ミッドガル、神羅ビル。まだ夜の匂いを引きずる早朝のエレベーターホールには、人影もまばらだった。硬質な床を叩く革靴の音だけが、静けさに小さく響く。
レノは手持ち無沙汰にポケットへ手を突っ込み、足を止める。ふと目に入ったのは、同じく出動前のタークスの少女だった。横顔はまだ幼さを残していて、それでも背筋だけは誰よりも凛としていた。
「よう、今日も“ザックスくん”の見張りか?」
軽く片手を上げて声をかけると、彼女はわずかに振り返り、歩を止めた。
「……仕事だから」
短く、しかし曇りのない声。それ以上の感情は表に出さない。彼女のいつものやり方だった。
「へぇ、ずいぶんと熱心だこと。……俺なんか最近、ろくな任務回ってこねぇってのに」
「あなたがサボるからでしょ」
レノは口元を引きつらせて笑い、肩をすくめてみせる。その芝居がかった仕草の裏に、言葉にできない小さな苛立ちが滲んでいた。
「ま、今日は郊外の倉庫でマテリアの回収任務だとよ。地味な上に、どうせガラクタ漁りさ」
その場しのぎの愚痴。けれど、彼女の反応が思った以上に薄くて、レノはつい続けた。
「おまえはいいよな。オトモダチと楽しい現場だろ?」
シスネの睫毛がわずかに揺れる。ほんの一瞬、何かを言いかけたようにも見えたけれど結局、口を閉ざしたまま、沈黙が落ちる。
レノはその表情から目を逸らすように、天井を仰いだ。冗談のつもりだった。だけど、言葉の端々に混ざる棘は、自分でも無視できなかった。
「……気に入らないの?」
低く静かな問いだった。
「別に? 誰とつるもうが、おまえの自由だろ」
レノは肩をすくめた。つとめて軽く言ったが、心の奥が波立つようだった。
神羅の人間らしからぬ無垢さを持つ彼女が、ザックスに心を許していることが、何故こんなにも気になるのか、自分でもうまく説明できなかった。
「ふうん」
シスネは視線を外し、廊下の先を見つめる。その仕草は冷静に見えて、どこか触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。少し迷ってから、レノは手を振るように背を向けた。
「ま、行ってくるわ。おまえも気ぃつけろよ」
「……あなたも」
微かに揺れた声が、背後から追いかけてくる。その響きが何故か、いつもより少しだけ遠く感じられた。レノは振り返らなかった。振り返れば、何かが言葉になる気がして、それが面倒だった。
静まり返った廊下を抜け、無人のロビーへと足を運ぶ。自動扉が静かに開き、朝焼けの光がビルの庇を越えて足元を照らした。レノはポケットに手を突っ込んだまま、小さく息を吐く。
(ま、どうせいつもの回収任務だろ)
神羅の化学部門がかつて開発し、試作の段階で中止となったマテリア。正式名称すら不明の代物が、何故か闇市場に出回っているという。任務はそれを回収するだけ――のはずだった。
日が傾きかけた頃、レノはミッドガル郊外の倉庫街にいた。路地裏で情報をつかんだ売人は、拍子抜けするほど脆かった。裏通りの壁際で背後から電磁ロッドを押し当てると、わずか数秒で白状した。
「ひっ、ひぃっ……っ! お、俺は持ってねえ! でも、隠し場所なら……倉庫の25番! 西の端の……頼む、見逃してくれ……!」
「お、話が早ぇな。お利口さんだぞ、と」
レノはにやりと笑い、男を気絶させると、その足で指定された倉庫へと向かった。
薄暗い倉庫の中。打ち捨てられた資材や工具の山をかき分けると、ひときわ異質な銀色のケースが目に留まる。慎重に蓋を開けると、中からほのかに発光する小さな球体が転がり出た。
「……これか?」
拾い上げたマテリアは、青と黒が混ざるような、どこか不安定な色合いをしていた。中心に灯る光が、まるで生き物のように脈打っている。
瞬間、マテリアがひときわ強く発光した。反射的にレノはそれを手放しかけるが、遅かった。空気が歪む。音が消える。目の前の景色が、波打つように揺れた。
「……っ、なんだ……」
青白い光が視界を覆う。重力の方向が失われ、全身をひき裂かれるような浮遊感が襲った。足元が抜け落ち、思考も感覚も何もかもが引き剥がされていく。
そして次の瞬間――
土の匂いがした。
濡れた葉の感触が、頬を撫でる。レノはゆっくりと目を開けた。そこは、森の中だった。見上げれば、木々の隙間から差し込む淡い陽光。聞き慣れた都市の騒音は一切なく、鳥の声と風の音だけが静かに耳を満たす。
「……は?」
見渡す限り、深い緑に囲まれていた。木々は高く茂り、地面は湿った落ち葉と苔に覆われている。空気には土の匂いが混じり、どこか懐かしさすら感じさせた。
レノはゆっくりと立ち上がり、あたりを見回す。倒木の根元に、ピンク色の傘を広げたキノコが群生しているのが目に留まった。
「……ゴンガダケ、か?」
自然と口をついて出た言葉に、自身が眉をひそめる。ゴンガダケ――ゴンガガ地方の湿地にしか自生しない、希少な茸だ。訓練や任務で数度訪れた土地ではあったが、こんなにも鬱蒼とした森の奥まで足を踏み入れた記憶はない。だが、確かにこの風景は、あの地域特有の植生に間違いなかった。
ポケットから通信端末を取り出し、電源を入れる。だが、画面は沈黙したまま。圏外の表示すら出ない。
「……おいおい、マジかよ」
何度かボタンを押し直してみるも、結果は変わらない。端末は完全に沈黙し、周囲には電波どころか人工の気配すらなかった。
拉致ならば痕跡があるはずだ。けれど、自身の身体には異常はなく、時間経過の感覚もない。ただ一瞬、マテリアが発光した――それだけだった。
その光のあと、気がつけばここにいた。まるで、世界そのものが入れ替わったように。
「……クソ、これが“中止されたマテリア”ってやつかよ」
口の端を歪め、レノはもう一度、辺りを見回した。鳥の声、風の音、濃密な緑の匂い。どれも現実離れしているほど静かで、異様に鮮やかだった。レノは額の汗を拭うと、静かに息を吐き、小さく呟く。
「……ま、いいや。とりあえず、どっか動かねえと始まらねぇし」
苔むした地面を踏みしめながら、レノは慎重に森を進んでいった。ひと気のない森の奥、風に揺れる枝葉の音だけが耳に残る。
ふと、草を踏む不器用な足音が聞こえた。リズムの悪い動きが数人、いやそれ以上か。レノは足を止め、音のした方向に目を向けた。腰のロッドに手をかけ、身を低く構える。すると、木々の隙間から数人の若者が姿を現した。いずれも手には武器――簡素な槍や弓、ナイフ――を持っていた。明らかに訓練されていない構えだが、緊張と敵意の入り混じった気配は本物だった。
「……チッ。歓迎されてねぇな」
周囲を囲まれたことを確認すると、レノは片手を挙げてゆっくりと立ち上がる。敵意を見せるつもりはない。それより、ここがどこなのか、どうなっているのかを――
そのとき、奥からゆっくりと一人の女性が現れた。赤みを帯びた長い髪。肩に小さな革の防具。淡いピンクと藍を基調とした装い。かつての黒いスーツ姿とはまるで違うその姿に、一瞬、見間違えたかと思った。だが、目が合った瞬間、確信に変わる。
「……シスネ?」
レノが呟くと、彼女は軽く目を見開き、すぐに落ち着いた声音で言った。
「武器を下ろして。――大丈夫。彼は、知り合いよ」
その一言で、周囲の空気が変わった。若者たちは視線を交わしながらも、やがて順に手を下ろしていく。シスネは一歩、また一歩と近づいてくる。表情は読めない。でも、その歩調には迷いがなかった。
レノはその姿を見つめながら、胸の奥に妙な感覚を抱いていた。それは安堵だけじゃない。どこか――説明のつかない、ずれ。
(……あいつ、いつの間に……あんな顔、するようになったんだ)
そんな疑問だけが、胸の中で静かに残った。シスネは目の前で足を止めた。長く伸びた赤い髪が風に揺れる。レノはゆっくりと目を細める。
「……まさか、おまえが出てくるとはな。ここで、そんな格好でよ」
シスネはすぐには答えなかった。けれど、どこか遠いものを見つめるような目で、静かに言う。
「あなたこそ……どうして、ここに?」
その声には、驚きよりも、ためらいにも似た戸惑いが滲んでいた。
(……なんだ、この感じ)
レノは一歩引いた視線で、目の前のシスネを見つめ直す。雰囲気が違う。柔らかくなった物腰、少し落ち着いた声――
それに、何より。
(今朝、神羅ビルで会ったばかりだ。あいつは、今日もザックスの見張りだって言ってた)
そう、ほんの数時間前。あの真っ直ぐな視線、無駄のない動き、冷静で生意気な口調。それが今、ここにいるこの女と同一人物だなんて、すぐには信じがたかった。
まるで、“時”が抜け落ちている。
「さあな。気がついたら、森の中で寝てたんだ。あんたらの警備が優秀すぎて、びっくりしたぞ、と」
冗談めかして言ったが、自分でもわかる。声が乾いていた。シスネはふっと目を伏せ、小さく笑みを浮かべた。けれどその微笑みも、どこか寂しげで――レノの知る彼女にはなかったものだった。
「……ここは危ないから、詳しい話は後にして。ついてきて」
そう言って背を向ける。その歩みに迷いはなかった。
(おい、ちょっと待て。おまえは――)
レノは言葉を飲み込んだ。今朝ミッドガルで見た少女と、目の前のこの女の間に流れる、“説明のつかない時間”。それが何かを、まだ理解できていなかった。ただ、確かに感じていた。
レノは小さく舌打ちをし、森の奥へ歩いていく彼女の背中を追った。その輪郭は、さっきまでの世界から――ほんの僅かに、滲んで見えていた。
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