鬼太郎が初めて触れた楽器は、玩具のようなミニピアノだった。水木がニ歳の誕生日にプレゼントしてくれたのだ。気が早すぎじゃ、と父親の方が呆れたくらいだが、いいだろ別に、と水木は取り合わなかった。
大きさこそ玩具のようだが、れっきとした国内ピアノメーカーによる品はしっかりした造りで、音も良かった。鬼太郎はすっかりそれを気に入ったし、それ以上に水木が膝に抱えて、上から優しく手を取り、鍵盤に置いて教えてくれるのを喜んだ。水木もけして飽きることなく、きらきら星や猫ふんじゃったを一緒にゆっくり弾いてやって。水木の専門はピアノではないが、ピアノも弾ける。金を取るような演奏は無理だが、と笑って言うものの、少なくとも田中一家は彼のピアノも好きだった。
「そう、鬼太郎。次は?そうだな。鬼太郎は覚えるのが早いなぁ」
頭を撫でたりしながら、水木は鬼太郎を褒める。鬼太郎も嬉しくなって、何度も水木の顔を見て、指先を見てと繰り返す…。きらきら星を最後まで弾けた時などは、当時三歳の鬼太郎は「みじゅ〜!」と飛びついていた。水木もよしよしと受け止め、すごいな、天才だ、とめいっぱい褒めそやしたものだ。
思えば、その頃に将来の道が決まったのかもしれない。
現代の音楽家らしく、鬼太郎はSNSのアカウントも宣伝だったり交流だったりに使う。さすがにごくプライベートなアカウントは鍵をかけてごく少ない身内にしか公開していないが。
そこで、初めてのピアノ、と昔もらったミニピアノを紹介した。これは水木さんにもらった、僕が初めて触った楽器です、と。そのまま懐かしいきらきら星、少しジャズ風にした猫ふんじゃったを披露した所、反響が大きく…、ほぼ同じ型のピアノがメーカーで完売してしまった。
それがきっかけでピアノメーカーと縁ができ…、さらにその縁が仕事にも繋がっている。
「水木さんのおかげだなあ」
しみじみ呟けば、隣で新聞を読んでいた水木が訝しげな顔をする。今は、ふたりで暮らすマンションのリビングにて食後のお茶の時間だ。
「水木さんのくれたミニピアノが始まりで、今の僕がいるので」
簡潔に説明したが、簡潔すぎたのか、水木は相変わらず首を捻っている。
…さすがにその目元には皺が見られるようになってきたが、まだ十分に若々しい。最近は若さの秘訣を聞かれることが増えたというが、聞く人の気持ちもわかる。
「…よくわからないが、今のおまえがあるのは全部おまえが頑張ったからだよ」
結局、小首を傾げたまま、水木は何でもないことのように言う。
「俺がしたことなんか大したことじゃない。おまえは遅かれ早かれ才能を開花させただろうし、ちゃんと努力した。だからだよ」
「………っ、もう!」
「わっ」
鬼太郎はガバッと水木を抱きしめた。水木からは怪訝そうな空気が伝わってくるが、特に何か言ってくる様子はない。
「あなたが、えらいぞって、褒めてくれたり、喜んでくれるのが、嬉しかったから…」
「え?」
「もっとうまくなりたい、水木さんに褒めてもらいたい、水木さんと一緒に演奏したい…、三つ子の魂ってやつですよ、三歳よりもっと赤ちゃんだったと思うけど」
水木は鬼太郎の腕の中できょとんとしたまま、瞬きをした。
「…それは…、」
「それは?」
「…前途ある青少年の未来を…」
「何言ってんですか」
はぁ、と呆れたようにため息をついた後、鬼太郎は水木の肩口に顔を埋めた。
「……、まるで、俺、おまえをたぶらかしたみたいじゃないか」
ちょっと拗ねたような口ぶりに、鬼太郎は顔を上げる。じっとりした目で、やっと人生のパートナーとなることを受け入れてくれた人を見る。
「……あんまり見ないでくれ。皺も増えたし」
「全然ないですよ。あっても魅力的にしかならないから安心して」
バッサリ切って捨て、鬼太郎は水木の頬に吸い付いた。
「逆でしょ」
「逆?」
「僕が執念で追いかけ回してあなたを口説き落としたんだから…。たぶらかしてくれる人ならこんなに苦労してない」
「…………」
水木はぽかんとして、…それからくくっと小さく笑った。くしゃりと細めた目のやわらかさと色気ときたら!
「そっか」
「そうですよ」
ふふ、とまた水木は笑う。
「ということは、俺がおまえにたぶらかされたのか」
「え?」
「若い男の肉に溺れたということか、俺は……」
まじめな顔と声だったが、多分、鬼太郎を笑わせるために言っている。水木にはそういう茶目っ気もあった。怒るより前に吹き出しかけ、鬼太郎はむせた。まんまと水木の術中にはまっている。
「…っ、もう!そんなに煽って…、覚悟してくださいよ!」
「うん」
全部許す顔で微笑んで、鬼太郎にしなだれかかるように水木は体の力を抜いた。
「ベッドまで連れてってくれるのか?」
「…も〜〜っ!」
くすくす笑う初恋の人をどうしてくれようか、鬼太郎は急いで思案を巡らせた。
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