怒声と共に投げた鞄はまるで軌道を変えてしまったのかと感じるような、只の虚空に投げたかのように空気を裂きながら地面を滑って堕ちて行った。
それでも怒声をあげることを、どうして止められようか。
「善悪が自分の思う通りの比重であると奢るな。"大切"は俺もアンタも、勝手に推し量って良いものじゃない……!」
その言葉にひとつ、ふたつと頷いて悩まし気に、無垢な顔が傾いてそれと共に先刻地面にたたきつけられた頭から赤が垂れ落ちていく。
うんうんと考えるようなその仕草のみ見れば、難題にぶつかる試験時の学生と良く似ついた。
「——凄いな~、只の無機物へも他人にこれだけ想いを抱かせる子なんだ。じゃあ“善い子”なのかな?……でも困ってる人がその無機物の存在のおかげでいーっぱいいるんだ。もっと人が快適に過ごせるようにリサイクルしちゃった方が良いと思うんだけど……」
手の甲で軽く額に触れて目を丸くしたかと思えばくすくすと笑声をあげ、なぎ倒されたまま座り込んでいた状態からゆっくりと立ち上がる。一瞬ふらりとしたのは出血のせいだろうか、はたまた元よりそんな動きなのか、先刻見かけたばかりでは判断がつかない。
「キミってわかりやすくは教えてくれなさそう。——やりやすいからいーけど……それだけ殺意駄々洩れだと、多分オレには勝てないよ?」
ぱっと見は無防備。頭からは未だ鮮血が流れており受けたダメージはかなりのはず。
しかし、相手は只純粋に、只機嫌良く、流れる血さえなければ只の男子高校生がスクールバックから携帯電話でも出して連絡先を交換しよう?とでもいうようなどこか軟派な雰囲気で鞄のジッパーを開く。
先の殺意が篭ってしまったまま投げた鞄を避けられるかも怪しい立ち位置から難なく避けたのを知っている。
拳を握りしめ目の前の存在へ意識が集中していく。ぐらぐらと煮えたぎるような怒りで目の前が赤くなりそうなのをどうにか堪えた。
戦闘能力とダメージ差、体力差だけで言えば陽嵩真冬が勝つのは明白だ。
しかし、彼よりも体格の華奢なこの男にはそれをひっくり返すような、一種の気持ち悪さや不気味さが滲んでならない。
もしもなどあるはずのない力の差があるというのに、ちらりと“死”が脳裏によぎる。そんな生存本能を刺激されるような底知れない“存在悪”が潜んでいるように周囲の存在が見れば感じたことだろう。
それでも、陽嵩真冬は退くことはない。一度決めたことは曲げない。いや、曲げることなど考える余地を持たない愚直で不器用な男は明確な殺意を抱いたか。
それだけの覚悟がなければ、この男を倒すことなど出来ないと本能が言う。
——それが悪手だったとしても。
一般の感覚の枠から外れた男。赤に張り付く金糸を軽く払ってから、開いたチャックからお気に入りの菓子でも取り出す様な笑顔で手にしているのは、真冬にとって見慣れた“凶器”であった。
「あんまり怒ってるのも可哀相だし、オレも死にたいわけじゃないから……ごめんね、抵抗させて?今日は“家族”とご飯の予定だから早く帰りたいんだぁ」
鞘に収まったそれを抜き払い露わになるのは洗練された銀。匠が心骨捧げて打ったであろう、美しいばかりの短刀であった。
決して“堅気”の人間が持ちえるはずのないそれを手慣れた様子で、しかし作法など何もない持ち方で真冬へ向ける。
「キミにとっての竜也くんって何者なの?」
疑問は只々純粋なそれでしかなかった。
例えるなら幼子が親に疑問をぶつけるような、ともすれば教師が生徒に問いかけるような、そんな何処にも属さない純粋な瞳が真冬を捉える。
「それだけの殺気、殺意って一般的には“子を殺された親”か“家族を殺された人”とか“生涯の伴侶を殺された”とか……そういう“命を奪われた人”くらいしか知らないや。——堅気じゃないなら別だけど」
あは、と楽し気に漏れる笑声。それが異様な居心地の悪さを感じさせる。
張りつめた空気は重く、どちらかが動けばそこに広がるのは確かな“命の取り合い”だろう。
「——……ゆっ」
どこか聴き馴染んだ音が真冬の鼓膜をゆするもその音の判別を付けるだけの余裕はなかった。只々目の前の純粋悪から意識を外すにはリスクが大きすぎたのもあったかもしれない。
離せばきっと——
「——犬飼大河……っ!!!!」
弾けるような怒声。焦燥にかられたような、ピリリと肌に刺さるような、声帯が壊れんばかりの音として割れるようなそれは、確かに誰かを呼んだ。
同時に視界に入るのは黒と赤。空気に長い糸束を置き去りにせんばかりの速度で真冬の視線を切った。
少しの沈黙とともに口火を切ったのはあの純粋悪。
「あれ?竜也くんだぁ。こんばんは。もお、これからそこのバイクで騒音男になるつもりでしょー?ほんとによくない」
口をとがらせるような、幼子に言い含めるようなそんな声音が気持ち悪い。
真冬の前に片腕で制するような、守るような姿で前に立つそれはよく知る男“我如古竜也”であった。
唇から息が抜けるように名を呼ぶも、彼は振り向かない。——否、振り向くだけの余裕がないとその背が言っていた。
生ぬるい風が肌を撫で、漸く自身の肌に汗がにじんでいることに気が付いたか。
「……悪かったな。今日整備予定なんだわ。静音性上がるマフラーにしようと思ってな」
言葉こそいつも通りなよく知る“我如古竜也”であったが、普段の彼からは想像もつかないような張りつめた低い音が響く。
——彼の声音自体は気に留めていないのか“犬飼大河”と呼ばれた男にとって彼の発言は的確に響いたようで、空気がほんの少し柔らかくなる。
「そうなの?早くいってよ。あと少しでバラしちゃうとこだった。よかったぁ、工具もないから解体中に爪の一,二枚なくなっちゃうかなぁって思ってたから安心。頑張らなくても大丈夫そうだね」
言葉尻こそ機嫌のいい、気の置けない友人へ向けるような懐っこさを感じたが、内容も竜也の様子も含めて見ればそんな音を出すはずがない。
刀身を鞘に戻し、筆記具でも入れるかのような気軽さでスクールバッグへしまうのを真冬は友の頭越しに見ただろう。
「——じゃあ、またね?もう悪いことはしちゃダメだからね」
軽く手を振り、背を向ける。只々無防備でしかないその背中が見えなくなるまで、二人は言葉を発することはなかった。
——陽が傾く逢魔が時。純粋な存在悪との遭遇に、嫌な予感がした。
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