千代里
2025-06-29 10:16:27
13629文字
Public リーブラ15話
 

リーブラの針は問う・15話・その9


 何かが待ち構えていると身構えれば身構えるほど、時間が経つのは早く感じるものらしい。
 先ほどまでお昼だと思っていたのに、いつの間にか訪れた約束の時間を示す柱時計を目にして、オデットは時計の針を誰かが勝手に動かしたのではないかと疑いたい気分になっていた。
「兄さん。オーバンさんは、わたしに何を見せようとしてるのでしょう」
 先導する使用人の後に続き、人気の少ない廊下を行く途中、耐えかねたようにオデットが呟く。
 しかし今、この場で正しい答えを出せる者はいない。代わりに、緊張しきりのオデットに寄り添うように、
「オデットは、昨日は何を見せてもらったんだい。それと、似たようなものかもしれないよ」
「見せてもらったのは、本とか……あとは、宝石も少しありました」
 気を紛らわすためだろう。ノエが当たり障りのない言葉を口にする。オデットもまた、無難な回答を返しながらも、高鳴る鼓動を抑えていた。
 妙な緊張感を覚えているのは、皆の服装のせいもあるのだろう。
 流石にここまで念入りに隠された遺産を見せてもらうのに、部屋着や私服で顔を出すわけにもいくまいと、ノエやサルヒを除く面々は戦闘時と同じ装束を身につけていた。
 ノエたちも、甲冑こそ着込んでいないものの、身につけているのは鎧下であるため、どことなくいかめしい印象が先走る。武器こそ持ち込んでいなかったが、遠目から見るとこれから一戦交えようとしているかのようだ。
 かくいうオデットも、シュガーグレイヴ近郊で買い直した白いローブに身を包んでいる。
 戦闘時の防具を身につけると、自然と背筋が伸びるので、結果的な重々しい空気に似つかわしい心境にはなっていた。
「こちらでございます」
 従者が恭しく開いた扉の向こうからは、煌びやかな照明の灯りが漏れている。
 従者から視線で促され、まずはオデットが先頭に立って入った。これまで、ノエやヤルマルのような年長者が先陣を切ることが多かった分、前に誰もいない状況は、オデットの小さな心臓を更にきゅうと締め付けた。
「来たか」
 入ってきたオデットを迎えた一言は、オーバンのものだ。しかし、彼らを待っていたのはオーバンだけではなかった。
 客人の七人を全員招くだけあって、部屋は広々としている。元は、サロンのような使い方をしていた部屋なのだろうか。今は夜なのでカーテンが閉められているが、大きな窓は日の光をできるだけ多く取り込むためのもののようだ。階段を上った先にあった部屋なので、眺望も期待できる、一種の展望室であり、大掛かりな団欒の場といったところか。
 室内にあったと思しきソファや椅子、机などの家具はほとんど脇に寄せられており、代わりに小机が一つ、オーバンのそばに置かれている。
 彼の背後には、従者のようにミラベルが控えていた。
 だが、オデットが部屋に入って真っ先に驚いたのは、華やかな部屋の内装でもなければ、ミラベルやオーバンの存在でもなかった。
(なんだか、物々しいですね……
 視線を向けた先にいたのは、部屋の壁越しに控えた二人の兵士。場にあわせてか、甲冑こそ着込んでいなかったものの、帯剣しているのは一目で分かった。
 昨日、遺産を見せてもらった時は、兵士は近くにいなかった。つまり、これはそれだけ警戒をして守りたい物であるということだろうか。屋敷の中では武器を所持するのは厳禁と、到着直後から言われていたオデットしては、兵士からはどことなく不穏な気配を感じてしまう。
 緊張が高まりっぱなしのオデットとは裏腹に、ノエやヤルマルは兵を一瞥しただけで、特段反応は見せなかった。
 そんな彼らの気配を察して、オデットもまた呼吸を整える。
「オーバンさん。そこにあるものが、わたしに見せたいと話していたものですか」
 オーバンの傍に置かれた机の上には、両手で持てそうなほどの大きさの箱があった。
 貴族の持ち物らしく、淵を飾る金属の飾りは優美な曲線をいくつも描いている。宝石やクリスタルなどは嵌め込まれていないが、工芸品としては一級品の作りなのは遠目からも分かった。
「そうだ。私は、そこのミラベルと共に、エヴラール卿の遺産にかけられた魔法のほぼ全てを、解読し、解除していった。だが、どれだけ知恵を振り絞り、数多の解除法を試しても開かなかった唯一の存在がこれだ」
 箱そのものは非常に質素なものだ。質は良いが、貴族が仰々しく管理するには、簡素な作りをしている。
 この程度なら、鍵を開かなくても無理やり力を加えれば、中のものを取り出せそうだ。
 オデットの思考を読み取ったかのように、オーバンはその手を箱に翳す。掌を返して、手の甲で軽くノックをするように箱を叩こうとした。
 しかし、その手は箱から数フルムのところで止まっていた。
「これは……魔法で作られた壁、でしょうか?」
 うっすらと表面に浮かんでいるのは、オデットも見覚えがある魔紋だ。箱そのものにかけられた魔法が、壁となってオーバンを阻んでいるのだろう。
「見ての通り、無理に開けようとしても、魔法の壁に阻まれる。おまけに、生半な攻撃では破壊できないほどの硬さだ。かといって、箱ごと破壊するような大規模な破壊を行えば、間違いなく中のものは破損する。これは、然るべき者しか中のものを取り出せないように作られているのだ」
「理屈は分かりましたが、セレスタン卿が亡くなったとき、オデットはまだ生まれたかどうかという年頃です。いくら彼女が血縁者といえども、この箱の開け方を知っているとは思えません」
 強い期待を向けられて、希望が叶わなかったときに失望されては困ると、ノエが口を挟む。
 だが、オーバンはノエの反論を気にした様子もなく、
「ミラベルの調査によると、登録された対象のエーテルを鍵代わりとして開くものだ。そこの娘が開き方を知っているわけがないなどと、私も重々承知している。必要なのは、ただそこにエヴラール卿に連なる者がいるということ。ただそれだけだ」
 どうやら、自分は長らく封じられた遺産の鍵になりうる人物だったらしい。とはいえ、いきなりそんな話を聞かされても、オデットは困惑するばかりだった。
 だが、同時に、彼女は箱の説明が全く見当違いの当てずっぽうなものとは思えなかった。なぜなら、彼女は同じような説明を一度聞いたことがあったからだ。
(エメーヌさんの元に届けられた、オーバンさんが渡した偽物の贈り物……。あれは、エメーヌさんのエーテルに反応して開くようになっていました)
 グリダニアに逃れた女中母娘の事件の際、娘はオーバンの罠と気づかずに、友人の贈り物だと騙されて、自身のエーテルを箱の表面に流し、贈り物の蓋を開いてみせた。
 すなわち、特定の人間しか開けないような魔法の錠前は実在するということだ。
 ミラベルが遺産の調査にあたり、彼が暴いた魔法の仕組みを、先日の事件ではオーバンが自分のために利用したのだろう。
「仮にオデットがそこにいるだけでいいって言っても、当時は生まれたばかりの彼女のエーテルを、父親が鍵として登録しているとは思えないけれどね。それでも、オデットにこだわるというのは理由があるのかい?」
 次の質問はヤルマルからだった。これまた、オーバンにとっては想定内の質問だったようだ。
「エーテルの波長は血縁者で類似する。セレスタンが己を鍵として登録していたとしても、そこの娘なら奴に似た波長を持っているため、鍵として機能するかもしれない」
「つまり、あなたがオデットを探していたのは、遠縁ではなく、直系であるエヴラール卿の血が濃い血縁者が必要だったから、ということですね」
 実利を重んじる男が、どうして訳もなくオデットを屋敷に招いたのか。その理由が明らかになり、ノエの口調に警戒と納得が混じる。
 一方、オデットはどこかでほっとしてもいた。自分がここにいる理由が、ここにきて漸く全て明らかになったからだ。事態の中心にいるのに、一体何をすればいいか分からない状況というのは、知らず知らずのうちにオデットの精神を圧迫していたらしい。
「分かりました。その箱を開けるか、試せばいいのですね」
「ああ。開けばそれでよし。開かぬのなら……また別の方法を探すしかあるまい」
 一つ頷き返すと、オデットはくるりと背後へ振り向いた。
 心配そうに眉を寄せているノエやヤルマル。
 いつもと変わらぬように見えて、眉間の皺が少し増えているオランロー。オデットと同じく緊張を湛えた様子のサルヒ。
 そして、じっとオデットを見据えている男が、一人。
「ルーシャンさん。わたしのそばにいてくれますか」
「そっちの爺さんが許すならな」
 ルーシャンの答えは、どこか皮肉が混じったものだった。彼の視線に促され、オデットはオーバンと再び相対する。
「オーバンさん。わたしのお父さんがそこまでして厳重に守りたかったものなら、やっぱりこれも、お父さんに近しかった者が真っ先に見る権利があると思います。ですから、ルーシャンさんにも同席してもらって良いでしょうか」
「構わぬ。もとより、お前がそう言うだろうことは予想していた」
 この回答は、オデットだけでなくルーシャンにとっても予想外だったらしい。微かに持ち上がった瞼は「意外だ」と雄弁に語っていた。
「それじゃあ、ありがたく特等席で観覧させてもらおうかね」
「ルーシャンさん」
 小走りで彼の元に駆け寄ってきたノエは、ルーシャンにしか聞こえないような小声で言う。
「もし、オーバンさんがオデットに何かするようなことがあったら、助けてもらえますか」
「ああ、分かってる。だが、多分あの爺さんはオデットに危害は加えないだろうさ。お前らを呼んだのも、自分に裏がないって示したいからだろうしな。いわば、証人みたいなもんだ」
 そんな意味があったのかと、ノエはルーシャンの洞察力に息を漏らす。自分たちが呼ばれた理由を、ノエはまだはかりあぐねていたのだ。
「とにかく、お嬢ちゃんに悪いようにはしない。それじゃ、さくっと親父の隠し財産とやらを拝んでくるか」
 ひらりと手を振り、ルーシャンはノエから離れ、オデットに近寄る。
「感謝する、オデット。おかげで、漸くあそこに隠されたものを拝めそうだ」
「ルーシャンさんは、中身を知っているのですか」
「大体予想はつく。だけど、絶対そうだとは言えない。箱の中身が、もしかしたらとんでもなくくだらないものかもしれないしな」
「奥さんに、内緒で隠していたお菓子とか……?」
「ははっ! だったら、それはそれで愉快だな」
 緊張を緩めたくて何気なく口にした冗談だったが、ルーシャンにとっては殊更痛快なものだったらしい。からりと笑う彼につられて、オデットも微笑みを浮かべ返す。
 二人で連れ立って、オーバンの元へ向かう。
 傍らにいるのがノエではなくとも、頼れる仲間がそばにいるおかげで、部屋に入った時よりもオデットはずっと気楽な気持ちになっていた。
「さあ、試してみよ」
 さながら、神託を告げる神官のように厳かなオーバンの物言いに、オデットはごくりと唾を飲む。
 ちらりと視線を向けた先、オーバンの傍らに立つミラベルが無言でオデットを見守っていた。視線が合ったものの、彼は彫像のようにぴくりともしない。微かに眉間に寄った皺は、一体何を思って浮かんだものなのか。
 対して、ルーシャンを見やると、こちらはすぐに小さく頷き返してくれた。さっさとこの儀式めいた一幕を終わらせてしまおうと思っているのだろうか。
(たとえ、中に魔物隠れていたとしても、ルーシャンさんや兄さんたちがきっと何とかしてくれます)
 深呼吸を一つ。覚悟を決めて、オデットは箱へと手を翳した。
 薄い光の壁が現れ、微かに自分の手を押し返すような感触が伝わる。ひょっとしたら、自分もオーバンのように弾かれると思いきや、掌に反発する感覚はすぐに消え去り、オデットの手は呆気なく箱の表面へと到達した。
 おお、とオーバンから喜びの声が漏れる。よほど、さまざまな人がこの箱の開錠を試み、失敗し続けてきたのだろう。
「オデット。魔力を放出するんだ。前に、エメーヌがやっていただろう」
 ルーシャンの言葉に促され、オデットは魔法を発動させるときと同じように、自身のエーテルを外へと放出する。純粋な魔力は光となって箱を包み――かちり、と何かが外れた音がした。
「開いた……のでしょう、か」
 疑問の形をとりながらも、オデットは掌の下にある箱の蓋が軽く持ち上がったことに気がついていた。
 箱の中にあるものに呼ばれているように、箱の継ぎ目へ指をかける。軽く力を入れるだけで、これまで誰にも触れられずにいた蓋が、軽く弾みをつけて開いた。
 箱の中には、オデットが想像していたような金銀財宝も、何らかの仕掛けが施された魔法陣もなかった。
 中にあったのは、宝石をしまうときにも使う色が褪せた小さなクッション。絹でできたと思しきその上に、古びた一本の鍵が仕舞われていた。
 魔法的な仕掛けが施されているのか、こちらは箱の外見ほどに古びてはいなかった。
「鍵が、こんな場所に?」
 不思議に思いながら、オデットは鍵を摘み上げる。掌ほどの大きさのそれは、一般的な扉を開く鍵としては大きい。
 これをどうしようかと、オデットが思案を始めるより早く、
 
「ありがとう、オデット。これで――ようやく、始められる」
 
 声の主は、傍らに立つルーシャンのものだった。
 彼の手が、オデットの手にあった鍵を手に取る。もっとよく見たいのだろうかとオデットが顔を上げかけた矢先、彼女は自身の異変に気がつく。
(え……声が、出ない……!?)
 声だけではない。体も、指先の一つまで、自分の意思で動かすことができなくなっていた。己の起きた異変にオデットが動揺している間に、事態は進む。
「ルーシャン、貴様何を……!」
 頭上から降ってくる、老爺の声。視線だけをやれば、オーバンがルーシャンに詰め寄ろうと一歩踏み出しているのが分かる。傍らに立つルーシャンからは、肌で感じるほどにエーテルが溢れていた――これは、魔法が発動する直前の予兆だ。
(一体、何が起きているの!?)
 刹那、とっさに瞼を閉じるほどの強風が周囲に吹き荒れる。
 パアンと、ガラスが割れる甲高い音が響き、オデットは声を発さずに悲鳴をあげた。
 箱が置かれた机が吹き飛び、派手な音を立てて転がっていく。思わず身をすくめたオデットに、男の手が触れた。
 思わず、オデットは自分を支えるルーシャンの顔を見上げる。
 彼は――ひどく冷めた目で、彼はこちらを見下ろしていた。
(ルーシャン、さん……?)
 その手に渦巻いているのは、今まさにオデットたちの周囲を薙ぎ払った風の魔法であった。
 *
 オデットの手が箱に触れ、蓋が開くその瞬間を、ノエは静かに見守っていた。
 中に収められていたのは、オデットが話していたような金銀財宝の類でもなければ、本や巻物でもなかったようだ。
 オデットの手が、箱の中にあるものを取り出す。一瞬、彼女の手の中にあるものが見えた。
……鍵?)
 その全容を視界に収める前に、不意に傍らにいたルーシャンが動いた。
 最初、彼はオデットの肩を軽く叩いただけのように見えた。スキンシップの多いルーシャンの所作としては、ごく自然な仕草に見えるものだ。
 続けて、ルーシャンの手がオデットの手の内にある鍵へと伸びる。彼もよく見たいのだろうかと思った矢先、
(これは……
 ノエの直感が、警告を発した。
 戦闘が起きる直前のような、ひりついた空気。一見、何も起きなさそうな一幕の間で、何かが起きようとしている。
 オーバンが、一歩ルーシャンへと詰め寄るのが見えた。
 不穏な二人の気配に、ノエが一歩足を踏み出した瞬間。
……!?」
 ごう、と。
 室内に、嵐が吹き荒れた。
 数秒遅れて、内側から膨れ上がった気流に耐えかねて、カーテンが勢いよく波うち、窓の硝子が甲高い音をたてて次々割れていった。
 外の冷気が流れ込み、室内の温度が急激に低下していく。
 被害は窓だけにとどまらない。さながら、室内に突如生まれた竜巻に巻き込まれたようなものだ。あまりの強風に、腰を落として足に魔力を流して踏ん張らなければ、ノエとて吹き飛ばされていたかもしれない。
 だが、ノエと違い、嵐の中心にいた者には、受け身を取る余裕などなかった。
 重たそうな上着を羽織った老人の影が、机ごと部屋の端に吹き飛んでいく。オーバンの傍らに控えていたミラベルは、不自然な姿勢で部屋の隅に倒れていた。周りに散らばった家具の残骸から察するに、吹き飛んだ家具が体に直撃したのだろうか。
「ルーシャンさん、いったい何をしているんですか!!」
「あんた、正気か!!」
 真っ先に姿勢を安定させたノエとオランローが、風を生み出した男へと怒鳴りつける。
 なぜ、という疑問が真っ先に浮かんだ。ルーシャンがオーバンに敵意を持つ理由は、すでに知っている。
 だが、それなら、どうして今になってこのような攻撃を取るのか、ノエには理由がわからなった。
 しかし、困惑する一同をよそに、躊躇せずに動くものがいた。
 剣を鞘から抜き放つ音。それは、部屋の片隅に控えていた兵士たちが、襲撃を乗り越えて動き出した音でもあった。
「ルーシャンさん!」
 次の呼びかけは、彼への非難ではなく警告だ。
 この場に集まるとき、ノエたちは武器を置いてきた。つまり、今のルーシャンは魔法こそ扱えても丸腰なのである。
 ルーシャンの突然の凶行に対して、兵士は迷うことなく武器を向けた。敵を排除しようと、兵士の剣が彼へと迫る。
 ノエやオランローでは間に合わない。突然の凶行に驚くあまり、行動が一歩遅れてしまっている。
――――!」
 誰もが振り下ろされた剣を前にして、ルーシャンが切り伏せられるものだと思った。
 けれども。
 剣と男の間に割って入るようにして、影が振り抜かれる。風によって破壊された家具の破片を武器として、剣を受け止めていたのは、
「サルヒさん……!」
 どんな状況であっても、ルーシャンという男を護るためならば、一切の迷いなく動ける者――サルヒが、彼を傷つける凶器の前に立っていた。
 しかし、ルーシャンの盾となった彼女もまた、彼を信頼して行動に移したわけではない。その証拠に、サルヒは自分の背後に立つ男へと視線だけをやり、
「旦那様、あなたは一体何を考えているんですか……!!」
「悪いな、サルヒ。……お前なら、そうしてくれると信じていた」
 サルヒの露わになった片目が見開かれる。
「夜に、話をすると、言っていたのは……あなたでしょう!」
…………
「あなたは――
 彼女がそれ以上の問いを投げかける前に、ルーシャンはオデットの体を掴んでいた。
 目眩しの光が放たれ、全員の視界が一瞬白へ染まる。
 閃光に目が焼かれる直前に、ノエは見ていた。オデットを連れて、背後へと大きく跳躍する男の影を。
 その向こうにあるのは、割れた窓の向こう――一面に広がるグラスバレーの雪景色だけだ。
「ルーシャンさん、待ってください!!」
 今度こそ、ノエは声を張り上げて駆け出す。
 だが、彼の手はオデットにもルーシャンにも届かない。それよりも早く、ルーシャンの姿はオデットと共に窓の向こうへと消えていった。
「ノエ、下だ!」
 ヤルマルに言われるまでもなく、ノエは窓から身を乗り出し、建物の下を睨む。
 暗がりに沈んだ庭の中、照明によってちらりと浮かび上がった影は、人影ではない。あの大ぶりの鳥に似たシルエットは、チョコボのものだ。
「チョコボに乗って逃げるつもりのようです! すぐに追いかけて――
「それはならぬ」
 今すぐにでも窓枠から飛び降りようとしたノエの頭に、ひやりと冷たいものが当たった。
――――
 円筒状のその感触は、昨日見せてもらった銃と呼ばれる武器のものだ。そして、ノエの頭に銃口を突きつけたのは、
「オーバン卿……?」
 間違いない。先ほどルーシャンによって部屋の隅に吹き飛ばされ、倒れ伏していた老人が、ノエに脅しの言葉を投げかけていた。
「無視をするのならば、それでもかまわぬ。代わりに、貴様の頭に風穴が開くだけだ。私はそれでも良いが、あの娘は貴様の訃報を悲しむだろうよ」
 老人の嗄れた声には、揶揄いが一切なかった。ノエがこのまま飛び降りてルーシャンを追おうとしたら、彼は躊躇なくノエの頭を銃で吹き飛ばすだろう。
 そうしている間にも、チョコボの影は眼下に広がるグラスバレーの町の中へと消えていってしまった。今から飛び降りたところで、夜の闇に消えていった二人を探すのは不可能に近い。
……わかりました。追うことはしません」
 抵抗の意志がないことを示すため、ノエはゆっくりと両手を持ち上げる。銃口の感触を頭に覚えながらも、慎重に振り返り、
「オーバンさん。これは、どういうことか、説明してもらえますか」
 部屋の状況は一変していた。部屋にいた兵士の一人は、どういう理由からか、手にある武器をヤルマルとオランローに向けている。
 サルヒに抵抗されていたもう一人の兵士は、今は形勢逆転して、彼女を押さえ込んでいた。
 これでは、まるでノエたちが部屋を荒らした犯人かのような扱いだ。あるいは共犯と疑われているのかと、ノエは素早く思考を巡らせる。
「誤解しているのかもしれませんが、僕たちはルーシャンさんがあのような行動をするとは知らされていませんでした」
「そうだろうな。奴が貴様らに協力を求めたのなら、もっと上手くやっていただろう」
……ルーシャンさんがあのような行動に出ると、あなたは予想していたのですか」
 驚いた様子を見せていないオーバンを、ノエは睨みつける。
「確率は半々といったところか。奴が己の野望を諦めて、私に最後まで従う可能性ももちろんあった。あるいは……そうだな。お前たちや、あの娘への情に負けて、己の夢を捨てる可能性もゼロではなかっただが、奴は最後に己の野望と欲を優先したのだ」
 オーバンの語るルーシャンの姿は、ノエの全く知らないものだった。だが、オーバンはノエの疑問をよそに言葉を続ける。
「貴様らをここに招いたのは、奴が貴様らを前にすれば思い切った行動をためらうかと思ったからだ。もっとも、結果は見ての通りではあったがな」
「あなたがルーシャンさんの行動を予見していたことは、分かりました。ですが、ならばどうして、ルーシャンさんを追いかけようとする僕たちを拒むのですか。あなたにとっても、箱の中身は必要なものではないのですか……!」
 感情が昂って声を荒げそうになった瞬間、ノエの額に再び銃口が押しつけられる。
 暴れれば殺すという意志を明確に示されて、ノエは最大限の努力で口を噤まねばならなかった。
 ただでさえ訳のわからない状況に置かれて混乱しているのに、沈黙を強制される。この上ない理不尽に晒され、ノエは焦燥に胸が焼けつきそうだった。
「たしかに、私はあの娘の開いた箱の中身を欲していた。だが、あそこに収められた鍵だけがあっても、何の意味もないのだ」
「鍵……?」
「そうだ、鍵だ。鍵は封じていたものを開くための道具。あの鍵が開くのは、セレスタン・ド・エヴラールが編み上げた、邪竜に致命的な一撃を与えるとされる魔法への扉だ」
……邪竜ニーズヘッグを、堕とす魔法」
 呟いたのは、ノエではなく床に押さえつけられていたサルヒだった。彼女の瞳には、動揺ではなく一つの納得が浮かんでいた。
「まさか、完成していたというの……? だから、旦那様は……
「そうだ。少なくとも、セレスタンは一つの成果に至ったと私に告げた。だが、奴はつまらぬ理由でその使用を拒んだ。だから、私が奴に代わり、イシュガルドに生きる民として邪竜を滅ぼすと決めたのだ!」
 ノエに突きつけられた銃口が、老爺の咆哮に合わせて震える。今まで悠然と構えていたオーバンの、今の感情こそが彼の本音の一端なのだろう。
「ですが、それなら尚のこと、ルーシャンさんとあなたは協力関係であるべきではないのですか」
「奴が私に協力せぬのは、奴のつまらぬ意地が理由だろうよ。自分こそが、国を救う魔法の引き金を引いた者になりたい。エヴラール卿の一番弟子などという幻想に囚われ続ける、哀れな男だ」
……それは、違う」
 返答をしたのは、ノエではなく兵士に床へと押さえつけられているサルヒだった。オーバンを睨む彼女の瞳には、いつもの彼女らしくない嫌悪と憎悪があった。
「旦那様は……自分の父親を、その家族を奪った人間に……あなたに、父親が最も大事にしていた魔法に触れられたくなかっただけ……!」
「ふん、そうかもしれぬな」
 サルヒの告げた内容に、ノエだけでなくヤルマルたちも大きく目を見開いた。
 ルーシャンは、自分の家族は謎の火災で亡くなったとしか語らなかった。だが、サルヒが語れたということは、彼女の主人であるルーシャンも、今の告白の内容を知っていたはずだ。
 そして、オーバンはサルヒの言葉を否定しなかった。彼の発言は、犯人の自供も同然だった。
「確かに、奴は父親に固執し続けていた。だが、実際はどうだ。奴は、父親の最も重要な遺産の鍵にすら選ばれていなかった。五年前にあの箱に触れた時の顔は、傑作だったぞ。よほど、自分が選ばれているという自信があったのだろうな!」
――――!!」
「奴が何と言おうと、セレスタンが選んだのは、あの男ではなかった。それが全てだ」
 切り捨てるようなオーバンの一言は、よほどサルヒにとって衝撃だったのか。動かなくなってしまった彼女の代わりに、今度はヤルマルが一歩前に出る。
 剣を向ける兵士が気色ばむが、彼女は動揺すら見せずに、
「ルーシャンとオーバン卿が協力しない理由は分かったよ。だけど、どうして君がルーシャンを見逃す理由になるのか、その説明ぐらいはしてもらえるんだろうね。敵対している相手を、みすみす野に放つ理由ってやつをさ」
……セレスタン・ド・エヴラール卿が作り上げた魔法は、大規模な魔紋から構成されている。その魔紋の隠し場所を、オーバン卿は知らないからだ」
 答えたのは、オーバンではなかった。
 よろよろと地面から立ち上がった影は、今まで倒れていたミラベルだ。ガラスの破片が額を切ったのか、顔の半分が今は流れ出た血で赤に染まっている。体を庇うような仕草から察するに、骨を痛めたのかもしれない。
「ミラベル。貴様、どういうつもりだ」
「彼らに話したところで、どうせ大した問題にはならないでしょう、オーバン卿。ルーシャン殿は、おそらく隠し場所について知っている。だからこそ、オフェリー……オデットを連れて逃亡するなどという手段をとれたのでしょうから」
 自身の頭に手をやりながら、ミラベルは淡々と語る。無理に感情を殺したような表情からは、彼にとっても現状が望ましい状況ではないのだろうと分かった。
「彼が卿の元にくだり、大人しく魔法の在処を教えてくれればよかったのですが、残念ながら、彼は一人で全てを成し遂げることに固執した。オーバン卿はルーシャン殿を泳がせて、彼が魔法が眠る地に辿り着くのを待っているのですよ」
……ミラベルの言う通りだ。私が、何の刺客もつけずに、みすみす逃したと思うか。奴を追跡するよう、領地内には私の配下を多数忍ばせている」
「だから、オレたちが勝手に行動して、ルーシャンを引き止めることを拒んだのか。オレたちが、余計な行動を起こして刺客たちの邪魔をするかもしれないから」
 唸るように呟くオランロー。オーバンは「その通り」と返した。
「どうやら、あの男はお前たちに少なからず心を許しているようだからな。妙な心変わりを起こされても面倒だ。その意味からも、貴様らに奴の後を追わせるわけにはいかない」
……彼はオデットを連れています。オデットは、そこの箱を開くという役割があったのは、見ていたので分かりました。ですが、どうしてまだ、あなた方はオデットを巻き込むのですか」
「セレスタン卿の遺した文書によると、その隠し場所に繋がる扉もまた、特定の人物しか開けないようになっているのです。ルーシャン殿は、卿の遺した書物を読んでいたと聞きました。彼ならば、私が十年かけて解いた暗号も、すぐに解読して卿の示した手がかりに辿り着いたでしょう。……あるいは、既に魔法を守護する鍵について、彼は知っていたのかもしれません」
 ノエが抱いていた疑問に答えたのもまた、ミラベルだった。
 ルーシャンにわざわざ父の管理していた書物に触れさせたのも、ひょっとしたらオーバンの誘導であったのかもしれない。
……要するに、オデットは錠前を開く鍵代わりに連れ出されたということですか」
「そうだ。そして、今のお前たちの役割は奴を追うことではない」
 まだ何か言おうとするノエの言葉を遮るように、オーバンは言い放つ。
「貴様らの役割は、あの娘に大人しく言うことを聞かせるための材料であり、ルーシャンに己の野望を諦めさせるきっかけとなることだった。だが、奴の選択の結果、後者は意味のない期待となった」
「だが、前者の意味は生きているということだね。おおかた、君はルーシャンが隠し場所に辿り着いたら、ルーシャンを始末して、オデットに魔法に繋がる道を開くように脅すつもりなんだろう。オデットがそれを拒んだら、今度はボクらを人質にでも使うってところか」
 軽やかな口調ながらも、毒を含ませたヤルマルの物言いにオーバンは口角を釣り上げる。
「話が早いな、ヴィエラ族の女よ。流石、森の賢者と謳われるだけある」
「お褒めいただきどうも。君はボクが知る限り、最も狡猾で――最も、尊敬という言葉の真逆に位置する男だ」
「それもまた、私にとっては褒め言葉に過ぎぬよ。そこまで分かっているなら、貴様らの行く末もわかるだろう」
 オーバンが指を鳴らす。同時に、何名もの武装した騎兵が部屋に雪崩れ込んできた。
「その者らを離れの部屋に連れて行け。ああ、彼らは私の客人だ。丁重に扱うように」
 皮肉混じりの笑みの意味を浮かべながら、指示を出すオーバン。距離を詰める騎兵を前にして、ノエは逡巡する。
(今ここで抵抗して、オデットたちの後を追うのは……現実的じゃない)
 武器があれば、あるいはその選択肢もあったかもしれない。しかし、武装した何名もの騎兵を素手で叩きのめすことなど、考えるまでもなく到底不可能だ。
 下手に抵抗すれば、オーバンは躊躇いなくノエから抵抗手段を奪うだろう。命さえあればいいと言わんばかりの物言いや、これまでの行動から見ても、手足の一、二本程度は切り落としかねない。それでは、何かあったときにオデットを守ることができなくなってしまう。
……わかりました。あなたに従いましょう」
 両手を広げた降参の姿勢を変えないノエを見て、オーバンは「賢明な判断だな」と頷いてみせた。
「何も取って食おうという話ではない。それに、邪竜ニーズヘッグを倒し、一千年続く竜との長き戦いを終わらせるかもしれないと言っているのだ。お前にとっても悪くない話だろう」
「たしかに、イシュガルドで生まれた者として、かの竜を退治できるなら、これ以上望ましいことはありません。……このように、剣を突きつけられていなければ、僕は賛成の意味で手を持ち上げることができたでしょう」
「皮肉がうまいな、ラペイレットの庶子よ」
「褒め言葉と受け取っておきます。ですが、一つだけ気になることがあります。あなたもルーシャンさんも、その画期的な魔法について、発動の協力を僕たちに求めませんでしたね」
 旅人であるとはいえ、ノエがイシュガルドの貴族を父に持つことをオーバンは知っていたはずだ。しかし、オーバンもルーシャンも、ノエたちに手助けを求めるどころか、何一つ打ち明けようとしなかった。
「あなたたちが殊更に秘密主義である理由は、オデットが鍵であることや家同士の確執以外にも何かあるのではありませんか」
 オーバンから引き離される前に、せめて何か情報を拾っておきたいとノエは舌を操る。だが、オーバンは思わせぶりな笑みを浮かべるばかりだった。
「貴様の言うように、大きな成果には代償が付きものだ、とだけ答えておこう。連れていけ。ただし、暴れぬ限りは傷をつけるなよ」
……っ、ミラベルさん! あなたは、このことを知っていたのですか! あなたは、オデットの平穏をあんなにも望んでいたのではありませんか!!」
 兵士に小突かれながらも、ノエはもう一人の同席者に問いかける。だが、ミラベルが何か口を開きかけた刹那、オーバンが彼の背後に立った。
「イシュガルドに生きる民として、何を優先すべきか。お前はよく知っているだろう」
 老爺からの一言で、ミラベルの言葉は断たれてしまった。
 ノエの青銀の双眸が、一瞬、ミラベルの紫の瞳とぶつかる。彼は、目を逸らしはしなかった。何かを訴えるように、彼の唇が一瞬動く。しかし、兵士に小突かれ、ノエはすぐに部屋に残る二人から目を逸らして廊下へとでた。
 扉が閉ざされる、重い音。それは、ノエたちをこの一件から締め出すと宣言しているかのようだった。