはまた違う雰囲気で」
「いいなあ、ミモザ」
「買って帰ります?」 
「残念ながら家には置けないんです。ほら、大尉くんが猫パンチを決めちゃうから」
 ペシペシと大尉の猫パンチの真似をしてみせる。元野良猫だけあって大尉くんの猫パンチは強い。どのくらいかっていうと、飾っていた謎の置物を倒してしまうぐらい。おかげで、中身の入ったマグカップだけは毎回大尉くんから死守する癖がついてしまった。
 視界の隅で信号がちかちかと緑が点滅して、赤に切り替わった。
「大尉のパンチは強烈だからなあ」
「安室さんにも勝てちゃうかも」
「あはは、負けませんよ」
 そう言いながら、荷物を持った手が音をたてて前に繰り出された。思わず首の動きが止まる。だって、ビニール袋だけじゃない音がした。風を切る音ってこんな音なんだなあ、なんて思ってしまいそうな感じの。
 これは大尉くんが危ない。
……大尉くんの練習相手にならなきゃ」
「怪我しないでくださいよ」
「それは私のセリフですう」
「おっとこれは失礼」
 まだ顔に傷跡の残る安室さんは困ったように笑った。少し痛そうで目を逸らした。
 ちょうど先週、閉め作業中のポアロにガーゼと絆創膏を顔に貼り付けた人が現れた。もちろんびっくりして声も出なかった、と思ったら安室さんだった。慌てる私を今みたいに眉を下げて笑っていたっけ。
 たぶん本当に困っているんだと思う。なので、優しい先輩の私はこれ以上追及しない。
「ふふ。だからミモザは見るだけ」
「ポアロに飾るのはどうですか?」
「うーん」
 青になった信号を渡りながら悩む。たまに頂いたお花をポアロに飾ることはある。たぶん安室さんはそれを指しているんだと思う。それと同じように飾ったらどうかと。
 お花を貰うならともかく、自分で買うのは気が進まない。
「実は、お花ってあんまり得意じゃなくって」
「ほぉ」
「枯れちゃうと寂しいじゃないですか。ずっと手元には残せないから」 
 さすがに花屋の前で嫌いだと言えるほどの無神経さはない。ドライフラワーにしたり、ブリザーブドフラワーであれば長持ちすることは知っている。でも、それは生きた花じゃないから、嫌だなんていう我が儘。
……そうですね」
 視線を逸らすようにミモザに顔を近づけると、ミモザらしい優しい香りがした。
「でも、枯れてもいいから贈りたいのが花束ですよ」
 安室さんが小さな声で呟いた。また春風が吹き抜けて、服にミモザが触れる。
 見上げた横顔はどこか遠くを見ているような、寂しげな顔をしていた。
「まあ梓さんに贈るなら美味しいスイーツの方がいいかもしれませんが」
「もう、そんなに食い意地張ってませんってば」
「じゃあ今日の試作は要らないと」
「えっ」
 いつも通りのテンポに落ち着いたのもつかの間。試作なんて聞いてない。慌てていると、安室さんが楽しそうな顔を浮かべていることに気がついた。
 こうなると安室さんは満足するまでこの調子だ。
 ようやく見えたポアロの看板に、自然と歩幅が広くなる。
「食い意地張ってないんですもんね」
「気になるなあ、安室さんの新作」
「完成したらポアロへ食べにきてください」
 もう言い返すのも面倒になって、頬を膨らませながらドアを開ける。のんびりと豆を挽いていたらしいマスターがにこやかにこちらを見た。
「おかえり、梓ちゃんと安室くん」
「もう、聞いてくださいよマスター。安室さんが意地悪言うんです」


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