ゲゲ郎の様子がおかしい。
全くもってどうかしてしまった。
入梅の時期らしからぬ晴天が続く風変わりな六月。
例に漏れず今日も暑さを予感させるような朝日が照りつけていた。
さて、洗濯物を片付けてからショッピングモールでもぶらつこうか。ゲゲ郎を誘って夕方からビアガーデンに繰り出してもいい。そんなことを考えるともなしにつらつらと思いながら歯を磨いていた時。
玄関のインターホンが来客を告げた。
はて、こんな早くから誰だろう。ネットで何か頼んだものはあっただろうかと勘案しつつ、急いで口を濯ぎインターホンのカメラを覗きこむ。するとそこには季節にそぐわない徳利の黒いセーターが映し出されていた。
おそらく背の高い男なのだろう、肩から下の部分しかこちらからは見えない。怪しく思いつつも一応声をかけた。
「
………どちら様です?」
すると意外な知り合いの声がマイクから響いてきたではないか。
「儂じゃ。」
「え、あ、ゲゲ郎?おまえその格好は
……いや、すぐに開けるから待っていてくれっ」
そう応え急ぎ玄関扉へと向かう。
開いた扉の先には果たして、むわりと湿った熱気と共によく知る男がそこに居た。いつもの青い着物ではなくいつぞや俺が買い与えた冬物のセーターとスラックスを身にまとっている。夏の日差しのせいか俯いたその目元に翳りが生まれ、表情が読み取れない。
「げ、ゲゲ郎
………?」
異様な空気を感じ恐る恐る声をかける。するとようやく男は目線をこちらへ向けた。
「
…………ッ!?」
野生の獣だ。直感でそう解った。
体中の毛穴がぶわりと開き、どっと汗が吹き出す。反射的にドアを引き玄関を閉めようとした。
しかしすんでのところで大きな白い手が中に侵入し扉を押さえる。
「
…………どうした、水木。なぜ閉じる。」
獣の鳴き声と共に僅かに開いたままの隙間から、獰猛な眼が縦に二つ並んでこちらを窺ってきた。
「お、お前!本当にゲゲ郎か!?」
「おかしな事を言う。そうじゃよ、ゲゲ郎じゃよ。お主のゲゲ郎じゃ。お主だけの、ゲゲ郎じゃ
………。」
ドアを押さえる手がスルスルと下に降りてきて、ノブを掴む俺の手を指先で優しく撫でた。
「ひっ!?」
蛇の舌で舐められたように冷たい感触に、驚いて取手から手を離してしまう。
その隙に玄関扉がゆっくりと開かれ、大きな獣が身を滑り込ませてきた。そのままガチャリと音をたて扉が閉まり、薄暗く狭い三和土で向かい合ったままどこにも逃げ場はない。
目を逸らしてはならない、と本能的にわかった。
ほんのいっときでも気を逸らせば、頭からバリバリと丸呑みにされてしまう。そう思うほど目の前の獣はその飢えた眼でじっとりとこちらを注視している。
脳が痺れるような緊張感の中、先に動いたのは男の方だった。
「みずき
………」
腹を空かせた大蛇が舌を伸ばすように、ソロリと白い指先がこちらへ向かってくる。
あと僅かで頬に届いてしまう。
「ち、茶を!!いれるから!!」
蛇の舌がびたりと止まった。
「あ、暑い中をそんな厚着で来たんだろ?何か飲まないか?ビールも冷えてるぞ!お、お前と飲もうと思って、めずらしい地ビールを取り寄せてあるんだっ、」
矢継ぎ早にそう述べて時間を稼ぐ。ベラベラと喋りながらこの窮地を脱するための算段を立てていた。
その間、男は何も言わずじっとこちらを見下ろしていたが、ややあってゆっくりと口を開いた。
「
………儂のために、水木が選んでくれたのか?」
「そ、そうだ。お前も喜ぶと思って、滅多に飲めない酒を注文したんだ
……っ!」
すると男は微かに頬を高揚させ、口端を吊り上げにんまりと笑う。
「そうか、そうか、儂のために、儂を悦ばせようとしてくれたのか
………。ほんにお主はいじらしい。その健気なところが堪らぬ
………。」
「げ、ゲゲ郎
……?」
「良いじゃろう、まだ日も高い。お天道様に隠れての逢瀬は趣に欠けるしの。ゆるりと酒でも飲んで、二人の夜を心待ちにしようではないか
………のう、水木?」
「え、あ、ああ!今日は休みだし一日中呑んだって誰にも邪魔はされないからな!なにかツマミでも作るよっ」
「ああ、ああ、それは良いのう。楽しみじゃ
………」
機嫌よくうっそりと笑う男はそう告げると、俺の隣をすり抜け勝手知ったるリビングへと消えていった。
その後ろ姿が見えなくなるや否や、俺は壁に背中をあずけホッと息をつく。まだ冷や汗が止まらず心臓が早鐘を打っていた。
なぜ急にゲゲ郎の様子がおかしくなったのか定かではないが、それもこの後ゆっくり聞き出せばいいだろう。
時間はたっぷりある。それにここは俺の家なのだし、いざとなればすぐ逃げられるよう玄関から近い場所で呑めばいい。
そう決意し、壁から体を起こすとゲゲ郎が待つリビングへと向かうことにした。
終
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