ojinuko
2025-06-22 00:55:04
2872文字
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2周年記念小話

FF16 2周年おめでとうございます!
彼らが末永く愛されますように…

 雨は嫌いじゃない。
 濡れるのは後が面倒だが、雨粒が傘を打つ音を聞きながらそぞろ歩くのは好きだ。特に梅雨の時期には、初夏に芽吹いたばかりの新緑が強く香る。アスファルトに土、それに植物もそれぞれに違う雨の匂いを纏って景色が変わる。
 なぜか雨の景色は気分が落ち着くものだ。何かをしなければと気が急くこともない。雨のヴェールが現実の輪郭を覆い隠してくれるからだろうか。水溜まりに低い雲が映るのも雨の日にしか見られない風景だし、あたりに芽吹く雑草もきらきらと雨粒のアクセサリーを飾ってどこか誇らしげにその葉を撓らせていた。
 クライヴは差した傘を少し傾け、表面に溜まった水滴を露先から逃がした。傾けた傘の下から覗くように空を見遣るが、まだ雨は止みそうにない。
 今日はジョシュアが午前中用事で出掛けると言うので、昼下りの喫茶店で待ち合わせをした。
『シド』という名の、まるで隠れ家のようなこじんまりとした喫茶店。まだ約束の時間には少し早いが、店はもうすぐそこだった。一緒に住んでいて外で待ち合わせをすることなんてないから、無意識に浮かれていたのかもしれない。
 飛沫が飛ばないよう気を付けて傘を畳み、軒先の傘立てに入れた。大きな壺のような焼き物の傘立てには自分のものの他には埃をかぶったビニール傘一本だけ。こんな雨の日には皆出かけるのも億劫なのだろうか。いつもならばこの時間、そんなに空いているということはないのだけれど。ドアに嵌められた色硝子から少し中を窺って、燻した金属の把手を握る。それは濡れ手にひんやりして気持ちよかった。
 カラン、と外の雨をよそにドアベルが乾いた音を鳴らす。カトラリーを磨いていた初老の渋いマスターが顔を上げ、いらっしゃい、と片頬を上げて笑った。
 軽く会釈を返して、クライヴは気に入っている大きな窓際のソファ席に陣取った。
 今の家へ越してきた頃、散歩の途中に偶然見つけて入ったこの店を一度で気に入った。静かで落ち着いた雰囲気に、美味いコーヒー。近くにこんな店があるのは幸運だった。以来、たびたび通っている。
 駅とは反対側で住宅街の外れにひっそり営業するこの店は、駅前の店のように混雑することはない。それでもコアなファンはそれなりにいるようで、大抵いつ来ても数組の客は入っているから店内に自分だけというのは珍しい。
 ロマンスグレーの髪をオールバックに撫でつけ、短い髭を生やしたマスターがお冷を持ってくる。何度めかに顔を出した時、今と同じように客が自分だけだった日があった。その時色々と話をして、なかなか面白い御仁だと思った。
 彼のポリシーとして、昔からの喫茶店によくいるような『常連さん』は作らないのだという。通りすがりの人が入りにくくなるような雰囲気にはしたくないのだと、彼は火のない煙草を咥えニヒルに笑った。だからなのか、こうして他の客人がいない時にだけ他愛のない言葉を交わす。
「こんな雨の日にまでありがとな、今日はどうする?」
「アメリカンコーヒーと、後で弟が来るからその時にミックスサンドを」
「今日は一人じゃないのか、珍しいな。弟がいるのか」
 話をする機会はそう多くなくとも、店に来る客のことはしっかり覚えてくれている。そういうところが、まるで然るべき場所へ帰ったような居心地の良さを作るのかもしれない。
 手渡されたおしぼりがちょっと熱すぎて、思わずお手玉みたいに手の中で弾ませた。熱すぎたか、と片眉を上げて笑う悪戯な表情もこんな機会にしか見られない。
「ああ、五つ下のな。俺には出来過ぎた弟だ」
「ほう、それは楽しみだな。アメリカンコーヒーと後でミックスサンド、だな」
 お冷を乗せていたシルバートレイをくるくるっと器用に回し、彼はカウンターの向こうへ戻っていった。
 お冷を一口口に含み、大きな窓の外に視線を移す。店の雰囲気にぴったりなレンガ調のささやかな花壇に、紫の色鮮やかな紫陽花が咲き誇っていた。こんもりと丸いそれが、幾つもまるで手毬のように雨の景色へ彩を添えた。滴る雨粒を返し凛と濃い紫の色を放つその花は、どこかマスターに似ていた。
 お気に入りの場所でただぼんやり過ごすこの時間は何物にも代えがたい。頬杖をついて窓を伝う雫の行方を目で追い、雨宿りをする小さな羽虫を戯れに観察してはなんとなく頬が緩む。静かな店内にしゅんしゅんと湯の沸く音がかすかに響いていた。
 そうするうち、柔らかな時の流れに乗せてコーヒーの深く香ばしい香りがクライヴのもとへ漂った。香りに誘われカウンターへ目を遣ると、銀のコーヒーケトルを傾けるマスターと目が合った。片頬を歪ませ器用にウインクをしたその得意げな表情に、思わず笑ってしまった。
 ジョシュアからなにか連絡が来るかとテーブルの上へ置いたスマートフォン。ふと気づけば知らぬうちに小さな通知が表示されていた。
 もうすぐ着くよ、と短いメッセージ。
 控えめに伸びをして、また窓の外へ視線を移す。まだ外の雨は止みそうにない。見慣れた青い傘を差したジョシュアがもうすぐそこの角から見えるはず。今朝だって顔を合わせているのに、何故だかソワソワしている自分が可笑しかった。
 いつか、一緒にここへ来たいと思っていたのだ。
「ほい。アメリカン、お待たせ。なんだ、弟なんだろ? そんな恋人でも待つような顔して、面白いやつだな」
 無意識にそんな顔をしていたのだろうか。
 当たらずと雖も遠からず。この場で否定も肯定もしたくはなかった。だから、そこには触れないでおいた。
……大事な弟なんだ、一度ここへ連れて来たいと思っていた」
 置かれたカップからゆらりとコーヒーの芳香を纏った白い湯気が立ち昇る。 
 ほう、とマスターは顎に手を当て大きな窓に目を遣った。ちょうど今まさに、すぐそこの角を曲がる青い傘が見えた。ほらあれだ、と親指で窓の外を指し示す。それを見た彼は短い口笛のようなものを吹くと、またクライヴへ視線を戻した。
「ありがたいことだな、ぜひふたりでゆっくりしていってくれ」
「ああ、ありがとう」
 彼は口端を上げてニヒルに笑うと、ステップを踏むかのようにくるりと踵を返しシルバートレイを持ち替えた。背中越しに小さく手を振り、カウンターの向こう側へ帰ってゆく。またこれで彼はいつものマスターに戻る。話をするのは、他の客がいない時だけ。
 近づいてきた青い傘の露先がひょいと持ち上がり、ジョシュアの顔が覗く。店の中のクライヴに気付いたか、柔らかそうな頬がふわりと緩んだ。それに軽く手を上げて返し、たった今運ばれたばかりの熱いコーヒーに口をつける。
 こんなふうにジョシュアを見ることもそうある機会じゃない。ジョシュアは雨も似合うな、とクライヴは密かに独りごちた。
 ここのミックスサンドはうまいんだ、きっとジョシュアも気に入る。
 コーヒーの心地よい苦みと熱さがゆっくり腹へと落ちた。ほうっとひと息、コーヒー色の息を吐く。

――今日が、雨で良かった。