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井見
2025-06-19 06:20:38
16404文字
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ライドウ二次
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廻る契約(新刊『青い眼差し』より)
頒布のライドウくん本『青い眼差し』中に収録している話の一つです。
▶︎頒布はこちらから
「ライドウ
……
タダより高いものは無いって言うだろ?」
鳴海は、所長席に深々と身をうずめながら、絞り出すように言った。
「苦労は買ってでもしろ、とも言います」
ライドウもまるで引かない。探偵社の入り口側、普段の場所にいつも通り腕を組んでいるだけ、しかし今日に限ってはお前の敵だと言わんばかりの刺々しい雰囲気を纏っている。俗な表現をすれば、反抗的とも言える。
二人はじっと見つめ合った。すんと澄ましたライドウの表情は動かない。根比べでライドウには敵わない、鳴海は座ったまま彼を睨めつけながら、諦めたように息を吐いた。なかなかこいつも言うようになった。
そんな鳴海を眺めるライドウは、今だと直感する。
「引き受ければ、鳴海さんの溜めに溜めたツケをもう一週間だけ待つとか」
最後のダメ押し。鳴海のための魔法の言葉だ。
「
……
うちは変わったの専門。
ならもちろん、変わったものへの対応は当然うちがやらなきゃだよなあ、ライドウ。
金王屋にはいつもお世話になっているんだ。これくらいはしないとな!」
わざとらしいにも程がある声に、ゴウトは『調子のいい奴め』と小さく鳴くが、当然鳴海には届かなかった。
*
金王屋へ使いに出したライドウが持って帰ってきたものは、指定のものに加えて、見知らぬ円盤が一枚。
先程机に放ったその円盤を、鳴海は再び手に取りながら、クルクルと回して見つめる。
「で、一体全体これのどこが変わってるわけ?」
「金王屋のご主人によると、聞けば忽ちに意識が遠のくという曰く付きの代物だそうです。ちなみに自分は聞いたことがないからわからない、とも」
「
……
聞くと気絶するレコード、ってことか。そういう七不思議とか、もうありそうなものだけど」
ライドウが茶色く大きな薄袋を抱えて帰ってきた時点で、鳴海に悪い予感は走っていた。そんなものを頼んだ覚えはなかったからだ。本ならもっと分厚いし、雑誌ならもっと小さい。ならば、と勝手に回る頭が出した答えは、見事に正解を引き当てていた。
「こいつがおかしいってわかってるなら、ヤタガラスのお姉ちゃんにでも引き渡せば終わりにならんかね?」
「探偵社で調査するように、と改めて指示されるだけでしょう。報告書付きで」
「
……
仕事が増えるのは勘弁だな」
怪しげな噂を纏ったレコード盤は、しかし一見ただのそれだ。人の頭ほど大きい真っ黒な円盤には無数の溝が刻まれ、中央に、英字の紙が貼られている。曰く付きと説明されたところで、鳴海にはどこでも入手できるようなレコード盤にしか見えなかった。
「それでどうなの? 悪魔が憑いてるとか、見てわかるもの?」
「恐らくそれ本体には何も。或いは非常な精度で隠匿されています」
「後者だったら俺たちお陀仏か
……
」
「そうですね」
『いやいや、人死にが一つでも出ていれば、命を奪う、という曰くになっているはずだ。聞いて倒れるなどという優しい言葉にはなるまい』
神妙に頷いている二人に、ゴウトは呆れたように口を挟んだ。
巧妙な手段で悪魔が隠れていると仮定しても、ただ触れた程度では何も起きない。触れて異常が出てしまっては、保管や流通に支障が出るからだ。現に金王屋の主人や鳴海であっても、レコードに触れて何の問題も起きていない。
「ここはやはり、聞いてみるしかありません」
ライドウは部屋の隅に鎮座する蓄音機に目をやった。豪勢な逸品だが、あまり本領を発揮したところを見たことがない。ここで披露されるのは、専らタヱの好みの流行歌ばかりだ。
「まあ
……
そうなるのかねえ」
鳴海は所長席の引き出しを開け、どこにしまったかなあなどと言いながら手探りで何かを探す。あったあったと言いながら見つけたのは針である。蓄音機にレコードを置き、針を装着する。
「聞くと言ってもどうする? 三人で大人しく餌食になっても仕様がない。お前たちは外で待ってて、気絶してる俺を眺めにくる?」
『鳴海ではただ嵩張るだけだ。何かあったときのために、外で待たせるのがよかろう』
ライドウは頷く。
「我々がここで聞きます。
護符があるので、呪法の類であれば粗方防げるでしょう」
「よくて気絶、悪くて悪魔だろ? 大丈夫なのかよ」
「ですので鳴海さんは外で待機。自分にのみ影響があればゴウトが連絡に向かいます。また五分経っても我々どちらもが出てこなければ、ヤタガラスに連絡しに行ってください」
「急に物々しくなってきたな
……
」
鳴海はぼやきながら慣れた手つきでぜんまいを巻く。
「じゃあ俺は外で待ってるから。使い方わかる? 最近ガタついてるから上手いことやれよ」
「大丈夫です。わかります」
やれやれと外に出て行く鳴海を見送ってから、ライドウは蓄音機と見つめ合った。
普段の場合、鳴海は蓄音機を人に触らせたがらないため、ライドウ自身が触ったことはあまりない。恐る恐る銀色の腕を持ち上げ振ると、設置したレコードが回転し始めた。
『さて、鬼が出るか蛇が出るか
……
』
ゴウトの言葉に合わせて、ライドウはゆっくりと針をレコードの外周に落とした。
数回の回転と沈黙。
のちに、小さな音が聞こえ始める。か細い楽器の響く音のような、メロディとも言い難い、何か奇妙な旋律。
『なんだ、この曲は
……
うぬは知っているか?』
「いや
……
遥か異国のものだろうか」
旋律は続く。キリキリと雑音を交えながら、小刻みに音が変わる。
目まぐるしい音。弦楽器が如く、繊細な
……
声?
『雑音混じりでわからぬが、これは
……
歌か?』
「おそらくは」
『調子はどうだ。気が遠くなってきたなど、感じるか』
「何も感じない」
『予兆がないとなると、いささか厄介だな』
ライドウは万が一を考え、床に座り込んでおく。
その間もレコードは淡々と回転を続ける。何にも形容し難い声楽を放送しながら、針は次第に円盤の内周へ導かれていく。二人はその様子をじっと見つめるが、何も変化は起きない。
そして音楽がふと止まった。ゆっくりと回転も止まり、二人だけが残された。
『
……
終わったようだな?』
はて、と二人は首を傾げた。
失神の気配すらなかった。気づかぬうちに呪いを受けた可能性もないではないが、結果が前評判とてんで違うのはおかしいではないか。
ライドウは念の為にレコード盤を取り出して、元あった紙袋へとしまった。やはり円盤に触れても特に何も起こらければ、禍々しい気配を放っているわけでもない。
さて目に見えぬ攻撃を受けているのか。ライドウは制服の前を少し開け、シャツの胸ポケットに手を突っ込む。中の鎮心符などは焼け落ちてはいない。
『ふむ
……
ひとまず鳴海を呼ぶとするか』
*
戻ってきた鳴海に事情を説明すると、鳴海は頬を掻きながら、「それってさあ」と机に置かれたレコードを取り上げる。
「きっとなんかこう、聞きにくい音がいっぱい入った、ちゃかちゃかした音だったろ」
「そうですね。ちゃかちゃかとした音でした」
「やっぱりね
……
」
「何か心当たりが?」
「まあ、聞いてみないと何とも言えないところだが。
ライドウ達が何もなかったんなら、俺も聞いても問題ないか?」
鳴海は何か気づいたことがあるらしいが、「口で説明するにゃむつかしい」の一点張り。ゴウトとの相談の結果、ライドウは鳴海の提案を飲むことにした。
再びの準備を済ませ、今度は鳴海もいる状態で、ライドウはレコード盤に針を落とす。
先程と同じ奇怪な音声。少しノイズ混じりに、針は円盤の中央に導かれていく。
だが、それだけだ。ことり、とレコードの再生が終了した。前回と殆ど同じ。ライドウは一体これで何がわかるのか、と鳴海に視線を向けた。しかし鳴海は、何処かぼんやりしている。
まさか、と駆け寄って鳴海の具合を確かめる。念の為に一通りの呪い避けの護符は持たせているはず。ぎゅっと目を開けたり開いている鳴海を視界に捉えながら、チョッキのポケットに仕舞われているそれを探すべく手を突っ込むと、鳴海に「大丈夫、大丈夫だって」と制された。
「聞いてたらなんか
……
疲れた」
鳴海は肘をついて頭を休めながら、チョッキから護符の一式を取り出してライドウに渡した。どれにも問題は生じていない。
「気絶しそうということですか?」
「そんなんじゃないけど
……
。
黒板に爪で引っ掻いた音がニガテ、みたいなやつか? 全身が拒否してた
……
」
『うぬは何もないか?』
「自分は特に
……
」
『ふむ。単なる偶然、と済ますには座りが悪いな
……
』
「ああでも、ちょっと収まってきたかも。船酔いってこんな感じなのかね? 変な音聞きすぎて、気持ち悪くなって気絶ってことか?」
「鳴海さんの症状については後で考えましょう。
まずはこのレコードについて。何かわかっているのですよね」
鳴海は深呼吸をしたが、まだ頭がふわふわとしていた。
「ライドウが珈琲いれてくれたら、教えてやるよ」
ライドウとゴウトは、同時に溜め息をした。
*
淹れたての珈琲を楽しむと、鳴海は満足気に口元を弛めた。
「準備も整ったし、そろそろ捜査会議といくか」
『整っていなかったのはうぬだけだろう
……
』
いななくゴウトに被せるように、
「さっきのあれ。たぶん回転が速すぎたんだと思うんだよ」
と鳴海は持論を展開し始めた。
「流れていたメロディーはやけに急かすようなものだった。気絶するとかいう曰くも不発。つまり、レコードの再生方法が正しくなかったんじゃないかって」
そもそも、と鳴海は加える。机に置かれた茶色のスリーブを拾い上げ、それをひらひらと振りながら、鳴海はライドウたちにレコードの仕組みを改めて説明した。
レコードはレコード盤を回転させ、盤に刻まれた溝を針で読み取ったその振動を音色とするため、レコード盤の回転速度によって音色も変化してしまう。曲として正しく演奏されるための回転数は、円盤中央に貼られた紙であるレーベルや、円盤を収めるスリーブに記載されており、それを見て使用者はレコード盤を回転させる。
だが今回は正しい回転数で回転させなかったため、製作者の想定した音色にならなかった。そう考えられる、と鳴海は改めて言う。
「まあ最初から変な音が録音されてるって可能性もなくはないが、何も起きないってことは何か条件が足りてない、音がちゃんと再生されてないって考える方が妥当だろう。
……
なんとなくそうなる気はしたが」
『なるほどな。鳴海のことだ、知識自体に間違いはあるまい。
しかし珍しく仕事をしているようで感心だが、そもそも先ほどの準備の時点でなぜ指摘しなかった?」
ゴウトの質問をライドウは「とのことですが」と鳴海に通訳する。
「わからなかったんだよ。レコードを入れるこのスリーブ、サイズは合ってるけど適当な紙袋だ」鳴海は中の円盤を取り出して、無地の袋をひらひらと振る。「普通はここもいろいろ賑やかで、このスリーブごと商品なのよ。でもこの袋は何も書いてない、ただの紙」
レコードの中央にはよく見る会社のレーベルが貼られているものの、そのレコードを収めるスリーブは誰かが慌てて作ったような茶色い紙の貼り合わせ。しかし人の手を渡り歩いてきたというし、袋が汚れてしまったから当座は新しいのを用意したとも言い張れる範疇だ。
「ここのだったら、回転数とかはスリーブに書いてあるはず。だけどスリーブには何の情報もなし。でも回転数なんてメーカー内で大体は同じだから、さっきはその速度で準備したんだけど
……
」
実際に奏でられたのは、曲とも言い難い奇妙な音。『聴くと気絶する』という曰くの通りにすらならなかった。小細工なしに考えれば、単に回転数が合わず、正しい曲として演奏されなかったという結論になる。
そしてスリーブに情報はなく、レーベルからの推測も外れ。つまりまず一つ単純な事実として、
「このレコードは、このメーカー製にしては不自然な回転数の設定で作られている
……
ということですか」
「いいねえ、まずは事実だ。
じゃあその事実は何を意味すると思う?」
ライドウは助けを求めてゴウトをちらりと見た。ゴウトは机上のレコード盤を調べるように一周する。
『
……
ただ単に回転数を間違えた、ということはあるまい。どれだけの速度で再生するかは曲の要だ。〝うっかり〟製作を誤るということが早々起きるとは思えん。
であれば、敢えて不自然な回転数に設定している、と考えるべきだろう。果たしてその理由は何故か。先程のことを考えてみると
……
わかるか?』
先の実験では、回転数の明記が無かったため、メーカーから推測した回転数に設定し、そしてそれは誤っていた。このレコードを正しく聴くには、根気強く回転数を探り当てるか、あるいは正しい情報を何らかの手段で手に入れる必要がある。
「
……
このレコードについて元から知っている者だけが、聞ければいい」
「かもしれないな。少なくとも、何も知らないやつが気軽に楽しめるなんて事態は避けたかったんだろう。じゃあ次は、それはどうして、ってことだな」
再びライドウが答える番だとでも言うように、鳴海は珈琲をもう一口。
ライドウは蓄音機に収められたレコード盤を改めて眺めた。このレコード本体だけが金王屋に辿り着いている以上、正しい回転数というものが記されたスリーブなどの媒体は既に失われていると見るのが妥当だ。
しかしそもそも、無闇に聴かれたくないからといって、回転数を記したものを別に用意しておく必要などあるだろうか?
今あるレコードだけでも、根気強く再生機を調整すれば、それらしい曲を聴けてしまうはず。もし用の無い人間には絶対に聴かれたくないなら、このレコードの仕様は余りにも脇が甘い。
「翻せば、このレコードは
……
簡単には聴けないが、聴こうと思えば聴くことができる。
これは、聴こうという意志を求めている。
……
どうしてもこれを聴きたいと思う人間を、選んでいる?」
ライドウの発言に、鳴海とゴウトは息を合わせたように頷いた。
「あとはもう一つの特徴だ
……
『聴いたものは気絶する』。この現象が本当に起きるかどうかは、改めて正しい方法でレコードを聴いたらすぐにわかるだろうけど。ここまで来たら考えられることは先に考えてみた方がいいよな」
『一体なぜ気絶するのか。〝目的〟と〝手段〟に分けて考えた方がよいかもしれんな。
今の状況を改めて並べると、違和感がないか?』
「まず目的と結果が合いません。わざわざ蓄音機を調整してまでそのレコードを聴こうとする人が、音色をようやく聴いても、その人は気絶してしまう。気絶させることそのものが目的だとすると、あまりにも迂遠だ」
『うむ。聴く人間を選ぶほど対象が明確ならば、目的もまた明確なはず。だがこの有り様だ』
ゴウトに頷くより先に、鳴海の欠伸が挟まった。
「悪い悪い。ライドウの筋は正しいと俺も思う。
たださっきのやつのせいで、珈琲飲んでもまだふわふわしてるんだよ
……
」
鳴海の調子は気になるが、ライドウは改めて頷くと、次に〝手段〟を考え始めた。
意識を失うといっても、その過程は様々。
手始めに、意識を手放してしまった今までの経験をライドウは振り返った。
敵の強烈な打撃。これはレコードでは有り得ないし、気絶という一定の結果を得るには不安定だ。
敵の呪文。これは有り得る。だが聴者を選ぶような仕様を作ってまで、聴くと気絶するなどという呪文をかける意味があるのか。気絶以外の呪いも同時にかけられているという報告は、金王屋を信じる限りなかった。もしもを考え始めたら際限がないため、ここでは除外するしかない。
他に気絶の記憶は。
単なる疲労。これは今は関係がない。
戦闘中の失神。大量の出血、あるいは大量の──。
ライドウははっと顔を上げた。
「気を失ってしまうのは、聴者が耐えられなかったから。
このレコードの再生によって始まる
……
マグネタイトの漏出に。
鳴海さんがふらつくのも、これが原因」
レコードの不十分な再生によって、明らかに鳴海に不調が生じている。だが気を失うほどではない。感じる気怠さは貧血と似て非なるもの。急激にマグネタイトを奪われることも、意識の混迷に繋がる。ライドウからも幾らか失われているのかもしれないが、絶対量が違う故か問題にはならなかったのだろう。
そして、そんなマグネタイトの漏出が起きるものとは、一体何か。
いくら曲速が異なるといっても、先ほど聴いた音色は到底メロディとは言えなかった。人間の声が奥底に渦巻くような、面妖な音声。あれは聴者を楽しませるものではなく、音声自体に意味がある。正しく再生されること、そこに聴者のマグネタイトを捧げることで、儀式が成立する。
すなわちライドウの持つ、数多の管と同じとすれば。
「これは
……
悪魔召喚器ではないでしょうか」
その言葉に、かた、と何かの音が応えた。
何処かで物でも落ちたか、いや、次第にぶうんと何かが擦れる音。
咄嗟に全員が蓄音機へ顔を向ける。
誰も触れてはいないはずのレコード盤が、独りで回り出している。
針は音色を再生し始めた。奇怪な人間の歌声が、とめどなく溢れ出す。
鳴海は蓄音機へ最も近いライドウに向かって、すぐさま指示を出した。
「針をどけろ!」
しかし針はレコード盤に乗っていない。ターンテーブルが回転しているだけだ。ライドウは代わりに円盤を拾い上げるが、その円盤そのものが緑色に発光し始めた。
ライドウの管と同じ輝き。レコード盤を縁に、形のない悪魔がマグネタイトを得て、この世界に仮初の身体を作り出す。
『手遅れだ、何かが来るぞ!』
ライドウはレコード盤を食卓へ放った。鳴海を部屋から逃がしたいものの、生憎鳴海は最も扉から遠い所長席にいる。
「鳴海さんは隠れて」
ライドウは所長席と机の間に陣取った。
狭い室内で刀は不利だ、右手には銃、左手には管を握り、襲来に備える。仲魔も喚ぶべきか、しかしここで戦闘になるのはまずい。ひとまず様子を見るべきだ。
「なんで勝手に始まったんだ?」
同じくどこからか銃を取り出した鳴海も、机からひょっこり顔を出しながら、困惑の表情を浮かべている。
「今まで貯めたマグネタイトが、今日で十分になったのかも」
『うぬから十分吸い上げたのかもしれぬな。
しかし本当に悪魔召喚器ならば、目的は襲撃ではない。契約として話をつける余地があるはずだ。
焦るなよ、ライドウ』
ゴウトの言葉に頷くと、レコード盤の輝きが最高潮に達し、燐光が怪しく室内を埋め尽くした。
現れたるは異形の悪魔。コウモリのような羽根が部屋を埋め、中世の貴族を思わせる深緑のローブがライドウの視界を遮った。革張りの大判本を抱えた向こうにあるはずの悪魔の顔を探して見上げるが、大きな襞襟の上には、老若男女無数の人間の頭が円を描くように乗せられている。最も正面にある老人の頭がライドウを捉えると、厳粛な声が告げた。
『私を喚んだのは貴方でしょうか?
いいえ、違う。貴方の香りは確かに美味だが、それは私をここへ引き寄せた香りではない』
悪魔は手にした書物の頁を捲った。頭は口々に『なるほど』『そうか』と相槌を打ち、くすくすと笑った。一番正面にいる頭が、他の頭へ『静かに』と指令を出すと、おとなしく口を噤んだ。そして書物をぱたりと閉じ、ライドウではなく、その後ろの人間へ向かって、深々とお辞儀をした。
『私は堕天使、ダンタリアン。
私を喚び出したのは貴方のようです、机の下にいらっしゃる君。名は
……
『鳴海』
……
この場では、こう呼んだ方がいいでしょうかね』
少しの沈黙。ライドウはゴウトと目配せをする。相手の出方がわからぬ状況で、下手に刺激するわけにもいかない。
「鳴海さん、大丈夫です」
「
……
お呼びでしょうか、お客様?」
鳴海は机の下から現れると、普段のように所長席の椅子へと身を預けた。
「これはまた
……
賑やかなお方のようで」
努めて落ち着いた雰囲気で、鳴海は肘をつく。ダンタリアンは再び礼をした。
『私の姿、お分かりになりますか』
鳴海は悪魔を認識できず、悪魔そのものを見た経験も数えるほどしかないが、目の前の悪魔の頭一つ一つが、鳴海を見ようとして無理に角度をつけている。堕天使らしい羽根を見ずとも、それだけで十分に悪魔であるとわかった。
「ああ
……
よく見えるね」
『それはよかった。ここへ来るのは久しぶりですから、調整にも手間取りました。
さて
……
改めまして、私はダンタリアン。
私を喚び出したのは貴方だ。貴方の僅かな、しかし苦悩を確かに滲ませた芳醇なマグネタイトが、私を喚ぶ最後の一滴となりました。であれば、喚ばれた私は他ならぬ貴方と契約を交わさなければなりません』
「そこにいる子とじゃ、駄目なのかな。マグネタイト、だったっけ? その子からもらった分の方が多いでしょう」
『ええ、残念ながら、坊やは間に合いませんでしたね。私は私を満たした最後の方と契約を交わすと決めているのです。それが私の楽しみを彩る方法です。
さあ、幸運な貴方、私に何を求めますか?
貴方の知らぬ誰かの過去を詳らかに?
貴方の辿るべき未来をその手に?
ああ
……
そうですね、そこな坊やの未来を教えて差し上げてもいい。彼に待ち受ける苦難を、予め知っておきたいとは思いませんか? 彼を覆う残酷な運命を
……
知りさえすれば、その未来を変えられるかもしれません。
私ならば何れも叶えて差し上げる。私はダンタリアン、この本に過去も、未来も、全てを記しているのですから』
厄介な状況になってきた。ライドウは隙を見て鳴海をこの場から逃す方法を探っていたが、悪魔の目的が鳴海ではそれも叶わない。
ライドウは引き金に指をかけた。この状況をすぐさま終わらせる手段だけならないではないが、賭けだ。
ダンタリアンはライドウに最も近い女性の頭を使って、ライドウと目を合わせた。ライドウの考えは〝知っている〟とでも言いたげだが、ダンタリアンもまた、ライドウに手出しはできない。仮に戦闘になれば、ダンタリアンも望む契約を交わすことができなくなる。
鳴海もまた、ダンタリアンの頭と視線を交わす。裁判官の被るかつらのように白髪を纏めた老齢の男の顔面は、未来を知るとは言いながら、あくまで鳴海の返答を待つようだ。契約に必要な儀式なのか、あるいは、本を使って調べようとしなければ、情報が手に入らないのか。
「契約の前に、少しその契約について教えてもらうことはできるのかな?」
鳴海は、悪魔には会話の余地があると判断した。そして予想通り、ダンタリアンは深々と頷いた。
『ええ、もちろん、答えられる範囲であれば』
「今までこの契約を交わした人はいる?」
『何人か。幸運なお方もいるものです。もちろん皆様にはご満足いただけました。私が告げる言葉に歓喜なさったかと思えば、さらにもっとと強請るのです。実に可愛らしい』
「信頼と実績ってやつか。どうしてあんたは契約なんてまどろっこしいことをする?」
『あなた方を愛しているからですよ。
私は全てを知り尽くしている。あなた方がどのような運命を辿ってきたのか、辿るのか。しかしそれは事実として記されているに過ぎません。肝要なのはその過程、そこであなた方がどのように足掻くのか、それが、私の数少ない愉しみなのです。
必死にこのレコード盤を用いて、私を求める人間たちの姿。私から得た知識で、過去や未来を変えようと四苦八苦する契約者たちの姿。大変素晴らしい喜劇でした。
そしてあなた方が苦悶すればするほど、マグネタイトの味わいも深まっていく。ましてや貴方は、きっと極上でしょう。ご自身もおわかりのはずだ』
襞襟の上の全ての顔が、同じ角度でにたりと笑った。鳴海は「なるほどね」と返すだけに留めた。悪魔の本心は〝暇潰し〟だろう。人間の運命をいじくり回して、鑑賞して楽しみたい。そしてその人間は、なるべく苦しみそうな奴がいい。
「もう一つだけ質問だ。
この契約で、あんたは俺に、何かしらの情報をくれるらしい。
じゃああんたは、俺から何を貰う気なんだ? 悪魔さんが欲しがるのって、魂、あるいは寿命とか?」
『契約次第です。しかし私は良心的ですよ、寿命や魂、果ては体の一部など、かけがえのないものをいただくつもりは毛頭ございません。
例えば先の話なら
……
彼の未来と、貴方の
……
そうですねえ。
貴方のマグネタイトは実に痛快でした。複雑に絡まった思考が見事に重なり合っていた。俄かに広がる甘みと、最後に残る苦味
……
年端もいかぬ坊やには出せぬ味わいだ』
ダンタリアンは、本を片手に持ち、もう片方の手で卓上を指差した。そこには片付けられていないペーパーナイフが置かれたままになっていた。
『ちょうどいいものがありますね。少し刃こぼれをしている。うっかり手でも切ってしまえば、さぞ痛むことでしょう。そして切り傷はなかなか塞がりません。裂かれた皮膚はじくじくと痛みを訴え、その裂け目から芳しい血が滲み出る
……
』
「大変いいご趣味をしていらっしゃるねえ」
『ええ、ええ。そうですとも。
ですからそのナイフを使って、私に献上してくださいますか?
……
私を十分に潤すだけの
……
貴方の、血を』
ダンタリアンが言い終わるや否や。
──ばん、と銃声。
同時に破砕音。そしてからんと薬莢が転がる音。
ダンタリアンの足元のレコード盤が、銃弾のよって見るも無惨に砕け散っていた。
『はて
……
?』
実行したのは鳴海ではない、ダンタリアンは鳴海から目を離してはいない。その手前からだ。ライドウの構える銃口から、煙が薄らと立ちのぼる。
『はあ、ライドウ
……
言っただろう、荒事はよせと』
ゴウトは呆れたように鳴いた。
「すみません、つい」
「〝つい〟で撃つか?」鳴海は顔を覆う。「大家さんに説明するのは俺だぞ!」
「では、咄嗟に」
戦闘にふさわしくないこの場から悪魔を退場させるには、一撃でその悪魔の命を絶つか、あるいは〝封魔〟だ。鳴海の会話を聞きながら、悪魔との交渉の糸口を探るはずが、気づけば引き金を引いていた。だがもう後戻りはできない。進めるしかない。
狙ったのは悪魔本体ではなくレコード盤。マグネタイトを介する実体化ならば、その依代となるものを破壊すれば、やがて悪魔は霧散する。大穴を中心に粉々に割れてしまったレコード盤では、二度と音色を再生することもできまい。
ダンタリアンはローブを振って、引っかかったレコード盤のかけらを払った。
『なんと、手荒い返答でしょう。喚ばれたからやってきた、それだけのことで、この仕打ち。
礼を欠く者に遠慮をする必要はございませんかねえ』
『
……
儀式を介した召喚は、与えられたマグネタイトを消費し続けるだけ。
召喚士による召喚とは違い、人間からのマグネタイト供給はない。
こうしている間も少しずつマグネタイトは尽きていく。一度の大業にも耐えられまい』
ゴウトはダンタリアンの虚勢を突く。既に交渉は始まっている。
ダンタリアンの体からは緑色の光がちらちらと瞬き、身体の端は透けている。マグネタイトが解け始めている証拠だ。ダンタリアン自身もそれをよくわかっているのか、攻撃に移ろうとはしない。ライドウはさらに畳み掛けることにした。
「ダンタリアン、お前の選択肢は二つだ。
大人しく帰るか、あるいはここに残るか」
『それは貴方の仲魔となって、ということですか、悪魔召喚師《デビルサマナー》?
貴方は勧誘の仕方を考え直した方がよろしい』
「ああ、少し荒っぽいといつも言われる」
だから、と言うと、ライドウは、ダンタリアンから目を離さぬまま、手を背後に伸ばした。そこは所長席、ダンタリアンに目をつけられたペーパーナイフが置かれたままになっている。ライドウはそれを引っ掴み、誰の制止も間に合わぬ速さで、左手の甲を裂いた。
「おいおい何やってるんだ!」
「問題ありません」
ライドウの白い手を血がゆっくりと伝う。指先から、赤い滴がぽたりと落ちる。その指で、ダンタリアンを指した。緑の光の粒が飛んだ。
「わかるか、この味が。このマグネタイトが、お前の身体を潤すのが」
ライドウから生じたマグネタイトは、入るべき場所を探してダンタリアンにみるみる吸い込まれていく。解けかけていたダンタリアンの緑色の発光は収まり、再び実体を取り戻した。
「これでお前を満たした最後の人間は、鳴海さんではなくなったようだ。契約をしてもらおうか。
仲魔になれ、ダンタリアン。それ以外は要らない」
ダンタリアンは本を閉じると、片腕に抱え、ライドウにずいと近寄った。ライドウは動じない。互いが互いを試していた。ライドウの様子をたっぷりと眺めたあと、ダンタリアンの無数の顔が同時に笑った。
そしてダンタリアンはしわがれた左手、黒ずんだ指を伸ばし、依然血の滴るライドウの手を掬い上げた。枝のように硬い親指で、滲み出る血を撫で広げると、傷口を強く押しつぶした。血はさらに滲み、ライドウの手はわずかに強張った。
『
……
怒りと驕りの満ちた、若さ溢れる猛々しき味わい。
この味が如何に変貌していくのか
……
見ものですね?』
ダンタリアンはしみじみと呟くと、血濡れの親指が他に触れぬように注意しながら、片手で再び本を広げた。小指で求める頁を探し出して、ダンタリアンは、『ここです』と言いながら、本をライドウに向けた。ライドウには読めない言語で書かれた頁の一番下に、唯一わかる言葉が記されていた。
ライドウの氏名──〝葛葉ライドウ〟ではない、古びた名前が、他ならぬ自分の字で書かれているのだ。
『見えますか?
契約日は今日。
契約内容は私を仲魔とすること。
そして私と、貴方のご署名。
これが予め記された未来です』
ダンタリアンが告げると、ライドウは開かれた頁の内容を途端に理解できるようになった。視覚からは未だ未知の言語であることしかわからないというのに、その言葉の意味が、直に脳内を侵す。
頁には今日の日付が先頭に書かれ、金王屋から受け取ったレコード盤を巡るやりとりが極めて簡潔に記されている。そしてダンタリアンの宣言した通り、ダンタリアンをライドウの仲魔とする代わりに、ライドウはその血を捧げ、そして召喚の度にマグネタイトを奉ずる
……
その内容に対して、すでに署名が済んでいた。全く読めぬ言葉から、その事実がありありとわかった。
目に見える情報と脳が理解する情報に差異があるという状況に、ライドウは少し頭痛を覚えた。情報に合わせてダンタリアンの感情すら流れ込んでくる。長い退屈、閃くような歓喜、身を包む
開放感、滲む血に覚える下卑た興奮。これこそ読心の術の応用、おそらくは手練の外法の者か。
『ようやくここまで辿り着けました
……
ああ、なんと素晴らしい日でしょう。筋書きを知っていても、いや知っているからこそ、この過程が愛おしい』
うっとりと言うダンタリアンは、ライドウの名の隣、ダンタリアンの名が記されている場所に、親指を強く押し付けた。人の血でされる血判。果たして意味があるのかとライドウが思うと、『私には血が流れませんから』と断ってきた。そして、ふてぶてしくも悪魔はライドウへ本を向け、『どうぞ』と差し出してくるのだった。
「待てよライドウ、本気なのか?」
傍観せざるを得なかった鳴海も、つい腰を上げた。ライドウは悪魔の言う通りに契約をする。これがライドウなりの最善なのだとは理解できるが、果たしてこの悪魔をどれだけ信じられるものか皆目見当もつかないのだ。だがライドウは、鳴海に向かって深く頷いた。
「謀られているとは思いません。ダンタリアンの歓喜は本物。
しかしもし見抜けなかったというのであれば、甘んじて」
ライドウは言うや否や、血が広がった左手に自身の親指を擦り、迷わずダンタリアンと同様に自身の名の隣に押し付けた。古めかしい契約が為された。
『無粋なお方だ。貴方を謀る必要が何処にあろうか。これより楽しい催し物は向こう百年ございますまい』
ダンタリアンはライドウの胸に下げられた管の一本を引き抜き、ライドウに差し出した。契約は条文通り成立したという、ダンタリアンなりの証明だった。
管を受け取ったライドウは、封魔を施した。ダンタリアンの身体は緑の光に包まれて、管へと吸い込まれていった。
『楽しませてくださいね』
管を胸のベルトへと収める最中、そんな囁きが聞こえた。
*
『
……
よくやった、と一応言っておこうか』
口火を切ったのはゴウトだった。
事態は収めた。だが、失うものが多すぎた。
具体的には応接テーブルに穴が空いた。下手したら床にも空いているが、ライドウには確かめる勇気がない。
そして金王屋から託されたレコードは粉々。飛び散るライドウの血の痕。発砲後の独特な臭い。
『酷い有り様だがな
……
こいつに被害がなかったのは、上々だろうよ。
金王屋のご主人には、改めて説明が必要だろうが
……
』
まずは褒めておこうというゴウトの気遣いが、ライドウの心に沁みた。ゴウトが優しい。それは、ゴウトがこの話題に関しては自分の立ち位置をそこに決めたということだ。つまり、もう一人が
……
。
鳴海は勢いよく立ち上がり、扉をぴっと指差した。
「
……
言いたいことはたくさんあるけどな?
まずは手とそのナイフを洗ってきなさい」
「わかりました」
ライドウは素早く部屋を滑り出た。
念入りに手を洗い、つけていた装備も一通り片付ける。それからひっそりと戻ってくると、所長席の窓は開け放たれ、只事ではない血と煙の匂いはすっかり消えていた。そして所長席にはこれ見よがしに救急箱が置かれ、傍に丸椅子が設置されている。鳴海は丸椅子の座面をぽんと叩き、戸口で様子を窺うライドウを促した。
ライドウがそろりと丸椅子に座ると、鳴海は彼の傷ついた左手をひったくるように引き、傷を睨みつけた。そしてその手を所長席の机に置き、上からガーゼを強く押し当てた。
「他に手はなかった、これが最善だったって思ってるだろ?」
自分の手が鳴海の手と机に挟まれて、逃げられない。ライドウは「はい」と頷くしかなかった。そもそも思わぬタイミングで発砲してしまったことは自分自身のミスであったし、その始末を迅速につけるにはこの方法が最速だっただろう。
「お前が何考えてるかは大体わかるし、たぶん全部その通りだろう」
呟きながら鳴海はライドウの手を覆ったガーゼを新しいものに取り替えた。 そして救急箱から丸められた包帯を取り出し、ライドウの手をくるくると巻き始めた。
「だからこそな、俺は何度でも言わなきゃならん。
あんまり無茶をするな。自分を使うな。癖になるぞ」
包帯が手の甲を交差し、ライドウの手を優しく締める。余りの包帯が手首に巻かれ、処置が完了したあとも、ライドウはぼんやりと白く覆われた左手を見つめていた。
そんな彼の様子に鳴海はため息をついて、「わかったか?」と手をぽんと叩いた。
「はい
……
痛いです」
ライドウは左手を開いたり閉じたりしながら、しみじみと答えた。会話になっていない気もしたが、鳴海は今日はこれで上々ということにした。
すると窓枠に寝転んでいたゴウトが、ひらりと所長席に跳んだ。
『話は終いか?
なら、この部屋をどうにかしてくれ。足に刺さって歩くのもかなわん』
ふらふらと足を振るゴウト。靴を履かない猫の体では、レコード盤の破片が散らばった部屋の中を移動するのは難儀するだろう。
鳴海はゴウトの毛に引っかかっているレコード盤の破片をつまみながら、
「はやく掃除しないとな。これじゃゴウトちゃんも歩けないし、ここにもしタヱちゃんでも来ちゃったら大惨事──」
そこで鳴海は言い淀んだ。
噂をすれば影が差すと言うではないか。しかしすでに手遅れ。
一階エントランスの重いドアが開いたのち、コンコンコン、と軽やかな足音が、小さく響いてくるのがわかった。この足取りはタヱ以外にはいない。
その場の全員がゆっくりと視線を交わす。
「
……
まずい、机だけでも誤魔化すぞ!」
「はい!」
鳴海は机の上の破片を勢いよく床に落とした。すると机を貫通するか否かの銃痕が露になる。すかさずライドウは机上にあっても違和感のないもので隠そうと、手頃な黒い毛玉──『おい! 息を合わせるな!』と抗議するゴウトを問答無用で机に乗せた。
「探偵さん、いらっしゃって?」
ノック音。もう時間がない。鳴海が扉に駆け寄り、ほんの僅かに開いた。
「
……
あー、タヱちゃん? 来てくれて悪いんだけど、いま掃除中でさ
……
」
「あら、お出迎えがライドウくんじゃないなんて珍しいわね。まだ学校?」
「いやいるけど、ってそうじゃなくて。いま汚いからさあ、明日また来てくれると嬉しいなーって思うんだけど
……
」
「お掃除中って言ってもいつも綺麗よね? 何か資料でもお片付けしているの? 今日は少し時間があるし、お手伝いでもしましょうか?」
タヱは鳴海とドアの隙間からぐいぐいと室内の様子を窺う。すると目敏くライドウを、そして彼の左手を発見した。
「ライドウくんったら怪我してるじゃない! だめよ、そんな包帯巻いてるのにお掃除なんて
……
! ちょっと、鳴海さんどいてどいて!」
「ああ、タヱちゃんってば!」
タヱは問答無用で室内へとずんずん突き進み、ライドウの左手を掬い上げた。
「どうしたの、こんなに大きな怪我
……
鳴海さんに危ないことでもさせられた?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ、タヱちゃん」
鳴海はそう言いながら、タヱがいつも被っている帽子を拾い上げ、彼女の注意を引いた。
「ライドウったらさっきレコードを割っちゃってね、それで手をちょこっと切ったってわけ。それにしても派手にひっくり返してもう粉々。部屋中に散らばっちゃって掃除中」タヱの体を扉にくるりと向けて、背を押し、「というわけで今日は営業終了。店じまい。さ、帰った帰った」
「そんなに大変なお掃除なら、人手がいくらあっても足りないでしょう? それとも、あたしじゃ力にならないっておっしゃるつもり?」
タヱは鳴海の誘導を物ともせず、さらにひらりと回転し、荷物をソファへ置いた。それどころか袖すらまくり、
「ライドウくん。お掃除用具、取ってきてくださる?」
と力強く言い切った。
こうなったらタヱは動かない。やると決めたらやる方だとライドウもよく知っていた。
「大丈夫だってタヱちゃん。ほら、ライドウみたいに手を切っちゃ危ないしさ」
「ご心配いただき光栄ね、でもご生憎様。常日頃から手袋を持っていてよ」
鞄から取り出した手袋をこれ見よがしに嵌める。
「あたしはね、今日はここで珈琲をいただくって決めてるの。こればかりは譲れないわ」
「あのねえ、タヱちゃん、何度も言うけどさあ
……
」
二人の会話は堂々巡りだ。状況はきっとライドウがどちらに付くかで決まる。
鳴海か、タヱか。
……
少し動いて疲れたので、珈琲を飲みたい気分かもしれない。
ライドウはすかさずその場から離れ、掃除用具一式を取り、タヱの元へと舞い戻った。 物分かりのよい少年の姿にタヱはにんまりと微笑むと、雑巾を鳴海に、塵取りをライドウに突きつけた。
「鳴海さんは雑巾濡らして、ライドウくんはあたしが掃くごみを集めてちょうだい。
さあ、さっさと片付けてお茶にしましょ!」
「
……
仰せの通りに、お嬢さまっと」
諦めた鳴海が部屋を出ていくと、
『我にいつまでこうさせる?』
銃痕を隠すため、律儀に机の上で丸まり続けるゴウトが、ようやく嘆いた。
「
……
お帰りになるまで
……
」
『
……
日が暮れそうだな』
「なあに? 何か言った、ライドウくん?」
「いえ。ご協力ありがとうございます、葵鳥さん」
長い一日はまだまだ続く。
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