しちろ
2025-06-25 13:41:58
12520文字
Public LOM・連載主人公の短編
 

静かなる海域

頭空っぽにして読んでください。

 見渡す限りの大海原、海上には帆に風をはらむ帆船が一隻。順風満帆、自由気ままな航海を阻むものはなく、船は波間を滑るように進んでいる。
 かの有名……ではなく、悪名高……くもない、セイウチのおカシラと船員のペンギンたちと、男の夢と浪漫を乗せて世界をゆるく股にかける、海賊船バルドである。
「海っていいよねぇ。陸を離れて潮風浴びてると、身体の中から生まれ変わるような気がするよ」
 気分が高揚すると台詞まで大げさになるものらしい。上機嫌のカイは手摺に両腕を乗せて、塩辛い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 キルマ湖で起きた『石の目玉』事件で、バルドの一味と知り合ったカイは、それが縁で彼らの船に乗せてもらう間柄になった。お客様扱いではなく、乗船中は用心棒を務めるという条件付きではあるが。
「センセイって呼ばれるのは勘弁だけどね~」
 隣のシオンに向かって苦笑いを浮かべてみせる。海の男と言えば、血の気が多くて命知らずの荒くれ者ぞろい──というのは必ずしも当てはまらないようでして。バルドのペンギンたちときたらこぞって戦闘能力皆無、モンスターが出るたびにカイの元へ駆け込んでは「センセイ、出番ですぜ!」とくるのである。
 そんな有様で、今まで彼らがどうしていたのかと言えば、
「そりゃあ、もう、この船とあっしら海賊、一心同体の運命共同体でやんすから……
 ペンギンの一羽はメインマストにはためく骸骨旗を指さして、力強く言ったのだった。
「可能な限り、全速力で逃げるでやんすよ!」
 カイはずっこけそうになった。
 地面すれすれまで沈んだセンセイを前に、ペンギンはますます胸を張る。
「海賊船バルドはあっしらの宝。そしてあっしらペンギン、おカシラのような強く逞しい海の男になるのが目標でやんす。無理をして肝心の船を失ったり、一人前の漢になる前に死んだんじゃあ意味ないでやんすから。おカシラ以下、海賊バルドは『イノチ大事に!』がモットーでやんすよ」
 最初は呆れたが、ペンギンのこの言い分をカイはなかなかに気に入った。と同時に、魑魅魍魎跋扈する大海原で、決して頼もしいとは言えない彼らが、今日までしぶとく生き延びた理由がわかった気がした。

 と、順調な航海は、ここで終わりを告げる。

「ん?」
 風の匂いが変わった。力強い追い風はゆるゆると軟風になり、微風になり、勢いを弱めていく。そうするうちに辺りからは音が消えていき、はち切れんばかりに風を孕んでいた帆は頼りない大きさになっていって、やがてぱたりとしぼんでしまった。
「風、止んじゃった」
 風を失った帆船は、無風の海を惰性で進み、それも止んでしまうと、大海原に一人取り残された迷子のようになってしまった。水平線まで続く海と空が白々しいほどに青い。
「船、止まっちゃったね」
 カイが言うのとほぼ同時に、
「あっちゃぁ、完全に凪だな」
 船尾側から野太い声がした。
 振り向くと、船長のバーンズが、船内へ続く階段からのしのしと上がってくるところだった。
「バーンズさん。こういうとき、どうするの?」
 すると、船長はお手上げだというように、両手ならぬ両ひれを上げてみせる。
「どうにもならんな。こればっかりは海の女神様のご機嫌次第だ。できるこたぁねえ。風が吹くまで適当に時間潰しててくれ」
 カイに言いつつ、バーンズは壁付の伝声管をひっつかんだ。
「おい、ペンギンども! 凪だ! ぼさっとしてねえで、さっさと錨を下ろせ!」
 雷声に尻を叩かれたペンギンたちが一斉に集まってき、甲板は急に騒がしくなった。
「センセイたち、ちょいと退くでやんす。そこ使うでやんすよ!」
「わっと、ごめん!」
 カイと場所を入れ替わるようにして、ペンギンたちが傍のウインチに取りついた。気がつかなかったが、右舷側の錨が設置してあったらしい。威勢の良い掛け声とともに巻錨機が回され、巨大な錨が海中へ沈んでいく。
「波がなくても潮流はある。ああしておかないと、知らぬうちに流されたら本当に迷子になっちまうんでね」
「大変そうな作業だね。あたしも手伝うよ」
「お前さんの仕事は魔物掃除だ。こんなことで体力使うもんじゃねえよ。休めるときは休んでおいて、船のことは俺たち海のモンに任せな」
 バーンズと、汗をかきかき作業するペンギンたちを見比べながら、この船長、言うことはカッコイイんだよなあ、などとカイは思う。
 さて、錨下ろしの作業が終わり、バーンズやペンギンが船内に戻ってしまうと、静かな海が戻ってきた。船が動いていようがいまいが、見える景色に変わりはないのだが、広大な海が停船した途端に退屈に思えてくる。
「ううん、どうしようかなあ。そうだ、手合わせしない? 今晩のおかずを賭けて、十本真剣勝負」
「いやだよ……たった今、休めって言われたばかりだし、勝っても負けてもお前は俺の飯とるだろう」
 薄情者のシオンは、やる気満々のカイを残してさっさと階段を下りて行ってしまう。
 仕方なしにカイは一人で槍の素振りをし、小腹が空いたところで厨房を冷やかし、ついでに操舵室で海図を眺めるラムティーガーに顔見せなどして……それでもまだ、風は吹かなそうである。
 しまいにはやることがなくなって、船室へ戻ると、先に戻っていたシオンがハンモックに揺られて本を読んでいた。
「シオン、ずっとここにいたの?」
 返事はない。
「ねえってば」
 もう一度呼ぶと、シオンはやっと気づいて顔を上げた。声をかけられても聞こえないほど熱中しているのは、敏い彼にしてはめずらしい。
「ずいぶん、のめりこんでるみたいだね。何の本?」
「船長室から借りた。聞いたことのない世界の冒険譚だけれど、奇想天外でおもしろい」
「へえ、冒険小説」
 シオンが言うところによればこのバルド、世界を股にかけるだけあり、カイたちの大陸では手に入らない本が多く取り揃えてあるらしい。豪放磊落を絵に描いたようなバーンズだが、かーちゃんの教えを大事にしていたり、船長室にパイプオルガンを置いてみたり、意外と繊細で『ゲージツ的』な部分があるのかもしれない。
 読書を邪魔するのも悪いと思ったカイは、槍を壁に立てかけると、シオンの隣のハンモックに飛び込んだ。
「船が動きそうだったら起こしてよねっ!」
 ハンモックに身体を預け、目を閉じる。睡魔はすぐにやって来た。



「うーん……
 惰眠を貪り、目が覚めた。ハンモックを軋ませながら横を向くと、シオンはまだ小説を読んでいる。脇には読了済みらしい本が積んであった。続き物らしい。
「あたし、どれくらい寝てた?」
「小一時間程度」
「あれ、そんなもんか」
 上体に勢いをつけて寝床から飛び降り、船窓から外を眺めてみる。風、波、ともになし。
「ありゃ。まだ動いてないんだ」
 臨む景色はまるで変わっていない。
「ちょっと、様子見てこようよ」
 まだ読み途中……とぼやくシオンをハンモックから引きずり下ろし、彼を連れて外に出た。
 人気のない甲板は、奇妙な静寂に包まれていた。
「すごく静かだね」
 凪の海に音はない。世界そのものが深い眠りについているようだとカイは思った。大きな船には海鳥や海獣がついて回ることがあるが、今は鳥一羽飛んでいないし、イルカなどもいなかった。足音が高く響く。
 散歩がてら、甲板をぐるりと歩いて船尾に回ると、ヒマを持て余したペンギンが一羽、のんきに釣り糸を垂らしていた。
「こんにちは。なにか釣れそう?」
「誰かと思えば、センセイでやんすか」
「センセイはやめてよ」
 苦笑いしながら魚籠をのぞかせてもらう。可愛らしい小魚が数匹入っていた。逃がしてやるか、食べるなら丸ごと揚げるくらいしかなさそうである。
「この通り、さっぱりでやんすねぇ」
「もしかしなくても、潜って獲った方が早いんじゃない?」
「それはいいっこなしでやんす……っと、きたきたきた! きたでやんす!」
「ええっ!? いきなり!」
 釣竿がぎぎと音を立て、大きくしなった。明らかに『かかって』いる。
「さすがセンセイ! 幸運を呼ぶ、棒の女神! 持ってるオンナでやんすね!」
「おっと、照れるぜ! ねえ、これは大きいんじゃない!?」
 ペンギンがぐいと全身に力を込めた。握る釣竿が、弓なりにぐんぐんと引かれていく。
「う、わ、っと、すごい力でやんす! 引きずり込まれるでやんす!」
「わあああ、危ない、落ちちゃう! 大物だよこれ!」
「センセイ! あっしの脂の乗った丸いボディ、しっかと支えてくださいでやんす! 海賊の名に懸けてこの大物、絶対に逃がさないでやんす!」
 今にも海中に引きずり込まれそうになるペンギンを、両足を踏ん張ったカイが全力で支えてやる。……ペンギン故、仮に海に落ちても大丈夫なのだが(獲物が魔物やサメでなければ)、そこは二人とも完全に忘れている。唯一気づいているシオンが、彼らの死闘を白い目で見ている。
 カイとペンギンは大物としばらく格闘し、ついに「やっ!」と引き上げた。同時に強烈な反動が二人を襲う。勢いあまってバランスを崩したカイとペンギンは、団子状にもつれ合い、まとめて甲板の上に転んでしまった。
「やったぁああ! 勝った! 勝ったぞうーーー!」
「わっ、わっ、センセイ! 獲物、逃がしてないでやんすか!?」
 仰向けのまま拳を突き上げて快哉を叫ぶカイと、慌てて起き上がるペンギン。ペンギンの声でバネのように跳ね起きたカイは、きょろきょろとあたりを見回した。
「あれ、魚は!?」
「いないでやんす!」
 どれだけ探しても、甲板のどこにも、それらしい魚はない。
 その代わり、小さな何かがコロコロと転がって、シオンのつま先に当たって止まるのが見えた。
「シオン、魚は!?」
「これ」
 シオンは足元の『それ』を拾い上げると、カイたちに見せてきた。
「って、ただのビンじゃん」
 魚はどうしたのかと訊くと、シオンは真顔で答えた。
「これだけど。お前らが釣ったの」
「ええ!? 嘘でしょ!? でっかかったもん、こんなだもん! 最低でもこーんくらい、いや、これくらいはあったって! ねっ!」
「そうでやんすよ! あの引きが、こんな小さなビンなわけ……
「そうは言われても、本当だし」
 嘘言う顔に見えるかとシオンがむすっとして言った。彼の場合、嘘をつこうがそうでなかろうが表情がまるで変わらないので正直信用ならないのであるが、今回は偽る理由はないだろう。冷静になってみれば、獲物を逃がしたにしては水音がしなかった。
 カイは唇を尖らせて床を蹴る。期待した分、がっかり感が半端ない。
「ちぇ、大物だと思ったのにな……。海底とかに針が引っかかったのかな」
「そんなわけないでやんすけどねえ。この辺りに岩礁はないはずでやんすよ」
 カイは納得いかないまま、シオンからビンを受け取った。
 薬瓶か酒瓶のような、細口の茶色いビンである。口はコルクのような素材でしっかりと栓がされており、胴に貼られた黄ばんだラベルには、異国の文字で何やら書かれていた。
「うーん、見たことない文字だね。読めないや」
「あっしも読めないでやんすね……おっ、センセイ! 中に何か入ってるでやんすよ!」
「え? あっ、本当だ!」
 ビンを陽射しに翳してみると、確かに何か入っているのがうっすら透けて見える。太陽に透かしたまま軽く振ってみたが、音はしない。中身が動く様子もない。
「なんだろうなあ。手紙とかじゃなさそうだし、食べ物でもなさそうかなぁ? なんとな~くだけど、もやもやして見えるような」
「センセイ、試しに開けてみるでやんすよ。珍しいものが入ってるかもしれやせんぜ」
「珍しいもの? もしかして古いお宝とか入ってたりしないかな、うへへ」
 止めた方が……と言いたげなシオンの視線は軽やかに無視して、カイは瓶の口に手をかけた。最初は笑顔で、しかし間もなく眉間が寄りはじめ、どんどん表情が渋くなる。
「う~んっ、やけに固いな! この栓、びくともしないよ!」
「センセイの馬鹿力でも開かないとは……ちょっくら貸すでやんす。あっしもやってみるでやんす」
「ええ~? キミには無理だよ、あたしでも開けられないのに」
 カイがペンギンにビンを受け渡した、その瞬間である。ペンギンの羽が偶然にも、ラベルをこすった。書かれた文字がこすれて消えた。カイとペンギンは気づかない。
「おや? センセイ。簡単に開くでやんすよ」
「ええっ! そんな馬鹿な」
「嘘じゃないでやんすよ、ほら」
 カイの困惑をよそに、ペンギンの手によって、コルク栓はプリマドンナのようにくるくると回り、何ら抵抗を感じさせることなく綺麗に抜けた。きゅぽんと響いた音が空々しい。
「えー、なんで~? なんか、コツとかあった? 回し方?」
「ふふ、センセイもまだまだでやんすね……。これであっしもひとつ、逞しい海の男に近づいたということ……
 にわかに、空気が凍てつくように冷たくなった。
 何事かと思う間もなく、今度はいきなり辺りが真っ白になった。
「えっ? なに!?」
「な、なな、なんでやんすか!?」
 開放的だった視界が、瞬く間に遮られていく。カイとペンギン、二人の声はすれど、急な濃霧に隠れて互いの姿を見ることはできない。
 誰のものでもない、暗い海底から湧き出たような声が低く轟いた。

 いいふねだ……私のものにしよう……

 赤い光がふたつ、靄の向こうにチロチロ見えた。
「え、え、え、え」
「ひゃあああっ!」
 カイの全身が粟立った。どたっと音がしたのは、ペンギンが尻もちでもついたのか。
「なに、今の!」
 恐怖のあまり叫んでしまう。頭からつま先までずぶ濡れだが、当然、暑さからではない。
「セ、センセイ……! ダンナぁ……どこでやんすかぁ……ひっ!」
 ペンギンの情けない声が悲鳴に変わった。続いて、なにかを引きずるような音。こちらへ近づいてくる。カイは半狂乱になりかけた。
 しかし、カイが泣きだすより早く、それが姿を現す。正体がわかるなり、今度は安堵で腰が抜けかけた。
「シオン……と、ペンギン……
「腰抜かしてる場合じゃないだろ」
 シオンの手が、崩れ落ちかけたカイの腕をつかんでくれた。逆の手でペンギンを引きずっている。はぐれたペンギンを保護してくれていたらしい。
「天下の海賊だろ。しゃんとしろ」
 シオンに腰のあたりを叩かれて、ペンギンはやっと立ち上がることができた。
「す、すいやせん。あっしとしたことが……
 ペンギンは脱げかけた帽子をかぶりなおし、どうにか居住まいを正した。小刻みに震える手に、蓋の空いたビンを握っている。
「こんなの、あっしのペン生で初めてでやんすよ。なんでやんしょう……と、ダンナ?」
 シオンが、ペンギンの手からビンを取り上げたのである。
 一人と一羽の注目が集まる中、シオンは削れたラベルに目を落とすと、残された文字を淡々と読み上げた。
「『古……海の魔……ここに、ず……無謀……る者よ、これ決……て開けるこ……なかれ……』」
「ダメなヤツ!!!」
 人間と鳥類、二種類の悲鳴が汚いハーモニーを奏でた。穴あきだらけの文章でも十分伝わる、そのヤバさ。
「やだあ~! あたしたち、開けちゃいけないビン開けちゃったってこと!?」
「そそ、そ、そうみたいでやんす~! すると、さっきのは、やっぱり……!」
 ひとしきり騒ぎ立てたのち、今度はそろって沈黙する。
 もう、アレだ。完全にアレ。夏の夜に欠かせない、『ゆ』ではじまって『い』で終わる、四文字のアレ。
「ひええええ! ユーレイでやんすーーーー!」
「うわああん、あたし、こういうのダメなんだよ~!」
 とうとう、一人と一羽は抱き合って号泣しはじめた。体感温度は氷点下、心は絶対零度。座標イズ南海とか関係ない。
「ど、どうしよう、ペンギンーっ! どうにかならない!?」
「セ、センセイ……! い、い、今こそ、あっしに任せるでやんす! おカシラには及ばずとも……! あっしとて海の男……っ! ユーレイなんて、ちょちょいのちょいで……

 くっくっく……。色よく肥えて、なかなかうまそうな魂のペンギンだ……

「ぎゃああああああああ!」
「いやああああああああ!」
 巨大な白面が、至近距離に現れた。
 なけなしの勇気を振り絞ったペンギンは、ぐるんと白目をむき、
「ほんげー…………やんす……
 盛大に泡を吹いてぶっ倒れた。
「バカーーーー! 海の男、ぜんぜん頼りにならない!」
 罵倒するカイだが、シオンにがっつりしがみついているので、なんの説得力もない。なお、抱きつかれた側は「嬉しい♡」とか「ラッキースケベ♡」とかそういうシチュエーションではない。だって半狂乱になったカイが、喚き散らしながらボッコボコに叩いてくるし。
「もうやだ、こんな船、降りたいぃいい!」
 嘆いたところで大洋のど真ん中。しかも凪。とどめに、乗組員全員が海洋生物であるからか、救命ボートやイカダの類がまったくないのである。
 カイとペンギンが騒ぐうちに幽霊はどこかに行ってしまったが、船から離れてくれたわけではなさそうだ。霧が晴れない。
……とにかく、あの幽霊をどうにかしないと、船を降りるにもどうにもならないから」
 訥々と諭されて、泣きべそをかきかき、頷くカイ。この二人にしては珍しい光景ではあるが、ツッコミを入れられる者はここにはいない。ペンギンは気絶したままだ。
「そうだね……あれを追い出すなり、やっつけるなり……ううう」
 こうしていても状況は好転しない。
 シオンはデッキをすたすた歩いていくと、壁に設置されている円錐形の金属管を手に取った。先ほどバーンズが伝達に使っていた伝声管である。
「船長、バーンズ船長。聞こえますか。デッキからです」
 シオンの淡々とした声音も、今ばかりはやたらと通る。静かすぎるのだ。極度の静寂は恐怖をあおると、カイは身をもって知った。
 だが、それもつかの間のこと。
 少しの間が空き、応答があった。
「おお。なんでぇ! その声は、赤ずきんの坊主か! どうしたってんだ、この霧は!」
 金属管で最大まで増幅されただみ声が、デッキ中にさく裂した。
 思わずのけぞったシオンから、飛びついてきたカイが伝声管をひったくる。
「バーンズさん! 釣りしてたらお化けが釣れて、お化けが、ビンで、おカシラになりたいペンギンが、海から出てきてぇ!」
「今度は棒の嬢ちゃんか! お化けの釣りだぁ!? なにがなんだかよくわからねえが、ひとまずこっちにこい!」
 ここはバーンズの言に従い、船長室へ向かうことにする。
「中まで真っ白だね……
 船尾楼手前にある階段を降り、船内へと入る。ここにも冷たい霧が立ち込めている。
 おまけに、異常なほどの静寂に包まれている。
 この状況で船員らが異常に気付いていないわけがないのだが──しかも、あのやかましい海賊ペンギンである──、人っ子一人いないし声もしない。一歩、また一歩と進むごとに、ぎいぎいと床板が軋んで、嫌な音を立てた。
「ひぎゃあああああああ!」
 カイの絶叫は殺人級である。
 耳元で殺人音波を喰らったシオンが、前方につんのめる。つられて、完全に彼頼りだったカイまでバランスを崩し、二人そろって硬い床にキスをかます羽目になった。
「おい、無駄にダメージ喰らわすなよ!」
「ねえ、なにか踏んだ! ふにっとした!」
 カイの額が真っ赤になっているが、本人それどころではない。
 同じく鼻を赤くしたシオンが、カイの槍を取りあげて、『ふにふに』を柄でつついた。
……ペンギンだな」
「なんということでしょう。まだお若そう(ペンギンだから年齢分からないけど)なのにお気の毒に」
「気絶してるだけだ。よく見たらデイビッドじゃないか」
「ヴァレリさんの旦那さんじゃん……奥さん知ったら泣くよぉ」
 お前が言えたことか、とシオンの目が訴えている。歩く足は震えておぼつかないし、シオンの影に隠れて決して前には出ようとしない。
 情けないのはデイビッドだけではなかった。船内を捜索するうち分かったことだが、数十羽からなる乗組員が軒並み気絶している。静かなわけである。起きている者がいないのだ。
 そして、情けない人がここにも一人。
「カイ、あのな……
「シオン、できるだけ前を向いていてほしい。あと、なるべくあたしを隠してください、全方位から」
……
 カイはシオンを盾にすることしか考えていない。
 ご覧の通りのありさまで、カイはお化けの類が大の苦手である。古い塔や遺跡などには幽霊に該当する魔物類が存在するがこれは大丈夫で、要するに、触れることができない、自分の力ではどうにもならないものが怖いのだ。
 ひるがえって、シオンはこういう手合いに恐怖心は抱かない。これまでの経験から、胡乱なものより生きているモノの方がよほど怖いことがあると骨身に染みているからだ。今だって、ビビリのペンギンを脅かすのがせいぜいの浮遊霊より、自分を肉壁にしているカイの方がよほど害悪である。
「シオン、もう少しゆっくり歩いてよ~……その、足が震えて、まっすぐ歩けなくてさぁ……
 へっぴり腰のカイが、先行くシオンのスカーフをおずおずと握ってくる。シオンより軽くて小さな手が小刻みに震えている。
……
 ちょっと悩んでから、シオンは彼女の手首をつかんで引き寄せた。
 考えもしなかった腕の細さに、少しばかり驚かされる。どんなに強かろうが逞しかろうが、まだまだ少女のカイ。強がっていても、か弱い女の子なのだ……

 ……なんて甘い展開は、ここにはない。

「ヤダ、ソンナ、強引ニ……オニイサンタラ、ダイタンネ……♡」
 ムダに風通しの良い頬骨が、ぽっと赤らんだ。
 少年の手と繋がれた、モンスターの手(の骨)。
 数百年物の乾いた奥歯が、めくるめく恋の喜びと恥じらいでカタカタ鳴っている。
 シオンは無言で、モンスター──スケルトンをたたき割った。
「シオン、さっきからどうしたの? あたしならこっちだよ」
……なんでもない」
 いつの間にかカイと入れ替わっていたスケルトンは見なかったことにして、「こっちだ」とシオンは先を促した。
 カイもシオンも、それぞれの理由で平常心を欠いている。



「俺が思うに、幽霊は元通り、ビンに詰めて海に返すべきだ」
 散々な目に遭いつつ、たどり着いた船長室。
 これが、詳しいいきさつを知ったバーンズの提案であった。
「さっきからこっち、ちっとも風が動かねえし、変な凪だとは思ったんだが……
 バーンズがちらっと外を見やった。窓が開け放たれているが、空気に動きはない。一面、冷たい霧が漂うばかりである。
「バーンズさんは、お化け怖くないの?」
「怖いの怖くねえのって、まあ、ぜんぜん怖くねえってこたぁねえが……
 バーンズは水かきのある大きな手で、尻のあたりをぼりぼり搔いた。尻がもぞもぞするというか、据わりの悪い気分ではあるらしい。
「海ってもんはなぁ、陸では信じられねえような、それは恐っろしいトラブルが次々起きるもんなのよ。すわ沈没するか、奈落に落ちるかってピンチを、星の数ほども乗り越えてきてんだ。幽霊のひとつやふたつで動じてちゃあ、海の男は務まらねえってことさ……そうだろう、棒の海の男」
「女でやんす!」
 ツッコミ役のペンギンが全滅しているので、自らツッコミを入れるカイである。ペンギンたちが真の海の男になれる日は遠いようだ。
「しかし、なるほど……お化けをもう一度ビンの中へ……
 もともと瓶詰めだった幽霊である。妥当ではあろう。
 納得しかけたカイだったが、根本的な問題に思い当たった。
……どうやって、お化けをビンに詰めたらいいんだい?」
 当然だが、幽霊を瓶詰めにしたことなどない。
 すると、バーンズが目を閉じながら顎をなでた。
「俺も伝承でしか聞いたことねえが……相手の名前を呼んでやって、そいつが『おう』と返事をしたら、返事をしたヤツがビンの中に吸い込まれるらしい」
「えぇ~? 名前で? そんなことある?」
「俺が子どものころ、かぁちゃんが絵本で読み聞かせてくれたのよ。かぁちゃんの話が間違ってるってぇのか。とにかくやってみろ」
 船長とカイの会話を横に、シオンが、読みかけの本をちらと見た。彼が船長から借りた本のタイトルは、『西遊記』である。
 その時である。
「ぎゃあああああ!!! 助けてでやんすーーー!」
 絹を裂くような悲鳴である。すかさずカイが窓に取りついて身を乗り出した。
「甲板の方だよ!」


 カイたちが押っ取り刀で甲板に駆けつけると、果たして幽霊はいた。
 赤い隈取のある目。それが霧の向こうからぎろりとカイをにらんできて、カイはたじろぎかけた。頭部はつるりとして青白く、奇妙に膨れ上がった腕とくびれた胴が不釣り合いだ。
 だが、恐怖は瞬時に吹き飛んだ。
「センセイーーー!」
「ペンギンーーー!」
 幽霊に取っ捕まったペンギンが、今にも危害をくわえられそうになっている。ビビり倒している場合ではない。
 しかし、敵の動きの方が早かった。
 ペンギンを片腕に捕らえた幽霊は、メリーゴーラウンドのように身体を高速で回転させ、
「あーれー!!!」
 憐れなペンギンを、無残にも海へと放り込んでしまった。どぼんと大きな音がして、水柱が派手に上がる。
「ああっ! なんてひどい! すぐに助け……
 追って海に飛び込もうとし、カイはすんでで思いとどまった。
……なくていいよね」
「ペンギンだからな」
 まあ、溺れる心配はない。
「くっくっく……今度はお前たちか……
 幽霊はにたりと嫌な笑みを浮かべている。
 カイは喉を鳴らした。いくら気を張ってはいても、嫌なものは嫌である。
「あ、あんた! お化けのくせに船を欲しがったりして、なんなのさ! とっくに死んでんのに生意気だよ! 名を名乗れ!」
 丹田に力を籠め、幽霊をびしっと指さした。バーンズの作戦に乗るなら名前を知らねばならない。ビンはいつでも出す用意がある。
「我はゴーヴァ……かつては、世界一の海賊団を率いた男……
「聞かなくても自分から話しはじめたよ!」
……生前の私は……荒くれ者どもとともに、数え切れぬほどの商船や海賊船を襲い、その名を轟かせていた……。それがために、時の為政者どもに目をつけられたのだ……。我らの力を恐れた連中は、国を超えて結託し、我らはついに討伐された……生き残った者たちは拷問にかけられて絞首刑となり……私は小さなビンに押し込められ、船ごと海底に沈められた……その恨みは海溝よりはるかに深く、我が魂はビンの中で魔神となったのだ……
「ほー」
「感心してる場合か」
 予想外に波乱万丈の生涯だ。意外と語ってくれるものである。
「で、ゴーヴァさん」
 言いながら、カイはこっそり瓶の口を向けた。霧が濃いし、カイは後ろ手で、敵の視界には入っていないはず。
 だが──我が意を得たり。
 カイの様子を見たゴーヴァが、したり顔で笑い出した。
「くっくっく……返事などすると思うか……? あの時と同じ手は喰わん……
「うわあ、バーンズ船長の言ったこと本当だった!」
「今度こそ、封印などされぬ……! 忌々しいそのビン、渡してもらおうか!」
 真っ赤な舌が、カメレオンのようにべろりと伸びた。
 狙いは、カイのビン。
「わあ、あぶねっ!」
 視界不良のせいで、普段より反応が遅れた。
 霧の向こうから攻撃され、舌が触れるぎりぎりでかわす。狙いを外したゴーヴァの舌が、カイの背後にある手摺を破壊した。
「チッ。すばしっこい奴め」
 ぬめついた舌がしゅるりと縮む。気色悪い。カイの背筋に悪寒が走る。
……ん? まてよ」
 カイは思った。
 ペンギンはゴーヴァの腕に掴まえられていた。今の舌攻撃で、手摺が砕けている。すなわち、この幽霊には実体がある。
……封印できないんなら、普通にボコせばいいんじゃね?」
 カイが大嫌いな幽霊の事件。ここまで散々な目に遭ってきて、カイのフラストレーションはたまりにたまっていた。
「魔神だろうが海賊の亡霊だろうが、殴れるんなら、怖くない!」
 カイの怒りのボルテージがみるみる上がる。
 この後の惨劇は割愛させていただく。



「なんだ、もう、終わったのかい」
「あ、バーンズさん」
 バーンズが遅れて甲板に着くころには、すでに決着がついていた。
 シオンの手にあるビン。小さなお化けが、中に押し込められるような形で収まっている。
 激闘……というより一方的な暴力の挙句、ゴーヴァは、自らビンへ戻っていった。正確には、息も絶え絶えになって(もう死んでるけど)懇願した。
「すみませんが、そこの赤ずきんの方……あのビンを私に向けて、私の名前を呼んでくださいませんでしょうか……
 カイがキレ散らかして暴れていたため、シオンはとくにやることがなく、つっ立っていただけである。
 例え数百年、数千年をビンの中で過ごすことになっても、棒の生えた悪魔に跡形もなく殲滅されるよりは、ましだったのかもしれない。
「なんだよ、最後までやり合えよぉ。根性なし」
 カイは指をバキボキ鳴らして無茶苦茶なことを言っている。
「船長、ペンありませんか?」
「あるぜ。ほらよ」
 バーンがペンを渡すと、シオンはラベルの欠けていた箇所をさらさらと書き足した。古い言葉の分かる彼がいたことは、ゴーヴァにはある意味、僥倖だったのかもしれない。おかげで、カイに魂まで粉微塵にされるのだけは避けられた。
「あ、光った」
 書き終えると、ラベルの文字が淡く光った。封印が完成した合図だった。
「ただのビンに見えたけど、魔法のビンだったってわけかぁ」
 シオンに渡されたビンを、カイは感心しつつ覗き込む。でなければ、ラベルやインクはあっという間に水に溶け、コルクは海水で朽ちてしまうし、ビンは海底を転がるうちに砕けてしまっていただろう。
「風が出てきたな」
 バーンズが空気に匂いをかぐように、ひくひくと鼻を鳴らした。
 強い海風が白い霧を押し流し、閉ざされて視界を広げていく。
 カイは、蓋のしっかり絞められたビンを握りしめ、海に向かって大きく振りかぶった。
「あばよ、大昔の先輩よ!」
 バーンズのだみ声が響き渡る。
 目いっぱいの力で投げられた古代のビンは、海上にぽっかり浮かんだペンギンの頭上を超えて飛んでいき、再び、海深くへと沈んでいった。