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くこ
2025-06-27 22:56:37
6866文字
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その声を聞く者は 初稿
空中に伸ばした手が、目の前にあった。
白っぽく霞む視界の中で、手の指の後ろに、辛うじて天井の輪郭を捉える。しばらくぼんやりとその状態を眺めたのち、ゆっくりと右手を下ろした。羽毛が、柔らかく腕を受け止める。
脳の回路が、重い音を立ててエンジンをふかしていく。僅かに顔を顰めて、ようやく、最原は体を起こした。
現在の居場所は、ベッドの上だ。見慣れた自室のその家具は、しばらく使われていなかったものだった。ベッドカバーとシーツとが、記憶にある紺色から変わっており、グレーのストライプ柄になっている。最原の頭に、それらの購入履歴は存在していない。
「
……
」
顳顬から滑り落ちてきた髪を、耳にかける。石鹸の香りがした。確か最原は、ここ数日、ろくに入浴をしていないはずだ。数時間の最低限すら惜しんで仕事をしていた。したがって、髪の毛がこんなにサラサラになっていることは、おかしい。再び、眉根を寄せる。
部屋は薄暗く、まだ太陽が昇っていないことを知らせている。尤も、朝日に安眠を邪魔されることを嫌った最原が購入したカーテンは遮光一級なので、例え日差しが強くなっていたとしても、部屋の暗さは保たれていただろう。だが、ほんの少しずれている隙間から光が漏れていないことからも、時刻は未明であることが分かる。
最原は、事務所で書類作業をしていたはずである。探偵業は、依頼内容だけに対応すればいいというものではない。むしろ、国への手続きや依頼人への報告書など、付随する事務処理の方が多いくらいだ。だから、世間が想像するような、華々しい推理合戦や攻防戦は、そう起こらない。今日も、いつもと同じように、そうしていた。記憶は無いが、書類作業を終えた後に、久方ぶりに身を清めてベッドで眠った、ということだろうか。だとすれば、いよいよ、夢遊病のけが出てきてしまう。
そこまで考えて初めて、最原は違和感に気が付いた。
ベッドの左側が、いつもより傾いている。
「おはよう、最原ちゃん。随分と早起きだね」
「
……
」
「その大きなお目目は、ちゃんと見えてるのかな? それとも、ただでさえぼんやりな脳みそが、まだ働いてない?」
「
……
おうま、くん」
「そうだよー。最原ちゃんがだぁいすきな、王馬くんだよー。もっと感動して泣いて喜んで土下座してよねー」
「土下座はしなくていいだろ
……
」
半ば条件反射的に言葉を返したところで、もう一度、左側を見遣る。うつ伏せになり、頬杖をついてマットレスを軋ませた王馬小吉は、しっかりとパジャマを身につけていた。なお、最原が今着用しているパジャマと、どうやらお揃いのようだ。
「
……
いつ来たの?」
「言うに事欠いてそれ? まずは少ない記憶リソースをきちんと洗うところから始めたら? なんでもかんでも、質問すれば答えが返ってくると思わないでよね」
「寝起きの人間に厳しいな
……
」
王馬との応酬は、最原に、高校時代を思い起こさせた。教室で、中庭で、何でもないタイミングで、何でもない会話を、よくしていた。ともすると、セピア色で目に浮かぶ光景だ。それほど、最原にとって遠い記憶になっていた。
王馬の言う通り、まだ、最原の脳みそは覚醒しきっていない。それに、最後の記憶では、事務所に王馬はいなかったし、最原がいた場所も、ここではない。整理する情報が多い。
「
……
王馬くん、が、僕をお風呂に入れて、ベッドまで運んでくれた?」
「えー! 悪の総統であるオレが、一体全体何でそんな甲斐甲斐しいことを!? 最原ちゃん、自分がお姫様にでもなったつもり? いっくら女顔だからってさ、さすがにそれは痛々しいんじゃない?」
「妄想で人の評価を下げようとしないでよ
……
じゃあ、誰がやったって言うんだよ」
「さあ? 可愛い妖精さんでもいたんじゃない? よかったね、最原ちゃん! 便利なハウスメイドをタダでコキ使えるなんて! 酷使し過ぎて愛想尽かされちゃわないようにね!」
「嘘がテキトー過ぎるだろ
……
」
最原は眉間を押さえた。
二人とも、いつからベッドに入っているのかわからないが、少なくとも、数時間は経過しているはずだ。最原が事務処理を行なっていた頃は、まだ夕方だった。そろそろ日が落ちそうだと、窓を横目に見た覚えがある。
ハウスメイドは嘘だが、「酷使し過ぎて
……
」のところには、もしかしたら、王馬の本音が混じっているかもしれない。彼は即座に否定したが、最原のハウスメイドになり得るのは、今のところ、王馬しか存在しない。
布団の中で、王馬の足がパタパタと揺れている。そのたび、布団が捲り上がり、最原の方まで外気が入り込んだ。
「清潔感の無い人間は、嫌われちゃうよ? まして最原ちゃんは個人業なんだから、接客業の要素もあるわけで、いくらスペックが高くても小汚かったら台無しだよ! それだけで口コミ評価が下がっちゃうよ? ここの探偵は最低です! 不潔です! 絶対に使わない方がいいですよ! ってさ」
「口コミにそこまでの効果は無いだろ
……
それに、人と会うときはちゃんとしてる」
「へぇ〜! ちゃんと、ねぇ。それはそれは」
「
……
何が言いたいんだよ」
王馬の声に嘲りを感じ、最原は彼を睨むように見下ろす。刺々しい視線を真正面から受け止めながら、まったく気にも留めていない王馬が笑った。
「オレに同じことを二度言わせるの? 質問をしてすぐに答えを貰えるのは、幼稚園児までだよ」
「小学生くらいまでは許してもいいんじゃないか」
「マジレス! つまんねぇ〜!」
「別にキミを楽しませようとしてるわけじゃないからね
……
」
このやり取りはいつまで続くのか、最原が嘆息する。きっと、王馬の望む回答を渡すまで、終わらないのだろう。
あからさまな溜息を隠そうともしない最原を、王馬は咎めるかと思ったが、頬に両手を当てたまま、にやにやと笑っていた。とはいうものの、王馬の表出させる感情は、いつでもパフォーマンスに満ちたもので、例えそれが、怒りであろうが悲しみであろうが喜びであろうが、尺たる差はないだろう。
逆にこちらが居心地の悪さを感じ、視線を外す。手玉に取られている感覚がしてしまうのは、王馬の策略だ。現実ではない。
「
――
キミが、快く思っていないことは、わかっているつもりだよ」
「へぇ」
王馬の声に、少しだけ、面白そうな色が滲む。
「
……
」
「続けて?」
王馬の反応に、先を続けることが怖くなってしまった最原を、王馬が促す。王馬が体を寄せてきたので、ぎしり、と、スプリングが鳴った。
「申し訳ないとも、思ってる」
「ふぅん」
「
――
それでも」
続ける最原の眼光は、鋭かった。自覚が無かったので、王馬の瞳に映った自分の姿を見て、動揺する。そんな最原を見て、王馬が笑った。
「いつか人を殺しそうだね、最原ちゃん」
「縁起でもないこと言うなよ」
「オレは本気で言ってるよ」
「なお悪いじゃないか
……
ッ、な、なに?」
首筋にぴりっとした痛みを感じ、最原が仰反る。いつのまにか、最原と目線の高さを合わせた王馬が、鼻先でまた笑った。ぺろり、と、舌舐めずりをする様子は、捕食者を思わせる。
もう一度首筋に噛み付かれて、先ほどの痛みの原因を理解する。肌が食い破られてしまいそうだ。少なくとも血は滲んでいると思う。それが何故分かったのかというと、王馬の唇が赤くなっていたからだった。
赤い舌が、赤い血を、舐め取る。
噛まれたのだから、もっと痺れるような痛みを感じそうなものなのに、最原の脳神経は鈍いままだ。あるいは、吸血鬼のように、王馬の唾液に鎮痛作用があるのかもしれない。
――
馬鹿馬鹿しい。
「予想でも予測でもないよ、最原ちゃん。このままだと、キミは、人を殺す」
預言者のように、王馬が言う。表情は柔和だ。セリフさえ無ければ、睦言を紡いでいるようにさえ見えるかもしれない。
つう、と、首元を液体が伝った感覚がする。最原の指がそれを拭うより先に、王馬が舌で舐め取った。ぞわり、と、背中を戦慄が走る。不快感ではないそれを、最原は見ない振りをした。ただ、王馬にはわかってしまっていそうだ。王馬の観察力は、探偵に引けを取らない。
「どう? 反省する気になった?」
「
……
何を」
「最原ちゃん、仏の顔も三度まで、だよ」
「
……
ッ」
唇を噛んだ。
先ほど傷つけられた肌と同じ箇所を、齧られている。さすがに痛みを感じた。残念ながら、唾液に鎮痛作用は無かったらしい。
傷痕を、王馬の舌がざらりと舐める。肩が、震えた。腕を掴んで押し返そうとするが、びくとも動かない。お返しとばかりに、逆に手首を掴まれて、押し倒される。王馬の長い髪が、頬をくすぐった。
ずっと、同じところを嬲られている。じくじくとした痛みが、最原の脳を段々とクリアにしていく。いいや、反対に、愚鈍になっているのかもしれない。目が霞んだ。
「僕は人を殺したりしない」
――
とは、言えなかった。
王馬の危惧は理解している。何故そう言っているのかも。
本当はわかっているんだ。どんなに手を伸ばしても、どんなに手を広げても、人一人ができることなんて、たかが知れてるって。
諦め切れないのは、罪悪感のせいだ。
一人になると、後ろから声がする。「どうして」という、恨みの言葉。「お前さえ」という、呪いの言葉。そして、二本の腕が絡みついてきて、首を絞める。そんなことをされなくても、最原には、反論する術が無いのに。目の前では、髑髏がケタケタと笑っている。やがて視界が真っ赤に染まり、脂汗でびっしょりになって、目を覚ます。日常は、その、繰り返しだ。
もしかしたら、首に齧り付く王馬も、同じ、地獄の住人なのかもしれない。
「
――
失礼なこと考えてるでしょ」
首筋に噛み付いているので目が合わないと思っていたのに、気がつけば紫の瞳が最原を見ていた。水晶体に映る自分の姿から、目を逸らす。
王馬は、呆れたように溜息をついた。
「自分で自分を縛り上げるなんて、ほんっと、最原ちゃんて筋金入りのドMだよね。オレは純真無垢だからさァ、そんな変態プレイには付き合ってられないわけ。いい加減、わかんない?」
「
……
付き合ってくれなんて、言ってない」
彼が、カチンと来たのだろうことは、目を見なくても、わかった。次に訪れるだろう痛みに備えて、きゅっと目を瞑る。でも、覚悟していた痛みは感じなかった。
「んッ
……
、ふ、ッ
……
う
……
」
唇で唇を塞がれているのだと認識したのは、数秒後。別に、初めてのことではない。今までにも、戯れにしたことのある行為だ。だから、何てことは、無い。
まるで生き物のように、王馬の舌が最原の口内を蹂躙する。熱い。どちらの体温かは、わからない。息が、上がる。必死になって、王馬の舌を追うことしか出来ない。目尻に涙が滲み始める。王馬はそれをわかっているが、止めようとはしなかった。
「だいたい、贅沢なんだよ」
唇を少しだけ離した王馬が、ぼそりと呟いた。最原があまり聞いたことの無い、拗ねたような声音だった。
……
ような、気がする。
「オレの時間をこれだけ使わせてるくせに、あいつがこいつが、って。いっそ高度なギャグかと思うよね。シュール系の。
――
笑えねぇよ」
ずっと掴まれていた手首にある指が、さらに力を込める。最原が眉を顰めた。想像より、彼は、怒っているのかもしれない。
だから、もう一度言った。
「キミが勝手にやってるだけだろ」
瞳孔の動きから、わかる。殴られるかもしれない、でも、本当は
――
体を離して、王馬が俯く。とはいえ、近くにいることに変わりはないので、少し長めの息を吐いていることが感じ取れる。
両手は、王馬が拘束しているままだ。今まで掛けられていた体重をどかされたので、逃げ出すことは出来ると思う。でも、最原は、その場を一つも動かなかった。じっと、見つめていた。
表情の見えない王馬が、舌を打ったのがわかる。
「オレが優しくて良かったね」
次の瞬間、最原は息が出来なくなった。ひゅ、と、喉が鳴る。実際はその音すら気のせいで、何の音も発することが出来なかったかもしれない。それほど、王馬の動きは早く、強かった。
親指が喉笛に食い込む。直接、命を握られている感覚は、思っていたよりも柔らかい。あまりの力強さに、てっきり両手で掴まれているものと思っていたが、何とか片目を開けて見た光景では、王馬は左手しか使っていなかった。
呑気に観察を続けている間にも、ぎり、と、指が沈んでいく。勝手に口が開いて、喘ぐように舌が出た。血が、頭に逆流する。ホワイトアウト
――
は、しなかった。
「かはっ
……
あ、ッ
……
はぁっ
……
」
王馬が、急速に力を緩めたからだ。
馬乗りになっている男を、見上げる。長い前髪が、彼の表情を隠している。部屋が暗いせいで、ほとんど、何も見えない。
指がするりと降りていき、胸の辺りで止まる。真ん中あたりを、人差し指と中指との二本で押された。心臓のある位置だ。脈までは感じられないだろうが、血を運んでいる管を掴まれた気がした。
「オレは、人を使うことは好きだけど、人に使われることは嫌いなんだよね」
今さらなことを言う。『超高校級の総統』を冠していた人間が、人に使役されることを是とするわけがない。
「わかってんならさァ」
びり、と、首が痛覚信号を送る。先ほどは避けられていた傷痕を、王馬が指でなぞっていた。
「ここまでさせた責任、取れよ」
責任って言ったって。
最原から与えられるものなんて、なんにも無い。
言葉には乗せなかったのに、王馬には伝わってしまった。傷痕に乗っていた指に力が入り、また、最原へ痛みを送る。
「
……
ごめん。でも、だって」
「ガキかよ」
「
――
そう、なのかも」
「
……
巫山戯やがって」
泣かせてしまったかもしれない、と思って、肘に力を入れて上半身を起こした。押し返されるかと思ったが、そのまま長座することを許される。指は、首筋にかかったままだ。近づいたので、王馬の顔が多少は見える。泣いてはいなかった。僅かな気の緩みを見逃されるはずもなく、王馬がまた、溜息をつく。
「手間のかかる
……
」
そう言う王馬の声は、本当に、幼子をあやすかのようだった。
「オレの言うこと、少しは聞く気あるの?」
「いつも聞いてる」
「
……
」
グーパンチが飛んでくるかと思ったが、額に血管が浮き出ただけだった。王馬くんって、意外と我慢強いよな。
「引っ越すよ」
「え?」
がばりと顔を上げた王馬が言ったのは、意外な提案だった。
大して広くも綺麗でもない部屋だが、事務所から近いし、近隣トラブルも無いし、それなりに重宝している住居なのだが。
「事務所ごとだよ」
また、口に出していないことを簡単に読み取られ、先に返事をされる。もしかして、王馬が探偵になった方が活躍できるのではないだろうか。
「くだらないこと考えてないで
……
ほら、もう、目が覚めたんなら着替えて。荷造りは業者に頼むから、必要かどうかだけチェックして」
「
……
べつに、必要なものは、無い、かな」
目の前のもの以外は。
「
……
」
王馬に半眼で眺められる。だから、言葉には出していない。
わざとらしく大きく息を吐いた王馬が、勢いよくベッドから飛び降りた。反動で揺れる。
「歯磨きは軽くしか出来てないから、ちゃんと自分でやっときなよ」
「え、そんなことまでしてくれてたの
……
」
そういえば、伸びっぱなしだった髭もなくなっている。あらゆる世話を焼かれていた。
「ホラホラ、早く! 立って、歩いて!」
「えぇ〜
……
緩急が
……
」
腕を掴まれて、無理やり立ち上がらせられる。来客用に、と置いてはあるが使ったことの無いスリッパが用意されていた。履けということなのだろう、大人しく最原は指示に従う。
「本気なの
……
」
「オレはいつでも本気だよ」
「さすがにそれは嘘
……
」
立ち上がると、どっと疲れが襲ってくる。腕を掴まれたまま、もう片方の手で目元を擦った。
まだ、辺りは薄暗い。そろそろ空が白んできている気配はあるが、壁伝いに歩かないと足元が覚束ないくらいには、暗い。
「最原ちゃんのせいだからね。自業自得だから」
「それは
……
反論は、しないけど
……
」
「言っとくけど、最原ちゃんが想像している以上だからね。生半可な覚悟を後悔しろよ」
「んー
……
わかった」
ぺしん、とお尻を叩かれる。本当に、わかっているのに。
のろのろとした足取りで、洗面所へと向かった。
一階と二階とが事務所になっていて、ゆうに五十階はある高層ビルの最上階が住居だと紹介されたのは、それからたった六時間後の話。
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