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那須野
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寿月
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爽秋に綴る
【寿月】数年後同棲プロ時空*海原祭の来賓挨拶にお呼ばれする毛利くん(出発前)。
「
月光
つき
さぁん、変やないです? 大丈夫でっか?」
「
……
問題ない。 あまり動くと皺になるぞ」
秋の初め、リビングにある全身鏡の前を、真新しいスーツに身を包んだ後ろ姿がそわそわと落ち着かなさげに行き来している。少なくともかれこれ十分間ほどは飽きずにそうしているものだから、宥めるように声を掛けてやると、男
――
毛利はしゅんと眉尻を下げて朝日の中で不安そうにこちらを振り返った。
「ホンマに大丈夫かいや~
……
」
「大丈夫だ。
……
確認は済んだろう。ひとまず座るといい」
「はあい
……
」
出発にはまだいくらか余裕がある。
いっそ予定を繰り上げて早々に送り出してしまうのもひとつの手かとも思ったが、あまり早くに目的地へ到着しても時間を持て余すだろう。しばらくぶりの母校への訪問だというのに、気苦労なことだ。
九月某日、今日は立海大附属系列校の合同文化祭初日だ。
この日に合わせて例年OB会も行われ、毛利は今回OB代表として文化祭の開会式で来賓挨拶の役目を任されていた。
立海大附属出身の現役プロスポーツ選手ということもあり、数年前からたびたびスピーチを依頼されてはいたものの、スケジュールの兼ね合いで実現しなかった。今年は偶然ツアー大会の合間に期日が嵌りこみ、いよいよ腹を括った次第である。
否、本人は「転入生やし柄やないから」と相変わらず乗り気ではなかったが、テニス部の後輩たちからの推薦とあっては強引に辞退するわけにもいかない。
かくして新たにジャケットスーツを仕立て直し、毛利は今、そわそわと出発時間を待っている。
「
……
少し意外だったな」
「へ?」
「お前でもそれほど緊張することがあるのか」
ダイニングチェアに背すじを伸ばして座った男の傍に歩み寄りながら、ぽつりと問いを投げる。
すいと伸びてきた指先にはなにも言わず、じゃれつくように絡む温度に目を細めた。その拍子に、なにやら物言いたげにじっとこちらを見上げる濃茶のひとみと視線が出会う。隣の椅子に腰掛け首を傾げて「なんだ」と問えば、絡めた五指はそのままに男が言葉を接いでいく。
「べつに、原稿はちゃんと覚えちょるし、挨拶自体はそない緊張してへんよ」
「
……
?」
告げられたそれに、二、三、まばたく。
確かに世界大会規模の会場での試合ですら、この男が物怖じした様子など見たことがない。
では何がこれほど気がかりなのか。先を促すように疑問符を返すと、毛利は微苦笑を浮かべてゆるく首を横に振った。「そーやなくて、ほら」
「
月光
つき
さん、柳に録画頼みはったやろ?」
「
……
、」
「カッコよう映らなアカンから、
……
どっちかっちゅうとそっちが心配なんですわ」
繋いでいる手がやわく強まる。じわりと温んだ体温は、どちらのものかわからない。
関係者からの招待券があれば学外の人間も文化祭に参加できるようだったけれども、来賓として招かれている毛利に同行してまわるわけにもいかない。連絡先を交換している柳がこちらを気遣い案内を申し出てくれたが、同窓生や恩師との旧交を温める機会に部外者に付き合わせるのもいささか気が引けて、スピーチの様子の録画だけ依頼したのだった。
「すまない」
「あっ、いや、ちゃいます怒っとるんやなくて!」
現地で見られない分あとで送られてくるはずの映像をひそかな楽しみにしていたものの、当の本人の
精神的重圧
プレッシャー
になってしまっているとは思わなかった。
素直に謝罪を述べれば、握った手をもうひとつ強くした毛利が慌てた様子でめいっぱいの否定の声を上げる。その勢いに思わず目をまるくしていると、あおい熱を湛えた双眸がまっすぐに自身を映してゆらりと揺れた。
「楽しみにしてくれはって嬉しいし、
……
やっぱその、
月光
つき
さんにはええとこ見せとうて」
「
…………
」
「気合い入れてバシッと決めてきやるんで、見たってください」
てらいなく向けられた好意の温度とひたむきさが、心地好く胸裡をさざめかせながら五感に沁みる。
この男がいたく本番に強いことは自分が誰より知っている。もし仮に何がしかの失敗があったとしても、自身にとっては些事でしかない。
緊張など、する必要はないというのに。本音ではあるが意気込んでいる相手に言って聞かせるには少々野暮な感情はひとまず飲み込んで、座面からわずかに腰を浮かせて体を前に傾ける。無防備にさらされていた額に、そっと唇でふれた。
「楽しみにしている」
額のぬくもりに目を眇め、そのままの距離でそれだけ呟く。
数秒のインターバル。子どものようなあどけなさでしばらく呆けていた男が、ふいにちいさく自身の名を呼んだ。
月光
つき
さん。
「
……
っ、ふ」
呼吸をさらい取りながら立ち上がった男の勢いに押されて腰が座面に戻る。体軸の移動に紛れてがた、と椅子が鳴く音はわずかに遠い。不用意に腕に縋って上着に皺がつかないよう、繋いだままの手に力を込めると、応えの代わりに指先がぎうと強まった。
「
……
は
…………
」
やわく口内をまさぐりはしたものの、深入りはせずに離れていった温度に浅く息を吐く。現在の体躯に合わせて仕立て直したばかりのスーツと、それに見合う髪型に整えた男は間近で見るとどこか別人のようで、今更ながらにどきりとする。
これほど近くで瞳を覗き込まれては、胸中をまるきり見透かされてしまうのではないか。そんな思いでひとまず口を噤んではみたけれども、焼け石に水、という言葉が脳裏を掠めて過ぎていった。
こちらの胸中を知ってか知らずか男は目元に何度か軽いキスを落としてから、こつりと額を合わせてささやくように言う。
「帰ってきたら、続き、してもええですか」
「
――
……
、」
互いに形ばかりの問いだと知ってはいたが、それでも律儀に尋ねる声は好ましい。
不安をほどくための確認ではなく、求めあう快さを確かめる中低音は、何度聴いても心地好かった。
「スーツを脱いだあとならな」
もう一度ふれるだけの口付けを返し、同じ声量で応えを贈る。
澄んだ秋空の下に同居人を送り出し、ひと仕事終えた男が夜風とともに帰ってきたら、まずは玄関で労いを伝えよう。