桐子
2025-06-22 11:22:12
3695文字
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まっさら⑭


「出ていくのか」

玄関先のかすかな明かりで、男の顔は半分しか見えなかった。長い前髪のせいで、表情は分からない。だが、目だけが爛々と光っているのが分かった。
……今までお世話になりました。もらった金は、ちょっとずつ返していきますから」
「金などいらん」
水木の言葉に、男は淡々と返した。
「そういうわけにはいきませんから」
荷物は奥の部屋にある。彼に近づきたくなかったが、いつまでもこうして睨みあっているわけにもいくまい。水木は男の横をすり抜けて奥の部屋へ向かおうとした。だがそれは叶わなかった。男が長い腕を伸ばして水木の手首を掴み上げたのだ。
「っ……
「行くな」
有無を言わせぬ強い口調で言われ、水木はうろたえた。そうは見えなくても相手はヤクザだ。内心、何か気にされるのではないかとひやひやしていたが、男は大きな体を縮こまらせてうつむいていた。怒っているというよりは悲しんでいるように見える。
……わしが悪かった」
男はぽつりと言った。なぜ、謝るんだ。そう口にしたかったが声が出せない。沈黙が落ちる中、男が静かに顔を上げた。
「おぬしが喜んでくれると思ったんじゃ」
ゲゲ郎は、まるで迷子の子どものような途方に暮れた顔をしていた。
「働かずにすむなら、楽になると思って……故郷のご母堂のことも、勝手に調べて悪かった。いくらでも謝る。気が済むまで殴ってくれてもいい。じゃから、出ていくのだけは止めてくれんか」
どうしてそんなに必死になるんだ。自分のような男、物珍しさから愛人にしたような人間なんて、放っておけばいいだろうに。すがりつくような眼差しに、水木はどうしていいか分からなかった。
「好きになってくれとは言わん。でも、そばにいてくれ」
「あ……
もしかして、ゲゲ郎はあの夜、起きていたのかもしれない。『お前なんて、大嫌いだ』という水木の呟いた声を聞いていて、それで。
水木はぐっと拳を握りしめた。
このまま男の愛人として飼われることに抵抗がないと言えば嘘になる。借金を返すために身売りさせられて、尊厳を踏みにじられて。でも、自分の言葉を真に受けて傷つく姿を見ていると、憎しみや怒りが急速に萎んでいくのを感じた。
……わかった」
水木の言葉に、男はほっとしたようにゆっくりと手を離した。深くため息をついて、自分より大きな男を見上げる。
「その代わり、お前のことも教えてくれ。俺のことばっかり知られてるなんて不公平だからな」
「そんなことでよいのか」
ゲゲ郎はほっとしたように微笑んだ。水木はその笑みを見て、無性に恥ずかしくなった。ああもう、こんな風に絆されるなんてどうかしている。でも、この男を受け入れてやりたいと思う自分が確かにいるのだった。




ゲゲ郎が手ずから注いでくれた酒はとびきりうまかった。酒をほとんど飲んだことのない水木でも、いい酒だと分かる。
隣あって座り、酒を飲みながら、ゲゲ郎はのんびりとした口調で話し始めた。
「わしの一番古い記憶は、雪の日に、大きな屋敷で大勢の人間に囲まれた宴の席じゃ。父親の誕生日でな。めでたいめでたいと、大騒ぎしておった。――――そこへ、他の組の者がカチコミをかけてきおった」
カチコミというのは襲撃のことだ。まるで現実味のない話だった。ゲゲ郎は盃を手に、思い出話を続けた。
「ひどい夜じゃった。組長だった父はわしの目の前で殺された。体に何発も銃弾を撃ち込まれてな。後継ぎのわしも殺されるところじゃったが、母親に庇われてけがをしただけですんだ。庭に真っ白な雪が降り積もって、血だらけでそこへ倒れた父も、母も、すぐに雪におおわれてしもうて、場違いにも綺麗じゃと思ったよ。この髪ももともとは黒かったんじゃが、一夜で真っ白になってしもうた」
当時のことを思い出しているのか、ゲゲ郎はそっと目を閉じる。まるで遠い昔を懐かしんでいるかのようだった。水木は手酌で自分の盃に酒を注ぎ、一気にあおった。
雪の中、息絶えて冷たくなっていく母親の腕に抱かれ、暗い空を見上げていのだろう。髪が白くなるほどの恐怖、悲しみ、絶望。それはいかほどのものだったのか。ヤクザの世界なんて映画や小説の中の話でしかなく、彼の生きのびた修羅場を想像することもできない。
「組は解体して、身寄りのないわしは父親の親父……まあ、義理の祖父のような男に引き取られた。この時貞翁というのが曲者でのう。教えこまれたのは金を稼ぐことと、女の抱き方くらいじゃったな」
ゲゲ郎は薄く笑って、話を続けた。
「教えられたことができんと、ひどく折檻された。あくどいやり方で金を稼ぐのが嫌だと言ったら、しこたま棒で殴られてのう。おかげで今でも左目は少し見えにくい」
「だから髪を伸ばしてるのか」
「それもある。あとは、こんなおぞましい世界はもう見たくない。半分隠すくらいでちょうどいいと思ったからじゃ」
水木は思わず自分の左目に触れた。奇しくも、水木もゲゲ郎も同じ左目に傷を負っているのだ。
「いつ死んでもいいと捨て鉢になっておった。そんなわしを救ってくれたのは妻じゃった」
妻、という言葉に耳を疑った。この男、妻帯者のくせに女と遊び歩き、自分を愛人にしたのか。咎めるような視線を感じたのか、男は真面目な顔で言った。
「妻はもう亡くなった。交通事故じゃった」
……すまん」
水木が謝ると、男は首を振った。
「おぬしのせいではない。――――妻は愛にあふれた女でな。家同士で決まった許嫁ではあったが、わしも妻も互いに惚れあっておったよ。わしは彼女にたくさんのことを教えてもらった。誰かを愛しいと思うたのも、愛されるのも初めてじゃった。幸せとはこういうことなのじゃと、初めて知った」
本当に妻のことを愛していたのだろう。彼女のことを語る男の目は穏やかで、優しい光に満ちていた。だが、その妻も亡くなったと言っていたではないか。彼はまた、大事な人を亡くしたのだ。水木は胸が締め付けられるような気持ちになった。
「妻が亡くなった時、わしはもう生きる気力を失くしてしもうての。今はもう、倅のためだけに生きておる」
そこまで言って、ゲゲ郎はようやく水木の方を見た。
「たいしておもしろくもない話ですまんのう」
何と答えてよいか分からず、水木は黙っていた。ゲゲ郎は苦笑いして続けた。
「妻にもよう叱られた。『金で人の心を動かそうとするのは大きな間違い』『私はそんな安い女じゃない』『ものは大切に使えば長く使える。捨てるなんてもったいない』とな」
妙に聞き覚えがある。しばらくしてから、水木はそれが自分の言ったこととよく似ていると気が付いた。
「わしを叱ったのは、妻以外ではおぬしが初めてだったかもしれん」
ぽた、と着物の上に水滴が落ちた。酒でもこぼしたのかと思ったら、男が大粒の涙を流していた。丸い目からぼろぼろ涙をこぼすゲゲ郎を見て、水木は驚いてしまった。もしかして泣き上戸なのかもしれない。
「ずっと妻のことは思い出さないようにしておった。思い出したら、悲しくてつらくて、もう一歩も歩けなくなってしまうような心地がしてのう。……じゃが、おぬしがわしを叱ってくれた時、妻がまだ生きておった幸せな頃のことを思い出した。このままではいかんと、背を押してもらえた気がした」
……そんな大げさなことじゃない」
そう返すのが精一杯だった。だが、男はひどく真剣な様子で続けた。
「だから、今はおぬしにそばにいてほしい。何だってする。金ならいくらでも出す。困りごとがあるなら手を貸す。だから、わしから離れるなどと言わんでくれ」
「っ……!」
そんな言い方はずるい。水木が何も言えないのをいいことに、男はなおも言いつのる。
「頼む。この通りじゃ」
男は頭を下げた。
彼は――――寂しい男なのだろう。大事な人たちをなくして、その寂しさを埋めようと女遊びを繰り返し、それでも埋まらなくて。彼の妻に似た言葉をかけ、寂しさを紛らわせてくれる人間をそばに置いていたいのだろう。ゲゲ郎は水木のことを愛しているわけではなく、水木を通して彼の妻を見ているだけだ。
それを理解しながらも、差し出される手を取らずにはいられない自分は、どうかしている。こうして寂しい、寂しいと泣いている男を放って出ていくことは、どうしてもできないと思った。
「分かったよ」
水木は頷いた。ゲゲ郎は顔を上げ、子どものような笑顔を浮かべた。
「本当か!」
「ああ」
ゲゲ郎は水木を抱き寄せ、広い胸の中に閉じ込めた。水木は大人しくされるがままになっていた。
「ああ、嬉しいのう」
男は感極まったように呟いた。その声があんまりにも幸せそうで、もう何も言えなくなってしまった。


その夜、ゲゲ郎は水木を抱きしめたまま眠った。セックスなしで、本当にただ抱きしめるだけで一緒に寝るのは初めてだった。彼は時折、水木がそこにいることを確かめるように肌に触れてきた。温かい肌と、規則正しい心臓の音に安堵したように表情を緩める男を、どうしても見捨てられそうになかった。