ひまわり畑で会ったなら

カンストシフランの話 カンスト実績まだのうちにしか書けねえ気がしたので走りました ちくしょうささやかなスケッチのつもりだったのにおれがしょうきだッ(錯乱)




「でも実際、君、言うほど本気じゃなかっただろ」
 急にイザボーにそう言われて、シフランはあんぐりと口を開けたまま固まりました。
 そんな日の夜の、のろのろとした反省会も兼ねての晩酌どきでした。シフランは今まさにかぶりつこうとしていたつやつやのベーコンとバターをのせたパンを見て、それからイザボーの方を見て、もう一度パンの方を見てから、そっとお皿の上へとパンを戻しました。
「僕が嘘をついてるって? ひどいなあ」
「いやいや、いくらなんでも俺だって分かる」
 イザボーはそう答えながらも自分のお皿のハムをつまんで、それからわざとらしく腕を組んでみせます。
 シフランは確かに言っていました――『結構本気でやってた』と。でも、イザボーにはそう思えません。だって、そうだとしたらちょっとおかしいんです。
「君の早さ、なんというか、ガタガタだった。最初はとんでもないと思ったのに、次は妙に遅かったり……そういう作戦かと思ったが、そうじゃない。迷っているというか、困っているというか……なんというか、そう、リズムがなかった。どのくらいでやるのが一番いいのか、ずっと探られていた気がする」
「む……
 そんな風に顔をしかめちゃ、図星ですと言っているも同然でしょうに。
 シフランは所在なさげに自分のジョッキに口をつけ、これもまたすぐにテーブルへ置いてしまいました。その中身はお酒ではなくて、いい匂いのする果実水です。
 イザボーはシフランのそんな様子を見て、うんと大きく頷きました。これでたぶんあっているはず。
「推測でしかないけど、必要な加減の具合が想定と違ったんだな。……シフの記憶にある俺は、もう少し強かったんじゃないか?」
「う」
 正解。
 でも、その瞬間にシフランの顔へとさっと差しこんだ淡い暗がりに、イザボーは心の中だけで小さくしまったと呻きました――いやいや、この結論までは言わなくてよかっただろ。どう考えたって、これはシフランの、あまり思い出したくないところに触れる推測だ……
 とはいえ、シフランはちょっとだけ首を振ると、皿に戻していたパンをぱくぱく二口で食べきってしまいました。見慣れた頬の膨らみかたに、ちょっとだけイザボーの頬も緩みます。言うほどショックではなかったんでしょうか? それを確認しようと思うほど、考え無しではありませんが。
……うん。そうだよ、イザはもっと強くなれる。僕は知ってる。見てきたから」
 シフランはジョッキの果実水をぐびぐびと飲んで、いかにも渋い顔をしています。それは果実水が絞りきったレモンを一切れを浮かべただけのものだったから、というだけではないでしょう。お酒はまだちょっと様子を見ようね? なんて禁酒を言いつけられているせいで、彼は酔いに逃げることも出来ません。
 イザボーは少しだけ目を逸らします。これはあまり誰も彼もに伝えられている事ではありませんが、英雄ミラベルとその仲間たちの旅路には、もちろんたくさんの苦難が待ち受けていました。ただその中でも、シフランの受けた……あるいはうっかり飛び込んでしまった試練というのは、群を抜いて厳しいものだったと言わざるを得ないでしょう。
 だって、同じ時間を何度も何度も繰り返すだなんて、どういう事なんでしょうか? それがどれだけ辛くて、苦しくて、寂しいかなんて、そんなのはもうシフラン以外の誰にも分かりません。おまけに時間が繰り返されるだけ繰り返されたこの末にあって、その時のことはどんな日記にさえ残っていないんですから……
……でも、そういう強さが君の夢に必要なものかって言われるとね。せっかく綺麗な手をしてるんだからさ、こんなの気にしないで、そっちを大事にした方が絶対良い」
「そうかー……
 ――嘘でもジョークでもない、なあ……
 イザボーはむむむと唇を尖らせました。悪いことをしちゃったな。イザボーは確かにそう思っていましたが、しかし同じくらい彼自身でも分かるほどくだらない事を考えてしまうのも事実でした。――その時間の中の自分って、そんなにすごいものだったんだろうか?
 シフランがつんつんと指差すイザボーの手は、誰がどう見たって綺麗と言うにはちょっと頑丈すぎる手です。もちろんイザボーは自分の手を、きちんと手入れするほうです。爪だっていつもピカピカに塗っています。けれどもイザボーの手は自慢の武器でもありました。大きくってゴツゴツしてて、皮膚だって硬く分厚く張っていて、普通だったらせめて強そうな手と言い表すところです。
 なのにシフランはなんの含みもなく、するりと『綺麗な手』と言いました。まっすぐ夢を目指すべき綺麗な手! こうもきっぱり『今のお前はとても弱い』と言われてしまえば、苦々しい気持ちになるなというのも無理な話でしょう。ですがシフランがはっきりと言ってくれたのは、この手の事、時には命に関わる技術の話で嘘や誤魔化しをしてしまうと、必ずどこかしらで良くないことが起きるからです。それ以上、それ以外のの意味がないことは、イザボーだってよく分かっていました。
 けれどもやっぱり……やっぱりですよ。好きな人を戸惑わせて、がっかりさせて、挙げ句にこんな言いにくいことまで言わせておいて! そんなカッコ悪い自分に対して、腹が立たないわけがないじゃないですか?

……よし!」
 イザボーは軽く自分の頬をはたいて、心に気合を入れ直しました。
「どうあれ、シフ、少なくとも君の身体には何の問題も無いことは分かった。すごく良いことだ! 俺はそれがとても嬉しいよ」
「イザ……
「だから、あとは俺の問題だ。気にする、しないじゃなくてさ。いつか改めて、君が本気を見せてくれるのを目標にするのも悪くない……なぜなら、その方がかっこいいからだ」
 よし。我ながら良い目標だ。
 イザボーはひとりうんうんと頷きましたが、シフランはなんだかきょとんとして、じっとイザボーのことを見ていました。
……ええ?」
 はてな。今聞こえた呻きは、確かにシフランのものです。でも顔には苦笑いを浮かべているだけなのに、どう考えたって不満げで、納得いかなそうで……。もちろんイザボーはそれにすぐ気づきましたが、しかしそれが何故だかまでもは当然わかりません。
 なんだか変な静けさが二人の間にやってきました。どうしよう、これ。なんか変な事言ったかな。ちょっとキザだったかな。わりと真面目だったんだけどな。
「あー……。だからその、よかったら、そのうちまたやろう。今度は様子見じゃなくてさ。付き合ってくれると嬉しい」
 とりあえず、これは本心です。ちょっと照れくさいな、なんて気持ちが頬に浮かびそうになるのを抑えながら、イザボーはなるべくいつも通りに言いました。
 シフランは、しんとイザボーのほうを向いていました。ただどうも、向いているだけのようでした。
「シフ?」
 するとシフランは、突然思い立ったようにジョッキを持ちました。残っていた果実水はそう多くありません。それを殆ど吸い尽くすみたいにして飲み干して、それから、ひょいと扉の方を指さしました。
……じゃあ、今から行く?」
「へ?」

   *

 てくてくと先を歩くシフランの姿を、イザボーはぼんやりと追っていました。
 いつもは頼もしく見えるその背中が、今は奇妙に知らないものに見えました。だっててっきり、話はこれで終わりと思っていたんです。分かった、楽しみにしてるよ、頑張ってね。ああもちろん、頑張ってみせるとも……。何となく考えていたのと言えばそんな具合で、とても今すぐ連れ出されるなんて、頭のすみっこにすらありませんでしたから。
 道に街灯はありましたが、それでも路地はいつもより少し暗く見えました。そんなことよりシフランが纏ういつものマントの明るさが、不思議と真っ暗闇でぼんやり光っているようさえ感じました。何となく空のほうを見上げれば、同じだけ星が瞬いています。辺りがざわざわと騒ぎ立てているように思うのは、たぶん、その辺の草や木が揺れているからというだけのはずです。それかせいぜい、少し遠くなった宿の人々のざわめきが聞こえているか。そうだとしたら、振り向けばあの窓の灯も星のように見えてくれるんでしょうか。
「それじゃあ、ええと……」シフランが話し出そうとすると、彼の歩みは少しだけ遅くなりました。「……僕はクラフトを使わない。手を抜くんじゃなくて、相談もせずに使ったのがバレたらミラもオディールも怒るからだ」
「ああ、そうだな」
「ね。それから、武器も使わない。今度はちゃんと僕からも行くけれど、今からやるのは組手や手合わせじゃなくて、あくまでも、立ち回りとか……そういうものだから」
……おう」
「合図は……使わないんだし、これでいいか。これが落ちたら僕は動く。イザ、それでいい?」
 シフランが、マントの下から小さな木剣を取り出します。結局のところ、イザボーはただ頷くだけしか出来ませんでした。
 石畳にこつこつといっていた靴底が、いつのまにか、とすんとすん、足音を柔らかい音に履き替えていました。見下ろせば昼間と同じ芝生がゆらゆらと、しかし今はわずかにふちだけを光らせて揺れています。それこそ夜の真ん中にある、星か潮かの海の中のように。
 シフランがとことこと離れていきます。そうして二人は、今日のはじめの位置へと戻ってきました。けれどふと、このあと本当にどこまで戻ってこれるのか、風より静かな疑問がやってきました。
「イザー! いくよー!」
「おーう!」
 でもイザボーは、同じだけ声を張り上げて応えました。そんなの全部気のせいです。さん、にい、いち――シフランが、天高く木剣を放り投げました。
 考える必要すらありません。終わったら、戻ってくるに決まってるんですから。

 ――そして、木剣は音も立てずに落ちました。
 瞬間、イザボーは油断なく構えの形を取りました。そもそもイザボーは守りのクラフトの使い手です。シフランほど早い人を無理に追いかけようとするのなんて、最初も最初から間違っています。向こうから来ると分かっているのなら、それを迎え撃つのが一番の賢いやり方と言えるでしょう。この形は本来、守り手が耐える隙に他の誰かが仕留めるためのもの。それをある程度まではひとりでやってのけるようになれたのは、間違いなく、イザボーがこの長い旅の中で手に出来た強さのひとつでした。
 ところがシフランは、それをただじっと見ていました。まるで自らの宣言を反故にするようにして、木剣が草を叩く瞬間には微動だにせず、イザボーの構える形を見ていたのです。あれっ、どうしたんだろう――イザボーはつい身体の緊張を緩めてしまいましたが、しかし改めて拳を握り直すその間に、シフランの姿は消えていました。
「へっ?」
 そうです。すっかり消えていたんです。
 いくら夜闇が深いとはいえ、それはありえないことでした。クラフトでも使ったんでしょうか? いいえ、シフランは『ミラやオディールに怒られる』と言いました。ならやらないはずです。彼女たちの怒りは火事や雷よりもよほど恐ろしいですから。ではこれを、クラフトなしで?
……冗談!」
 イザボーは咄嗟に周囲に目をやろうとし、しかし止めました。そんな事をしても意味はありません――仮に一瞬でも見つけられたとしても、彼はまた消えてしまうでしょう。かわりに、イザボーは耳を澄ませました。幸い、今は人のいない夜です。それもゆっくりと風が吹く程度の、この上なく静かな夜です。これだけ音のない時間であれば、イザボーにも多少はシフランの真似事が出来ました。初志貫徹です。僅かな足音、吐息の温度、肌を撫でる空気の流れ。彼が来る気配を読み待ち受けるこそ、イザボーが打てる最善の手のはずです。
「へえ、本当に出来るの?」
「は?!」
 真横でシフランが呟きました。真後ろですらありません。
 どれほど声の方へと身体を向き直らせても、やはりシフランはイザボーの真横にいました。遊びですらありません。だって、彼はただじっとそこにいるだけなんです。からかったり、邪魔をしたり、そんな事さえせずただ立っているだけ。しかしそこへ腕を伸ばしても、まるで体温を掠める事さえもありませんでした。シフランがしたことといえば、一歩どころか半歩も下がらず、ほんのちょっと身体を揺らすだけ。それこそ蜃気楼が立っているかのように。
……これはなかなか、道は険しそうだ。努力しがいがある」
「ハハ。……なんで?」
 視界の端っこでちりちり光っていた髪が、また、ぱっと輝いて消えました。
 驚きによろめいたイザボーが、今度こそ慌てて辺りを見回してしまいました。彼はまたどこかに消えてしまいました。また! 後ろ? それとも真反対の真横? どんなに神経を尖らせたって、シフランの気配は何処にもありません。
「そんな時間ばっかりかかることが、君にとって何になるんだ?」
 ――真正面?!
 がばりと向き直ったそこで、光のマントが翻りました。
 宝石を散らした真っ暗なびろうどに、一条のオーロラがたなびいていました――はっと息を飲んだイザボーの前で、夜空へシフランの細身が舞い上がっていました。その一瞬の煌めきの眩いことといったら、まるで爆弾が炸裂したかのよう、いいえそんな無粋なものではありません、イザボーにはそれこそ地平に陽が昇った瞬間のようにすら思えました。しかし思わず見とれたのもつかの間のこと。そうです、正しく今から彼の一撃が来る! そうして思わず顔の前で構えた腕を、ふわりと優しい何かが撫でました。――これ、マントだ? マントだけ!?
 イザボーの足元を風が撫でました。真っ暗な草の影をくぐって、きらきらと光の波がやってきていました。
「あっ?」
 途端に膝から力が抜けました。すこんと足元が滑り、ぐるりと視界がひっくり返りました。なんで? どうして? イザボーの眼の前に再び光が飛び上がります。魚が水面へ飛び出すように、それこそ流星が空へと帰ろうとするかのように、シフランの燃える髪と暗々とした背が現れたのです。
 それらをどう言い表すべきなのか、イザボーの中にはすぐには出てきてくれませんでした。かわりにイザボーは必死になって目をこらします。シフランは悠々とその腕を空に掲げていました。暗い手袋の指先には、今も風に舞い踊るマントが絡んでいました。
 ――あっ、そうか。俺はずっと視線を誘導されていたんだ。シフは俺を転ばすのに、自慢の早ささえほとんど使わないで良かったんだ……
 それはつまり、今のイザボーとシフランの間には、それだけの差があるということに他なりません。
 仰向けに倒れ込むイザボーの胸に、シフランがくるりと身を翻して膝から舞い降りました。昼の意趣返しでしょうか、彼の身体は本当に小さくって、軽くって、なのに動こうとすればすぐに要所要所を抑え込まれて、全く動ける気がしません。それこそ、イザボーよりもずっと大きな大男に抑え込まれているかのようです。
 ですからイザボーは、シフランが何事もなかったかのようにマントを羽織り直すのを見ていることしか出来ませんでした。それは夜影に溶けていた彼のふちが、やっと元に戻りつつあるかのようにさえ見えました。
……無駄だろ。せっかく素敵な夢があるんだから、ちゃんとそっちを追いかけるべきだ」
 それはたぶん、とても大切な言葉だったはずです。
 イザボーの両目は、もうすっかり眩んでしまっていました。聞こえた言葉は割れた氷のように鋭くて、冷たいもののように思えました。しかしその時見えた彼の眼差しは、あんまりにもかすかで、もろくて、触れればすぐに砕けてしまうような飴細工で出来ていました。かすかな薄光りを伴いながら、けれども帽子もないのにどこまでも真っ暗な影のうちにありました。それらは間違いなくイザボーの目に焼き付いて、喉に押し入り、胸の奥までをつまらせました――それは例えば空飛ぶ鳥を見上げていたら、不意に地に落ちる影に気づいたときのようでした。美しい花から透き通る光を確かにする、しかし同じだけそこにある影でした。
 どうして、どうしてこんな顔をさせてしまっているんだ!? とさりと草地を打った背中は、まるで痛くも痒くもありません。それより胸の方がずっと痛んでいました。殆ど動く暇もなかったのにばくばくと暴れまわって、昼よりよっぽど息も出来ませんでした。今すぐ抱きしめたい、なのに動かさせてもらえない! なんで、どうして、苦しい、苦しい――でも、考えているのは本当にそんな綺麗な事ばかりでしょうか? だってイザボーはただただ息を飲む自分にも気づいていました。今のシフランの姿と振る舞いといったら、それこそはるかな空から舞い降りる風切り羽の光る様子でした。高嶺の大輪が不意に落とした、あんまりにも薫り高いひとひらでした。とげとげだらけの金平糖が、いまや大雨のように心いっぱいを打ち付けていました!
 言わなくちゃ。今すぐちゃんと言わなくちゃ! 気持ちばっかりずっと急いて、イザボーは必死に息を吸いました。シフランもそれをじっと見ていました。胸が膨らみきって破裂するより早く、息を言葉にしなくてはいけませんでした。なのに頭も胸もぐちゃぐちゃで、もうなんにも分かりません。急ぐばかりの口をこじ開けて、唯一動かせてもらえた右手で自分の顔を抑えて、イザボーはやっと、本当にやっとのことで一言を呟きました。

……かっ」
「か?」
「かっ、こいい……

 どうしてイザボーったら、このときのシフランの顔を見ていなかったんでしょうね。
 いまや本当にかわいそうなのはシフランの方です。彼はイザボーの上で身動ぎすら出来ないくらいに固まってしまいました。そしてそんなおおごとにさえ気づかずに、イザボーから漏れるのは「カニったれ……カニったれ……」という呟きばかりです。もちろんそれは、イザボー自身に対してのものに決まっています。他に吐けずに飲み込み続ける息には、一言どころではないたくさんが詰まっていました。――そうじゃない。そうじゃあないだろうイザボー。お前にはもっと言うべき言葉があったはずだ。愛しのシフへとちゃんと伝えなくてはいけない事があるはずだ。なのにお前は、お前は何をやっているんだ? 馬鹿なのか? 既にカニへと収束しているのか? おおイザボー、お前はもはや川底を這い回る一匹のカニそのものだ……
……イザ? えっと?」どうにか先に言葉を繋いだのは、シフランの方でした。「その……なに?」
「悪い。ごめん。シフ、本当にごめん。今言うことじゃなかった。どう考えても今じゃない。でもこれも俺の、そうじゃなくて、いや、俺にだって他に君へ言っておきたいことがあって! でも、でも……
「うん……うん。でも、なに?」
……正直、惚れ直しました……
「そ、そう……
 あんまり居た堪れなくなってしまって、シフランはのろのろとイザボーの上から降りました。でも、だからといってイザボーがすぐに動けるかといったら、そんなことはまずありません。
 言わなくちゃ。話さなくちゃ……。夜の中は暗すぎて、こんなほんの少しを離れた程度で、シフランの顔はよく見えなくなってしまいました。――さあ、ふざけている場合じゃないぞ、イザボー。息を吸え。しっかりと吐いて、もう一度吸うんだ。
……君が、俺が強くなる……なろうとするのを、嫌がってるのは分かった。何で嫌なのかは、分からないけれど……
 シフランがマントの襟に頬を埋めながら、ちらりとイザボーの方を見ます。その手は少し前だったら、帽子の鍔を探してさまよっていたことでしょう。でも今のシフランは、そんな気持ちをぎゅっとマントの下で手を握りしめて堪えているようでした。それは良いことでしょうか。それとも悪いことでしょうか。
「でも……それでもさ! 俺はいま、君のことを、本当にかっこいいと思った! こんな君は初めて見た、なんて綺麗で、しなやかで……。可愛らしい柄だと思って手に取った布が、実はとんでもない技術で織られていたみたいな……かわいい子猫が小鳥を見る目に、やっぱりこの子は肉食獣なんだ……って気付いたみたいな……
「ちょっと待って。それって、僕は〝かわいい子猫ちゃん〟ってこと?」
「えっ? い、いや、言葉の綾、綾で……あっ、でもシフは時々、実際にそうとしか言えない事があるな……
…………
 はたしてイザボーが今思い返しているものと、シフランが想像しているものとって、同じなんでしょうかね。
 ええい、仕切り直しだ。イザボーは軽く咳払いをしました。それからゆっくり身体を起こして、シフランの方へ向き直りました。
「と、とにかくさ。俺は君が、なにか大変な気持ちを抱えてるってのは感じてた。それは君がそれだけ強くなった理由と関係があって……絶対に軽んじて良いものじゃない。それを俺が軽率に、ただかっこいいから、なんて理由で目指して良いものじゃないんだ。それは分かっているんだ。
 それなのに俺は今、そんな大事な事を忘れてしまうくらい、君のことを素晴らしい、美しいと思ってしまって……恥ずかしいったらないな。つまり俺は今、君がどう思うか、どう思ってるかじゃなく……。自分が自分に頷けるだけ、君といて恥ずかしくない俺になりたいだけなんだ、やっぱり! 本当に自分勝手で恥ずかしい!」
 ――こんな大変な一瞬にさえ、なりたい自分の事ばっかり考えてしまうだなんてなあ!
 ははは、と笑ってみせようとはしましたが、やっぱりイザボー自身でも分かるくらい、声は乾いていました。でも実際、そうなんです。こればっかりは嘘も誤魔化しも出来そうにありません。撤回なんて以ての外です。だって自分は本当に、確かに彼を追いかけていられるくらい、ちゃんと一緒にいられるくらい強い自分になりたいだけなんですから!
 シフランは、それを聞いていてくれました。しんと寄り添うようにして、静かに静かに座っていました。
 やがて彼は何度かゆっくりとまばたきをして、それから音もなく息を吸いました。そうしてちょっとだけ身動ぎすると、シフランもちゃんとイザボーの方を見ました。マントの襟の向こう側に、少しだけ微笑んだ口元が見えました。

「あのさ、イザ」
「うん」
「僕はね、強くなればなんとかなるんじゃないかと思ってた時があった。それはそれで大変だったけど、他になんにも思いつかなかったから。……それでその時、僕は確かに、強くなった君も見た。すごく強かった。心強かった。でも……
 シフランの手がマントから出てきて、イザボーの手を指さします。イザボーが頷いて返すと、シフランはそっとその手を取りました。硬くて頑丈で、今まさに心強かったと言った人の手を、まるでガラス細工でも持ち上げるみたいに。
……イザ、君に強くなってほしくないとかじゃないんだ。僕は君のこの手が、あの時と同じになったら嫌だと思ってるだけ。……うん、嫌だよ。すごく嫌だ……
 その時シフランが見ていたのは、きっと、彼が見てきた心強かったイザボーの手でした。
 シフランの指がそっと、本当にそっとイザボーの手を撫でるのを、イザボーはただ好きなようにしてもらっていました。シフランの手つきはまるで、昔に無くした宝物が出てきたのにするのとおんなじだったからです。
……君が自分勝手だっていうなら、僕のわがままなんて、どれだけひどいか分からないよ」
 ――ああ、いつかの俺よ。やっぱりお前も結局は俺で、そんなにかっこよくはなかったんだなあ。だってお前が本当に強かったなら、シフが今こんな顔をしているはずないじゃあないか。
 イザボーは、自分の手をたどるシフランの人差し指を、なるべく優しく軽く握りました。シフランは少しだけ驚いたようでしたが、けれども振りほどく気まではないようでした。
「俺たち、そろって自分勝手で、わがままなんだな」
「そうかな」
「そうだよ。ふたりともだ。今もお互い、わがままを言い合ってたんだから」
 ――だから君が安心して、それこそなんの疑いもなく振り回せるくらいになれたら。そして出来たら、君もこのわがままを聞いてくれたら……
 やがて、シフランがくすくすと笑い出しました。ちょっとだけ目を細めて、それこそなんだかずいぶん眩しそうな様子でもって、イザボーの手を握りかえしました。
「かなわないや。イザは本当に強いなあ」
「ええ? おいおい、俺は今まさに君にコテンパンにしてやられたんだぞ? それこそすっかり身も心もだ……
 ケラケラと、どちらからともない笑い声が草の上を転げていきました。そして何となしに手のひらを合わせ、指を絡めてみて、またなんだか変に湧いてきた笑いを一緒にそこらへ放り投げました。
「いいや。君は強いよ」
 手袋の上から触れるシフランの手は、華奢で、薄くて、小さくて、それから少し硬い形をしています。きっとその手袋を取ったところで、そこにシフランの辿ってきたものは残っていないのでしょう。垣間見る機会さえもないに違いません。もはや全てがシフランの心の中にしかないように。イザボーの手が、シフランの見たよりずっと綺麗なままであるのと同じように。
「いつだって強いんだ」
 それはもう変わりようのない事実でした。けれどその上に何かを載せていける程度には、平らかな現実であるはずでした。

 シフランが、小さく「ごめんね」というのが聞こえました――それはひょっとすると、ここにいるイザボーに対するものではなかったかもしれません。でもイザボーは少しだけ迷ってから、「いいよ」と答えました。それからやっぱり、「俺こそごめん」とも言いました。
 ええ、それで良いはずです。だってこんな声を聞いたなら、きっと誰だって、どんな自分だってそう答えるはずでしたから。それにもしもそうでないなら、今ここにいる自分が殴り倒してやるだけですからね。