やまだ
2025-06-20 21:12:50
2119文字
Public アークナイツ
 

無題

葬博

 
 路地裏に積まれたドリンクケースの裏へ転がったコイン、あるいはアイスクリームの蓋のどろっと溶けたバニラに隠れた砂糖菓子、……あるいは焼失した花畑の隅にかろうじて形を残した焦げた花。
 コートと白衣と手袋の隙間から覗く異常に細い手首を目にした瞬間、フェデリコの脳裏を明滅したのはそういったものたちの姿だった。
……ドクター、あなたには自傷癖があるのでしょうか」
 フェデリコの手で包めば指が余るほどの手首だ。そこに、幾本も幾本もおびただしい傷痕が走っている。
 コーヒーカップを机上へ戻したドクターが、ああ、と笑ってその手をひらひらやる。
「あったらしい。幸い、今の私はその動機を理解できずにいるが」
 動機もだが、手首を切る暇もないのだろう、とフェデリコは考える。
 ここは彼の執務室ではなくプライベートルームのはずだったが、テーブルでは菓子と茶よりも謎のサンプルやメモの書き散らしのほうが広く場所を使っている。あまりにも絶妙なバランスで成り立っている机上世界をひと目見て、フェデリコは整頓を断念せざるを得なかった。
「ケルシーに訊いても話せる情報がないと言うんだ。だから君に答えてやれることがこれ以上は何もない」
「構いません。今のあなたが自分を傷つけていないのでしたら、それで十分です」
 刃物でつけたような傷ではなかった。でこぼこと盛り上がり、傷痕の幅も異なる。石やガラスで熱心に抉ったように見えた。
 手を伸ばし、そっと引き寄せる。古い傷の上を親指で繰り返し撫でるフェデリコを、ドクターは咎めない。
「心配してくれたのか、フェデリコ?」
「心配……そうですね、あなたの心身の健康状態は私の懸念事項の中でもかなり上位に位置しています」
 へえ、とドクターは笑った。相変わらず血色が悪く隈もある。それでも纏う空気は心地よい。ラテラーノの天使たちが共有する好意的な感覚を、もしフェデリコも体験できるとするなら、彼といるときの状態がそれに近いのだろうと思っている。
 フェデリコは共感能力の欠落した天使だが、それくらいの予測はできるのだ。
 そしてその心地よさがフェデリコをして口を滑らせる。
「この傷ができる以前にあなたと出会っていたかったです、ドクター。私はきっと自傷の原因からあなたを守ったでしょう」
「それは頼もしいな、フェデリコ」
 にこっとしたドクターの手がフェデリコの指のあいだから離れていく。ドクターはそのままフェデリコの前髪を指先で軽やかに払った。
 彼が幼子によくしてやる仕草だ。つまり彼はフェデリコを子ども扱いしている。
「ドクター、私は子どもではありません」
「知っているよ、かわいいフェデリコ」
 そうか、自分はかわいいのか、とフェデリコは考えた。フェデリコ・ジアロは自分の容姿にまったく興味がない。そこへ意識を向ける必要性を感じていない。
 ドクターの薄い手がゆっくりとフェデリコの頬を撫でる。少し目を眇めた微笑みは、朝日を受け光り輝く教皇庁を仰ぐラテラーノ人のようだが、ここはロドスの薄暗い室内だ。あれほどまばゆいものなどどこにもない。
「私は君と出会えたのが今でよかったと思っている」
「なぜでしょうか」
「もし過去に出会ってしまっていれば、私はその記憶も失うはめになっていたからさ」
 フェデリコは瞬きした。確かにそうだった。そこに思い至る前に短慮を口にしてしまった。
 もしも今ドクターにフェデリコと初対面のよそよそしさで相対されたら、と仮定してみる。それだけで、ただでさえ照明の抑えられた部屋にいるというのに眼前がさらに暗くなるようだった。
 黙りこんだフェデリコの顔を見て、ドクターはなぜかはっきり喜色を浮かべた。
 おいで、と腕を広げる人を慎重に抱き寄せる。抵抗なくフェデリコの胸に寄りかかるドクターが愉快そうに薄い肩を震わせた。
 その様子を見守るフェデリコは静かに瞬く。なぜこの人は、これほど楽しそうなのだろう。そしてなぜ自分は、彼が喜ぶ、たったそれだけのことで精神的な安定感を得られるのだろう。
 物陰から拾い上げたコイン、スプーンの上の砂糖菓子、あるいはあの日戦場で手折った花弁の焦げた花。あの花は可能な限り整えてこの人へ贈った。
 この人に持っていてほしいと、フェデリコがそう強く思ったからだ。
「かわいいかわいい私のフェデリコ」
「はい。ドクター」
「過去よりも未来の話をしようじゃないか。それなら私と君で共有できる。そうだろう?」
「ええ」
 フェデリコは頷いた。かつて焦げた花弁を撫でたように、指先でドクターの輪郭をなぞる。それを許されている。
「その通りですねドクター。では、これからの予定をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
 目を細め、ドクターはフェデリコの手のひらへ頬を預けた。
「もし君にここで服を脱ぎ、シャワーを浴びる気があれば、私はそれに全面的に協力するつもりでいる」
 フェデリコは瞬き、ドクターの頬を支える手の角度を修正し、そうします、と答えた。それから短く息継ぎをする。
「あなたの服を脱がす許可をいただけますか、ドクター?」