はりぼて自家発電所
2025-06-17 03:49:47
4038文字
Public カイオエ短編
 

地獄の待ち人

地獄に落ちてしまったカインと、地獄に囚われているオーエンと、地獄に行けないフィガロ。







 ガラガラと足元が崩れて、穴に落ちた。
 カインはその感覚に、子供の頃、蛇の巣に落ちたトラウマを思い出す。だが、これはそんなものよりももっと恐ろしいものだった。
 信じていた友人が、仲間が、こちらを見下ろしている。落ちていく己を黙って見ている。
 申し訳なさそうな顔、後悔の滲む顔、あるいは、悲しみと、怒り。

……おまえのせいだ。おまえが悪いんだ。……嘘なんて吐くから」

 伸ばした手が掴んだのは、虚空だった。
 カインをこの穴に、地獄に落としたのは、たった一つの嘘。
 自分の心を殺して、誰かのために吐いた筈の。







 重く湿った空気と、冷たい石の感触。最悪の気分だった。思考が歪んで気持ちが悪い。今すぐに殺してくれと叫びたいのに、声も出せない。
 獣の唸り声と、誰かの声が聞こえる。

「なにか見つけたの、ケルベロス」

 冷たいナイフのような、抑揚のない静かな声だったけれど、カインにはどこか甘く、優しく聞こえた。

「なに、これ?」

 薄らと目を開けると、黒い獣の足と、靴先が見えた。

「生きてるの?」

 甘い声の持ち主は、カインの傍らにしゃがみこんだ。冷たい指先がこめかみに触れて、長い髪を払う。

「う…………
……これは生身の人間だ。生きてる。なんで?」

 言葉を発したいのに、息が苦しくて、声が出ない。グルグルと獣の唸り声に混じって、涎が滴り落ちた。その顎を撫でてあやす声が響く。

「だめだよ。あっちに行ってな」

 ガア! と獣は興奮したように吠えた。あやそうとした手を振り払い、襲いかかろうとする。カインではなく、彼の方に。

「悪い子」

 ヒュっ、と空を切る音がして、続いて大きな衝撃音が轟く。獣は吹っ飛んでしまった。弱った鳴き声が遠のいて、何かにぶつかる音がしたあと、静かになる。

「おまえ、喋れないの?」

 髪を引かれて、無理やり首を動かされる。ゼェゼェと肺と喉を鳴らすカインの顔を覗き込んでくるのは、銀灰の髪と白皙の肌をした美しい人だった。血の色をした硝子玉の瞳が、見惚れることしか出来ないカインを映している。

「ふうん。しぶといんだ」

 冷たい指先が、カインの左側の目元に触れた。その瞬間、激痛が走る。左側の視界が消える。ボタボタと鮮血が地面に落ちた。

「ぐ、あ……っ! あ………

 悲鳴もろくに上げられないまま、意識が朦朧としていく。

「ふふ。綺麗な目……

 最後に聞こえたのは、そんな声だった。










 ハッとして目を開いた瞬間、左目に激痛が走った気がした。痛みを抑えながら飛び起きる。けれどすぐに痛くなくなった。おそるおそる手をどけると、ちゃんと視界もある。

「ああ、良かった。目が覚めたんだね」
「ここは……
「病院だよ。俺は医者のフィガロだ。まだ起きない方がいい。瀕死の状態だったんだから」

 フィガロに容態を調べられながら、カインは自分の記憶を掘り起こそうとした。けれど、なにも思い出せない。

……
「驚いたな。異常がほとんど見当たらない。きみ、本当に死にかけだったんだよ? なにがあったの」
「なに、が……?」

 カインは無意識に、左目を押さえる。

「その左目が、どうかした?」
「左目。そうだ、俺は、左目を、抉られて……
「やっぱり、それは君の目じゃないんだね。抉るなんて、酷いことするなぁ。これはオーエンの目だ。オーエンに会ったの?」
「オーエン?」
「この赤い目の持ち主さ。覚えてない?」

 ふと、カインの脳裏に血のように赤い瞳を持った美しい人の姿が過ぎる。冷たいナイフのような、甘やかな優しい声を思い出す。

……会った。三つの頭を持った、獣と一緒にいた……
「ケルベロスか。どうやって会った?」
「どうやって……? 穴に落ちた先に……あいつが……
「穴? なにかの拍子に地獄の入口が開いたのか。生身で落ちて、よく無事だったね」
「地獄?」
「そうだ。君が落ちたのは地獄だ。だけど、オーエンに送り返されたみたいだよ」

 湿った重たい何かが、カインの体に絡みついた気がした。なにかに引きずり込まれるような感覚がして、咄嗟に振り払う。

「一度繋がってしまった地獄との縁はそう簡単に切れるもんじゃない……普通はね。でも、もともと君は地獄と縁が薄いみたいだ。なぜ、地獄に落ちた?」

 なぜ。

 そう尋ねられて、自分自身そう問いながら穴に落ちた記憶が蘇ってきた。己を冷たく見下ろす友人、仲間。だが、顔が黒く塗り潰されていて、よく分からない。彼らとどういう関係で、どういう日々を過ごしていたのか、何も思い出せない。ただ、一つだけ思い出せることがあった。

……嘘を……
「嘘?」
「嘘を、吐いたから……

 おまえのせいだ。おまえが悪いんだ。……嘘なんて吐くから。

 それだけが呪いのように心に刻まれている。
 けれど、カインは嘘というものが得意じゃない。誠実でありたいと思う。あの時自分がどんな嘘を吐いたのか、思い出せない。

「ふむ。……誰かに陥れられたか……
「違う! 俺が……
「ストップ。落ち着いて。……自分がなにをしたのか思い出せないまま自分を責めるのは良くない」
「だが……
「地獄に行けるのは、心や魂が汚れた悪党だけだ。悪党は目を見れば分かる……

 フィガロはカインの右目を確かめながら、真剣な顔をしていた。その眼差しは、自分の言葉を信じろと、訴えているようだった。

「君の瞳は、穢れがない。今どき珍しいくらいに。地獄に落ちてしまったのは、よっぽどの悪意に晒されたんだろうね。君はそれを受け入れてしまったんだ」
……
「そして、まだ受け入れようとしている。だから地獄は君が気に入った。未練があるのさ」

 分かるような、分からないような話を聞いて、カインの心は落ち着いていく。なんとなく、腑に落ちる話だったからだ。
 罪を背負わされて、受け入れようとした。嘘を吐いたことは事実なのだ。

……オーエンが、俺を救ってくれたのか?」
……彼が君が受けた悪意を食ったのは間違いない。君に記憶が残らなかったのもそのせいだろうね。何があったか覚えていたなら、その記憶は君の心を今も蝕み続けていたはずだ」
「あいつは、今も地獄にいるのか」

 地獄と呼ぶに相応しいほど、息の詰まる場所だった。負の感情が渦巻いていて、一秒でも長く留まっていたくないと思った。けれど、オーエンが傍に来た時、その冷たい空気は、澄んでいて、ほんの少しだけカインを楽にさせた。
 
「それを聞いて、どうする?」
「どうするって……
「恩を感じてる? 自分一人が助かって、恩人が取り残されていることが気になる? きみが地獄との縁が切れないのは、その左目のせいだと言っても?」
……この左目……
「そうだ。きみは地獄に相応しくないからね。抜け出したあと、暫く過ごしていれば、自然と縁も切れてただろう。オーエンが君を救ったとしても、痕跡を残さないようにするのが、本当の優しさってもんじゃない?」

 カインはフィガロを見た。その内容はあまりにも残酷で、冷たいことだと思った。フィガロは悪びれなく続ける。

「きみはこれから、不幸に見舞われるだろう。けど、きみは不幸すら跳ね返すほどの素質を持ってる」
「なにか問題があるのか?」
「君自身は不幸にはならないかもね。その代わり、君の周りで不幸が起きる。君にとって、それは自分が不幸になるよりも辛いことじゃないか?」
「それは困る!」

 カインが反射的に応えると、フィガロが恐ろしいほど優しい笑みを浮かべた。彼こそ、地獄の王に相応しいのではと思うほど、突き放すような慈愛に満ちている。

「悪意を引き受けようとしてたくらいだもんね」
……あんたこそ、何者だ。なぜ俺にそんな話をしてくれる?」
「君が間違えないように」

 フィガロは当たり前だろうとでも言うようにからりと笑った。

「君が助けられたと思うのは構わない。でも、忘れないで。地獄で存在できるのは悪党だけ。オーエンは悪党だから地獄にいるんだ」

 冷たい指先、抑揚のない、感情を失った表情。生気のない人形が動いてるような錯覚さえ覚えた。躊躇いなく左目を抉られた時の、無邪気な声が、脳内に響いている。

……左目を奪われて良かった」

 カインは安堵していた。

……
「助けられたことまで忘れて、のうのうと生きてる自分のことは、好きになれそうにない」

 声も出せないまま、あんな場所に居続けたら、気が狂っていただろう。
 フィガロは向いていないと言うが、嘘を吐いた自分を恨んで、自分を裏切った友人や仲間を恨んで、そのままカインも地獄の住人になっていたに違いない。

 そうならずに居られたのは、オーエンが追い返してくれたおかげだ。
 たとえ、それが善意なんかじゃなかったとしても。

「そうか」

 フィガロは優しい笑みを浮かべていた。

「なら、改めて聞くよ。……これからどうしたい?」

 自分の周りで不幸が起きるなんて、冗談じゃない、そう思ったけれど、よくよく考えたら、カインは今、記憶のない状態で、仲のいい友人も、信頼できる仲間も、大切にしたい家族もいない状態だった。しかも、彼等には裏切られたという感覚だけが残っている。
 フィガロは、カイン自身は不幸を跳ね除ける力があると言った。なら、これから人と関わらなければ良い。

 気兼ねなく、地獄にいるという左目の持ち主を追いかけられる。

「俺は、あいつを地獄から引っ張り出してやりたいと思う」


 たとえそれが望まれていない事だとしても。
 カインにとって、地獄の暗闇の中に浮かぶその姿は、悪党と呼ぶには穢れない姿をしていた。