ojinuko
2025-06-30 11:52:20
5591文字
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落花流水(6/15星願無配)

6月15日のジョシュクラオンリーで配布した無配の小話です。
新刊『こいねがわくは』の後日談。
(ジョシュクラ/全年齢向)

 都会の空気には少しづつ慣れてきているものの、多くの人が行き交う中で傘を差すのはまだ慣れない。どうして皆隙間なく咲いた傘の花の中をぶつかることもなく涼しい顔で歩けるのだろうか。
 ジョシュアは傘の露先をくいと上げ、背の高いビルに切り取られた四角い曇天を見上げた。鼻先にぽつりと大きな雫が落ちて、指先で軽く拭う。
 待ち合わせはここでいいはずだけど、と周囲を見回すが、慣れない場所な上にとにかく人が多い。確かクライヴはグレーの素っ気ない傘を使っていた。しかし、駅前のシンボルともいえる大きなショピングビル前は同じような待ち合わせの人が多い。しかもこの雨で傘が人々の顔を隠してしまい、探すのも一苦労だ。せめてもっと目立つように、彼へ似合いそうな洒落た傘でも贈ろうか、とため息交じりで背後のウインドウディスプレイへと目を向けた。
 暦は六月。梅雨時でありながらジューンブライドでもあるこの時期のディスプレイは、雨粒を模したミントグリーンの背景に宝飾系のアイテムが飾られている。思い思いにショーウインドウ前を埋める人々の中、周囲より少し高い位置に咲くグレーの傘。その人物はこちらに背を向け、ディスプレイの方をじっと見つめていた。
 きっとあれがクライヴだ。こちらを向いていてくれればもっと早く気づけたはずだったのに。
 なにをそんなに熱心に見ているのだろう。背後からそっと近づいて、その視線の先を追ってみる。そこには指輪やイヤリング、ネックレスなどのきらびやかなアクセサリーがセンス良く飾られるばかりだ。普段から飾り気もなく、腕時計以外はアクセサリーなんてつけているところも見たことないのに、どうしたのだろう。
 ショーウインドウのガラスには背後に立つジョシュアの姿がしっかり映っているというのに、それにすら気づかずその目はじっとディスプレイの一点を見つめていた。
「お待たせ」
 一向に気づく気配のない後ろ姿に痺れを切らして声を掛けると、ビクリと揺れた傘から溜まった雨粒が露先を伝い幾粒もぱたぱたと流れ落ちた。慌てて振り返ったクライヴは、なにやら誤魔化すかのように腕時計を見る仕草をして眉を下げた。知られたくなかったのだろうか、自分が熱心に見ていた何かを。
……すまない。ぼんやりしていた」
 クライヴが見ていたあたりを横目でちらりと盗み見ると、そこには木の枝を模した白いオブジェに、シンプルなシルバーのアクセサリーが引っ掛けるように飾られていた。どうやら、枝を伝う雨の雫がイメージされているようだ。
――これが気になっていたのかな。
 指輪にネックレス、イヤリングなどが飾られている中で、なんとなくそのうちのひとつに目が留まった。燻し加工の入った銀細工のシンプルなイヤーカフ。いくつもあるアクセサリーの中で、きっとそれだと思った。理由はないけれど、ただなんとなく。
「ごめんね。雨の中、待たせちゃって。行こうか」
「ああ、そうだな」
 できる限り親の世話にはなりたくなくて、必死で学費免除を勝ち取った。生活費も自分で賄える分は賄いたくて、家庭教師のバイトも始めた。無駄遣いはしたくないが、小さな値札を見る限りそこまで高額でもない。ついさっき傘を贈ろうかと思っていたが、心は一瞬でそちらに傾いていた。
――今からもう少し頑張れば、八月に間に合うかもしれない。

 ◇

 あれから何度も駅前まで来ては、あのイヤーカフがまだそこにあるかショーウインドウの前に立った。
 季節が夏を迎え、ディスプレイが変わってしまったときには、少々焦ってしまった。それがどこへ行ってしまったのか、広いビル内を探し回った。比較的カジュアルな宝飾店の店頭で見つけたときは、思わずほっと胸をなで下ろした。

「いつもご来店、ありがとうございます。こちら、一点ものなんですよ。贈り物ですか?」
 それからも度々見にきているからか、店員に顔を覚えられてしまっていたみたいだ。にこにこと人好きしそうな笑顔で正面に立つ、小柄な女性店員。今までアクセサリーなんて買ったこともないし、慣れない宝飾店で声をかけられて少し面食らった。
「あ、ええと。そう、ですね。一点ものって……?」
「売れてしまったら、もう同じものはないんです」
 長い髪をゆるく束ねた優しそうな彼女がショーケースの中のイヤーカフを取り出して見せてくれた。手のひらに収まるシンプルなジュエリーケースの中で鈍い輝きを見せるそれが、なぜだかとても懐かしく思えた。
「もしご希望ならば、月内でしたらお取り置きも承ることができますが……
 同じものはない――。予定では今月中には手が届くはず。頭の中でカレンダーをめくり、その日を逆算していた。黙って顎に手を当てしばし考え込んだジョシュアに、彼女はその手の中のカフの片方を指差して目を細めた。
「イヤーカフは片耳用としてひとつだけ作られることが多いのですが、これは同じデザインがペアになっています。シンプルなので重ね付けしてもいいですし、ペアリングのように大切な人とひとつづつ分け合うこともきるんですよ」
――ひとつづつ、分け合う……
 
 ◇

 ジョシュアが春にこちらへ来て、もう早いもので盛夏も越え残暑の時期に入っていた。田舎町の夏もそれは暑かったが、都会の暑さはまた少し種類が違う。昼間の熱の逃げ場がないのか、夜になってもその暑さが一向に和らぐことはなかった。向こうでは夕方に雨が降れば夜は少し涼しくなるものだったが、こちらで降るのは夕立なんて生易しいものではない。ゲリラ豪雨とも呼ばれる熱帯のスコールのような激しい雷雨が容赦なくコンクリートで固められた街を襲う。なのに涼しくなるなんてことはなく、余計に湿度の増した不快な夜が訪れるだけだった。雨上がりの土の匂いはしないし、恵みを喜ぶ生物たちの声も聞こえない。
 それでもクライヴがそこにいるとなれば、そんな違いも大した問題ではない。
 ジョシュアは水溜まりがあちこちにできた蒸し器のような街を抜け、閑静な夜の住宅街を跳ねるように歩いていた。今日は金曜だから、週末の間ずっと一緒にいられる。さっきバイト終わりに連絡をしたら、もう家にいると返信があった。
 週末と、週中。一週間に二度は彼の部屋へ行き、朝まで一緒に過ごす。週末はほとんど一緒にいるし、週中は午後から塾の仕事へ向かう彼に朝送り出してもらい大学へ向かった。それでももっと会いたくて、一緒に住めたらいいのに、なんて贅沢なことまで思ってしまう。
去年の今頃はただ会いたくて会いたくて仕方なかった。一言でいいから声だけでも聞きたくて、でもそれすらもできなくて。毎日不安と淋しさと戦っていた。それを思えば今は幸せ過ぎて怖くらいなのだが、欲なんてものは際限なく湧いてくるものだ。
 それに今日は、特別だった。正確には今日でなく明日だが。それは一昨年、二人が初めて会った日。クライヴにとっては初めてではなく再会の日だろうか。
 あの夏の日。夏休みでほとんど乗客のいなかった小さな列車。まるで不審者のような男にいきなり声を掛けられた。その不審者は臨時講師として学校に赴任予定だったクライヴで、その日からジョシュアの世界は文字通り一変した。
 自分が今でも昔のことを何も思い出せないままなのは少々悔しいが、クライヴはそれでいいと笑ってくれる。時々よくわからない些細なことが琴線に触れるようで、気がつくと感極まったり涙ぐんでいたりする彼を見るのは心苦しくも、また少し嬉しくもあった。見えない自分に嫉妬したりしていた頃ももう過ぎて、今は彼の遠い記憶も全部ひっくるめて一緒に居られることが幸せだと思えるくらいにはなっていた。

――いつ、渡そうか。
 鞄にしまった小さな包み。重さなんてほとんど感じない程のものなのに、いつもより肩にかかる鞄の存在感を大きく感じる。
 今日、学校の帰りに引き取りに行ってきた。取り置き期限の2日前。カウンターで名乗ると、あの時と同じ店員が対応してくれた。きっと喜んでくれますよ、とまるで自分のことみたいに嬉しそうな笑顔を見せる彼女に丁寧な礼を告げて店を出た。何も言っていないのに、彼女がしてくれたプレゼント包装はクライヴへ渡すのにぴったりだと思った。
 喜んでくれるだろうか。勝手にこれが欲しいのだろうと確信したけれど、実は見当違いだったらどうしよう。クライヴに何か贈るのは修学旅行のお土産のとき以来で、あのときみたいにどきどきが止まらない。
 小さな公園の中をショートカットして、目の前に建つマンションを見上げた。一番上の東側の部屋。明かりがついているのを確認して、勝手に頬が緩む。肩の荷物をもう一度かけ直し、ジョシュアはエントランスをくぐった。

 ◇
 
 一緒にクライヴの作ってくれた夕食を食べて、片付けはジョシュアがして。そしてコーヒーを入れて、リビングのソファで他愛のない会話を交わしゆったりした宵のうちを過ごす。春の頃には、たったそれだけのことにも緊張したりしていた。一緒に季節をひとつ過ごし、だんだん慣れてきて、今は空気のように当たり前になりつつある。近頃は、それにゆるりとした幸せを感じる余裕も生まれていた。
 しかし、今宵は久しぶりに少しあの時の気持ちでここにいる。
 初めて会った日が記念日だなんて言ったら、重すぎるかな。どうやって切り出そう。なんて言おう。
 きっと、先生はそんなこと覚えていない。
 でも、喜んでくれるかな。受け取ってくれるかな。
「どうした、ジョシュア。元気がないな、疲れたか?」
 結露で汗をかいたアイスコーヒーのグラスが指をひやりと濡らす。それにも構わずじっと黙ったまま一点を見つめるジョシュアを、クライヴがひょいと覗き込んだ。いつもはきりりとした眉が心配そうに下がっているのを見て、ふと我に返る。
 都会の夏はきついだろうと言う彼に、そんなことないよ、と取り繕って一度きゅっと唇を引き結んだ。意を決してソファを滑り降り、なんだ、と首を傾げる彼の前に片膝をついた。膝の上に置かれた筋張った大きな手を取って、両手で恭しく握りしめる。
……ねえ、先生。明日、何があった日だか覚えてる?」
 見上げて問うた真っ直ぐな瞳に、クライヴは戸惑ったように視線を天井へ向けた。そして少し考えるようなそぶりを見せたあと、すまないが、と申し訳なさそうに黒い睫毛を伏せた。いいんだよ、と首を小さく横に振ったジョシュアを映した藍の瞳が、不思議そうにゆらりと揺れる。
「少しだけ待っていて、すぐ戻るよ」
 握った大きな手に唇を寄せて離れると、隠しておいたプレゼントを取りに一旦リビングを出た。
 薄暗い玄関の隅にひっそり置いたそれを手にして、ひとつ息を吐く。小さなその包みをきゅっと握りしめた。
 どうせなら、花なんかも一緒に用意しておけば良かったかな。
――クライヴが、喜んでくれますように。

 これ、と言葉少なに包みを差し出したジョシュアを見上げ、クライヴはまた首を傾げた。
「これは………?」
「明日はね、二年前、僕たちが初めて会った日なんだ。……先生にとっては、再会になるのかな」
 幾度か大きな瞬きをして、パチリと音がするかと思うほどその目が見開かれた。じっと見ていたら、奥深くまで吸い込まれてしまいそうな深い藍色の瞳。
 すまない、と言いかけた唇を指先で塞ぎ、いいから開けてみて、とその手にしっかりと握らせた。
 少々ぎこちない仕草で、無骨な指が丁寧に繊細な包みを解いてゆく。
 彼があの日雨の中見ていたのは、本当にこれだっただろうか。ただの思い込みかもしれない。じっとクライヴの手元を見つめるジョシュアも、息を飲んで密かに硬く拳を握った。
 ケースを開けたクライヴは、白く光を蓄えるベルベット生地の上で綺麗にふたつ並ぶそれを見ると、再び零れそうなほどに目を見開いた。
「覚えてるかな。雨の日に駅前で待ち合わせしたあの時、ショーウインドウに飾られていたものだよ」
「どうして……こんな」
「あの時、先生が熱心に見ていたから……。どうしてもこれがいいと思ったんだ。ひとつづつ大切な人と分け合えるって、お店の人が。……クライヴ?」
「いや……、なんでも……っ」
 握った手の甲で口許を隠し咳払いのような真似をするが、歪んだ眉と潤む瞳は隠せていない。腕を伸ばし抱き寄せた大きな肩がわずかに震えていた。
 きっと、遠い記憶の中のなにかと邂逅しているのだ。この数カ月の間に些細なことで何度か同じような状況を見た。詳しく何があったのか、ジョショアは聞かない。説明させるのは酷な気がするし、聞かなくてもなんとなくはわかるから。外食に出たレストランで、皿に残した人参を見て急に涙ぐまれた時にはさすがに驚いたけれど。
……その片方、僕にくれる?」
 何度も頷き、殺した嗚咽の隙間から聞き逃してしまいそうなほどの小さな声がジョシュアの名を呼んだ。少し前なら、きっとその《ジョシュア》は自分のことではないと嫉妬していたことだろう。しかし、そんなことはクライヴを無意味に苦しめるだけで何の意味もないと、今ならば理解できる。憶えていないだけで、その《ジョシュア》は自分自身なのだ。
 そっと柔らかな黒髪に指を入れ、肩口へ引き寄せた。縋るようにシャツの背中を握りしめる手が切ない。
 ふと、耳奥へ蘇る。
 薄れゆく意識の中、まるで悲痛な叫びのような彼の声を聞いていた。
 あれは、いつのことだったか。

「僕はここにいるよ、もうあなたを置いてどこにも行かない」
 
 この一言を、ずっと言ってやりたかった。
 僕は多少なりとも大人になれたかな。
――ねえ? 兄さん。