汗があごをつたい、熱せられたコンクリートに落ちる。黒い点がうまれ、やがて消えていく。右手と左手で握った柄は重たい。すべり落ちないように、握りしめる。
対するは妖魔、サルカゲ。
「私が恐れるものなど、私たちにとって取るに足らぬもの」
うっすらと浅黒い肌、白い着物に、漆黒の髪、頭を覆う白い布。目はくぼみ、どこを見ているのか分からない。彼女は目が悪かったことを思い出す。
「斬れるのかい? 彼女を」
「斬らねばなりません」
それが妖魔であると分かっているのなら、僥倖である。なにも臆することはない。
「せいらん」
彼女の懐かしい声が聞こえる。それと同時に恐れも生まれる。ぽた、と汗が再度、落ちた。
「私は最初から最後まで、親不孝ものでしたね。おばあ、……あんまー」
せめてあなたの目が私を見ずに終われるように、刃を向ける。
お前は私の祖母ではないから、首を落とすことにも躊躇いはない。私の祖母は私が故郷にいないときに死んだ。死に顔も知らない。
けれど皺のある右手を私に向けたことは、まるで私を許すというようにも感じられて、目を伏せた。
鉄がこすれあう音を聞き、妖刀をおさめる。
「お目汚しを……」
参段であることへの自負はそれなりにあるが、クロイヌに腕を切られた。群れであったからだと、言い訳はしまい。
「主」
どこまでもやわらかな声だった。
撤収作業をはじめたまわりの喧噪よりも、耳に馴染む。
視線を紫垂月頼宗にうつすと、彼は目を細めほほえんでいた。土煙が舞う中、まるで蜃気楼のようにも見えた。
「サルカゲが化けた人間……君の血縁のようだけど」
「祖母です。……ふふ、ただの人間が恐ろしいなんて、がっかりされたでしょうか」
彼は一度またたきをし、「どうかな」と言った。
「でも、因縁めいたものを見た気がするよ」
「……そうですね。とっくの昔に死んだ人間とのそれがまだ断ち切れていない。下緒院の刀遣いとして、お恥ずかしい話です」
左手に持つ鞘を、まるで自分の心を宥めるように握り、帰りましょうとうながす。
門が開いて約一時間。複数種類の妖魔が出現した場は、もう静かなものだ。
日光を浴び続け、ふと皮膚が痛むことに気付いたのは天照に帰還した頃だった。じりじりとした痛みに鏡を見ると、火傷のようなあとが頬骨の部分に沿うように存在している。
極々軽度のものだから、放っておいても良いかもしれない。
が、鏡にうつる自分の表情は、そう考えるに値する表情をしていなかった。
この肌の色でなければ、他の刀遣いたちと同じように日中を過ごすこともできたのだろうか。ただ今は、自分にできる仕事をするのみ。そう思いこみながら刀遣いを続けてきた。おそらくこれからも続けるのだろう。刀遣い以外の――天照以外の場所に、もはや許される生き方などない。そのような結果になったのは誰でもない、自分自身のせいだ。自らのための贖罪、そしてお役目を必ず果たしていかなければならない。
――どこまでも自分勝手な人間である。
「主。怪我をしてしまったんだね」
腕の傷は診てもらった。頬のことは凪鞘班の外科医も了承済みだ。塗り薬を塗ってもらい、そのうち完治すると言われそのままにしてある。
彼の指が顔の輪郭を撫でた。
「いえ、これは……」
そこで口を閉じ、視線を彼から外す。
「火傷の痕です。少し太陽の下にいすぎたようで」
「人間の身体は不思議だね」
「ええ。私たちでさえ分かっていないのですから」
そうして、やっと視線を合わせる。
黒い残滓をまき散らしながら消えていったサルカゲを思い出す。恨めしそうな目をしていた。最後に見た祖母と同じような目だった。
お前は死ぬまで、否、死んでからもこの地を踏むことは許さないと言った彼女の母はユタではなく、祝女であった。神人と呼ばれた誉れ高い巫女。ノロは三代先の女性に同じ力が宿るといわれたが、彼女の孫――母はとうとう力が宿らず、七十歳を迎えた。そのため、祖母の言いなりであった。彼女が死んだ今もきっと、縛られているのだろう。哀れなことだと思う。
「手が震えているね」
白い手が青嵐の手の甲にふれる。ひとのようなぬくみがある温度。
「サルカゲに化けた人が恐ろしかったのかな」
「……」
耳朶に、蝉の声がわんわんと響く。
呼吸が細かくなっていることに気付いた。目の前の彼の表情がかすかに揺らぐ。
腰にわずかな体温を感じた。耳もとで、「大丈夫?」という声が尾を引いて聞こえる。熱にあたったのかもしれない。それとも、本当に――恐ろしかったのだろうか。あのサルカゲが――いや、祖母が。
体を支えてもらっていることに気づき、謝罪する。あごを上げるとすぐそばに彼の目があった。覗き込むような瞳に、ただ、くちびるを閉じる。そうするしかなかった。
長いまつ毛、それに縁取られた美しい目と、その虹彩。
ちりんとどこかで鈴の音が聞こえた。幻聴か、それとも――。
朦朧とする意識をつなぎ止めたのは、紫垂月頼宗からの口付けだった。
藤の花の香りが強く漂い、彼の着物を無意識に握りしめる。
何度も繰り返すうち、そろりとくちびるを開くと湿ったやわらかいものが口蓋をゆっくりとなぞった。
彼なりの慰めか、あるいは気まぐれか。刀神が考えることは分からない。生きた年数も全くちがうし、心という触れられない、見ることができないものが存在するのかも分からない。が、それでも彼は自身の凝った場所に触れた。そう考えている。触れられたが、触れられない。この淋しさは言葉でうまく伝えられなかった。
なら、せめて体温で示せばよいのかもしれなかった。
ヒトの生身の――、ここに「在る」と、思い込みではない確かな物体として、または肉体として、せめて彼に触れられたら。
「人間ひとりが寿命を迎えるまでに出会える存在は、大した数ではありません」
刀神であろうと、人間であろうと、また別の生物であろうと。
着物越しに、胸にふれる。彼もまた、ここに在った。存在として。
「その限られた命の中で、紫垂月殿と縁を繋げられたことを嬉しく思います」
「〝嬉しい〟」
反芻した彼の声色には、からかいの色などどこにもなかった。ただ純粋に珍しい、というような意味だったのだろう。
「それは光栄だね。……主」
「人生の半分を過ぎた人間ですが、これからも……いえ、せめてあと十年ほどおつき合いいただけると私も、」
私も光栄に思います、とかたどろうとしたくちびるを少しの間、結ぶ。
光栄という畏まった言葉ではない。ただ彼と共にあれるだけで幸せだった。
「……私は……。そう……ただ、幸せです」
私は紫垂月頼宗に好きになってほしいわけではない。
ただ――ただ、嫌いにならないでほしい。
それがかなわないのなら、認めてほしい。
私が数多いる人間の中の、「雲井青嵐」であったことを。
彼のために尽くすことを――忠実に、裏切らない存在であるというだけなら、他の誰かにでもできるだろう。
それ以上を願ってはいけないと分かっている。けれど形のない心というものは、願ってしまう。
紫垂月頼宗、彼の長い生のなかで咲き続ける花でありたいと。
彼にだけ分かる花の名前、その香り。ふいに思い出せる程度の色として。
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