ある五月の始め、カブルーがミスルンの屋敷を訪ねると主は中庭にいるのでどうぞそちらへお回りくださいと年嵩のエルフの使用人に告げられた。
本来は客人であるカブルーが好きに邸内をうろついた所で咎める家主ではないし、勝手知ったる屋敷である。カブルーは案内を断って一人でひんやりと薄暗い屋敷の中を進み始めた。
カブルーがミスルンのこの屋敷に通い始めたばかりの頃、つまりミスルンがメリニに本格的に居を構えた当初は、まだ屋敷内も落ち着かず、ミスルンの兄が厳選して本国から送り込んできたエルフの使用人の他に、現地雇のトールマンの下働きも何人かいて、カブルーは彼らとも台所や裏口で親しく口をきいたものだったが、彼らは一体どこに消えてしまったのかと思うほどに屋敷はしんと静まりかえっていた。
カツンカツンと石の床に靴音が響く。冒険者用の丈夫が取り柄の無骨なブーツから、役人としてのちょっと洒落たブーツやら革靴やらに履き替えて何年経っただろうか。
あの迷宮での日々はつい昨日のことのようにも、遠い夢のようにも思われる。
室内から中庭に続く明るい回廊に出た瞬間、ふわりと甘い香りに包まれた。
五月の薫風の中、中庭の壁に沿うように藤の大木が空を覆い白からピンク、薄い紫色の花房がグラデーションを作って天蓋のように垂れている中にひっそりとミスルンは座っていた。
澄んだ静寂に包まれたまるで絵画のような光景に、思わずカブルーは息を飲んだ。自身の吐息でこの静寂を破ってしまうのはあまりに惜しく、そっとそっと息を吐く。
出会った時にはくすんでいた銀色の髪が、木漏れ日を受けてキラキラと光る。頭上の花のような淡い紫の服にほっそりした身を包み白いテーブルセットの椅子に腰掛けて、静かにティーカップを傾けているミスルンは、まるで藤の木の精霊のようだった。
この世のものではないような光景にただ見惚れるカブルーの頬をなでた初夏の風が歓迎するように白い藤を揺らし、庭へと招き入れる。
風に促されたようにこちらを振り向いたミスルンがカブルーをその隻眼に認め、
花が綻ぶように、笑った。
頬にほのかな朱を残して微笑みが解ける。途端に異界めいた雰囲気は霧散し、そこにいたのはカブルーのよく知るミスルンだった。
よく知ってる人のはずなのに、まるで初めて会ったかの人のようにも思えた。
ああ、いつからそんなに柔らかく笑えるようになったの。
いつからそんなに健康的な顔色になったの。
いつからそんなふうに愛しそうな目で俺を見つめてくれるようになったんですか?
ざあと、薄紫の花が風に揺れる。
瞬間、カブルーの脳裏にミスルンと出会ってからの日々の記憶が押し寄せる。
裏島主の家での初対面の油断ならない印象。圧倒的な強さを見せた大立ち回りの際の不敵な笑み。ままよと彼を道連れに落ちた迷宮の深層での六日間。外交官として女王の信任状を携えて登城してきた時の正装姿。カブルーが連れて行った下町の騒がしい酒場で果実酒をあおる細い喉。見た目にそぐわぬ筋肉を使って力強く蕎麦を打つ後ろ姿。力強すぎて蕎麦が硬くなってしまい、お前にうまいものを食わせてやりたかったとしょんもりと欠けた耳を下げた姿。眠れないとマッサージをねだる瞳の奥にかすかな甘えを認め甘美な幸福感に包まれた夜。
そしてメリニ建国となったあの日、竜となった娘を切り分けながら静かに泣いて、カブルーだけに見せたミスルンの笑顔。思えばあの時、恋の雷に打たれてしまったのだった。
告げたことはないけども、それからずっと恋をしている。
足をマッサージして寝かしつけてやり、その身を抱きしめて朝まで過ごしても口づけのひとつも交わしていないけれど。
ミスルンの館の使用人たちの態度が気安いトールマンへのものから、主人の伴侶に近いものへのそれへと変わっても、指輪のひとつも贈ったことはないけれど。
そろそろ身を固めろと持ってこられた縁談にも胸に住む銀色がつかえて頷けず、かといって縁談が来たと話して気を引くようなこともできなかったけれど。
ずっとずっと恋をしている。
だってミスルンは四〇〇年を生きるエルフで、カブルーはたかだか六〇年ばかりの寿命のトールマンだ。
二人の残り時間を比べても、そこに横たわる川はあまりに深く広い。
この恋は墓場まで持っていくつもりだったのに、酩酊するような甘い香りに包まれて、あなたがほんのりと光って見えるほどに柔らかに笑うから。
カブルーは長年あたためた恋を告げるべく、そっと口を開いた。
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