冬人と水樹さん

蓮。

 工芸市で買ってきた硝子の皿に、ぷるぷると震える葛桜。もちもちぷにぷに柔らかな弾力を持つ葛が包むこし餡には桜の花の塩漬けが飾られており、葛越しに見える薄紅が美しい。その葛を包むのは大振りな桜の葉の塩漬けで、ふわりと香る桜が鼻先を擽る。
 なんとも涼を感じさせるこのお菓子、桜を用いてはいるが夏の菓子である。
 冬人は水樹と出かけた際に見かけた重厚な歴史を感じさせる菓子司でこの葛桜を買ってきて、味気なくはあるもののティーバッグの緑茶を淹れていざおやつと臨んでいるところであった。
「甘さ控えめの葛にさらさらと溶けていく餡子のお味がとっても上品で……葛と桜の香りが相俟って和の歴史を感じます」
「そんなに食レポに全力だったっけ?」
 目を閉じてうむうむと頷いている水樹をまじまじと見てから冬人も手元に視線を戻し、添えられていた黒文字で葛桜を半分に割る。ぷつ、と裂けた桜の葉、むっちりと葛に沈んでいく黒文字。切り分けた葛桜を口に運べば水樹の言うとおり上品な甘さが口のなかへ広がった。
「美味しいね。夏に桜って意外だったけど、作ったひとはすごいな」
「ね。夏っていうと向日葵みたいな元気いっぱいな花の印象あったなあ」
……元気いっぱいといえば蓮がそろそろ咲くらしいね」
「え、ビッグニュースじゃないですか。詳しく教えてください」
「いや、俺も詳しくはないけど……
 冬人は黒文字を皿に置き、スマホを叩いてブラウザの検索欄に「蓮 開花時期」と打ち込む。そうすると丁度咲き誇る蓮の情報や、名所がずらりと並び、冬人は有名どころの開花情報を開くと水樹にも見えるようにした。
「わ、なにこの大きい葉っぱ。こどもが上に乗れちゃわない?」
「大鬼蓮だって。縁が持ち上がってお皿みたいだね。あ、蓮とは別なんだ。こっちはスイレン科だって」
「へー! あ、形も違うね。蓮のほうがふっくらした感じ…………冬人さん冬人さん」
 スマホから顔を上げた水樹の晶晶とした榛色の目。この目を見ると冬人は大体水樹の言いたいことが分かって、彼がなにと続けるより先にスケジュールアプリを立ち上げる。
「開花時期が近いし、休みに合わせて行ってみようか」
「賛成! 天気予報も確認しますね」
 しゃっと素早く自身もスマホを取り出し、水樹は指で画面を叩く。
 調べたところによると蓮の開花時期には大体の施設が早朝から開いており、これは蓮が開く時間が同じく早い朝のうちということからであった。ならばと理由付けするのも最近では必要ないが、前日から泊まったほうがよかろうと冬人は水樹と過ごす二日間を楽しみにする。
「寝坊しないようにアラームかけないとね。冬人さん、僕が目を覚さないときは頼みましたよ……
「睫毛を擦ると大抵は目を覚ますらしいよ」
……聞くだけで擽ったくなっちゃったな。優しく起こしてください」
 そんな会話をしながら葛桜を平らげて、迎えたのはもう嫌になるほど朝から暑い真夏日。
 昨今、日焼け止めを塗るのも日除けの帽子を被るのも男女の隔てはなく、五時前には既に明るい朝日から身を守るために冬人と水樹はしっかり備えをする。日焼け止めクリームに帽子に冷却グッズ。方々へ出かけるふたりは夏の備えだってばっちりなのだ。
 バスに揺られる時間は早起きもあってうとうとしてしまったが、施設に到着すれば水樹は真夏の太陽にも負けないぴかぴかの笑みを浮かべて冬人の手を取った。
「わ、まだ朝早いのに日陰と日向でこんなに体感温度違う……僕、日陰がこんなに涼しいって感じたの初めてかも」
 施設の蓮池から離れた場所には木々も植わっており、水樹の言うとおり陽が燦々と照らして眩しくさえある道路と木陰ではまったく気温が違って感じた。というよりも、日向が暑すぎて暑すぎて木陰から出たくない。しかし、蓮池は木々の影に遮られることのない場所にあるのでいずれは木陰から出ていかなくてはならない。
……ぎりぎりまで木陰を歩こう。喉乾く前に水分補給してね」
「冬人さんもね。麦茶にお塩入れるのが最強って聞いたけどほんとうかなあ」
「それ多分、ミネラル麦茶だと思う」
「あ、そっか! よかった、僕が買ったのミネラルだった。凍らせたスポドリもいいなって思ったけど、飲むときに解凍されてなかったら大変だもんね」
 言いながら水樹は早速ペットボトルから麦茶を飲む。ごきゅりといい音がした。
 流石に蓮池を擁する施設は広大で、いまは咲いていない他の花々を通り過ぎながら延々と歩くことでやっと目的の場所に辿り着くことができた。
 翡翠の池。空は白いほどに眩い日差しがあるというのに、蓮池は不思議なほどに陰影を感じさせる。それは池の底にある泥のせいかもしれなかったし、ただ水面を埋め尽くすように伸びる蓮の葉のせいかもしれなかった。
「手前にはあんまり咲いてないね」
「柵がないから気をつけて」
「冬人さん、僕もそこまでわんぱくボーイでは……
 葉の間にぽつぽつと咲く薄紅の蓮はふうわりと漂う独特の香りや蓮華座の印象からかどこか神聖な印象があり、カメラを構えて蓮池に近づく水樹の足取りも慎重だった。
 左様、水樹も冬人もわんぱく行為には出ていなかったのだが、だからといって何事もなく蓮を眺めることができたかといえばそうではなかった。
 蓮池に漣を作る強い風。
 こども用ならいざ知らず、麦わら帽子であればまだしも。冬人の大人用の無難な布製帽子には顎下に引っ掛ける紐などついておらず、あっさりと風に飛ばされた。
「お、わ゛……!」
「わー!! 冬人さんッ」
 咄嗟に跳ねて伸ばした腕。帽子はなんとか掴んだものの、無理な体勢から傾く体は蓮池のほうへ。
 ──あ、やばいと冷や汗を掻く冬人の腕を、水樹が渾身の力で引っ張った。
 道路へ倒れ込むふたりは一瞬の出来事であってもぜいぜいと荒く呼吸を繰り返し、下半身から力が抜けたように座り込む。
「ご、ごめん……ありがとう。ほんとうに助かった」
「ううん、無事でよかった……ふふ、冬人さんのほうがわんぱくボーイになるところだったね」
……池に飛び込んでびしょ濡れになるなんて、きっと拳骨でたんこぶを作る羽目になっていただろうね」
 施設の職員さんにもきっと怒られることだろう。冬人は水樹に感謝する。
「あれ?」
「どうしたの?」
 跳ねる胸を撫でていた水樹がなにかに気づいたようにカメラを手に取る。彼のカメラは落下防止の紐が付けられて首に下げられているため、突発的な出来事があっても落としてしまうことはなかった。
「うっかりシャッター押してたみたい。見て、冬人さんが写ってる。ふふ、あはは」
 笑い混じりの水樹が見せてくれたカメラの画面には確かに冬人が写っていたのだが、現代の素晴らしい手振れ補正がついたカメラは飛び跳ねた冬人が遠近感の都合でまるで蓮の上で踊っているかのように見せていた。普段の冬人であればしないような芸術的なポーズである。
「うわー……え、消してね」
「え、消しちゃうの? これはハプニングもあって忘れられない思い出の一枚だと思うんですが」
 だめなの? ほんとうに? と見つめてくる水樹に悪気はないだろうし、冬人が重ねて言えば彼は写真を消してくれるだろう。だが、そうまでさせてしまうのは大人気ないような気持ちもある。確かにおもしろ愉快な思い出の一枚に違いはないのだし。
……せめてまともな写真も撮ってくれる?」
「お、格好いい冬人さんですね? 任せてください、僕は得意ですよ」
 むん、と胸を叩く水樹の頼もしさといったらない。
「きみの写真も撮らせてね。大事な思い出にするから」
 きっと自分が踊っている姿よりもぴかぴかの笑みを浮かべてピースサインをする水樹のほうが、この夏の風景にはずっとずっと似合うのだ。静かな印象を抱く蓮池であっても夏の生気がいっぱいに満ちた花は水樹にぴったりだと冬人は思う。
「ふふ、この夏もまたアルバムが分厚くなるね」
 水樹が眩しそうに空を見上げる。雲は遠く、真っ青なばかりの空。地上には広がる蓮池。
 輪郭を白くする水樹が目を細める横顔を見つめ、冬人は気づかれないようにカメラを構える。
 翡翠の池に花の色、匂うは極楽、天上に光。佇むひとは透き通った青のなかに在りて。
 ぴ、かしゃ。
 無粋な機械音。
 それが気にならないほどに、恋人を写す思い出の一枚は美しかった。
 幾度夏を迎えた先に見返しても、ほうと惚れ直すほどに美しかったのだ。