kanaco
2025-06-21 21:20:05
3884文字
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【九信】無花果

《九信》王九と信一がベタベタと仲良くしているだけの話。

信一がベッドの上で目を覚ますと、白い天井といつもよりも明るい蛍光灯が見えた。

人が多くて賑やかで雑多な雰囲気が特徴の九龍城砦とは全く違う、静かで整頓されたスッキリした部屋。もう何度か連れてこられたので今更に驚くことはないが、それでも場に馴れないと信一は思う。

王九と体を重ねる時は、ほとんどの場合このホテルに連れ込まれた。

ラブホテルとして使うには少しシャレていて、ベッドやシャワー室だけではなくソファやローデスクなども置いてあり、広さもそれなりだ。温かい飲み物を入れるためのポットや冷蔵庫、化粧室には女性のための小物もいくつか置かれている。実際のところ、それなりに金がかかりそうなホテルの様相をしていた。ただしここは王九の行きつけであり、そもそも王九と一緒に時間を過ごす時、信一が金を出したことはない。だから真相はずっと謎のままであった。

朝になったというのに、抱かれた夜からくる“気だるい違和感”は体にいくつか残ったままだ。特に腰は鈍みはいつだって億劫で舌打ちものだった。しかし数時間前まで全裸で散々絡み合っていた割には、自分の体にはベトつきや気持ち悪さはない。むしろサラリとしている、と信一は思う。

激しい行為の末に自分が意識を飛ばす時はいつもこうだ。体は隅々まで丁寧に拭かれていた。派手な服装を含め荒くれモノのような井手達の男は、その見た目に反して意外と“まめ”である。セフレのくせにまるで恋人のように自分を扱うのは、元来がそういう性格であるのか、それとも自分に対してだけなのか、それすらも謎だった。考えても意味はない。今後も真実を知ることはないだろう話だ。

シャワーはこの部屋を出る前に浴びることにしよう。時計をみると朝の9:30。どうせ昼過ぎまではここにいられるはずだった。信一はのっそりとベッドから起き上がると、脱ぎ捨てたはずなのにこれもまた几帳面に畳まれていた私服を着て、それからもう1人の男の姿を探す。

フカフカとしたローソファに座っている後ろ姿が見える。

信一はそっと背後に忍び寄って、そのまま男の首に腕をソロリと絡めて背中から抱きついた。スリっとうなじに頬をすり寄せようとしたが、男の豊かな長髪が邪魔をしてきてムッとする。仕方がないので首を王九の耳の方までのばして、囁くように「おはよ」と言った。王九は返事をしなかった。顔すら向けない。ただ左腕が一度だけ伸びてきて、信一の髪をあやすようにクシャリと撫でた。

深みのある芳しい香りが信一の鼻をくすぐる。机の上に砂糖すら入っていないブラックコーヒー。

そして王九の手には書物。耳に囁いた時、眼鏡をかけていることにも気がついた。朝の読書タイムに入ってしまった男は、自分をかまってくれないことを信一は知っていた。

だが、それゆえに信一の独断場でもある。

信一はいったん腕を解くとバスルームの隣にある洗面化粧台に向かった。それから目的のものを持ってくるともう一度ソファの後手、王九の背後に膝立ちする。それから相手が自分をとことん無視するのををいいことに、その長い髪を手に取って弄り始めた。

安っぽくて細い櫛でたっぷりある髪を無理やりかき集め、ゴムで一本にまとめる。次に頭部から髪を適当にゆるゆると引き出すと、ポニーテールにもう一本ゴムでくくり、そこから器用にくるくると髪を差し込んだりゆるめたりしながら最終的にお団子を作っていく。髪がじょうずにまとまると、信一はすっかり露わになった王九の襟足を見て満足したように笑った。

そしてすっきりと見えた首筋に先ほどしたかったように頬をすり合わせると唇を押しつけ、じゅ、と音を立てて力いっぱい吸い上げた。ずっと無反応だった王九がそこでやっと体をピクリとさせる。ニヤリと笑った信一が今、紅くついた痕から少し場所をずらしもう一度キスマークを落とした。

王九が溜息をつくのと連動して少し下がったうなじに食らいついていると「おい」と話しかけられる。

「何だよ」
「気が散る」
「お前が俺を放って好きに過ごしてんだから、俺だって好きに過ごしてる」
……………ハァ」
2回目の溜息をついた王九が突然、信一の背の襟首を掴んでソファーの手前に引きずり上げて、さらに落とした。当然に背もたれに体がつっかえて、顔面からソファーの座る場所へ落ちそうになり「うわぁあ!?」と悲鳴をあげながら信一が半分転げた。無体な仕打ちにキャンキャンと吠えようとした信一は、王九の顔を見て思わず「おお!」と感嘆した。

「お前の髪アップ、新鮮。眼鏡もアクセントでインテリっぽくて良い」
……………
「俺、それ好き」
嫌そうな顔、と一緒に実は満更でもなさそうな顔。

そう勝手に決めつけた信一が「ふふん」と自慢げに笑ってやると、王九が呆れたように息をつきながらもやはりその髪型を崩したりはしない。信一がすることに対し、この男が意外と反抗を示さないことに気がついたのはもう随分と昔だった。

「お前なんでこんなのできんだよ」
「パーフェクト理髪師・龍捲風の養い子をなめんじゃねぇよ。義父ができるんならアンタもできるよねーって小さい頃から女にたかられてきたのさ。ヘアアレンジ修行は通ってきてるってワケ」
いらねー特技だなと王九が鼻をフンと鳴らすと、今活かされてるじゃんと信一がせせら笑う。

「あんた良いよなぁ、髪下ろせば見えないからキスマーク残し放題」
「お前が残されるのを嫌がるんだろうが」
ワガママしか言わない若者を鬱陶しがるような顔をしながら、王九がやんわりと信一の髪を掴み、そのまま己の方に寄せていったので信一を抵抗しなかった。

唇が合わさったので、ならばと誘うように小さく唇を開ける。ペロリと赤い舌で王九の下唇を舐めてやれば遠慮なく口内に気持ちの良い熱が転がり込む。そうして差し込まれた舌と与えられる唾液から、ブラックコーヒーの苦味をほんのり感じた。甘党の信一からすればこの苦みは縁がないものだ。信一は“甘いもの”をいっとう好んだ。彼の周りは甘さで溢れかえっている。

だが王九から与えられるこの大人っぽい苦味は、密かに好奇心を刺激されてそれを知りたがる信一をいつも虜にするのだ。

どうして相容れないはずの男とこのような肉体関係を結んでいるのか、信一は自分でも明確には分かっていない。かつて自分が王九に纏わりついた時の言い分はこうだった。

「なぁ、甘くて渇くんだよ」
「俺に”俺の知らないこと”を教えて」

怪訝な顔をしながら、それでもどうして敵対勢力の自分を受けれたのか。当時の信一は20歳やっとなった頃だった。王九からすれば今以上に子供に見えたことだろう。そうしてお互いの意図を推し測るように、ゲームのように始まった関係だったのだ。相手が何を考え、何を得ようとしているのか。

周囲に秘密にしたままに逢瀬を重ねる中でその打算を見透かそうとしながら、相性が間違いなく良かった体を繋ぐ回数がズルズルと加算でいった。そのうえ時を刻んでいけば自分の身体は王九にすっかり馴染まされてしまい、奇妙な独占欲さえ心の奥底で静かに芽吹く始末だった。

俺とこいつは敵対同士。
絶対にそばにいない方が良い。
一緒にいる利点などあるはずがないのに。
兄貴や仲間の傍にいれば安全であるというのに。

だがそれは王九も同じこと。

キスが一度離れると、王九がポツリと言った。
「フィグ

キスをするとそれと一緒に“信一の香り”が鼻をくすぐるのだと王九は言った。一晩を過ごせば残り香のように仄かになっているが、たとえ薄くともそれは王九の嗅覚と記憶に強く刻まれているのだと。

信一は普段香水をつける時いつも花の香りを纏わせた。華やかで明るく若者らしい、可憐かつハンサムな甘さが自分を体現する香りだ。

しかし王九と2人きりで会う時だけ意図的に纏う香水を変えている。そしてこの部屋を出る時は、その香りをきれいさっぱりシャワーで洗い流してまた花の香りを纏うのだ。

王九のためだけに信一が纏う香り。それは熟したように甘ったるくそのうえ瑞々しさも醸すような、思わず手を伸ばしたくなる芳醇な果実の匂い。

ポツリと呟いた言葉を耳に拾い、信一が首を傾げた。
「なぁに?」
「フィグって言ったんだ。イチジク。禁断の果実ってか」
「何それ」
「アダムとイブって知らねぇか。知恵の果実ってやつだ」
「あぁ……、それリンゴじゃねぇの?」
「イチジクっていう説もある」
「ふぅん」
信一は静かに笑んだ。

いつも果物に囲まれる王九に合わせ、大人ぶった果物の甘さを選んでいたつもりだったが。なんだ、おあつらえ向きの香りだったんじゃないか。

「へぇ?それであんたはこうやって俺の味を知って、自分の”裸”を知るわけだ」
王九の眉がピクリと動いたのをみて、信一がますます笑みを深める。

自分に“苦味”を教えるこの男は、信一の“甘味”に何を知るのだろうか。

愉快だった。
この苦い大人が自分の子供っぽい甘さに惹かれている様子がたまらない。

洗練しようとする深いコーヒーの香りと、誘惑しようとする重いイチジクの香りが混ざり合う。

「なぁ、じゃあもっと食えよ。本でばっかで知恵つけてないでさ」
そう、禁じられた果実の信一は気を良くして言う。

「............お前は蛇か」
そうやっていつも俺をそそのかす。

王九がそうぼやくのを聞いて、信一はニンマリと笑ってその口を塞いだのだった。