目覚めると、そこには見慣れた安アパートの天井が広がっていた。肌に触れるものは借り物のスウェットと客用布団で、空気には少しだけアルコールの残り香が混じっている。盧笙の家に泊めてもらった時の、いつもの朝。
のそりと身体を起こしながら今日のスケジュールを思い返す。自宅に迎えが来るのは昼前の予定だから、盧笙の出勤と一緒にここを出て帰って、二、三の用を済ませていたらちょうどいい頃合いか、と算段を立てる。
客用布団を簡単に畳んで脇によけていると、洗面所の方から水の音が聞こえてきた。音に導かれるように、裸足でフローリングの上をぺたぺた歩いてそっちへ向かうと、盧笙が歯を磨いていた。鏡越しに目が合うと、盧笙は歯ブラシを口から引き抜いて簓を振り返る。
「起きたんか、おはよう」
「おはようさん。布団、いつもんとこに畳んどいたで」
「おん。もうすぐ終わるから、そこでちょい待っとき」
そう言って盧笙が鏡に向き直った時、髪の一房だけぴょんと跳ねているのに簓は気づいた。言われた通りに大人しく順番待ちしようとしていた簓は、鏡に見切れる自分の口角がにんまりと上がるのを目撃した。
頻繁に泊まっているが、盧笙の寝癖なんてべろんべろんに酔っぱらって風呂にも入らず雑魚寝をした翌朝くらいにしか見ない。昨夜のように嗜む程度で酒を切り上げ、きちんと支度を整えて布団に潜り込んだ夜に寝癖を拵えるのはあまりない。
洗面台を覗き込むような姿勢で口をゆすぐ盧笙の身動きに合わせて跳ねた髪が揺れる。レアなものを見つけた、という高揚感につられて、簓は手の甲で口元を拭う盧笙に声をかけた。
「盧笙。後ろ頭、跳ねてんで」
「え、どこ?」
「右側や。あー、もうちょい後ろ。そうそう、そんでちょい下」
誘導に従った盧笙の指が寝癖を捉える。
「ほんまや。全然気ぃついてへんかった、おおきに」
簓に礼を言いながら、盧笙の意識は早くも寝癖に向かっている。思案顔を浮かべつつ、首を回して跳ねている辺りを鏡に映すところを見ていると、簓の順番が回ってくるまではもう少しかかりそうだった。急ぐ用もないことだし、茶々を入れつつその様子を見ていてやろうと決めた簓は、ぼんやりと寝癖の原因を考えた。いつもと違うことが起こるような原因が、昨夜にあっただろうかと記憶を辿る。
そして、「いつもと違うこと」が一つあったのを、思い出した。
喉を通り過ぎていくビールの強い炭酸と苦み。液体の触れたところ全部からアルコールが身の内に染み込んでくるのを味わい、最初の一口の余韻を舌の上で転がしながら、今飲み込んだビールがあまりよくないところへ滑り込んだ手応えがあった。
意識の細い隙間に雪崩れ込んだビールの炭酸が弾け、酩酊するように思考が揺らぐ。疲労のせいで普段と違う回路が開いている。うっすらとした自覚はあったが、それでも冷えた缶を手放す気にはなれなかった。アルコールと、気の置けない相手との会話が欲しい夜だった。
平日の夜。盧笙は明日も当然仕事で、簓が押しかけた時にはちょうど惣菜を並べて晩酌の最中だった。テーブルの上の缶は盧笙が口をつけている一本のみ。連絡を寄越さなかった簓への小言を漏らしながら、盧笙が冷蔵庫から追加で取り出したのは三本。客用の箸と小皿と一緒に簓の前に置かれたのは二本。平常なら酔いすら大して感じない程度の酒量に、簓は何も考えずに手を伸ばした。
「お前、足りひんのやったらアレ飲みや。こないだ置いてったやつ」
風向きが変わったのは、簓が二本目を空のする直前だった。アレとは何かを簓が尋ねる前に盧笙は腰を上げ、すぐに小ぶりの瓶と新しいグラス一つを手に戻ってくる。
「それ、俺が持ってきたやつやん。まだ飲んでなかったん? 残りは一人で飲んでええって言うといたのに」
「いや、ちょいちょい飲んだで。あともうちょっとだけやねん」
盧笙が瓶を揺らす。ちゃぷん、と鳴る水音は軽い。
「前ん時、お前もこれうまいって言うてたよな? 明日カンビンの日やから飲み切ってくれ」
「盧笙は?」
自分の前に置かれるグラスを見ながら簓が尋ねると、盧笙はゆるく首を振った。
「俺はええわ、それ度数きついし、もうほとんどないやろ。それに、簓にもう一回くらい飲ましたりたいと思てたし、ちょうどええ」
話しながら、グラスに透明な液体が注がれる。水のように見えて、日本酒の表面が反射する光はどこか艶やかだ。記憶にある酒の味がぼんやりと蘇って喉が鳴る。それを盧笙が簓のために残しておいてくれたこと、今まさに飲み込もうとしていたもう少し欲しいという気持ちを汲んでくれたこと、そういうものが「ここで止めておけ」という理性の忠告を押しのけた。
「ほんなら、いただこかな」
グラスを取り上げると、盧笙の切れ長の目が緩んだように感じた。いよいよこれを飲まない理由がなくなる。
その三十分後、簓にはすっかり酔いが回っていた。
「もおおお、どないしたらええねん!」
「おーおー、荒れとるなぁ」
ラグの上に大の字でひっくり返った簓の上に、間延びした盧笙の声が降ってくる。ひとかけらの興味も抱いていなさそうな声音に、ささくれた内心が逆立った。
「他人事やと思って呑気しくさって……」
「紛うことなく他人事やからな。そのお前に言い寄ってる、モデル? アイドル? も知らんし、知ってたとしても結局俺には関係ない話やろ」
「インフルエンサー! それでも話くらい聞いてや~! お前くらいにしか言われへんねん!」
「まあ確かに、下手な相手に愚痴ったら週刊誌とかに売られそうやな」
盧笙が小さく頷いて、ビールを一口飲む。ごく、と喉を鳴らした後で缶から口を離し、わずかに顔を顰めた。
「でも、お前がそんなに言うなんて意外やな。うまいこと煙に巻いて躱したらええだけやん、そういうの得意やろ」
「あの子しつこいねん。ほんで妙に記憶力もええし、のらくら逃げようとしても『この間はこう言ってませんでした?』って食い下がってきて埒が明かん」
「それだけ本気でお前のことが好きなんやないんか?」
盧笙の目が少し険を帯びる。視線に含まれた、本気の相手を雑に扱っているのか、という疑いを払いのけるように簓は大仰に手を振った。
「ちゃうちゃう、ぜーったいちゃう! 俺に向ける目が恋する乙女のもんとちゃうねん。あれは動物園のサルを見る顔や。おもろいことせんかな~、って柵の向こうから眺めとるんや」
「ほな、お前みたいなサルが好きな子なんやな」
「誰がサルやねん! ウキーーー!」
「鳴き声出てもうとるで。お山に帰って人間のフリを練習し直してきた方がええんちゃうか」
「あかん、帰られへん。山を去る者はもう二度と戻れんのが掟やねん、サルだけに」
「しょーもな」
吐き捨てた盧笙がぐっとビールを煽る。口から離れた缶がテーブルに置かれる時に高い音がして、簓はそれに中身がないことを知った。そろそろお開きになる空気を感じて、簓は仰向けのまま溜息をつく。天に向かって吐いたアルコールくさい息は、そのまま簓の顔に降ってきた。
「……参っとんなぁ。そんなに嫌ならいっぺんきっぱり話したらどうや?」
「ん~、それもなぁ……。言うて、そこまではっきりコナかけられとるわけでもないねん。ただ妙に好きなタイプはどんなんか~、とか、普段どういうデートしとるか~、とか聞かれるだけ」
簓はごろりと身体の向きを変えた。ラグの上に真っ直ぐ伸びる自分の腕とその向こうの手を見て、爪切らな、とぼんやり考える。その視界に、簓のものではない手が侵入してくる。ラグに片手をついた盧笙が、酩酊を纏った視線を簓に向けていた。
「そんなん、普通に答えたらええやん。世間話やろ」
「答えたで? ま、適当にその場のノリで考えたことやったけど。そん時はそうなんですね~、言うて終わったわ。困ったんは二回目に会うた時」
「二回目? 何があったん」
「最初ん時と似たようなこと聞かれたんや。せやけど俺が前のことを忘れとって、またその場での思いつきで答えたら、『前と違う』て怒られてもうてなぁ……。そっから、顔合わす度に『本当のとこはどうなんですか』て絡まれるようになってぇ……」
簓の語尾がしょぼくれていくにつれて、盧笙の顔には呆れた色が濃くなっていく。
「そら、お前が悪いわな。誰でも適当にあしらわれとるってわかったら気ぃ悪いやろ」
「そんでも、そない引っ張らんでええやん? ああ言う気ないんやな、って察して欲しいんやけど」
「まあ、なぁ」
盧笙の曖昧な相槌には同情が滲んできている。顔を覗き込むように近づいてきた盧笙の影が簓に落ちて、もしかしてそんなに弱っているように見えるのだろうか、と思考にも翳りが差した。
「……ちゅうか、『本当のところ』とか聞かれても答えられんねん。今ほんまに恋愛とか興味なくてなんも思い浮かばん……。でもそう言うても信じてもらえへんくて、もうどないしたらええんか……」
ぽろりと零れた言葉の暗さに、簓自身が驚いてしまう。厄介だとは感じていたが、思ったよりダメージを受けていたらしい。今夜は盧笙と楽しく飲んで気晴らしをしたかったのに、逆に気が塞がるような話をしてしまった。そのことにもさらに落ち込んでしまう。
「ほんなら、こういうんはどうや?」
盧笙の影に顔を突っ込んだままの簓に、思いのほか優しげな声が降ってきた。簓は、頭を動かさずに視線だけを持ち上げて盧笙を見上げる。逆光のせいで盧笙の顔はよく見えなかったが、おそらく声に見合うような表情をしているだろう、ということだけは雰囲気で伝わった。
「その場のノリで適当言うから、整合性がなくてツッコまれるんやろ? そんなら具体的な理想像を一個作って、今度からそれに合わせて答えていけば、少なくとも『前と違う』って文句はなくなるんやない?」
「その理想像が思いつかんから、困っとんのや」
「思いつかんっていうのは、ほんまのやつやろ。その子、別にお前のことを本気で知りたいわけやなくて興味本位らしいやん? せやったらええ塩梅の理想像を適当に作ったらええやん。お前の答えが統一されたら、今度はほんまのこと言うてんのや、って納得して解放してもらえんのとちゃう?」
提案を話し終えた盧笙の口元が、緩やかに弧を描いている。しばしそれを見つめてから、簓は再び自分の左手に視線を移した。やっぱり爪の白い部分の面積が広く感じて、すっきりしない気分になる。盧笙が再び口を開く気配がした。
「あかんか」
「あかんことはないけど、架空の理想像ってとこが難しいかも知らんな。架空のつもりで設定したんとぴったり一致してまう女の子がどこぞにおったら、余計な火種になったりせん? それ警戒して誰とも被らんような突拍子もない人物像にしたら、今度は納得してもらえへんやろうし」
「……なるほど。難儀やな」
ぐう、と小さな唸り声がした。黙り込んだ盧笙は、次の案を考えてくれているのだろう。数分前には自分に関係ない、などと言っていた癖に、簓の詮無い愚痴をきちんと聞いて解決しようとしてくれる。今夜は盧笙に喜ばせてもらってばかりだ。
盧笙だけに考えさせてはいられないと、簓も思考を巡らせる。冗談とは疑われず、でも現実にはあまりいなさそうな要素は何か、とあれこれ思いながら視線の先にある左手を握ったり開いたりしていると、不意に薬指の爪が光を反射して、ぴかっと強く光った。
「せや! その理想像を盧笙にしたらええんちゃうか!?」
閃いた衝動のまま、軽く身を起こして盧笙の顔を覗き込む。近づいたことではっきり見えるようになった盧笙の顔には、何言うてんねん、と書いてあった。それが実際に盧笙の声で綴られる前に、簓は説明を始める。
「架空の女の子像ドンピシャが万一現実におったら困るって話なんやから、最初から現実の人間を理想像として据えればええやん! 現実の人間を想定しとるからリアリティがあるけど、男の盧笙と言動がドンピシャに一致するような女の子なんてそうそうおらんやろ! な、架空の理想像の出来上がりやん!?」
「そんなん、すぐこいつ男の話しとんなってバレるやろ。女の子の話題を散々はぐらかした後に、実は理想は男やー、なんて言うたらゲイと思われんのとちゃうか」
「俺を誰やと思とんねん? 天下の白膠木簓やで! その場で男女のことに聞こえるように、ちょちょいと細かいとこイジって話すのなんか朝飯前や!」
「はぁ。さいでっか」
盧笙の顔に呆れが蘇る。
「お前がそれでええんやったら、何でもええわ」
そう言って離れていこうとする盧笙を、簓は腕を掴んで引き留めた。
「ほんなら手始めに、ちょっと腕枕させてくれや」
「嫌や意味わからん。何の手始めや。急に何をおっ始める気やねんお前は」
「やって、エピソードトークすんねんからネタが必要やん。リアルな話ができたら、その分早く解放してもらえるかもしらん。ほら、ちょうどここに俺の腕も転がっとることやし、ちょっと頭載せてみてくれん? ほんまにちょっとだけでええから! な?」
絡んでみたのはただの戯れだった。やってくれても拒絶されても、どっちでも楽しい会話ができると思った。この時の盧笙の気分はどうやら簓の相手をしてくれる方に傾いていたらしく、「出演料払わすぞ」なんて悪態をつきつつ、口元に殺しきれない笑みを浮かべながら簓の腕の上に頭を載せる。
「どや? 簓さんの腕枕のお味は」
「骨ばっかで普通に寝心地悪いわ。もうちょい肉つけや」
「ガーン! フラれてもうた! ついさっき好きになったばっかやのにもう失恋や~!」
「うるっさいわ、この距離で腹から声出すな!」
同じくらいの声量で盧笙が返してくる。腕にのしかかるずっしりとした重みと、近すぎる盧笙の顔が無性に面白くなってきて、簓はヘラヘラ笑った。そうすると盧笙もケラケラ笑い出して、酔っ払い二人はしばらく床に転がったまま互いに笑いあった。
記憶と同時に、昨夜腕で感じた盧笙の髪の柔らかさも蘇る。腕枕をしていたのは数分にも満たないようなほんの短い時間だったから、あの寝癖の原因は別にあるのだろうが、咄嗟にあれのせいかも、と思ってしまった。
寝起きの頭で、変な話をしてしまったことにじわじわとむず痒さが込み上げてくる。そもそも盧笙と恋愛どうこうの話題をしたことがほとんどない。自分自身でも一体何を、とは思うが、二十六にもなって友達との恋バナに気恥ずかしさを覚えているらしい。
「空いたで」
急に声をかけられて、はっとする。いつの間にか、簓は俯いて自分の左手の爪を眺めていた。慌てて顔を上げると、寝癖を直してすっかり身支度を整えた盧笙がこちらを見ていた。
「お、おお。そんじゃ借りるわ」
狭い洗面所ですれ違い、入れ替わりに鏡の前に立つ。鏡越しに洗面所を出て行こうとする盧笙の背中を見ていたら、それが不意に振り返った。グラスチェーンと一緒に長い髪がゆるく揺れるのを見て、なぜか簓の心臓の居心地が悪くなる。鏡の中の左右反転した盧笙は目が合ったことに驚いたらしく、少し目を見開いたがすぐに無表情に戻り、何気ない声音で尋ねてくる。
「そういや昨夜言うとったやつ、どないするん?」
「え、何やっけ?」
「女の子に俺のエピソードトークする、いうやつ」
「あ~、あれなぁ……」
とぼけて正体不明の落ち着かなさから逃げようとしてみたが、盧笙にあっさりと話題を引き戻されてしまった。しかし、盧笙の問いの答えが簓の中にはない。話の流れ、冗談の延長で言い出してみたことに過ぎず、やりたいともなんとも即答できない。
言葉を濁した簓の態度をどう受け取ったのか、盧笙はふっと笑いを零した。
「お前がやりたいならやってええで」
「えっ、ええの?」
昨夜の感じでは嫌がりそうだった盧笙の方から許可を出され、簓は勢いよく振り向いた。実物の盧笙は簓の視線を受け止め、肩を竦めた。
「名前は出さんのやろ? てか、俺やのうて女の子って体で話すんやったな。昨夜のお前、結構キてるみたいやったし、ネタにされるだけなら俺に実害ないし、それでお前が助かるんやったら好きにせえ」
それだけ言うと、盧笙は洗面所を出て行った。数秒の間、誰もいない虚空を見つめてから、簓は洗面台に向き直ると思い切り顔を洗った。冷たい水が瞬く間に顔を前髪を濡らしていき、わずかに残っていた眠気を洗い流していく。
「なんや、妙なことになったかもなぁ」
呟きながら顔を上げると、鏡に水浸しの簓の顔が映る。その口元は緩んでいて、「妙なこと」を面白がる気持ちが滲み出ていた。
っていう感じで他人に盧笙とのことを恋愛のエピソード的に話していたらいつの間にか本当に盧笙のことが好きになってしまったけど、もしかして自分の話術に自分で引っかかってるだけでは?と思って簓がぐるぐるするのをずっと考えています
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.