草枕
2025-06-26 17:15:08
1582文字
Public syzygy
 

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メロペイア異変発生後


「あら、アンタ。こんな所にいたの。もうすぐ向こうの居住区で昼食よ」
そのメロペイア人は、シルーをしっかりと見て、誰か別の名前を呼んだ。肩から下げられた中距離ライフルには手を触れず、大皿の料理を二つ両手に持っている。祭りの時に、振る舞われた料理だ。シルーが死んだ息子に似ていると言って、山盛りの食卓に引き摺り込んだ女性だった。
炊事をするのに邪魔だったのだろう、捲り上げられた袖口からは真新しい傷が覗いている。迷ったような痕が認められる、自傷の歪な赤だった。
『多くのメロペイア人に錯乱が見受けられる』という報告が頭を過ぎる。まだ有効な情報が少ないことも。

「オレは一人で食べる。きょうだいたちとはつるまないって、……お母さんなら知ってるだろ」

唇がやけに乾いた。後ろ手に隠したハンドガンを抜いてしまう方が、本当はずっと楽だ。
この女性の精神が混濁していて、さっきシルーを呼んだのが息子の名前なら。祭の時に語られた話が出鱈目ばかりでないのなら。

「あっはは! なんだい『お母さん』だなんて改まって。母さんとかババアとか言うくせに、さてはまた大腹空かせてるんだろ。仕方ないね」

母親は、それが至極当然のように自分の皿の料理をいくらか息子の皿に移した。そこには狂気の色は無い。ただ、この親子の当たり前なのだろう。
女神様に感謝していただこうと祈る姿を、シルーは真似た。

……母さんは、ここ最近、突然女神様を近くに感じることはあるか。その、今までよりずっと。お声が聞こえるとか」

小さく口に含んだパンを舌の上でじっと転がす。刺激はない。異臭もない。毒を警戒しながら、不審に思われない程度に食事をしなければならない。

「アンタ!アンタはお声が聞こえるようになったのかい?……ああ、ああ!神さま、感謝します。そしてやはり、私はまだ至らぬ身であるのですね……。ごめんなさい、ごめんなさい」

腕の傷を掻き毟ろうとする女性を、シルーは思わず止めた。止めたシルーを、女性は睨んだ。

「邪魔しないで!私の祈りは足りない!女神様のご厚情に釣り合わない!まだ、まだまだまだまだ!」
「落ち着け──!女神さまは、母さんにそうしろと言うのか?」

激昂した女性の声は、急に収まった。『声が聞こえる』と判断されているシルーの言葉だったから、素直に止まったと思われるくらい、不安的な呻き声を漏らしている。

……だって私は、足りない。女神様の恩義に報いられていない、メロペイアの民としての役割を果たせていない、信仰が足りない、釣り合っていない!!」
……それを判断しているのは母さんじゃないか」
「それ以外にどうしろって言うの!私には女神様のお声が聞こえない!自分で最善を求めるしかない!報いる方法を!」

肩で息をする女性は、いつの間にか鼻血を垂らしていた。自分で糾った縄で自分を縛っている。与えられた命の使い道は、──シルーだって、そうしろと言われて定めた訳じゃないのだ。

通路の方から足音がする。騒ぎに気付いたメロペイアの民が様子を見に来たか。シルーは、そっと女性を座らせた。

「母さん、鼻血が。少し安静にした方がいい。きょうだいたちが親子喧嘩に慌てたみたいだ。驚かせたことを謝ってくる」
母さんの料理の匂いに釣られたのかもしれないけど、と続けると、女性はようやく落ち着いて、少し微笑んだ。──共同体としての仲間意識は相変わらず強いままらしい。

シルーは、足音とは逆の方向へ駆けた。戦闘は回避、地上に着き次第、今の出来事を共有しなくては。問題と言えば……、レポートの文言が思い付かないことくらいか。
人の気配が消えた区画で足を止める。結局殆ど口をつけなかったままの食事が頭をよぎって、消えた。コンクリートみたいなレーションが、シルーの帰りを待っている。