薄暮のゴンガガ村の空気は、ミッドガルの喧騒とは比べものにならないほど澄んでいた。石畳を踏みしめ、丸いレンガ造りの家の前で立ち止まったレノは、隣にいる女性の横顔に目を奪われていた。
長く伸びた髪に、見慣れない淡い色の服。その姿は、まるで別人のように落ち着いて見える――それでも、紛れもなく「シスネ」だった。だが、胸の奥に引っかかる違和感は拭えない。
「……ここ、おまえの家?」
無意識に漏れた問いに、シスネは振り返らずに答えた。
「ええ。二ヶ月前から、ここで暮らしてるの」
穏やかで、どこかやわらかな口調。黒いスーツに身を包んでいた頃の緊張感は、そこになかった。その変化が、レノには妙に引っかかった。
(……今、なんて言った? 二ヶ月?)
頭の中に、今朝の記憶が蘇る。神羅ビルの廊下。すれ違いざまに会話を交わしたシスネ。
それが二ヶ月前? そんなわけがない。
「……なあ、おまえ、今いくつだ?」
唐突すぎる質問だと自覚しながらも、確かめずにはいられなかった。
「……二十二」
返ってきた数字に、呼吸が止まる。レノと同い年。
――違う。シスネは、六つ年下のはずだ。まだ十代の半ばで、危なっかしくて、それでいて妙に芯の通った――そんな少女だった。
その記憶と、今、目の前にいるこの落ち着いた女性とが、どうしても重ならない。
「おかしいだろ……。どうなってんだよ、これ」
吐き出すように言葉をこぼすと、シスネはようやくこちらに目を向けた。
「なあ、シスネ。今朝、ミッドガルで会ったばかりなんだ。おまえは十六で、タークスの制服着て、ザックスの監視任務に行っただろ? ……あれは、幻だってのか?」
問いかけに、シスネはわずかに視線をそらし、それから静かに答えた。
「……わかってる。あなたが混乱するのも当然よ。でも、私にも全部がわかるわけじゃないの。ただ……ここに来て、二ヶ月が経った。それだけは、確か」
言葉の端々に嘘はないと感じるのに、釈然としない。レノは思考の渦を追い払うように息を吐き、冗談めかして言葉を重ねた。
「……村の人間ってわけでもないのに、ゴンガガって……どういう風の吹き回しだよ。しかも、おまえが“田舎暮らし”なんてな」
「……色々あってね。詳しくは、中で話すわ」
扉の鍵を外す手つきが慣れていて、それがまたレノの胸をざらつかせた。
中は思ったよりも広く、どこか温かみのある空間だった。漆喰の壁に掛けられたリースやタペストリー、素朴な木製家具をランタンの灯りが優しく照らしている。所々に飾られた花瓶には、鮮やかな花が生けられていた。
キッチンの棚には瓶や調味料の壺が整然と並び、干されたハーブの香りが空間に溶け込んでいる。こんな“日常”の気配がシスネの周囲にあることが、レノには信じられなかった。
一方で、壁際には大型手裏剣や革張りのサンドバッグ。女の暮らしには不釣り合いなそれらが、かろうじて彼女の素性を思い出させた。
「……なんか、似合わねぇな」
つい、口をついて出た言葉に、シスネが振り返る。
「何が?」
「全部だよ。青年団? おまえが村の連中を指揮して、田舎でのんびり暮らしてて……」
言いかけて、レノは口を閉じた。そこに“似合わない”と思いたいのは、自分自身かもしれないと気付いたからだ。
「でも、今はそうしてるの。魔晄炉の事故のあと、村の周りには危険な魔物が増えてしまって……少しでも誰かの役に立ちたかったの」
「魔晄炉の事故……?」
思わず漏れた言葉に、シスネが軽く目を見開いた。
「……そう。三年前に、ゴンガガの魔晄炉がメルトダウンしたの。神羅の管理不備で」
「……初耳だぞ、と」
シスネの横顔が僅かに曇る。レノは改めて問いかけた。
「俺の三年前にそんな事故はない。……まさか未来の出来事だってのか?」
「……ええ。多分、あなたにとっての三年後」
否定していたはずのあり得ない想像を、はっきりと肯定されて、レノは言葉を失った。
「森での巡回中、遠くで青い光を見たの。そこへ向かったら……あなたを見つけた」
「光……?」
シスネの言葉に、レノは眉をひそめた。
「あの光を、私は過去に任務で見たことがある。恐らくあなたは、ポータルに巻き込まれたのよ」
「ポータル? なんだ、それ」
「瞬間移動の魔法。昔、宝条博士が開発していたものよ。確か、価値なしと判断されて、中止されたはずだった。まさか、時空まで超える力があったなんて……私も、信じがたいけど」
レノは、倉庫で回収した青黒いマテリアを思い出す。内部資料には、中身は伏せられたまま、『確保優先』とだけ記された異質な任務だった。
「……あんとき回収したマテリアか」
「回収……? そのマテリア、今どこにあるの?」
問いかけに、レノの表情が一瞬で強張る。ポケットを探るが、手に触れたのは使えない端末だけだった。
「……クソ。多分、森の中だ。ここに飛ばされた時に、落としたかもしれねぇ」
部屋の中に、静寂が落ちた。マテリアの持つ力が真実なら、それが再び作動すればどうなるかはわからない。だが、少なくとも――今ここには存在しない。
「……今からじゃ無理ね。夜の森は危険よ。魔物も出るし、地形も複雑。無理に探して、怪我でもしたら困るわ」
シスネの冷静な判断に、レノは渋々頷く。
「……明日、明るくなってから探しに行く。そんときゃ、案内頼んでもいいか?」
レノが苦笑混じりに言うと、シスネは穏やかに頷いた。
「ええ、もちろん」
微笑みがほんの一瞬、光を受けて優しく揺れる。その表情を、レノは少しだけ長く見つめてしまった。
「……おまえ、雰囲気変わったな」
「そう?」
綺麗になった――頭に浮かんだ一言を、喉の奥にしまい込む。軽口で茶化すには、あまりに本音に近すぎた。
「座って。お茶でも淹れるわ」
そう言ってキッチンに向かう彼女の背中を、レノは目で追う。ケトルに手を伸ばし、マグカップを並べ、棚から茶葉の瓶を選ぶ一連の動作が、酷く自然だった。こんな風にキッチンに立つシスネを見るのは、当然ながら初めてだった。
こうしていると、とてもタークスには見えない――その考えがふと浮かんだ時、レノの胸に鈍い違和感が広がっていった。
この部屋には、神羅の影がどこにもない。黒いスーツも、社章も、通信端末すら見当たらない。任務の空気も、威圧的な沈黙もどこにもなかった。
彼女は今、神羅とはまったく無縁の人間として、ここで暮らしてる。
それが何故だか、息苦しかった。
「……タークスって、そう簡単に辞められるもんじゃねぇだろ。おまえ、辞めたのか?」
カップを手にしたシスネの指が、一瞬だけ止まった。
「……殉職、ってことになってるの。だから正式には、私もう“いない”ことになってる」
意味を理解するのに、数秒の沈黙が必要だった。
――冗談じゃない。レノの胸の奥で、ぞくりと冷たいものがうごめいた。やっとのことで、声を絞り出す。
「……じゃあ、俺は? 今の“俺”は……何してる」
シスネはカップに湯を注ぎながら、少しだけ表情を和らげた。
「ツォンやルードと一緒に、タークスを続けてるわ。変わらず、現場に出てるはずよ」
「……“はず”?」
「辞めてから……あなたには会ってないの。ずっと」
微笑みの奥に、ほんの少しだけ寂しさが滲んだ気がした。言葉を返せないまま、レノはその表情をじっと見つめる。
「じゃあ……どうして、おまえはゴンガガなんかにいる?」
何よりも、ずっと引っかかっていた疑問だった。レノの問いに、シスネは手元のカップを指先で撫でるようにしながら、静かに答えた。
「……ここは、ザックスの故郷なの」
その名を聞いた瞬間、レノの胸に何かが刺さった。
「彼に頼まれたことがあるの。そのために、私はここに来た」
言葉は静かだったが、どこか芯の強さを感じた。レノの視線を受け止めながら、シスネはゆっくりと続ける。
「最初は復興を手伝ってたの。……でも、色々あって、そのまま住むことになった。……今は青年団長として、この村のみんなを守るのが私の役目」
その目には揺るぎない何かが宿っていた。過去を悔い、未来を諦め、それでも今を生きるための確かな意思のようなもの。
「……それも、あいつのためなのか」
「誰かのためなんて、そんな立派なものじゃない。でも……今の私にできるのは、これだけだから」
レノは黙った。その言葉の真意を深く追う勇気が、自分にはなかった。
――ザックスの影が、こんなにも濃いのか。
十六歳のあいつは、ザックスと話している時、ほんの少しだけ表情が違って見えた。それがなんとなく嫌で、レノは気づかないふりをしていた。でも今、それが目の前にある。
「……あいつ、やっぱり特別だったんだな」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせるようだった。けれど、シスネはそれには答えなかった。ただ、わずかに視線を落とし、沈黙する。レノはそれを見て、ますます確信してしまう。
ザックスの頼みで、ここに残ってる。村のため? 青年団? 贖罪? それらは全部後付けで、本当は――
レノは自分の胸のうちに、思いもよらない重たい感情が湧き上がるのを感じた。
「……帰る方法は、きっと見つかるわ」
シスネの声は、静けさに溶けるように優しかった。その響きに導かれるように、レノはいつの間にか俯いていた顔を上げる。
「それまでは、うちにいて。いつまででもいい」
「……ありがとな」
それだけ返すのが、やっとだった。喉の奥で、言葉にならない何かが溶けて消える。
彼女は変わった。美しくなって、強くなって、誰かのために生きる人になっていた。
そして自分は、何者でもないまま――時間の向こう側に、取り残された男だった。
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