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桐子
2025-06-22 15:25:18
6003文字
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まっさら⑮
「ミズキ君、5番テーブルお願いね」
「はい」
結局、「今日限りで辞める」と言い放ったものの、水木は未だにゲゲ郎がオーナーを務めるで働いていた。足早に呼ばれたテーブルへ向かうと、ホステスが水木を見上げて愛想よく「注文お願い。田崎様のボトルと氷、あとカシスオレンジね」と言ってきた。
水木のロッカーに嫌がらせをしていたホステスたちは、あの後すぐに退職した。水木がゲゲ郎の愛人だという話は店中に広まっており、皆が腫れ物に触るように接してきた。おかげで随分と働きやすくなったが、必要以上に気を遣われるのはかえって居心地が悪かった。もういっそここの仕事は本当にやめてしまって、ファミレスだけでもいいかと何度も思ったのだが、結局踏ん切りがつかなかった。やはり時給がファミレスの二倍以上あるのは魅力的なのだ。
今夜もくたくたになるまで働いて、マンションへと帰った。ドアを開けるとゲゲ郎が出迎えてくれた。
「おかえり、水木」
「ああ、ただいま」
たったそれだけのやりとりで、男は嬉しそうに微笑んだ。
招かれて居間へ行くと、机の上には晩酌の用意がしてあった。つまみは多分、どこかの料亭で詰めて貰ったものだろう折り詰めだ。会合の帰りなのかもしれない。
「おぬしも一杯やらんか」
「もらうよ」
ゲゲ郎の用意する酒はやたらとうまくて、晩酌の習慣のなかった水木も、いつの間にか晩酌の時間が楽しみになっていた。ゲゲ郎は酒が入ると大抵妻のことを話し始め、彼女がいかにいい女だったか、優しく愛にあふれた素晴らしい女性だったかを涙ながらに語るのだった。
水木は、その話を聞くのが好きだった。ゲゲ郎の心の中に今でも住み続け、愛される女性。そんな風に深く誰かを愛せることが羨ましかった。同時に、少し胸が痛むことには気が付かないふりをするのだった。
「明日はな、倅と遊園地に行ってくるんじゃ」
「へえ、それはいいな」
水木が素直に感想を言うと、ゲゲ郎は嬉しそうに頷いた。
「よければ、明日いっしょに行かんか」
「おいおい。知らない人間がついていったら、息子さんがびっくするだろう」
「倅はおぬしに会いたがっておる。心配はいらん」
会いたがっているとは初耳だ。というか、水木のことをどう紹介しているのだろう。まさか馬鹿正直に『愛人だ』なんて言っているのではないか。
「いや、遠慮しておくよ」
水木が首を振ると、ゲゲ郎はしょんぼりした様子で肩を落としてしまった。まるで叱られた犬のようだ。
「
……
そうか
……
おぬしも忙しいしのう
……
」
「うっ」
しょげた様子の男に、水木は罪悪感を覚えた。そんな顔をされると、なんだか悪いことをしたような気になってしまう。
「あー、その。
……
遊園地には行かないけど、また今度一緒に飯でも食いに行こう」
「本当か!」
水木の答えに、男はぱっと表情を明るくした。尻尾があったらぶんぶんと振り回しているだろう。
「では、銀座のぱーらーで、くりーむそーだを飲もう。ああ、ぱふぇでもよいな。水木はぷりんは好きか?」
「おいおい」
「妻ともよく行ったんじゃ。ああ、水木と鬼太郎といっしょにくりーむそーだを飲めるなんて、楽しみじゃなあ」
まるで子どものようにはしゃぐ男に、水木は苦笑した。
「ああ。甘い物は好きな方だよ」
「そうかそうか」
ゲゲ郎はさっそく頭の中で出かける算段をし始めたらしく、ぶつぶつと何かつぶやいている。その間に、残ったつまみと酒を片付けておこう。水木はキッチンに行き、空いた器と皿を洗った。
「風呂に入ってくる」
そう伝えると、ゲゲ郎が振り返った。
「わしは先に閨で待っておるよ」
――――
夜の誘いだということは、目を見たらわかった。さきほどまでのはしゃいだ様子から一転して、静かではあるが熱のこもった目で見つめられ、水木はそっと視線を逸らした。
「分かった」
それだけ返して、浴室へ向かう。ゲゲ郎に抱かれるのも、もうすっかり慣れてしまった。今では前を触られなくても後ろで気持ちよくなれる。キスの仕方も、男の誘い方も、ゲゲ郎の好みに作り替えられてしまっている。もう戻れないところまで来てしまっているのではないかと恐ろしくなる時もある。それでも、ゲゲ郎の顔を見てしまうと何も言えなくなってしまうのだ。
「頼みがあるんじゃ」
二度、三度と体を重ねた後、ゲゲ郎が煙草を吸いながら言った。
「
……
何だよ」
「おぬしに見てほしいものがあってな」
「見てほしいもの?」
水木が聞き返すと、男は頷いた。
「これなんじゃ」
そう言ってゲゲ郎は、風呂敷包みを持ってきた。中を見てみると、女物のワンピースだった。フレア丈で、夏の向日葵を思わせる黄色が印象的だ。だが、あちこちに赤茶色の染みがこびりついていて、お世辞にも綺麗とはいえない。
「これは
……
」
水木が思わず呟くと、男は頷いた。
「妻のものじゃよ」
驚いてゲゲ郎を見上げると、彼は寂しそうに微笑んだ。
「妻は、向日葵のように明るく強くて、本当にこの服がよう似合っておった」
「そうだったのか
……
」
水木が呟くと、ゲゲ郎はそっとワンピースに触れた。
「事故にあったときにも、これを着ておった。葬儀の時にも、本当はこれを着せてやりたかったが
……
妻はおしゃれじゃったから、こんなに汚れた服では可哀想でのう。結局、白装束で送り出してしもうた」
そのことを悔やんでいるのだろう。ゲゲ郎の横顔は寂しげだった。何とかしてやりたかったが、あいにくと水木はプロのクリーニング業者ではない。父親がやっていたことを見よう見まねで覚えただけで、正しい知識も技術もない。
「俺はプロじゃないから、綺麗になるって保証はないぞ」
「分かっておる。でも、これは他の誰にも渡しとうない。おぬしにだからこそ託せるんじゃ。水木でもだめなら、諦める」
ゲゲ郎はそっとワンピースを水木の方へ差し出した。真剣に、だがどこか縋るように水木を見ている。
「あずかるよ」
「
……
ありがとう」
正直に言えば、セックスしたあとに、愛する妻の服を洗ってほしいと押し付けてくるなんて、なんてデリカシーのない男だという気持ちもある。しかし、妻のことを心から愛しているのだということが分かった。彼の気持ちを無下にするのは、どうも気が引けた。
このワンピースが似合っていたというゲゲ郎の妻は、どんな人だったのだろう。死してなお深く深く愛されているのだから、このさびしい男を心から愛することのできる、明るくて綺麗な女性だったに違いない。
水木は、そのワンピースを丁寧に畳んで風呂敷に包みなおした。
「明日遊園地に行くんだろ。もう寝ようぜ」
「うむ。おやすみ、水木」
「ああ、おやすみ」
ゲゲ郎が電気を消し、二人でベッドにもぐりこんだ。こんなに近くにいるのに、胸の中がなぜかすうすうと寒いような気がした。それがどうしてか、水木は深く考えないようにして、目を閉じた。
◇◇◇
入院している母親の見舞いも兼ねて、水木は一度地元へ戻ることにした。あいにくと夏休みに入って繁忙期ということもあり、ファミレスの休みは長く取れなかった。二泊三日で地元へ帰ることを伝えると、ゲゲ郎は「ご母堂への見舞金じゃ」と言ってまた分厚い封筒を寄越してきた。
「いらん」
「あっても困ることはないじゃろう」
そう言って無理に鞄の中に押し込まれてしまった。なんでも金で解決しようとするのはゲゲ郎の悪い癖ではあるが、こんなやり方しか知らないのだろう。ありがたく受け取り、地元へ帰る夜行バスに乗り込んだ。バスでの移動が年を経るごとにしんどくなってはいるものの、やはり費用面を考えると新幹線や飛行機は難しい。
地元へ帰ると、懐かしい海のにおいがした。都会の喧騒も悪くはないが、やはり水木はこちらの空気の方が落ち着く。バスを降りてから家まで歩く道すがら、田んぼで作業している老人たちに「おかえり」と声をかけられた。それに手を上げて応えながら、実家へと向かう。
「ただいまあ」
久しぶりの実家は何も変わっていなかった。店舗だった一階を改築したため、やたらと広い玄関には、水木が高校生の時に使っていた自転車がそのまま置いてある。古い五月人形も、近所の酒屋で配られるカレンダーも昔のままだ。
「おかえんなさい」
奥から出てきた母親は、風邪をこじらせたと聞いてはいたが元気そうだった。顔色もいい。ただ、白髪が増えて老け込み、随分小さくなってしまったような気がした。
「まったく、帰るなら帰るって、早めに言っとくれ」
「急に休みが取れることになったんだ。はい、これ東京のみやげ」
駅で買った菓子を渡して家に入る。扇風機の回る室内は、それだけでもずいぶんと涼しかった。ここへ歩いてくるまでに噴き出した汗をぬぐっていると、冷たい麦茶を出される。
「ああ、だんだん」
喉が渇いていたのもあって、一息に飲み干してしまった。母親はそれをにこにこと笑いながら見ている。
「仕事はどうね?」
「うん、何とかやってるよ」
「心配しとったけど、顔色がええから安心したわ。ちゃんと食べとるようやね」
「まあ、それなりに」
水木はあいまいに笑った。ゲゲ郎と暮らすようになって、家賃がかからない分、食費に回す金が増えた。ゲゲ郎に呼び出されてクラブの仕事を休むことも多く、その分休める時間が増えた。そのおかげで、前より健康的な生活を送っている気がする。
「母さんは最近どう? 風邪は?」
「元気にしとるよ」
それから、近所の同級生が結婚しただとか、家の近くのスーパーが閉店して困っているだとか、近況をいろいろまくしたてられた。「で、あんたはいつ結婚するの」と聞かれる気配を察して、先回りすることにした。
「そうだ、これ見てくれよ」
水木は荷物の中から、風呂敷に包まれたワンピースを取り出した。
「なんね」
「知り合いから頼まれたんだ。この染み落ちないかって。死んだ奥さんのものらしいんだけど」
「古い汚れじゃね。ちょっと待ちんさい」
母親はワンピースを手に取ってしげしげと検分した。
「これは、普通のクリーニングじゃ無理やね」
「やっぱり?」
汚れの種類によっては特殊な洗剤が必要になる。実家へ帰ってきたのは母の様子を見るためだが、亡くなった父親の仕事を手伝っていた母に相談したいというのもあった。
「血かね、これは」
「そう」
「酵素系がいいかねえ」
よっこいしょ、と言いながら立ち上がった母親は、そのまま物置の方へ向かった。まだ店をしていた頃に使っていた用具が詰め込まれ、雑多にものが押し込まれた物置だ。整頓されているとは言い難いそこから目的の物を探し出すべく、水木も母親を手伝うことにした。
「これと、あとこれもいるね」
「何に使うんだよ?」
「染み抜きにきまっとるがね」
母親が引っ張り出してきたものは、どれも水木には用途のわからないものだった。だが、彼女は手慣れた様子で必要なものをそろえると、張り切った様子で腕まくりをした。
「はあ
……
」
青空の下ではためくワンピースを見て、水木は感嘆のため息をついた。まるで向日葵のような鮮やかな黄色のワンピースは、見事に元の色合いを取り戻していた。完全に落ち切ってはいないものの、ほとんど目立たなくなるまで薄くなっている。
「母さん、さすがだな」
「褒めても何も出やせんわ」
そう言いつつも嬉しそうだ。水木はワンピースを眺めながら、これを見たらゲゲ郎はどんな顔をするだろうかと想像した。きっと喜んでくれるに違いない。
「お父さんなら、もっときれいにできただろうねえ」
「そうだな」
父は腕のいいクリーニング屋だった。本来ならば取り扱えない着物の洗い張りなんかも請け負って、完璧にきれいにしていた。だからこの辺りでは、よそ行きの服はみんな水木の父の店へ持ち込まれていたものだ。
「事故さえ起こさなかったらねえ
……
」
「母さん」
「ごめん、もう言わん約束だったわね。ああ、でも本当に、あんたもこの傷さえなければ女の子にもてただろうに」
水木は眼鏡をかけなおした。
あの事故は父のせいではない。
大手のクリーニングチェーン店ができ、「安くて速いから」という理由で皆がそちらに行くようになってしまった。当然、持ち込まれる服は減り、生活は苦しくなった。それでも一着一着を丁寧に洗い、アイロンをかけて綺麗に新品同然に仕上げた。だが、店を維持するために銀行から金を借りていたが、とうとう融資も打ち切られた。店は回らなくなり、父親はよくない所からも金を借りた。
結果、店はつぶれてしまい、あとには借金だけが残った。そして父は、最後に頼まれた着物のクリーニングを配達しに行って、事故にあったのだ。飛び出してきた子どもを避けようとして、そのまま反対車線のトラックにぶつかった。助手席には水木も乗っていて、目が覚めた時には父は亡くなっていた。即死で苦しむ間もなかったというのが、唯一の救いだった。
トラックの運転手への見舞金、葬儀代。苦しい生活は更に苦しくなった。それからしばらくして母も病に倒れ、入院生活が始まった。水木は、高校を中退して働くしかなかった。
この世界は弱者には冷たくて、金や権力のあるものにばかり都合のいいようにできている。だが、それでも、水木は奪う側には回りたくなかった。誠実に真面目に働いていた父が好きだったからだ。
「俺はこの傷、嫌いじゃないよ」
そう言って笑うと、母親は少し驚いたような顔をしたが、やがて「そうかい」と言って笑った。
その日の夜は、水木の好物をたくさん作ってくれた。揚げ物や肉じゃがが並ぶ食卓を見て「もう高校生じゃないんだから」と苦言は呈したものの、張り切って好きなものを作ってくれた母の気持ちがありがたかった。
二泊三日はあっという間に過ぎて、もう帰る日が来てしまった。
「忘れ物はないね?」
「ないよ」
一番大事な風呂敷包みは、鞄の中に入れている。ついでに、と持たされた大量の野菜も。さすがに米は重すぎるからと辞退した。
「次に帰る時には、お嫁さんを連れて帰ってくれるといいんだけど」
「はは
……
」
最後までこれか。水木は苦笑するしかなかった。
「じゃあ、体に気を付けてね」
「うん」
最後まで水木の体を案じる言葉をかけてくれた母に、小さく手を振って別れた。
ゲゲ郎からの見舞金は、仏壇に置いてきた。数日もすれば気が付くだろう。老人の一人暮らしは心配だが、もう少しで借金が返せそうなのだ。この世でたった一人、水木のことを心から愛して気にかけてくれている母を安心させたい。今まで苦労してきた分、いい生活をしてほしい。そのためなら、どんなこともできる。バスに揺られ、遠くなる故郷の景色を見つめながら、そう強く思った。
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