「付き合ってるんじゃないの?」「好きなんでしょう?」ミスルンとの関係を聞かれるたびに「大切な友人ですよ」とカブルーは答えることにしている。その決まり文句が、空々しく聞こえることは気づいていた。
あなたに復讐以外の人生を送って欲しい。健やかであれ、笑っていて欲しい。
いつ何をしていても、こころの片隅で祈っていた。
自分の言動が相手にどう影響を及ぼすかを計算して動くのが常だったカブルーにとって、自分にも打算なしで誰かの幸福を祈る気持ちがあったのだと思えるのは、子供の頃、秘密の宝箱にしまっていた透明な石を取り出して、そっと光に透かしてみた時のような不思議で、どこか懐かしい感覚だった。
ただの友人ではないことは自覚があった。だからといって、この胸を満たす特別な感情に安易な名前をつけて、よくある形に押し込めてしまうのは、惜しい気がした。それは、まだ誰にも見せていない、自分だけの宝物のようなものだったから。
けれどあの夜、キスをしてしまった。一度だけふれた、柔らかい唇の、自分よりわずかに低い体温に、自らの熱を分けてやりたくなった。
食事を終えて、屋敷まで送って、玄関を入りかけたミスルンが振り返ってこちらをじっと黒曜石のような瞳で見上げてくる、寄る辺ない子どものようなその姿に胸がつまった。不安げに揺れる瞳に誘い込まれるように、気づいたら足が動いて、唇を重ねていた。
あの日から、胸の奥で小さな渦が巻き、その残像がふとした瞬間に泡のように現れては消えていく。泡は、ミスルンの形をしていた。
静まり返った執務室で書類に目を落としていても、夜の帳の中で寝酒を呷り、ベッドに身を投げ出しても、潮騒のごとく続くざわめきは、やがて胸の奥深くで小さな塊となり、ことことと一定のリズムを刻み始めた。
いっそ一度きりの高鳴りで終わってくれたらよかったのに。翌日にも顔を合わせられたらよかったのに。そうしたら「昨日は飲み過ぎてしまったようでして」なんて謝って終わりに出来たのに。ごまかすタイミングも失ってしまった。
*****
ポケットからこっそり指輪を取り出し、昔宝物をそうしたように、光にかざす。精緻な細工が陽光にきらめいた。髪の毛のように細い六本の金糸に寄り添う一筋の銀。七つを束ねてくるりとひねり、永遠の象徴に形作られている。ドワーフの職人の手によるものだ。繊細で、華やかで、ミスルンの指に、きっと似合う。
これを着けたミスルンが、嬉しそうに笑って自分の隣を歩いているのを想像した時にはもう、指が無意識に財布を取り出していた。
買った途端に我に返った。いや指輪て! 正式に付き合ってもないのに、指輪買ってくる男とか怖すぎるだろ。さすがにこれを渡すのは今じゃない。
じゃあ、いつならいいかって? ちゃんと告白して、恋人になって、ほどよき時に折を見て――そもそも恋人になれるのだろうか。
あのキスの翌日からミスルンは迷宮調査に行ってしまって、それきり会えてない。ミスルンの誕生日も、自分の誕生日も過ぎてしまったのに帰ってこない。
未だミスルンの気持ちは聞けてない。
キスのあと、ミスルンは黙ってこちらをみつめていた。その黒々とした瞳は幾多の思いが去来するように揺れていた。物言いたげに、ほんの少し唇を動かしたものの、言葉にはならず、やがてそっと家に入っていった。あの震えた唇は何を言おうとしていたのか。喜びか、戸惑いか、それとも、拒絶だろうか。
抵抗欲もない人に、いきなりキスなど許されるべき行為ではなかった。まずはその点を謝ろう。それからあの時何を考えていたのか聞き出さないと。そしてカブルーのキスが不快なわけではなかったなら――ちゃんと告白させて欲しい。
――それにしたっていつ会えるんだ。
あんまり間を開けたら、この鼓動は落ち着いてしまうかもしれない。また彼の安寧を遠くから祈るだけの関係に戻れるのかもしれない。
彼我の種族差と、それに伴う様々な問題を思えば、その方がきっと正しい。
それでも、今鳴り響くこの鼓動では、それは耐えられそうにない。
この鼓動を無視できるほどには、大人じゃない。恋人になりたい。今すぐにだってきちんと伝えたい。とにかく会わなきゃはじまらない。
「隊長? 夏至の前の日の昼には帰ってくる予定だぜ?」
ありがとうフレキ!!
*****
夏至前日、勢い込んで業務を終わらせ、終業の鐘とともに西方エルフの国の大使館まで走ってきたカブルーの意気込みは空振った。
「ミスルンさん、まだ帰って来てないんですか!?」
「本日帰還のご予定だったんですが。森の向こうの村へ迎えの馬車を出したのに、入れ違ってしまったようでして」
ミスルンは馬車を待たずに出発してしまったらしい。村からここまでは森を抜けて一昼夜ほどか。これからフレキの使い魔に探しにいかせるところだという。
「隊長の事です。滅多なことはないでしょうが……」
「迷ってはいるかもしれませんね」
パッタドルは耳を下げた。
なにせミスルンは、筋金入りの方向音痴だ。迎えを出すのだって、一人じゃ帰ってこれないと判断されているからである。
「あの、俺が迎えに行ってきますよ」
*****
遠くで鳴くミミズクの声が不安を掻き立てる。リィリィコロコロと虫が鳴き、風に揺れる木々の影が、意思があるかのように手招きをする。
夏至前夜の森はしっとりと魔力に満ちて、空気が皮膚に纏わりつくようだった。
カブルーは夜明けまではもたないかもしれないが、とパッタドルに持たされた魔法の灯りに先導されるようにして、夜の森を進んでいく。
砂金のような魔力の粒子が、そこここに淡くきらめく。下生えは葉裏が仄白く、カブルーが踏むとさくさくと音を立て、かすかに発光した。
チェンジリングでエルフになった時の魔力の流れを感知できた体験を思い出す。あの時感じた感覚が、肌によみがえるようだった。
夏至の前夜は魔力が濃いって本当だな。
エルフの国で過ごした幼少期、夏至の朝には必ず養母から薬草で編んだ小ぶりなリースを貰って、健康と長寿を願うおまじないの言葉を掛けてもらったことを思い出す。魔力の高まる夏至の前夜に摘んだ、七種の薬草で作ったリースを部屋に吊るしておくと、翌年の夏至まで健康でいられるんだよと言っていた。
本当はお互いに交換するものだから、お前が大きくなったら作り方も教えてあげようねと頭を撫でた彼女には、自分は何時までも小さな子供にしか見えなかったらしく、結局貰う一方だった。
長じて長命種とは分かり合えないという意識を持つ要因にもなった養母だが、自分が彼女に愛情深く育ててもらったことは間違いない。
つい思い出に耽っていたが、揺らいだ灯りで気づけば、光球が弱く脈打つように光度を落としていた。込められた魔力が尽きかけているのだろう。カブルーは指先をかざし、息を整えてそっと自分の魔力を継ぎ足した。パッタドルの生真面目さを写し取ったかのような白い光は、ゆっくりとカブルーの魔力によって黄色みを帯び、ちりちりと揺らめきながらも再び明るさを取り戻した。
息を吹き返した明かりを伴い、再び歩き出す。
ミスルンはカブルーの事をどう思っているのだろうか。心を開かれている自信はある――でもそれが友情なのか恋愛的なものなのかは分からない。
そもそも彼には抵抗欲もない。強めに押したらすぐ頷いてしまうだろうから、慎重にいかなくては。ミスルンの人生を踏み荒したいわけじゃない。
それとも長命種に取っては、短命種との交流など、この短い一夜の夢のようなものだろうか。
いつの間にやら、ほのかにあたりが明るくなってきた。ああ夜が明ける。貴方一体どこにいるんです?
「ミスルンさん」小声で虚空に呼びかける。早くあいたい。
光球が輪郭を朝の気配に溶かし出す。最後の闇に溶け込むように消えゆく瞬間、その余韻が燐光を放つ。その時、ミスルンの声が己を呼んだ。
「カブルー」
名前を呼ぶ声の元へ、一晩親しんだ夜気が集まって核となり、ふわりと小柄な影を象って弾けるのが見えた。灯りと入れ替わるように転移術で現れたミスルンは、まるで夜の魔法が人の形に結実したかのようだった。
普段ならばカブルーの目には見えなかっただろう。けれどこの夏至の始まりの朝と夜の境目の今だけは、魔力の流れとその余韻を感じ取れた。
ミスルンはカブルーより少しばかり上の空中に現れたので、そのまま落下する彼を腕を伸ばして抱きとめる。ミスルンは腕をカブルーの首に回して収まった。
「カブルー、なぜここに?」
「迎えにきたんですよ、ミスルンさん」
とん、と地面に下ろしてやって、腕の中の顔を見た途端に、今までぐるぐると考えていたことは鳴りを潜め、ただ純粋な優しい気持ちが湧いてくる。
東の空が白み始め、その日最初の陽光がミスルンの背後から差し込む。
やわらかな金色の光が、夜霧を払いながら森を染め始める。夜の帳が名残惜しそうに後退し、今だ静寂の中、鳥が羽を震わせる。一夜の魔法が解けたように、森がゆっくりと朝の顔へと入れ替わってゆく。
夜の魔法のようにあらわれたミスルンの姿もまた、朝の輝きに新たな輪郭を得る。細い髪を淡く陽光に透かして立ったミスルンは、今までで一等美しかった。頬の微細なうぶ毛が、金の粒子をまとったようにふんわりと輝いて、ミスルンの影がカブルーの足元へ届いたのを目にした時、カブルーは理解した。
この人を愛している。共に生きたい。たとえ自分の一生を使っても彼の残りの人生の半分にも満たず、俺のいなくなったあとにこの人が、他の誰かと生きるとしても。
夜の名残が空の端に溶ける中、ミスルンの髪の毛に絡まった葉っぱやら小枝やらをせっせと取ってやりながら聞く。
「よく俺がここにいるってわかりましたね」
「道に迷っていたら、お前の魔力を感じたんでな、それを頼りに飛んできた」
「しかしなんだってこんなに葉っぱまみれなんですか? 森と格闘でもしましたか?」
「格闘はしてない。採取をしてた」
ミスルンが手に持っていた布包みをちょっと持ち上げて見せる。
「それは?」
「リースの材料だ。七種ある」
いいながら布包みを地面に開いてみせる。しらじらと明けゆくまだ薄暗い空の下、その前に座り込むと何やらまじないをつぶやきながら七種の薬草を選り分け始めた。
ミスルンは荷物に引っ掛けていた蔦を解き、上の方を数枚ばかり残して葉を落とす。その手の動きはゆっくりだった。
「お前にキスをされた時のことだが――」
昨日の事みたいに話し出すよな、エルフの人は。いきなり本題に入られてどぎまぎするカブルーには俯いたまま気づかずに、ミスルンは続ける。
草束の端をくるりと蔦でまきながら口を開く。「あの時、驚きはしたが、お前の心に触れたような気がして、私は嬉しかったように思う」しなやかに動くミスルンの指を明るさを増した光が静かに照らす。
「なんとなく離れがたく思えて、お前を見上げたらキスをされて……」くるり。もう一度蔦を巻き、次の薬草を足してゆく。
「このような、お前の心に触れられる瞬間が、何度でも繰り返されればいいと思った。だが同時にお前の方が先に逝く、この瞬間は何度もないのだなと、あの時急に理解した」何度だって、このキスが欲しいのに。
花を中央に据え、枝の向きを微調整しながら、手早く絡めていく。「迷宮に潜っている間も考えていた。私がこうやって過ごしている間に、気づけば時が経ちすぎて、地上に戻ったら、お前がいなくなってしまっているのではないかと」
小さな握り鋏を取り出して、若枝の余分をぱちりと切る。
「迷宮を出たら、お前の誕生日すらとっくに過ぎていたことに気がついて、矢も盾もたまらなくなり、迎えの馬車を待たずに飛び出した。お前の顔が見たかった」
ばらばらだった薬草たちは、ミスルンの手によって、夜明けの光を編み込むように、日輪の形に整えられてゆく。
「森でお前の魔力を感じた時は、驚いた。まさかこんなところにいるとは思わなかった」横顔がわずかに笑う。
「薬草を集め終えて気づけば、自分がどこにいるかもわからなかった。どうしたものかと思っていれば、お前の魔力がしたものだから、それを頼りに転移した――お前の元に」
蔦の端を指先で押さえ、最後の留めを静かに引くと、顔を上げた。
「カブルー、お前は私の光だ。お前はいつも、私を導く」
「ミスルンさん……」
あっという間に出来上がったリースをミスルンがゆっくりと差し出してくる。
エルフ語で健康と長寿を祈念されながら、両手に収まるほどのリースをそっと手の上に乗せられた。
「お前には長生きして欲しい」
「ミスルンさん……」
ここは好きとか言ってくれる場面なのでは。おじいちゃん長生きしてねみたいになっちゃってない?
それはともかく、ミスルンがカブルーの為に薬草を集めてきてくれた事には感動していた。おれも道々、材料を集めてくればよかったな。本来リースとは交換するものではなかったか。せっかく昨夜思い出していたのに、そこまで頭がまわらなかった。今カブルーが持っているものと言えば――ポケットの中で指輪を握る。
どうしよう、指輪はさすがに重いか。今、渡すべきだろうか? それとももう少しは折を見て?
俺に長生きして欲しいって気持ちは伝わったけど、恋人になりたいとは言われてない。指輪を出して「末永く友人でいたいという意味だった」とか困惑されたら、ちょっと立ち直れない。
でも俺は貴方と恋人になりたいです。恋人? いいや違うな、もっとずっと、人生を共にするような……。
もう一度ポケットの中で指輪の感触を確かめる。指先に金糸のなめらかさがひやりと伝わり、自分の手が熱い事を知る。一瞬だけ深く息を吐く。取り出すべきか、やめるべきか。その僅かな逡巡の間にも、彼の指は無意識に指輪の表面をなぞる。
ミスルンの指に似合うと思って買ったのだ。
この指輪をつけたミスルンと、共に歩んでいけたなら。
「あの、お返しってわけではないんですけど……」
そっとポケットから拳を引き抜いて、ミスルンの前で指を開く。彼の目が驚いたように大きくなった。
「――私に?」
指輪を掌に乗せたまま、カブルーは息が詰まってほんの数秒動けなくなった。
黒い瞳に、ゆっくりと喜びの色が広がる。ミスルンの頬が朝の光に照らされてばらのように色づいたのを認めた瞬間、ふっと身体の緊張が解ける。あ、大丈夫多分これ正解。
「……ミスルンさん、手を――」
こちらから左手を取っていいのか、それでもまだかすかに迷って、手のひらを上にして差し出すだけに留めたちょっとのズルさは許して欲しい。でもそんな俺の手に、ミスルンさんは躊躇なく自分の左手を乗せてきた。
「俺、長生きします。そして貴方と共に、人生を過ごしたい」
ミスルンの細い薬指に指輪を嵌めてやる。よかった、サイズはぴったりだ。
太陽が力強く昇り、夜を押し上げていく。あたりが明るくなりゆく中、ミスルンの指で金と銀の糸が柔らかく光る。
カブルーは決意を込めて息を吸い、手を取ったまま左ひざを地面につける。
まっすぐにミスルンを見つめて告げる。
「俺と、伴侶になって下さい」
ミスルンは迷子を見つけて貰った子どものような顔をして、カブルーを見つめながら物言いたげに唇を動かし、結局声にならずにただカブルーの首筋に抱きついた。
言葉はなくとも、それが答えだった。
カブルーは、震えるその背を撫でて抱きしめた。
ミスルンはカブルーの首筋に顔を埋めたまま絞り出すように息を吐いた。力強さを増した光が二人を包む。
「……長生きしろ、カブルー」
「百まで生きてやりますよ」
陽光が昇り切り、新しい一日の始まりを告げる。ミスルンはまだ腕の中にいて、カブルーはただじっと小さな体を抱きしめていた。わずかに低い体温にカブルーの熱が移って暖まってゆく。このぬくもりを、自分の後の誰かに譲ってやるなんて無理そうだ。だからこそ――。
バランスの取れた食生活、生活リズムの見直し、そして適切な運動――メリニ国の国是をカブルーは改めて己に誓った。
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