ももせ
2025-06-29 11:37:42
2318文字
Public ゆめ
 

カンパニュラ

24時間一本勝負お題「入道雲・夕立・雨後の空」

「わっ、雨!」
 という声に反応して、尾形くんがこちらを向いた。驚かせてしまったのが彼だけで、つまり尾形くんしかいない時間帯で良かったと思いながら、カウンターを出て窓辺に向かう。図書室はこの面だけでも窓が四つあった。
 降って間もない大粒の雨が、さっきまで風でなびいていたカーテンの内側を不規則に叩き始める。それは切れた真珠のネックレスのように、いまにもザーッといきそうだった。
 それでも焦らないでいられたのは、視界の端で尾形くんが腰を上げ、もうひとつの面に向かってくれたおかげだった。
 私にとってはそこそこ力のいる建て付けの悪い窓も、尾形くんにとっては新品同然らしい。先に後ろまで辿り着くと、自然科学コーナーの前を通って、最後の一枚を手伝いに来てくれた。
「悪いね、尾形くん」
 いや、と尾形くんは大人びた声で言った。
 その低さや背中の広さを想うにつけ、校則違反のツーブロックを含めるまでもなく、最近の尾形くんはずいぶん男をしているな、と曲がりなりにも三年間見続けた私は思っている。
 その変化が、これまで通り仲良くいたいという願いを、グロテスクで手に負えない生物に変えているのだけど。
「見てよ、あれ。外は大変だ」
 まるで人がゴミのようだを薄味にして慈悲で飾り付けたような感想を呟くと、尾形くんは足を止めて「フッ」と笑ってくれる。
 そうして意図して私の後ろに立った。
 広い窓が四つもあるのだから、そうだ。きっとそう。そう願う生物に私はなっているのだ。
 びしょ濡れになった野球部員やテニス部員たちが昇降口へ駆けていくところをしばらく一緒に眺めながら、尾形くんが彼らへ向けた「ははぁ」という嘲笑が肩の上に広がるのを感じていた。
 ずっとこのままがいいし、このままだと死んじゃいそう。
 そんな二律背反に押し出される形で、口からどうでもいい雑談が漏れた。
「こんなに雨なら、予報が出た日だけでも中止にできないもんかね。うちだってさぁ、二時間に一回の換気とかやめてほしいわけよ。最新式の換気扇導入してくれよって感じ」
「ケチくさいうちの高校に限ってそれはないだろう」
「ええ、ええ。昭和の精神論がまかり通っておりますものね」
 尾形くんが失笑しながら離れてくれたおかげで、これ以上すり潰されずに済んだ。
 このまま未練なくカウンターに戻れたならどんなにか楽だろう。
「尾形くんはなに読んでるの?」
 足が勝手に、尾形くんのいる席までついて行ってしまった。
 それを不審がる様子もないので甘んじて受け入れた。引きっぱなしだった椅子に座り直しながら、尾形くんは言った。
「画集」
 大きくて重いために離席中も開ききっていたその続きを、長い睫毛に縁取られた眼が見下ろしている。ああ、いまは横に控えることしかできない。
「あっ。えーっと、待って。当てる」
 私が大まかに親しんでいるのは文学くらいで、正直、美術には明るくない。成績もだいたい「2」くらい。でも、当てたほうがなんだか気を引けるんじゃないかってそのとき思った。それに、尾形くんからの尊敬って「5」以上の価値あるし。
「モネ?」
 と私は遠慮がちに呟いた。
「違う」
「じゃあドガ、かな?」
「ははぁ、残念だったな」
 じゃあ誰よ一体、と聞きたい気持ちを抑えながら首を捻っていると、「ヴァシリ・パブリチェンコ」と、あっけなく正答がばら撒かれる。美術「2」の私が当然知るはずもない名前だった。
「誰よ一体」
「知らん」
「え、意外。知らん人の画集も見るんだ」
 どれどれ。
 覗き込むと花瓶に活けられた花の世界が広がって、その場面の持つ穏やかさだったり冷たさだったりを感じ取る。
「あ。私この花なら知ってるよ、カンパニュラだ」
「へえ」
 それきり口を噤んでしまった尾形くんが、どこか含みのある表情で私を見返した。
「好きなのか。これが」
「え? う、うん……まあ……好き、かな」
「そうか」
 続きの仕事でもするかなぁ、とこぼしながらそこを離れても、尾形くんはなにも言わなかった。
 それから少し経つと雨は止んでいた。仕事とは名ばかりの新刊試し読みをしていたせいもあり、尾形くんが帰り支度をしていることにも気づかない。
「おい」
 と突然の声に顔を上げると、白シャツの片側にリュックを掛けた尾形くんが目の前に立っていた。
「貸し出しですか?」
 形式的な問いに反応して差し出される本、『世界の花々』。
 唇が不可抗力でぷふっと歪むのを感じていた。しかしまだ笑い声さえ立てないうちに、尾形くんはひとりでに弁明を試みた。
「公園にエゴノキって植物があるだろう。あれは、皮を噛むとエグいことがその名の由来らしい。そういう……豆知識が書いてある」
「へえ」
 と耐えるほかなく手続きをしていると、重ねて言い訳が降ってくる。
「別に、お前の趣味に付き合ってやっているわけじゃない」
 はいはい、と答えながら二週間後のハンコを押したら、インクの文字も楽しそうに震えていた。
「いいよ、いいよ。尾形くんがお花に興味を持ってくれて嬉しいもん、私」
 すると、紫色のルピナスの表紙をスッと掴んだまま尾形くんが視線をそらす。 
 そのまま帰るのかと思いきや、性悪な知識の披露を忘れなかった。
「さっきお前が得意げに教えた花、あっただろう。パブリチェンコのやつ。あれには思いを告げるって意味があるらしいんだが、どう思う?」
 勝ち誇ったような足音が遠退くのを待ってから、止まっていた息をぷはーっと吐いた。それから急いで、次の二時間が来る前に窓を開けた。涼しくなってきた空に虹が出ていた。