蒲生が五冊の本をカウンターに置いて手続きをしているのを、先に本を借りた深水はぼんやりと眺めていた。世界史の本があるかと思えば恋愛小説も借りていたりとジャンルを絞ってはいないらしい。全ての本のバーコードを読み取り、図書委員が用紙に名前などを記入して五冊の本が蒲生へと渡された。それらを鞄にしまった蒲生は出入口付近にいた深水を一瞥し、彼の後に続いて図書室を出た。
「悪いな、待ったか」
「ううん、そんなに待ってないよ」
下駄箱を目指し並んで歩く。木枯らしが窓をカタカタと鳴らしており閉めきっていても廊下は冷え込んでいるが、蒲生と共に下校できるという事実だけで心が温まり寒さが吹き飛んでいく気さえする。
深水は最近、毎日授業後に蒲生と帰るようになった。家の方向は途中まで同じだが特別近いわけではない。
それでも一緒に帰宅することにこだわるのは二人が恋人同士だからである。互いに受験を終えたところで深水が気持ちを伝え、蒲生がそれに応えたため晴れて交際を始めた。周囲の人々に明かしていないため手を繋いだりはできないが、こうして共に過ごす時間が深水にとって宝物である。
「蒲生くん、今日もたくさん借りたね」
「ああ。受験が終わったし委員会も引退していて時間があるからな。卒業までに図書室の本を制覇するのが目標だ」
「制覇!?あんなに本があるのに……」
「一年生の時から読み続けているから大半はもう読んだ。自由登校になればもっと読書に費やす時間を増やせるから今のペースを崩さなければ達成できるはずだ」
「すごいね……。ぼくも蒲生くんを見習って本を借りてみたけどそんなにも読めないや」
「そういえば深水はどんな本借りたんだ?」
「格言の本だよ。ええと、これ」
丁度下駄箱に到着し、深水は立ち止まって右肩から下げていた鞄から本を取り出した。『賢者の格言』と表紙に書かれている。それをみた蒲生がなるほどと言うと深水は鞄にしまい、靴を履き替える。
「今日蒲生くんが引用した格言が載ってるんだよね?ぼくも気になって借りちゃった」
「いや、あれは『賢者の言葉』だ。ここの図書室にはない」
「あれ、そうだったんだ。間違えちゃった」
「その本にも有用な格言が載っているからおすすめだ。だがさっきの格言が気になるなら、家に本あるから今から来るか?貸してやる」
「いいの?ありがとう」
初めて蒲生の家に行く。それだけで浮き立つ気持ちになり、スニーカーのつま先をリズムよくトントンと鳴らした。
この時はまだ、ただ本を借りに行くだけだと思っていた。
自転車で十分強。学校からはさほど離れていない場所に蒲生の自宅がある。二階建ての一軒家で、深水の家よりは少し小ぢんまりしているように見えたが、一世帯で暮らすには十分な広さがありそうだ。
そういえば突然訪問しても大丈夫なのかな、と深水が朧げに不安に思う中、蒲生がドアの鍵を開けて中に入る。深水はそれを黙って見ていると蒲生はドアに手を掛けたまま怪訝な顔をする。
「どうした、入らねえのか?」
「ここまで来てなんだけど、入っていいの?急にお邪魔してご家族が困らない?」
「今は誰もいねえ。両親は仕事だし妹は部活だ」
つまり他に誰もいなくて家で二人きりになるということ。そう思うと寒空の下にいるというのに顔が段々と火照ってきた。嬉しいけれど、余計な事まで考えてしまいそうで気が気でない。
「そ、そうなんだ。じゃあちょっとだけお邪魔するね。すぐに帰るから」
「せっかく来たんだからゆっくりしていけ。温かい茶くらい出す」
自分が暴走してしまわないようにと深水が気を回しているというのに、蒲生はそんなことお構いなしの態度で深水は少し気を揉む。
「……蒲生くん、一応ぼくは恋人なんだけど、そんな軽率に家に上げて大丈夫?」
「?何か問題あるか?」
蒲生は顎に指を当てて首を傾げる。深水の言葉の真意をわかっていないようだ。男子高校生でありながら俗情に疎いことを深水は心配に思いながら、直球になりすぎないように、でも伝わるように言葉を選ぶ。
「ぼくだって男なんだよ。蒲生くん相手に多少の下心は抱いているから、えっと、手を出しちゃうかもしれない」
「…………………………えっ。……は?はあ!?」
沈黙のあと、顔を真っ赤にし、口をわなわなと震わせた。
「俺だって男だ。何もさせねえし、そもそも深水なら何もしてこねえだろ」
「信用してくれているんだね。嬉しい。でもぼくはもうただの友達じゃなくて恋人だって、意識してほしいな」
「な、何もする気はないが、意識してないわけねえだろ。他のやつなら本の貸借ごときで家に呼ばねえし、その、恋人だから連れてきた」
蒲生の頬が赤く染まる。寒さのせいではない。深水は蒲生の言動を受け、自分も同じ色になっているのかなと高揚して冷静さを失った頭の隅で考える。
「とにかく入れ。ずっと外にいたら寒いだろ」
蒲生は赤い顔のまま顰めっ面をする。本気で怒っているのではなく、照れ隠しの表情。そんな蒲生のかわいさに釣られて、多少は躊躇していたはずなのにそんなことも忘れて玄関へ足を踏み入れる。
「お邪魔します」
二階の一室、西日が差し込む部屋。日差しが眩しいため、二箇所ある窓のうち片方のカーテンは閉められている。蒲生の部屋は本人の几帳面さが反映されてよく片付いており、学習机、ベッド、本棚、他の部屋から持ってきた折りたたみ式のローテーブルが六畳ほどの部屋に無理なく配置されていた。全体的にモノトーンな色味で統一されており落ち着きのある空間だ。初めてくる場所なのに蒲生らしさを感じ、全く見知らぬ空間であることを忘れそうになる。
階段を登る音がして、すぐに部屋の扉が開く。蒲生が湯呑を盆にのせて持ってきた。それらを深水の目の前のローテーブルに置く。
「ありがとう。いただきます」
早速湯呑を口元へと運びお茶を啜る。淹れたてのためかなり熱く、一口で一旦飲むのをやめてローテーブルに置いた。
蒲生は深水がお茶を飲むのをやめたのを確認して壁際の本棚から一冊本を取り出した。
「これが『賢者の言葉』だ」
「ありがとう」
深水は蒲生が差し出した本を受け取り、表紙を眺める。題と作者名、出版社が記載されているだけのシンプルなデザインだが、蒲生から借りたものというだけで期待値が跳ね上がる。
「他に何か気になる本はあるか?何冊でもいいぞ」
蒲生は深水の隣に座り得意げな顔をする。自分が好きなものを共有したいという気持ちが伝わり、愛しさが増す。だが申し訳ないと思いつつ断ることにした。今はこの一冊を大事に読みたい。
「一度にたくさん借りると読むのが大変だし、今日はこれだけにしておくよ」
「それなら今ここで読んでいくか?来てもらったはいいが特にすることはないからな」
そう言われて本棚を眺めると、興味深いタイトルの本をいくつか見つける。しかし、ここまで来ておいて読書をするのはもったいない気がした。
「それもいいけど、せっかく二人きりなんだから他のことをしたいな」
「なっ、何もしねえって言っただろ!」
蒲生がまた顔を赤らめる。家に入る直前の会話を気にしているらしい。そこに気がつくと、深水も少し顔が熱くなる。
「ぼくが考えていたのは雑談したりゲームをすることだったけど……勘違いさせちゃってごめん」
「〜〜〜〜〜〜っ、俺が勝手に変な思い込みをしただけだ、謝るな」
蒲生は首や耳まで赤く染めて項垂れる。墓穴を掘ったことが相当悔しいようで、深水まで居た堪れない気持ちになる。話を逸らして気を紛らせたくなった。
「蒲生くんは何かしたいことある?」
「したいこと…………」
蒲生は口を結ぶ。顔の赤みは引かない。言うのは憚られるけど何かある、そんな心を感じた。
「……ねえな。ゲーム持ってねえし雑談なんて学校でもできる」
「本当に?蒲生くんから何かしたいことがある心を感じたよ」
「き、気のせいだ」
「そっか。でもしたいことができたら言ってね。蒲生くんがぼくとやりたいことがあるならどんなことでも嬉しいから」
蒲生が言いたくなさそうなので無理に聞き出そうとはしない。しかし本当は今すぐに話してほしいと思っており、無意識のうちに期待する目を蒲生に向ける。
「あまりジロジロ見るな」
「そんなに見てたかな、ごめんね。蒲生くんがやりたいこと知りたいなって思ってたらつい見ちゃった」
ごめんねと言いながらも蒲生を見つめる目は変わらない。蒲生は痺れを切らし、一度ため息をついてとうとう打ち明ける。
「……手を繋いでみたいと思っただけだ。何もしないと言った手前そんなこと言えるわけ……って、おい」
深水は蒲生が目を逸らしている隙に彼の手を取り、指を絡めた。蒲生の願いは叶えたいし、何より深水自身もそうしたいと思ったためだ。弱い力で抵抗されるが、深水が繋いだまま離さないでいるとそれ以上何もしてこなかった。
「ふふっ、蒲生くんでもこういうことしたがるんだね」
「この程度なら健全だろ。悪いか」
蒲生は怒った顔で深水を睨むが、照れ隠しであることは心を感じるまでもなくわかっているため深水は全く怯まない。それどころか照れにより熱くなった掌に触れていることが嬉しくて繋がれた手を見つめてニコニコ笑う。
「悪くないよ。むしろ嬉しい。他にもあったらどんどん言ってね」
「……ハグを、したい」
その言葉を受けて一旦繋いでいた手を離し、すぐさま両腕を広げて抱きついた。途中、蒲生の手が名残惜しそうに深水の手を追いかけていたことに気がつき、嬉しさのあまり抱きしめる力を強める。それに釣られて蒲生も深水の背中に手を回し、一層密着するように腕に力を込めた。
「幸せだね」
「……そう、か?俺ばかり要望聞いてもらって深水がやりたいことなにもしてないが」
「ぼくもいつかはこういうことしてみたいって思ってたから、もう望みは叶ったよ」
「それならいいんだが……」
「あっ、でも強いて言えば一つだけ」
「何だ?」
深水は蒲生から体を少し離して顔を見る。至近距離で目と目が合い、まさに今から声に出す行為をするのにうってつけだ。
「キスしてもいいかな」
「……!」
蒲生はあからさまに目を泳がせる。逡巡しているように見えて、その実照れと困惑、それから期待で胸がいっぱいになり頭が働いていないことが窺える。
蒲生は深水のおねだりに弱い。深水はそれがわかっているから今回はダメ押しせず、蒲生の回答が出るのを待っている。
そうしてたっぷり時間をかけた後、蒲生が恐る恐る目を閉じた。緊張の面持ちで寒空の下にいたときよりも濃い赤色の顔をあげている。
(かわいい)
数秒ほど見惚れていると蒲生から早くしろという心の声が聞こえた気がした。深水は蒲生の肩の上に手を置き、唾を飲み込んで顔を近づけた。
最初だから一瞬だけにした方がいいかな。そういえば口臭大丈夫かな。鼻息荒くないかな。蒲生くんかわいいな。キスをする間際の極短い時間にこのような考えごとをしていたが、唇と唇が触れた瞬間全て吹き飛んだ。温かくて柔らかい。キスの感触をマシュマロに例える人の気持ちが少しわかった。
最初だから一瞬だけ、と思っていたにも関わらず二秒三秒と時間が経っても重ね続けている。触れた瞬間に虜になり、離れることが惜しくなってしまったためだ。
もっと堪能したい。そんな欲望から少しずつ角度を変えてみようとしたところ、蒲生の手が深水の胸元に当てられ押しのけられた。
「待て。これ以上は不健全だ」
顔色は変わらず、だが風紀委員として生徒指導している時と同じ真面目な顔で蒲生が深水を見つめる。ちょっとやりすぎたかなと反省する気持ちが半分、もう少し続けたかったと残念に思う気持ちが半分な眼差しで深水も見つめ返すと、蒲生の瞳が僅かに揺らいだ気がした。それでも彼は依然毅然とした態度を取っている。
「そんな顔をしてもだめだ。俺たちはまだ高校生だから卒業するまで慎むべきだ」
「卒業したらもっとしていいの?」
蒲生の発言を受けて深水が目を輝かせると、蒲生はわかりやすく狼狽えた。この反応ならきっと期待を裏切らない。深水がさらに希望に満ちた目で蒲生を見続けると、蒲生は眉を顰めてはいるが緩んだ口元を隠して返事をする。
「まあ……年齢上はもう成人だから公序良俗に反さなければいいんじゃないか」
深水は胸がいっぱいになり満面の笑みをこぼす。頑固親父と称されるほど堅物の彼から許しが出ると思ってもいなかった。それに加えて蒲生もその先を望んでいる心を感じて嬉しかった。
「もうすぐ卒業で寂しいと思っていたけど、卒業後の楽しみができたね」
「……ふん」
「卒業してからもたくさん会おうね。よかったらぼくの家にも遊びに来てよ」
「ああ」
「でもぼくの家だとおじいちゃんとおばあちゃんがいるから、また蒲生くんの家にもまた来たいな。二人きりになりたいし」
「…………」
「その時に備えてまたやりたいこと考えておかなきゃ。卒業後なら今以上に色んなことしていいんだもんね」
「…………っ、もうその話はいいだろ。ほら、もうお茶冷めてるから飲め」
蒲生は照れ隠しに机上の湯呑を持って深水に差し出す。それを受け取ると確かに湯呑が先ほどよりも温くなっていた。せっかく渡されたのでお茶を飲もうと湯呑を口元まで持っていくが、少し迷って湯呑を持ったまま手を下げた。
「どうした、飲まねえのか」
「うん……さっきキスしたから口つけちゃうのがもったいない気がして」
「…………はあ」
蒲生が珍しく気の抜けた声を出す。深水が湯呑から蒲生へ視線を移すと、声とは裏腹に真剣な顔をしていた。
「そんなでは生活できねえだろ。キスくらい、さっき程度のなら何回でもしてやる。時間と場所を弁える必要はあるが」
「本当?」
「こんなこと嘘つかねえよ」
深水は胸を躍らせて湯呑に口をつけ、勢いよくお茶を飲みだした。ある程度飲んだところでローテーブルに湯呑を置き、蒲生の方に向き直す。
「じゃあもう一回、いい?」
「気が早え」
そう言いながらも蒲生は深水に顔を近づける。深水が目を閉じると今度は彼の方から口づけをした。
一瞬だけど温かい。まだ冬の寒さが続いているけれど、この温もりだけは春を予感させた。
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