吾妻
2025-06-20 02:23:08
9118文字
Public アークナイツ
 

Good boy

テキ博♀。つきあってる。
不思議なアーツで犬になってしまったテキーラくんの話

 溜息をついたつもりだった。
 だけど、ひと気のない室内に響いたのは「ワフ……」という情けない獣の吐息だけだった。
 視線を落とせば、金色に輝くふさふさの毛に包まれた前足が見える。右手を持ち上げて裏返しにすれば、黒くて艶のある肉球が現れた。
 どう見ても犬の前足。こうして見ているぶんには、ただ可愛いだけの代物だ。
 問題なのは、その手がどう考えても俺自身の手だということで。

(ええと……何がどうなって……

 くるくると、掌を返す要領で右前足を動かしてみる。
 思った通りに動くし、床に置けば肉球越しにひんやりとした感覚が伝わってくる。やっぱりこれは俺の手のようだ。というか、左前足も勿論もふもふだし、どうやら体もそうらしい。二足で立ち上がるのも難しければ、人の言葉も話せない。
 これは、もしかして、もしかしなくても。

(犬に、なってる……!?)

 そんなバカな。悪い夢でもあるまいし。
 とりあえず、鏡か窓を求めてウロウロしてみたけど、いつもと身長が違うから全然うまくいかない。ひとしきり室内を歩き回っているうちに、頭頂部からサングラスが落ちてきて、床に転がった。
 レンズ部分を覗き込めば、一匹のゴールデンレトリバーと目が合う。
 実際に現実を目の当たりにしたら、動揺が一周回ってしまって、逆にストンと冷静になった。
 あー、なるほど。そうなんだ。やっぱり今俺って、犬になっちゃってるんだ? ……なんで?
 意味がわからない。そもそも俺はどうして執務室にいるんだっけ? まずはそこから考えてみる必要がありそうだ。

 確か今日は外勤任務に出て、作戦中に変なアーツを浴びて――一応医療部で診てもらったけど、特に異常は見つからなくて。
 しばらく経過観察を言い渡されたから、事の次第を上司に――つまりドクターに――説明しようとこの部屋に来たんだった。
 別件で本艦を離れていたドクターは、急いで戻ると言ってくれて、さっきまでは『体にはなんの異常もないのに申し訳ないな』とか、『でも、そんなに心配してくれるなんて、ちょっと嬉しいかも』なんて、呑気なことを考えていた気がする。
 ひとまずドクターが戻ってくるまで書類整理でもするかとソファに座ったら、急に猛烈な睡魔に襲われて――
 気づいたら、この有様だ。

 つまり、寝てる間に犬になったってことなのか?
 その場合、怪しいのはどう考えてもあの変なアーツだけど、もう一度医療部で診てもらったほうがいいんだろうか。いや、わざわざ出向いたところで、この状況をどうやって説明するんだよ。喋れないんじゃどうしようもないだろ。

 ……というかこれ、ちゃんと戻るんだろうか?

 それは、今この瞬間までわざと考えないようにしていた問題だ。
 元に戻れなかったら困る。本当に困る。
 この姿じゃ仕事にも日常生活にも支障が出るし、ドクターの護衛もままならない。それどころか、ドクターを抱きしめることも、キスすることさえできない。大問題すぎる。
 床に転がるサングラスには相変わらず犬が一匹映っている。
 情けない顔をして、途方に暮れている。
 こんな姿、ドクターには見られたくないな。ドクターに可愛いって言ってもらえるのは嫌いじゃないけど、好きな人にはできるだけかっこいいって思われたいし、いつだって頼り甲斐のある存在でありたい。
 勿論、どんな状況でも彼女に危険が及ぶなら全力を尽くして守る覚悟はある。それでも、この姿じゃ取れる手段があまりにも限られる。
 もう、本当にどうしよう。ぺったりと床に伏せたら、クゥンと弱々しい声が出た。

 そのとき、ふと。
 慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。
 体を起こすより先に耳がぴくりと持ち上がって、勝手に音の出所を探ろうとする。
 誰かが廊下を走っている。その音は、どんどん近づいてきて――
 聞き覚えのある軽い足音に、伏せていた体を起こす。いつもより自制心のない尻尾が揺れ出すのを止めることなんてできなかった。
 やがて足音はドアの目の前で一度止まって、
「エルネスト!」
 慌てた様子のドクターが、室内に飛び込んできた。
 業務時間内は基本的にコードネームで呼ぶのに、それすら忘れてしまっている。それだけ心配してくれたんだと思うと、喜びと同時に罪悪感が込み上げてくる。

「ワン!(ドクター!)」

 呼び掛けたつもりだったけど、やっぱり声の代わりに鳴き声が出た。パタパタと尻尾を振りつつ、ドアのそばに立ち尽くしているドクターの足元に駆け寄る。
……君は」
 従順な体が、考えるよりも先に〝おすわり〟をした。自分の尻尾が床をぴちぴちと叩く音を聞きながら、いつもよりずっと高いところにあるドクターの顔を見上げる。
 バイザーの奥の瞳は戸惑いに揺れていたけど、目と目が合った瞬間に確かに通じ合えた気がした。察しのいいドクターのことだから、きっと俺の身に何が起きたのかに気づいてくれるはずだ。
 ドクターは、視線を合わせるように屈み込んでくれた。顔が近づいたのが嬉しくて、さらに尻尾がパタパタと揺れる。
 ねぇ、ドクター。どうしたらいいと思う? やっぱりもう一度医療部に行って調べてもらったほうがいいかな?
 一生懸命語りかけているつもりでも、結局聞こえてくるのはきゅんきゅんと鼻を鳴らす音ばかりだ。
 ドクターが宥めるように頭を撫でてくれるのが心地よくて、目を細めた、その瞬間。

「君はどこの子かな? 迷子になってしまったの?」
……クゥン(えっ)」

 えっ、ちょっと待ってドクター。
 もしかして俺だって気づいてない?

「毛並みも綺麗だし、どこかで飼われてる子かな? でも首輪はないね。誰かがここに連れてきたとか?」
「ワン!(俺だってば、ドクター!)」
「ん? ここを撫でられるのは嫌だった?」
「ウー……(撫でてもらえるのは気持ちいいけど、そうじゃなくて)」

 本当に気づいてないみたいで、正直ちょっとショックだったけど、よくよく考えてみれば当然の反応だ。人間を動物に変えるアーツなんて、これまで一度も聞いたことがないし、実際に体験しなければ、その存在を信じたりしなかっただろう。
 ドクターなら気づいてくれるかも、なんて。淡い期待をしていたのは事実だけど、立場を入れ替えて考えてみたら、俺だって気づけたか怪しい。
 でも、だったらどうすればいいんだ? 言葉も通じないのに、どうやって俺の窮状を伝えればいいんだろう?
 目一杯考えを巡らせているつもりでも、ドクターの手が首筋を撫でてくれるのが気持ちよくて、つい体を擦り寄せてしまう。おかしいな、俺の体ってこんなに欲望に正直だったかな。

「おとなしい子だな。賢そうな目がエルネストによく似てる」
「!」

 耳がぴくりと跳ね上がるのがわかった。
 どんな状況に置かれていても、ドクターが呼んでくれる自分の名前を聞き逃すわけにはいかないから。
 それに、なんだか今、褒められたような気がするし。
 現金な尻尾が勢いよく揺れ出したのを見て、ドクターは「ははっ」と声を上げて笑った。

「私の言葉が分かるの? じゃあ、エルネストがどこに行ったか知っている?」
「クゥン……
 これは紛れもなくチャンスだ。うまくアピールして、俺の現状に気づいてもらわなければ。
 なにか……なにかないか? 言葉が伝わらなくても意思表示ができる方法が――
 思考を巡らせつつ周囲を見回していたら、床に転がっている〝あるもの〟が目に飛び込んできた。

(あれなら……!)

 きっとわかってくれるはず!
 素早くソファの下に駆け寄り、床に転がったままの〝それ〟を咥える。身を翻して再びドクターの前に戻り、咥えてきた〝それ〟を床に置いた。

「これは……

 戸惑い気味に声のトーンを落とすドクターに向かって、床に置いた〝それ〟を鼻先で押しやってやる。
 ほら、ドクター! 俺だよ! これがその証拠!

「エルネストのサングラス……?」

 ドクターは床に転がっているサングラスをゆっくりと拾い上げた。掌に乗せたそれをじっと見つめ、神妙な面持ちで押し黙る。
 俺は再びドクターの足元に腰を下ろす。ここにいるんだよ、ドクター。言葉にできない代わりに、眼差しに精一杯の主張を込めて、バイザーの向こう側にある彼女の瞳を見つめた。
 やがてドクターは、ふぅ、と深い吐息をついた。
 その眼差しが手元のサングラスから、ソファの上に転がっている携帯端末に向いた。俺の携帯端末、あんなところにあったのか。目が覚めたらこんな姿になっていたから、すっかり存在を失念していた。
 静かに立ち上がったドクターが、ソファへ歩み寄っていく。無造作に放り出されたままの端末を拾い上げ、そばにある応接セットのテーブルの上に置いた。

「端末も置いたままどこかへ行くなんて……トラブルに巻き込まれていなければいいが……
「ウー……

 やっぱりダメかー……。どうしようかな。
 気づいてもらえないのも辛いけど、ドクターが悲しそうな顔をしている方がもっと辛い。
 きっと、外出先から急いで帰ってきてくれたんだろうし、今も心配させてしまっている。
 辛いことも悲しいことも、たくさん抱えて生きているはずなのに、弱っているところを他人には見せたがらない。
 ドクターはそういう人だ。
 だからこそ、傍にいられるときくらいはドクターに悲しい顔をさせたくない。
 俺が彼女にしてあげられることは決して多くない。そんなことはわかっている。それでも、できる限り彼女の負担を減らせるように立ち回りたい。いつだって、そう心掛けているはずなのに。
 これじゃ、有能な部下が聞いて呆れるよ。

 ドクターがコートのポケットから自分の端末を取り出す。
 難しい顔をして、液晶画面を眺めている。特に操作しているわけでもないから、メールでも届いたんだろう。
 どうにかして打開策を考えなくちゃいけないのに、いい案が全く浮かばない。
 気づけば俺は、ドクターの足元に近づいて、彼女の体の横にぶら下がったままの、空いている方の手に鼻先を擦り寄せていた。
 その指先を、そっと舐める。
 お願いドクター。そんなに悲しそうな顔をしないでよ。
 細い指を、爪の形を、確かめるように何度も舌を這わせる。
 今の自分にはこれくらいしかできることがないから。

 しばらく指を舐めているうちに、ドクターは端末から顔を上げた。それから、俺を見下ろして、少しだけ苦味が混じった顔で笑った。

「慰めてくれるの?」

 ドクターの手が頭に乗せられる。
 髪の毛を梳くかのように優しく撫でてくれる。
 触れてもらえるのが嬉しくて、また尻尾が勝手に揺れてしまう。
 どうしようもないな。ドクターの前じゃ、自分を取り繕うのが難しい。
 人の姿をしていても自制が大変なのに、この姿じゃ余計に無理だ。

「艦内から出た記録はないし、最後の連絡からもそんなに経っていない――

 俺に向けた言葉じゃなく、独り言みたいだった。
 ぽつぽつと呟きながら、ドクターは端末を操作しつつソファに腰を下ろした。

「艦内を人力で探すのは難しいから、サーベイランスマシーンの位置情報を追ってもらって……

 あれ、思ったより大事になってきた?
 っていうか、サーベイランスマシーンってどこ行ったんだろ? 今の俺の足にはついてないし。そもそも服ってどうなってるんだ? 元に戻れたとして、裸だったらだいぶ困る……
 一人でぐるぐると考え込んでいたら、じっと向けられる視線を感じた。

(ドクター?)

 今この部屋にいるのは俺と彼女のふたりきり。もちろん、こっちを見ているのはドクターだった。いつのまにかマスクを外してしまっていて、遮るものが何もない綺麗な瞳がこっちを見ている。
 小首を傾げて、可能な限り怪訝そうな顔を作ってみたら、ドクターはポンポンと、ソファの表を叩いてみせた。彼女の隣。ひと一人分空いた場所を。
 あの仕草には覚えがある。隣においでという合図だ。
 いつもなら喜んで隣に座るところだけど――改めて自分の体を見下ろして、躊躇った。あくまで今の自分は一匹の犬だし。

「おいで」

 だけど、ドクターがあんまり優しい声で呼ぶから。
 次の瞬間には体が動いて、ソファの上に飛び乗っていた。
 ドクターの隣に腰を下ろせば、ドクターとほとんど視点の高さが変わらなくなる。
 状況は何一つ好転していないのに、素顔のドクターと向き合っていられるだけで、心細さが和らいでしまった。そして、さっきまでの動揺の反動か、とにかく甘えたくなってしまって。
 欲望に忠実な体が勝手に動いて、無意識のうちにドクターの口元をぺろりと舐めていた。
 二度、三度。唇の端に舌を這わせたら、ドクターはくすぐったそうに笑ったあとで、
「こら、ここは仕事場だよ」
 と、言った。
 確かにここは仕事場で、今は勤務時間中だけど、今の俺はただの犬なんだから、少しくらいは甘えてもいいんじゃないかな?
 そんな調子のいい思考に囚われていても、ドクターに嗜められたら無視なんてできなかった。
 結局俺はどこまで行ってもドクターの〝忠犬〟だから。言いつけをちゃんと守ってしまう。
 口元を舐めるのをやめて、大人しく座り直す。
 するとドクターは満足そうに微笑んで、もう一度俺の頭を優しく撫でた。

「聞き分けの良い子だな。そういうところもエルネストとよく似てる」

 どきりとして、尻尾がぱたんと跳ねる。
 気づいてもらえない寂しさはある。だけど、それより彼女の口から転がり落ちた自分の名前に興味が向いた。具体的に言えば、俺に対する彼女の評価が、とんでもなく気になった。
 ドクターは俺のことを、聞き分けの良い子だと思ってるんだ?
 耳を澄まして静聴のかまえを取れば、ドクターは俺の耳の下から首のあたりまでを優しく撫でながら、眩しいものを見るかのように目を細める。

「正直、もう少し我儘を言ったり、甘えてくれてもいい気はするけど……彼のそういう、こちらの気持ちを細やかに汲んでくれるところに、私はいつも救われているんだ」
「ワフ(ドクター)……

 俺は初めて、この不条理で意味不明な状況に感謝した。
 だって、ドクターが俺のことをどう思っているのかを第三者の立場で聞けるなんて、本来ならばあり得ないことだからだ。
 そんなふうに思ってくれてたなんて全然知らなかったよ。嬉しくて揺れ出した尻尾がパタパタとソファの肘掛けを叩く。

「君は、私を頼るのは不本意なのかな?」

 首から胸元のあたりを規則正しく撫でられているうちに、だんだん眠くなってきた。
 不本意というか、役に立ちたい気持ちのほうが強いというか。元々誰かを頼るのが得意なじゃないのもあるけど、ドクターからはもう返しきれないほどたくさんのものをもらっているからね。
 仕事でもプライベートでも、できる限りお返しをしたいんだよ。
 ……って、ドクターは誰に語りかけているんだろう?
 俺をまっすぐに見つめるドクターの瞳。何もかもを暴いてしまうような、綺麗なのに少しだけ恐ろしい眼差し。
 彼女に見透かせないことなんて、この大地にはひとつもないんじゃないか?
 俺の虚勢や脆さ、小狡さ。いつもは何とか隠している、醜い欲望や嫉妬まで。
 今のこの状況だって、もしかしたらとっくの昔に――

 思考をまとめようとしているのに、眠気はどんどん強まるばかりだ。
 やがて、視界がぼやけて、体がふらりと傾く。まっすぐに座っていられない。
 周囲の音も、なんだか徐々に遠退いているような……

「こっちにおいで」

 細い腕に引き寄せられるまま、自分のものなのに自分のものではないような犬の体を横倒しにした。
 頭の下には柔らかい感触。ソファの革じゃなくて、もっと柔らかな。もしかして、ドクターの太腿だったりする?
 膝枕なんて、元の姿でもあんまりしてもらったことないのに。

「このくらい、君が望めばいつだってしてあげるけど」

 そういってくれるのは嬉しいよ。だけど、やっぱり俺は、ドクターに何かをしてあげたい気持ちのほうが……って、やっぱり、何かおかしい――な。
 これじゃ、まるで――でも、もう眠くて――どこまでが現実で、どこからが夢なのか、全然わからな――……


            *


 見下ろした自分の膝には一匹のゴールデンレトリバーが横たわっている。
 穏やかな寝息に合わせて艶やかな金の毛並みが波打ち、とても美しい。
 起こさぬように首元から横腹のあたりまでを撫でると、ピクピクと犬の耳が小さく震えた。〝彼〟は滅多に無防備な寝姿を見せてくれないが、自制する余裕もないほど疲れている時などは、こんなふうにあどけない顔で眠り、無意識のうちに耳を揺らす。
 姿が変わっても、根本は同じなのだな。奇妙な感慨が湧いてきて、思わず口の端が緩んだ。

 初めから予感はあった。
 駆け寄ってくる犬を見た瞬間に、まず真っ先に〝似ている〟と思った。
 姿形が、ではなく。
 快活で人懐っこい目の奥に、どこか繊細で寂しげな光が揺れていた。その輝きに、あまりに見覚えがあったからだ。

――この犬はエルネストなのでは……

 なんの確証もなく本能的にそう思い、続いて理性がそんなことがあり得るのかと疑問を呈した。
 しかし、見覚えがありすぎる毛並みの色合いや、手に馴染む滑らかな手触り。撫でられるたびに嬉しそうに尾を振って、体を擦り寄せてくる仕草を見ているうちに、予感は徐々に確信へと変わっていった。

 決定打となったのは医療部からのメールで、エルネストと同じ任務についていたオペレーターにも同様の事象が起こっており、時間経過で回復したという報告が記されていた。
 おそらくエルネストにも同様の症状が出ているだろうが、自然治癒が見込まれる。もし戻らなかった場合は医療部まで連れてきてほしい――とも。
 目下最大の懸念点だった『このまま戻らなかったらどうしよう』が解消されたので、いくらか気持ちが楽になった。
 同時に、キュンキュン鳴いたり、サングラスを咥えて見せたりと、健気にアピールしてくる忠犬が愛らしく思え、せっかくなのでこの姿のエルネストも存分に甘やかしてやろうという気分になった。
 状況を把握していながら気付かぬふりをするのは少々可哀想にも思えたが、エルネストも途中から、『犬の姿で甘えるのも案外悪くないのでは?』という空気を醸し出し始めたし、ある意味おあいこだろう。妙にちゃっかりしているところも彼らしいといえば彼らしい。

 言葉は通じなくとも、そっと舐めてくる舌先には労わるような優しさが滲んでおり、こちらの言葉を一言一句聞き逃すまいと耳を傾ける誠実さも、普段の彼と変わりない。
 ただ少しだけ違うのは、いつもよりも甘え方がストレートだという点だろうか。
 アーツの効果が抜けてきて、少しぼんやりしていたというのもあるのだろうが、こんなに素直に膝枕に身を委ねてくれるのは珍しい。
 元に戻った際、記憶はちゃんと保持されているのだろうか? もし保持されているのだとしたら、自身の振る舞いを顧みたエルネストは、一体どんな顔をするのだろう?
 きっと可愛らしい顔を見せてくれるに違いない。内心でほくそ笑みながらふわふわの毛並みを愛でていたら、ふと、一瞬で指に触れる感触が変化した。

 つるつるとしたビニール素材の質感をまさぐれば、身じろぐ気配と共に「ん……」と小さな呻き声が上がる。
 それは犬の鳴き声などではなく、れっきとした人間の男性のものだった。

「こんなに一瞬で元に戻るのか……

 驚きすぎて、思考がそのまま口からこぼれ落ちた。
 どんなふうに戻るのかと思っていたが、まるで見えないスイッチを切り替えたかのようだった。もしかすると、姿形が変わっているのではなく、認識阻害の類だったのだろうか?

 エルネストは、頭をこちらの膝に乗せて体を横たえ、しばらく穏やかな寝息を立てていたが、やがて眉間に皺を寄せた後、ゆっくりと目を開いた。

 焦点がうまく結ばれていない瞳がゆっくりと動き、室内の様子を探っている。眠りに落ちていたのはほんの僅かの間だが、まだ意識が覚醒しきっていないらしい。

「おはよう」

 柔らかな髪に指を差し込んでそっと撫でてやると、エルネストは何度か瞬きをして、譫言のように「ドクター……?」と声を返し、それから。

「えっ、ドクター!?」

 ガバッと体を起こし、周囲を見渡し、自身の体を見下ろし、頭や体にペタペタと触れて。「夢? いや、でも……」と、呆然と独り言を呟く。
 やがて、こちらを窺うような上目遣いを見せてきた。
 この反応は、どうやら犬になっていた間の出来事をしっかり覚えているらしい。そして、それらの振る舞いを気恥ずかしく思っているに違いない。
 彼には悪いが、その一挙手一投足がとにかく可愛くて、小さく吹き出してしまった。

「君は、犬になっても可愛いな」

 預かっていたサングラスをポケットから取り出し、定位置に差し込んでやると、エルネストは片手で目元を覆って、細く長い溜息をついた。

……いつから気づいてたの?」
「犬になった君を見たときからかな」
「最初からじゃん……
「だって、あんなに可愛いゴールデンレトリバーが、君じゃないわけないだろ」
「あー、もう……

 とうとうエルネストは両手で顔を覆ってうなだれてしまった。ちょっと意地悪しすぎただろうか? 心なしかいつもよりも下がって見える垂れ耳を優しく撫でてやると、彼の背後で正直な尻尾がパタパタと揺れた。
 なんだ、やっぱり体は正直だな――と、喉元まで出かかったが、彼のプライドを考慮して飲み込んだ。

「でも、君が無事で安心した」

 顔を上げられずにいるエルネストを、上から包み込むように抱き締める。

「やっぱり、この姿の君が一番好きだよ」

 抱き締める腕にぎゅうっと力を込めてやれば、かすかに身構える気配のあと、観念したような吐息が漏れて、やがてがっしりとした男の腕がこちらの背中に回ってきた。



【おわり】