高梨 來
2025-06-29 15:20:09
3900文字
Public ときメモGS2/ウェブ企画
 

作品A

ときメモGS2作者当てクイズ企画参加作品です。

 海沿いでの暮らしなんてまっぴらだ。
 初めてそう痛感させられたのは、小学二年の時だったと思う。生まれて初めて買ってもらった自転車を一ヶ月で錆まみれにしてしまい、ひどく落胆する僕を前に、「教えてあげていなくてごめんね」としきりに謝ってみせる母と、休日の貴重な時間を割いてまで錆取りの方法を教えてくれた父の姿を見た時の気まずい気持ちはいまだに色褪せないままだ。
 
 とかく一年を通して湿気に悩まされる。風の強い日には瞬く間に塩と砂まみれになって、洗濯物なんてろくに干せない。冬の海には風情があって悪くないと思えるけれど、こと海水浴シーズンともなれば最悪だ。お世辞にも品が良いとは言えない連中が連日押し寄せては、昼間から夜中まで構わず騒ぎを起こし、しまいには好き放題にゴミを散らかして生態系を破壊していくのだから。
 有害な紫外線をふんだんに帯びた突き刺すような日差し、足の裏が焼け焦げるような熱せられた砂浜、肌をべたつかせる潮風、塩辛い海の水、体ごと飲み込んでさらっていくような波――幼い頃から、海は大の苦手だ。それは今も変わらない。それでも――そんな凝り固まった気持ちがふいに揺らぐ瞬間が時折訪れる。彼女がひどく嬉しそうに海の話をする、こんな時だ。

「それでね、夏休みになったら三人で海水浴に行こうって約束したの」
 微かな波の音にまじわるように、とりわけ明るく弾んだ声が心地よく耳をくすぐる。はばたき市は何かと娯楽の多い街ではあるけれど、夏の海というのはそんなに特別に楽しみな場所なのだろうか。
「新しい水着も買ったんだよ。千代美ちゃんはちょっと恥ずかしがってたんだけど、ひーちゃんが『絶対似合うから!』っておススメしてくれて。わたしのは千代美ちゃんが選んでくれたんだけどね、ふたりともすっごくセンスがよくってびっくりしちゃった。店員さんはね、ひーちゃんと千代美ちゃんのことを姉妹だって思ったみたいで」
 ニコニコと満面の笑みで話してみせる彼女の背後では、夕方の光に照らされた水面がきらきらとまばゆく光り輝く。こうして遠景で目にする分には美しいと、素直にそう思えるのだけれど。目にしみるような眩しさに思わず目を細めると、傍らを歩く彼女からは、ひどく恐縮した様子の言葉がかけられる。
……ごめんね、氷上くん。わたしってばまた一方的に話すぎちゃってたね」
 耳にかかった髪をそっと撫でる遠慮がちな仕草からも、ひたひたと伝うようなもどかしさが手に取るように伝わる。
「いや、そんな。気にしないでくれ」
 生ぬるい潮風が彼女の髪や胸元のリボンをそっと揺らす。深いロイヤルブルーの半袖ワンピースに真っ白なボレロ――真夏の空と雲のコントラストを思わせる羽ヶ崎学園の夏服は、海沿いのこの風景にいつ見てもしっくりと馴染んで見える。
 気を取り直すように、こほんとわざとらしい咳払いをして、僕は続ける。
「まぁ確かに、水島くんは大人びているからそう見えてもおかしくはないんだろうな。それにしても女子三人で海か……おかしな輩には気をつけてくれよ。何なら――
 僕が警護役を努めようか。咄嗟に口をついて出そうになった言葉を慌てて飲み込み、微かに汗ばんだ指先に力を込める。そんなのきっと迷惑になるだけだ。下心があると思われたっておかしくないわけだし……
 あれこれと無様に思いを巡らせるこちらをよそに、ふわりと笑いながら彼女は答える。
「ああ、それなら大丈夫。行きと帰りはね、ひーちゃんの親戚の叔父さんが車で送ってくれることになってるの。あんまり遅くならないように、危ないことがあったらすぐ連絡するようにっていうのも言われててね」
「そうなのか――
 つい無粋なことを言ってしまった。とりわけ優しい彼女のことだから顔には出さないでいてくれるだけで、さぞかし鬱陶しがられているに違いない。今更な後悔をよぎらせるこちらを前に、ふわり、と遠慮がちに笑いながら彼女は答える。
「あのね、氷上くん……ほんとうはね、氷上くんも誘いたかったんだよ。ほら、前にひーちゃんと氷上くんとクリスくんで遊園地に行ったことがあったでしょう? あの時すっごく楽しかったからまた一緒にってひーちゃんが言ってくれてね、クリスくんに声をかけてくれたんだけど、夏の間はお家のお仕事のお手伝いで日本と海外を行き来するから難しいって断られちゃったの。女の子ばっかりの中で男の子ひとりでっていうのはね、さすがにちょっと居づらいでしょ? じゃあ他の子は、って話になったんだけど、ハリーはバンドの練習、志波くんは部活に専念したい、佐伯くんも色々と忙しいみたいで」
……そうだったのか」
 彼らならさぞかし僕なんかよりも遥かに運動神経も抜群で、女性のエスコートだって得意で、万が一彼女たちに何か危険が及ぶようなことがあれば颯爽と駆けつけてくれるに違いない――そんな彼らと否応なしに〝比べられる〟可能性がなくなったことを思えば、正直に言えば、安心したとしか言いようがないのだけれど。それでも。
「嬉しいよその……僕に声をかけようと検討してくれた、その事実だけでね」
 取り繕うように笑いながら答えれば、やわらかな光に縁取られた彼女の笑顔がふわり、と静かに揺らめく。

 幼い頃から、海は大の苦手だ。一年を通して湿気と潮風には悩まされっぱなしだし、こと夏が訪れれば、無遠慮に押し寄せた輩が朝から晩まで大騒ぎを起こして海辺を荒らしていくのは特に耐え難い。
 夏場の砂浜の焼け焦げるような熱さや足の裏が沈み込むような感覚は大の苦手だし、口に入れば塩辛くて肌や髪をべたべたにする海水を自ら浴びにいくだなんてもってのほかだ。そもそも人間は陸で生きることを選んだ種族なのに、水の中に体を浮かせてじたばたするだなんて狂気の沙汰としか思えない。それでも、そのはずなのに――
 努めて明るい笑顔を浮かべ、きっぱりと僕は答える。
「まぁ僕だって女子たち水入らずの時間を邪魔するほど無粋ではないさ、どうぞ楽しんできてくれたまえ。それにまぁ……その」
 自転車のハンドルを握りしめる指先へとわずかに力を込め、すっと深く息を吐き、続く言葉を紡ぐ。
「君の気が向けばで構わない、もしまた誘ってもらえるのなら――君とその、ふたりでがいいな」
 たとえどれほどかっこわるい姿を見せる羽目になるのだとしても、ガールフレンドが海辺ではしゃぐ姿を間近で見てみたいと言う誘惑には勝てないのが恋心というものなのだ。
 ひどく不器用なおねだりめいた言葉を前に、彼女はと言えば、やわらかに綻んだ花のような穏やかな笑顔でそっと答えてくれる。
「ねえ氷上くん、それってもしかしてお誘い? せっかくだしさ、指切りしてもらっていい?」
 やわらかな言葉と共に、華奢な小指がそっと目の前へと差し出される。
……ああ、構わない」
 とはいえ、自転車を片手で押すわけにはいかない。万が一バランスを崩して彼女に怪我でもさせたら大事になってしまうし。こほん、と無理に咳払いをこぼし、僕は答える。
「そうだな、君の家の前で一旦自転車を路肩に止めよう。それなら問題ないぞ」
 返事の代わりのように、ふわり、と瞼を細めた軽やかな笑顔がきらきらとまばゆく光る夕暮れの時の儚い光の中にそっとくるまれる。

 これから先も、夏はきっと何度も訪れる。それでも――高校二年の僕たちの夏は、このたった一度きりだ。
「本当に楽しみだなあ、夏休み。ねえ、今年も花火大会に誘ってもいい? そうだ、遊園地にも行きたいなぁ。夏の間ならお化け屋敷にナイトパレードもあるでしょう? どうしよう、時間がいくらあっても足りないなぁ、わくわくしちゃうね?」
「いいけれど、宿題はいつするつもりだい?」
 冗談めかした口ぶりで尋ねるこちらを前に、にいっと明るく笑いながら彼女は答える。
「ご安心ください、ちゃんと千代美ちゃんとひーちゃんとは勉強会の約束もしているのです。宿題が終わってからの方が安心して遊べるもんねって」
「なるほど、去年の反省を生かしたというわけだな。君の成長には目を見張るばかりだ」
「お褒めに授かり光栄です」
 くすくすと笑い合いながら、一歩、また一歩と踏みしめるような心地で、すっかりお馴染みになってしまった帰路を、こうして今日もまた、ふたりで歩んでいく。


 夕暮れ時の海の波間に穏やかに溶けるように、真っ赤に燃えた夕陽が飲み込まれていく――夏のきらめきを閉じ込めたかのようなまばゆく美しいあの場所が、決して僕を手放しに歓迎してくれる場所ではないことくらいは痛いほどにわかっているのに、それでも。
 
 この夏、僕と彼女は一体いくつ、色褪せることのない思い出を残せるのだろうか。
 僕たちの夏はまだ、始まったばかりだ。


このお話を書いたのは?
作品Aの作者は高梨來でした!

某バスケ漫画のファンの皆様が「湘南で暮らしてたら自転車は手入れを怠るとすぐ錆びる(のにかなり高級なロードバイクに乗ってるぞ)」と話題にされていたのが印象に残っていたのと、氷上くんは海水浴シーズンの観光客をさぞ疎ましがってるだろうな。でも海辺での映画祭なんかは好きじゃないかな? などと考えたらこんなお話に。
デイジーに影響を受けて「苦手」にどう向き合うのかというのが今作の共通のテーマだったのかな。
かわいくてちょっぴり大胆なデイジーと、そんな彼女への「好き」の気持ちが無防備にあふれ出す氷上くんの両片思いが好きです。




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