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残りの夜が来た
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ファ。
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第四種接近遭遇
2025/6/14 聡狂 15話読んで思ったことを形にしたかった
きみのために死ねたらどんなに素敵だろう、そんなロマンチズムを抱いた瞬間が狂児にもあった。
思い起こせば狂児にとって、その時間はそれまでの人生の集大成だったのかもしれない。あの日はアホみたいに暑く、アホみたいに暑い中アホの宇宙人が突っ込んでくるし、ひさびさに生で肉を潰した拳も血の昇った頭もそれはそれはまあアホみたいにジンジンと熱いし、その割に、耳に残る音は例によってドチャ! ペチ! で、あかん、俺何年経ってもや〜っぱり鶏肉さばいてるとこ思い出すねんな
……
なんでやろなぁ
……
と、首を傾げながら自身の関節を眺めたのを覚えている。今でもその瞬間を想起すると真っ先にその音がよみがえってくる。
カラオケ屋の鶏肉を想起するくらいだからそのときの打撲音自体は特に珍しいものではなく、人生の途中から綿密と続く様々な暴力のうちの一つに紛れてしまっていたのだが、あのアホみたいに暑い日のドチャ! ペチ! のことを考えると、狂児が一瞬抱いた妄想、またそれによる高揚が、芋蔓式に呼び起こされるのだった。きみのために死ねたら!
狂児はあの暑い日まで、自分自身そのような思想とは完全に無縁だと思っていた。死ぬことに関して特に強い欲求も忌避もなく、なるようになるとしか思わなかった。ましてそこに自分以外の人間の存在が絡むなど、想像すらしたことがなかった。それ故に、助手席に突っ込んできた宇宙人に対して目の前が赤くなるほどの怒りを覚えた自分自身のことが、ちっとも理解できなかった。俺は一体何をしてんねん? ドチャ! ペチ!
……
間抜けな音を俯瞰するように聞いているうちに、稲妻のように落ちてきたのが、件の生まれて初めての着想だったのだ。きみのために死ねたら。
それはまさに甘美そのものであった。ねっとりふわふわとしたその妄想は、暴力に勤しむ肉体とは全く別の軌道でもって、胃を持ち上げ脳を満たし、目玉の後ろを這い下りてから鼻を抜け、最後には恍惚の吐息となった。三十九年の人生において一瞬たりともそのようなことを考えもしなかったから余計に、そのロマンチズムは狂児の胸に甘い爪痕を残したのである。
しかし現在、その感情の現物は狂児の中にない。時間経過による消失ではない。生まれてすぐに死んだ。初恋に浮かれる中学生のような空想は、現実に中学生だった”きみ”によって綺麗に粉砕され、スナックカツ子の副流煙の間をキラキラと漂った。
霧散するそれを悼む間もなく圧倒的な福音をぶつけられた狂児もまた、他ならぬ”きみ”の手によって、ロマンチズムと共に死んだのかもしれない。そして地獄から蘇ったときにはもうすっかり別の人間──というところまではさすがの奇跡も手が回らなかったようだが、当時極道歴二十年弱の中年は、その歴を重ねてゆく過程で、アホなロマンチズムの痕跡を折に触れてなぞり、同時にそれがきちんと死んでいることを確かめるようになったのだった。
きみのために死ねたらどんなに素敵だろう?
な~~~~~~~~~~にをぬかしとんねんアホ。べちん。
◇◇◇
その夜、唐揚げを食べると言ったのは聡実だった。
その夜、蒲田のアパートを訪れる約束をしていた狂児は、てっきり商店街の肉屋で出来合いのものを買ってきてくれと言われているのだと思った。もしくは山盛りの唐揚げが名物の居酒屋に行こうというお誘いなのかと。
どっち? と尋ねたら、どちらでもなかった。唐揚げは家で作るのだそうだ。あの蒲田のアパートで
……
?『あれ、聡実くん今実家やった?』
約束の日を間違えていただろうかとカレンダーを開く前に『違いますけど』と返信が来た。『狂児さん今日東京にいるんですよね』
『おるよ』
『唐揚げ作ります』
『おうちで?』
『そう』
『アパートの火災保険入ってる?』
返事が途切れたので、聡実が変なところをケチっているのではないかと心配になった狂児だが、揚げ物による火災に関していえば、今日はひとまず杞憂であった。聡実宅に赴いた狂児を出迎えたのは新品の家庭用電気フライヤーで、唐揚げはこれを使って行うに違いなく、さらに言えばこの狭い台所でフライヤーが鎮座しているのがガスコンロの上なので、結果的に全ての直火が封じられていた。
電気やったら熱なったら勝手に消えるやろ、置き場所はともかく。置き場所ええんかここで? かんさい、でんきほ~あんきょうかいに怒られるやつちゃうこれ?
胸中のおしゃべりを捨て置き、狂児はただその表面をツンとつつくにとどめた。「どないしたん?」
「親がくれました。なんか当たったらしくて
……
」
「すごいやん」
「当たったけど実家やったら鍋で揚げるしって。ていうか、もうそんな揚げ物もせえへんからって、油といっしょに届いた」
「めっちゃ優しいなぁ」
「やから今日は唐揚げします」
唐揚げ宣誓をした聡実が冷蔵庫から取り出したのは、業務用ブラジル産ブロイラーもも肉2キロ入りだった。「ずいぶん立派なのを」
「g単価換算したらこれが安かった」
「しっかりしてはりますな~。俺もちょっとだけ肉買うてきてもたわ。一緒に揚げてもらってもええ?」
「ありがとうございます」
持参した肉屋の包み、国産鶏を唐揚げサイズに切ってもらったものをコンロの脇に置こうとした狂児は、そこにはすでに空きスペースが少しもないことに気付いた。調理スペースなど言わずもがなである。「ほんでどこで肉捌く?」
「
……
床?」
「床は
……
」
床はやりづらいんちゃうかという狂児の提案を飲んでフライヤーのほうを床にうつした聡実は、小さなシンクに渡したまな板の橋の上に、鶏肉一切れを静置した。ピンクの塊の前で包丁を手に佇む彼の傍ら、作業が始まればぶつかるであろう肩をすぼめながら同じくぼんやりと立っている狂児のほうにも一応責務があり、開封済みの袋からぬるぬる飛び出ようとする残りの肉を食い止める、そのためだけに隣で袋を支えている。
不安定なガスコンロの間に口の開いた袋を置いておくことができないからそうしているのだが、ボウルはなくとも鍋にでも放り込んでおけばいいと気づいたときには、二人ともすでにべたりと鶏肉に触ってしまっていて、そして手を洗いたいシンクはまな板で塞がれていたので、もうええやろとこのままいくことになった。のだが。
「
……
」
もうええやろとなった割にまだぼんやりしている聡実の心情はすぐに判明した。「面倒ですね、でかい肉切るの」
「うん」
「狭いからやろか」
「それもあるかもなぁ」
「やからお店の人が切った唐揚げの肉が売ってんねや。家で切りたくないから
……
」
うめく聡実に「バイト先でキッチンとか入らへんの」と訊ねると、聡実はしっとるやろという顔でこちらを見た。「うちのは全部冷凍です」
「へ~! あれ冷凍なん? すごいな」
「しらじらしいねん」
狂児は本心からファミレスの料理とその冷凍技術を賞賛したのだが、聡実はそうは受け取らなかったらしい。それどころか自身が調理をしないことを揶揄されたと感じたのか、なにくそという空気を醸し出し、ようやく包丁を構えて肉に手を当て、「あっ」「えっ!?」
狂児の声に、聡実はびくりと肩を上げた。「
……
何ですか?」
「え~」
ごもっともの質問にうまく答えられる気が全くせず、狂児は「生の鶏肉触った手舐めたあかんよ」とはぐらかした。聡実はまたかと面白くなさそうな顔をして「舐めません」と宣言し、そしてついに肉の表面に切っ先が突き付けられ
……
たのだが、聡実の手元の鶏肉は、そんな音立たないのが当たり前ですとでもいうように、ドチャともペチとも鳴らなかった。
静かに押し付けられた刃は肉に筋状に食い込んだが、聡実がそれを押しも引きもしないので、切られるというよりはただ潰されていく。途中から思いついてのこぎりのように前後し始めた刃によって切り離された部分も、どちらかといえば引きちぎられたという様相だった。
まな板にへばりつくすりつぶされた肉にうへぇという顔をしながらも、聡実は二つを四つ、八つ
……
と切り分けていく。しかしその過程でコツをつかんでいくという感じもなく、そもそも切れ味の悪そうな包丁だ。どうあっても肉は最後に引きちぎられる運命にあるようだった。
「
……
」
無慈悲な手つきを顎を引いて眺めていると、狂児の所作に思うところがあるのか、聡実はチラリとこちらを見上げた。「今度は何やねん」
「何もないよ」
「なんか言いたそうな顔してますけど」
「えぇ
……
」
狂児は少し考えて、「痛そう〜」
「何が?」
「鶏」
「死んでます」
「今度よう切れる包丁買うたろか」
「必要やったら自分で買います。
……
次の肉ください」
これを繰り返すこと四回。
2キロの肉すべてをぶつ切りにした聡実は、そのすべてに味をつけ、そのすべてに衣をつけてしまった。粉を纏った鶏肉が山盛りに入ったボウル代わりの鍋を抱いて、狂児はキッチンの床に胡坐をかき、聡実は隣で膝を抱いている。なぜ床の上かというとフライヤーの位置が変わらず床の上だからで、ガスコンロの上では安定しないし、シンクの上にもうまくおさまらない、ならばもう、要らない紙でも敷いてここで揚げるのがいいだろうと二人で協議した結果だった。温度調節のつまみの”唐揚げ”と書かれた部分に小さな三角を合わせて待つこと数分。油の海からふわふわと泡が立ち上がり始めている。
「ホンマにこれ全部食べる?」
「いけるやろ。
……
狂児さんこれ絶対に蹴とばさんといてくださいね」
「聡実くんもやで。え~なんや緊張するわ~」
「平気やろ。あ、火災保険は入ってますんで」
「えら〜い! いやそれもやけど」
アパートどうこういうか火傷とかの話、と言った狂児に、聡実は油面を眺めたまま「ああ」と納得の相槌を打った。それから「大丈夫や」と頷き、ちょっと考えてから付け足した。「僕がおるやろ」
同じく油面を眺めていた狂児は、思わず顔を上げて彼の横顔を見る。
狂児が視線をぶつけ始めてから数秒して、聡実も顔を上げる。
「
……
何ですか」
「ん」
何やろな。狂児も考える。たった今自分がどんな感情の波に襲われたのか、うまく答えられる気が全くしなかった。かといってこんな反応をしてしまった以上、誤魔化すこともできない気がした、のだが
……
いや、ちょぉ待てよ。「俺が揚げる係?」
「え? はい
……
」
当たり前だろう、と頷く聡実のしたり顔と、そのしたり顔の制圧下で今にも笑い出しそうな表情筋に釣られて、狂児もニタリと笑ってしまった。先に到来した思いとは全く別の感情からの笑いだが、こちらの説明は前者よりもずっと簡単だったので、遠慮なく表に出す。「ンフ」
「何ですか」
「聡実くんわろてもうてるから」
「わろてへん。めっちゃ真剣です」
「ホンマに~?」
「はよ揚げてください」
「もっと応援してよ」
「あ、エプロンつけます? おかんが一緒に送ってきたのがあって
……
」
立ち上がった聡実の足元、ついに跳ね始めた油がパチパチ鳴っている。
宣言通り、2キロの唐揚げは全て(主に聡実の)腹に収まってしまった。小さな炊飯器も綺麗に空にして、最後の一つをそれぞれ咀嚼し嚥下したのち、狂児が先にその体を畳の部屋に横たえた。
「ごめ〜ん、ちょっと消化するわ
……
」
腹パンパンやとうめく狂児の脇に、お茶の入った寿司の湯呑みが降りてくる。礼を言いながら見上げた聡実は、蛍光灯を背にして「揚げたてうまかったですね」と頷いている。満足げではあったが、まだ出てくるなら全然食べますという顔でもある。眩しい〜。狂児は目を細めた。「良かったわ
……
」
「美味しくなかったですか、狂児さんは」
「めっちゃうまかった〜
……
」
「良かったです」
換気扇では逃しきれない油の匂いが漂う四畳半、頬をいぐさに刺されながら聡実を観察していると、聡実もまたこちらの観察を始めた。まだ出てくるなら全然食べますの視線を、待って俺腹いっぱいやねんの視線で牽制──するふりをしてズズズと腕を伸ばし、あぐらをかいている聡実の裸足の爪先に触れる。少し湿った足先をなぞる指は時折摩擦で引っかかり、その度に右足は足首ごとぴくりと震えたが、視線はまだニュートラルに互いを眺めている。
「寝ます?」
「油っぽいから風呂入らな」
「先に入ってきてください」
「待って、もうちょっと休んでから
……
」
「じゃあ僕が先に入りますけど
……
」
そう言いながら聡実が立ち上がらないのは、狂児の手がついにその足首を掴んでしまったからだが、聡実の方もそれを振り払ったり咎めたりする気配はない。まだ見とるん? もうちょっと
……
が数往復したのちに、もうええわと聡実も倒れ込んでくる。畳の上で向かい合って顔を見合わせた瞬間、彼の口から「あっ」と声が漏れた。
「何?」
「狂児さんの肉食べてへん」
「
……
食べる?」
「
……
う〜ん」
迷うんや。ほんでホンマにまだ全然食べられるんやと思いながら見守っていると、聡実は思案顔のまま狂児のワイシャツの裾を引きずり出し、隙間から手を突っ込んできた。胃のあたりを上下する手に向かって、「肉って俺やった?」と尋ねると、彼は「いや
……
、うん
……
」と唸り、「ホンマに迷った。一瞬」
「何を?」
「狂児と狂児さんの肉どっちにするか」
「同列なんや
……
」
狂児のつぶやきに聡実はふっと笑ったのだが、その笑いが彼のうちにある何らかのトリガーだったらしい。吐息が宙に消える頃にはもう、腹を撫でる手つきは熱を持ち始め、「けど狂児さん、まだ消化してないですよね」と尋ねる声が、耳腔を滑り降り、体の底をふわふわとくすぐる。這い上がる甘いざわめきを、狂児も笑いまじりの吐息で逃しながら、「全然してへんけど、ええよ」と答えた。
「え、大丈夫ですか」
思慮と驚愕と期待の入り混じった顔がこちらを見る。
実際胃は少々重いが、そんなことよりも狂児は今猛烈に、聡実によってぺちゃんこに押し潰されたい気分だった。一緒に抜くくらいでは満足できそうにない。
……
いや、嘘だ。押し潰されるくらいでは足りない。そんなことでは全然足りないのだが、「うん」
半身を起こした狂児は湯呑みとカップを退避させながら「消化終盤になったらもっとあかんやん」と一般的事実を述べ、振り返って聡実の肩を掴んだ。その体に乗り上げてからくるりと回ると、次の瞬間にはもう、聡実の方が、仰向けの狂児の上に覆い被さる格好になっている。「準備はしてるし」
呆気に取られてこちらを見下ろす顔、その唇に徐々に力が入り、最後にむうと結ばれた隙間から「スケベ
……
」と呻きが漏れた。
「聡実くんが?」
「アホ」
軽く音を立てて当てられる手のひらに、狂児は頬をすり寄せる。
◇◇◇
きみのために死ねたらどんなに素敵だろう、そんなロマンチズムを抱いた瞬間が狂児にもあった。それから数年、狂児は未だにアホなロマンチズムの痕跡を折に触れてなぞり、それがきちんと死んでいることを確認し、さらに、そのロマンチズムと一緒に殺されたあの瞬間のことを思い出している。きみの福音で俺がばらばらになる瞬間のことを。
そして恍惚に震えるその度に、そんなことは許さないと頬を叩かれるのだ。
……
きみのために死ねたらどんなに素敵だろう? な~~~~~~~~~~にをぬかしとんねんアホ。
僕がおるやろ。べちん。
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