天空殿の時間は、緩やかに流れる。世界の命運を左右する戦いが繰り広げられている下界とは隔絶されたかのように、インドラの周囲には常に張り詰めた静寂があった。
その日、インドラは私室の窓辺にある長椅子に腰掛け、一冊の古い書物を開いていた。重厚な装丁が施されたそれは、神々の生まれる以前、世界の成り立ちについて記された難解な古文書だ。
一文字一文字を追い、その深淵なる知識に精神を遊ばせることは、インドラにとって唯一の慰めであり、己の存在を忘れるための儀式でもあった。
だが、その静寂を壊す者がいる。
「……」
アカラナータが、部屋の隅でそわそわと落ち着かない様子で歩き回っていた。
床を爪先で蹴ってみたり、壁にかかったタペストリーを意味もなくめくってみたり。やがて、その行動に飽きたのか、彼はインドラの周りをうろつき始めた。
わざとらしく大きな足音を立て、インドラの視界の端を何度も横切る。しかし、インドラは書物から目を離さない。その鉄壁の集中力に、アカラナータの苛立ちは募っていく。
ついに我慢の限界が来たのか、アカラナータはインドラの隣に、どっかりと音を立てて腰を下ろした。長椅子がその重みでぎしりと軋む。
「何を読んでるんだ。面白いのか?」
鬱陶しさを隠そうともせず、彼はインドラの手元を覗き込んできた。インドラはページをめくる手を止めず、一瞥もくれずに静かに答えた。
「お前には理解できん」
その冷たい返答に、アカラナータはむっとした表情を浮かべたが、引き下がる気はないらしい。彼はインドラの肩越しに、書物に目を凝らした。
そこには、見たこともない古代の文字が、蟻の行列のようにびっしりと並んでいるだけだった。一つとして意味の分かるものはない。
「チッ、つまらん」
悪態をつきながらも、アカラナータはその場を離れなかった。
インドラの纏う静かな空気。集中している時にだけ漂う、澄み切った光流の気配。そして、微かに香る、彼自身が焚いているであろう白檀の香り。それらが、不思議と心地よかった。
戦いも、破壊もない、退屈な時間。だが、その退屈が、荒れ狂う獣の本能を少しずつ凪いでいく。意味の分からない文字の羅列を眺めているうちに、アカラナータの意識はゆっくりと沈んでいった。
こくり、こくりと舟を漕ぎ始め、やがて、彼の頭がことりと音を立てて、インドラの肩にもたれかかった。
すぅ、すぅ、と穏やかな寝息が聞こえてくる。
インドラの指が、ぴたりと止まった。一瞬、驚きに目を見開いたが、やがて、諦めたような深いため息をつく。獣のような男が、こうも無防備に眠りこけるとは。
インドラはしばらく逡巡した後、読んでいた書物をそっと閉じ、傍らに置いた。そして、自分が肩にかけていたマントを静かに外し、眠るアカラナータの身体にそっとかけてやる。銀色の髪が、インドラの肩口でさらりと揺れた。
再び書物を手に取ろうとしたが、インドラはその手を止めた。この静寂を、もう少しだけ味わっていたいと思った。
外では鉛色の雲が空を覆っている。だが、この部屋の中だけは、まるで嘘のように穏やかな時間が流れていた。規則正しい獣の寝息と、ただ、そこに在るという己の鼓動。
インドラは静かに目を閉じた。それは、彼が久しく忘れていた、誰かと共有する、ただ温かいだけの時間だった。
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