由鶴に、彼女ができたらしい。寝耳に水だった。動揺した俺はコーヒーに普段入れない砂糖をいくつも入れ、一口飲んでその甘さに驚き服に溢した。一部始終を見ていた宇京と環野は目を見合わせて言葉なく何かを打ち合わせた後、俺に視線を戻して「さっきの嘘だから」と言った。思わず低い声で「は?」と言うと環野が宇京の服をちょんと掴む。
「……悪い。……だが、嘘じゃないんだろう」
「逢さんが知らないなんて思わなかったから。聞かなかったことにしてください」
「由鶴が言ってないなら、たぶん、何か理由があると思う」
「うん、僕もそう思う。てことで、忘れて」
「……」
「……っていうのは無理そうだね。わかった、僕たちの方で言っちゃったってことは由鶴には話しておく。そっちはそっちで話してください」
「……」
「逢は、彼女、いないの?」
弥代に偽装彼女を頼んでいることは由鶴以外の誰にも言っていない。俺がただ一言「いない」と返すと、環野は何かを考えるような間の後、こてんと首を傾げて「じゃあ、好きな人は?」と聞いた。宇京が環野の隣でかすかに目を見張り、だけど質問を取り消させることはせずに俺に視線を向ける。
「……いない。今は仕事で手いっぱいだ」
「そっか。でも、じゃあ、由鶴に彼女ができたら寂しいね」
「どうしてそうなる」
「由鶴と逢は仕事じゃない時もよく一緒にいるでしょう。いつも一緒の人に彼女ができちゃったら、いつも一緒にはいられなくなっちゃうから」
「ゆら」
「ん……ごめん、余計なこと言った。えっと、忘れて?」
「……忘れてやる。もう仕事の報告は済んだだろう、さっさと帰れ」
「うん。逢、そのコーヒー捨てるならもらうよ?」
「……牛乳が冷蔵庫に入ってる」
「やった」
「テイクアウトのカップ一個もらってくるよ」
「ありがと」
宇京がカフェの方に行き、事務所がしんと静かになる。こんな時に限ってレアは寝言も言わずに静かに眠っていた。
パソコンは数分前から同じ画面を表示して、一文字すら増えることなく停滞していた。キーボードの上に手を乗せてみても指先は動こうとしない。
「俺もちょっと寂しいよ。休みの日、予定合わせるの余計難しくなっちゃうかも」
「……そうだな」
「でも由鶴、最近あんまり残業しないでちゃんと帰ってるんでしょ? 彼女と電話してるとかかもしれないけど、ちゃんと家に帰って寝てるみたいだから、それは良かったなって思う。由鶴は自分のために時間を使うのが下手だから、彼女に合わせて結果的に由鶴も休めてるなら、いいなって」
「……、……ああ」
「……聞いたら、教えてくれると思うよ。俺たちはたまたまこの前、遊ぶ予定決める時に聞いただけだから。逢に彼女いないから抜け駆けだって怒られると思ってるかな?」
「……どうだか。今日はよく喋るな、環野」
「さっき賄い食べたばっかりでまだ元気」
ぶい、とピースサインを作って微笑む環野に視線だけ返し、今度こそ事務作業を再開する。タイミングを見計らったように戻ってきた宇京とカフェオレを作って、二人は事務所を後にした。
由鶴は今日は外での打ち合わせの後そのまま直帰するスケジュールになっていた。それでも今までならきっとここに戻ってきてついでに一、二個仕事を追加でやっていただろう。
だけど今日は、予定通りに直帰するのかもしれない。もし由鶴が戻ってきたら一緒に夕飯を食べて帰ろうと思っていたが、彼女ができたのならそういうことも気軽にできなくなるのだろうか。
知らぬうちにまた手が止まっていた。ため息を吐いて、席を立つ。環野に渡してしまったコーヒーを新しく入れ直すことにした。コーヒーメーカーもあるけれどコップにインスタントの粉を入れてお湯で溶かすだけの最も簡易的なコーヒーを作り、たったそれだけなのにいつもより薄くなってしまってまたため息を吐いた。
自分の席に戻って改めて作業に取り掛かろうとしたところでスマホが着信を知らせて震えた。画面に表示された名前を見て、すぐに応答ボタンをタップしスマホを耳に当てる。
『もしもし、お疲れ様です、逢さん』
「……ああ、どうした。もう打ち合わせが終わったのか」
『はい、なので一度事務所に戻って報告をしようかと。お腹空いてませんか? 何か買って帰れますけど』
「戻ってくるのか?」
『? はい。……あ、直帰していいって言われてることはちゃんと覚えていますよ。でもチャッタスで報告を上げるより事務所に戻って自分で入力まで済ませてしまった方がいいと思って。打ち合わせも予定より早く終わったし、……だめですか?』
「……そうか、わかった。……コーヒーを」
『コーヒー? いつものところのでいいですか?』
「いや、……由鶴の入れてくれるコーヒーが……悪い、仕事じゃないことまでやらせるつもりは」
『ふふ、どうして謝るんですか? 嬉しいです。今から戻りますので待っててください』
電話越しの声でも、それがうわべだけの言葉ではないことは分かった。待ってる、と小さく返すとくすくすと柔らかい笑い声が耳をくすぐった。
電話を切ってパソコンに向き合うとさっきまで動きの遅かった手がいつも通りにキーボードを打ち、時間のかかっていた書類があっという間に片付いた。
つまり俺は、由鶴のことがどうにも気がかりだったんだろう。彼女ができたことで仕事に支障をきたすようなタイプではないと思うが、それでも……いや、仕事に問題がないのなら何も気にする必要はないはずだ。それなのにどうして。
再び止まりかけた手を、思考を振り払って無心で動かした。今日のうちに終わらせておきたかった業務があらかた片付いた頃、事務所の扉が開き由鶴が入ってくる。由鶴は俺と目が合うと目を細めて微笑んだ。心臓が大きく跳ねて、俺は思わず目を見開いた。
「お疲れ様です、戻りました」
「あ、ああ」
「……? どうかしましたか?」
「いや……なんでもない」
「それなら良いんですが……。今、少し休憩にできそうですか? シュークリームを買ってきたので良かったらお茶にしましょう」
「ああ」
「コーヒーお入れしますね」
にこっと笑みを向けられて俺はそっと視線を逸らした。分かってしまったから。俺は、由鶴のことを好きなんだと。
弥代に偽造彼女を演じてもらって、由鶴には彼女がいて、俺たちは男同士で。少しも身動きが取れないというのに、たった今自覚したばかりの思いは簡単には消せそうにないくらいすでに俺の中で大きいようだった。
「どうぞ」
「っ、……あ、りがとう」
「ふふ、どういたしまして。でも紅茶もコーヒーも、逢さんが入れたものも俺は好きですよ?」
「……由鶴が入れた方がうまい」
「嬉しいです。ありがとうございます」
由鶴は自分のカップにもコーヒーを入れて席につき、一口飲んでほっと息を吐いた。持って帰ってきた袋からシュークリームを二つ取り出し一つを俺に手渡す。受け取り、かじって、甘いと呟くとまた由鶴は楽しそうに笑った。
今までと少しも変わらないというのに、俺の知らないところで彼女ができていて、それを周りに隠しているのか。わざわざプライベートを言い触らすことがないだけだと分かっているのにネガティブに捉えてしまうのは、由鶴に対する想いのせいなのだろうか。冷静さを失ってしまう気持ちなど排除した方がいいに決まってる。だけど、由鶴を好きじゃなくなることなんて、ありえない。
「……由鶴、たまたま聞いた話なんだが」
「はい?」
「……彼女ができた、と」
「……え」
「触れられたくない話題なら悪い。でも……俺は……」
「……すみません、逢さんに言うつもりはなくて……そっか、真央たち今日いたから。ええと、仕事に影響はしないようにします。驚かせてしまったようだったらすみません」
「……俺に、言うつもりはなかったのか」
「……逢さん?」
「……」
なんでもない、という言葉すら絞り出せずに俯き、不自然な間を誤魔化すようにシュークリームをかじった。甘ったるいクリームと一緒に好きだなんて気持ちも飲み込んで消化してしまいたい。せっかく由鶴が入れてくれたコーヒーを雑に流し込み口の中を空にしても、まだこびりついたように甘くて涙が溢れそうだ。
自分のことでいっぱいで、由鶴の視線に気を使う余裕もなかった。人の機微に聡い由鶴の目の前にいられるような状態じゃないことに今さら焦り、足に力を入れた。
「少し休憩してくる」
「えっ」
席を立って身を翻し、資料室の扉に手をかける。突然の俺の行動に由鶴は驚いた声を上げた。視界の外で椅子が音を立てて、あっという間に距離を詰めた由鶴が俺の手首を掴んだ。
「何か、気に触ることを言ってしまったならすみません」
「……なにも」
「知り合いの紹介で会った方なんです。公務員をされているんですが、お互い仕事が忙しくてまだあまり会って話してはいなくて」
ビクッと震えた俺の手を由鶴は離さず、むしろ握る力をほんの少しだけ強くした。目を逸らしているせいでどんな顔をしているのか分からない。自分がどんな顔をしているかも、全然。
「……でもたぶんうまくいきません。すぐに振られるんじゃないかな」
「は……。ありえない、由鶴を振るやつなんているわけないだろ」
「そう思っていただけているのは光栄なんですけど、それはきっと逢さんだからですよ」
「……?」
「仕事に関してだけじゃなく、どうしたって俺はあなたを中心に考えてしまうので。どんな人でもあなた以上に特別には思えないんです」
顔を上げた俺の目の前で、由鶴はいつも通りに微笑んでいた。その瞳はまっすぐに俺を見つめている。
「彼女のことを話さなかったことに拗ねているのかと思ったんですが、違うみたいですね。……もしかしたら逢さんも俺のことを少しでも特別に思ってくれているのかも、なんて」
「……すこしじゃ、ない」
「……、そうなんですか?」
「おまえは、……俺が一番失いたくないもので、それは仕事の話だけじゃなく……」
言葉がつっかえてうまく出てこない。だけど由鶴は少しも急かすことはなく待っていた。息を吸って、吐いて、ぐちゃぐちゃな思考を落ち着ける。
由鶴のことを誰にも傷付けられたくないし、奪われたくない。役に立つからじゃなく、ただ俺がそばにいたいから、由鶴に隣にいてほしい。無意識に育った感情はいつのまにか恋になっていた。
簡単に消せはしないがそのまま伝えるわけにもいかない。そんなどうしようもない恋慕のはずだったのに、……由鶴は俺のことを特別に思っていると、確かにそう言っていた。
「俺は、……おまえのことを特別に思って、いいのか……?」
「……どういう特別なのか、教えて」
手首を握っていた拳がそっと開き、由鶴の指が俺の手のひらへと伸びた。普段より高い体温が触れ合って繋がれる。教えて、と乞う由鶴の表情は、見たことのない熱を帯びたもので、体の中で爆弾が爆発したみたいに俺の全てがぐらりと揺れた。
「……好きだ、由鶴」
「はい、俺も好きです」
「……、おまえ、彼女がいるんだろう」
「ああ、それは後できちんと連絡しますから、お気になさらず。逢さんだって、弥代さんと付き合っているのに良いんですか?」
「それは事情が……、……なんだ、好きで、いいのか」
「はい。好きでいてください」
力が抜けてその場にしゃがみ込むと手を繋いだままの由鶴も俺のすぐ前にしゃがんだ。片手で顔を覆いはぁと息を吐く俺に、由鶴は嬉しそうな笑みを向けている。
「……由鶴」
「はい」
「おまえ、いつから俺のことを……?」
「……ないしょ、です。でも伝えるつもりなんて少しもありませんでしたよ。仕事でもプライベートでも逢さんが一番に頼るポジションにいられるだけで満足でしたから。あなたのことを特別に思って、他の人よりも近くで過ごせて、それで十分だったんです」
「……もし俺が偽装の恋人ではなく、本当に誰かと付き合ったとしても?」
「……それで逢さんが幸せなら、はい。ほんの少し妬けますけど、逢さんの幸せが一番なので」
「……それは、本当に俺のことが好きなのか」
「ふふ、はい、大好きです。……ちょっと照れるかも。直接言うことなんて一生ないと思ってました。好きです、逢さん。これからも好きでいて良いですか?」
「良いに決まってる」
即答すれば由鶴は美味しいものを食べた時のように笑みをとろけさせた。好きだと思って、今はそれを飲み込まなくていいことに気がついて「好きだ」と声に出す。由鶴は手の力をぎゅっと強くして、頬をほのかに染めていた。
「……そんな顔もするんだな?」
「……あなたの前でだけ」
「それは……ふっ、いいな。可愛い」
「逢さんだって可愛いです」
「対抗しなくていい」
「本心ですよ。……どうしよう、本当に伝えるつもりなんてなかったのに……逢さん、俺の恋人になってくれるんですか?」
「おまえが良いなら」
「良いに決まってます!」
手を強く握られた拍子に俺はバランスを崩し床に膝をついた。倒れかけた上半身は前に傾き、見上げたすぐそこに由鶴の顔がある。目が合って、呼吸を止めて、気がついたら唇が重なっていた。
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